2389日目・・・又又、迷路に・・・熊本県は明治時代に「白川県」と呼ばれていた・・・「球磨地方」・・・由来は「熊襲タケル」・・・高麗=こま=駒=狛=独楽・・・「熊埜御堂(くまのみどう)・熊野御堂(くまのみど・くまのみどう・ゆやみどう」は苗字・・・

 苗字の読み???
 六月一日=うりはり・うりわり
      くさか・さいぐさ・ほずのみや・むりはり
      むりわり・ろくがつついたち
 六月一日宮=ほずみや
 和久鬼毛=わくとも
ーーーーー
 熊の本、何処さ・・・
  ↓↑
 南北朝時代
 「菊池則隆
 に因むとする伝承
 「隈元=隈本」との記録
 慶長十二年(1607年)
 加藤清正
 築城した時に
 「熊本」と改められた
 「隈=丘陵地・奥まった緩やかな丘
 「隈=阝+畏」の字の
 「畏(おそれる・かしこまる)」を嫌った
 「来熊(ライユウ)」
 「訪熊(ホウユウ)」
 「帰熊(キユウ)」
 「熊(ユウ)」
  ↓↑
 「熊川(錦江)」→「熊=錦」
 「錦江(クムガン)」の群山 沿岸部
  ↓↑
 熊本県球磨郡錦町一武
 錦中学校前(球磨郡錦町)
  ↓↑
 「錦(にしき)=金+白+巾」の御旗?
 「錦の御旗(にしきのみはた)」
  天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗
  錦旗(キンキ)
  別名
  菊章旗・日月旗
  赤地の錦に
  金色の日像
  銀色の月像
  を刺繍
  描いたりした旗
 (この日之御旗と月之御旗は二つ一組)
  朝敵討伐の証として
  天皇から官軍の大将に与えモノ
  承久の乱(1221年・承久三年)
  後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が
  日本史上の錦旗の初見
  天皇を頂点とする
 「錦旗革命=大川周明の軍事クーデタ」
  ↓↑
 二詞記の見葉他
 二史記の見頗(皮+頁=ハ=把・嵌・歯)多
  ↓↑
 錦江
  (韓国の地名・クムガン)・・・クムガン?
             熊川=クマガン?
 白馬江=熊津江=Geum River
 白村江(ハクソンコウ=ハクすきのえ)
 白江之口(旧唐書
 (西暦663年)倭軍、壊滅
 ・・・鎮(金+真 眞)魂(二+ム+鬼)の場所
        十+具=ヒ+目+乚+ハ
          眞=直+ハ
   七=7・漆
           ヒ=牝・雌
匕=匙・匕首
           比=比較
           叱=叱責
           化=化合
           它=蛇
       写真=写眞=シャシン=捨身(すてみ)
        真実=眞実
 皀=白+ヒ=かんばしい・さいかち・くろごめ
       穀物の香り
       キョウ・コウ・キュウ・ヒョク・ヒキ
  ↓↑
 「白村江」=白江(ペンガン)=錦江(クムガン)が
       黄海に流れ込む海辺を
       白村江と呼んだ
       白馬江(baeg-chon-gang)
       錦江(クムガン)
       白馬江(ペンマガン)
       朝鮮半島南西部
       忠清南道群山付近にある錦江河口
       扶余の上流の
       公州(熊川・熊津)からは
       熊津江(ユジンガン)
 ↓↑
 663年
 白村江の戦い
 天智天皇
 二年八月二十七日
 〜
 二年八月二十八日
 ユリウス暦663年10月4日〜10月5日
 朝鮮半島
 白村江(錦江近郊)での海戦
 唐・新羅連合軍の勝利
 倭・百済連合軍の敗北
 ↓↑
 668年
 唐の高句麗出兵
 高句麗滅亡
 ↓↑
 676年
 新羅の半島統一
 唐•新羅戦争
 新羅が唐を朝鮮半島から追い出す
 ↓↑
 則天武后外戚
 長孫氏を追い
 実権掌握
 高宗は
 武后廃立を
 計画したが、失敗
 高宗が
 丹薬による中毒
 眼病を患い、失明状態
 武后が唐の実権を完全掌握
 ↓↑
 683年
 唐の高宗崩御
 ↓↑
 690年
 唐王朝は廃されて
 則天武后
 武周王朝樹立
 ↓↑
 倭国の大王(オオキミ)
 筑紫君
 薩夜麻
 が唐の捕虜(〜671年)
 降伏状態
 唐は
 賠償品
 捕虜の返還条件をまとめて帰国
 ↓↑
 大陸に対し
 九州の
 「倭国=阿毎王朝」が
 畿内
 「日本国」
 が国際(対唐)外交することに変った
 新羅は「日本国」を承認(670年)
 唐が「日本国」を承認するのは
 8世紀に入ってから
  ↓↑
 「旧唐書」に
 「倭国伝」と「日本伝」があるが
 「新唐書」には
 「日本伝」のみの記録
  ↓↑
 663年
 朝鮮南西部
 「白村江の戦」
 唐・新羅
 vs
 倭国(九州王朝)・百済
 二つの連合軍による
 朝鮮半島の領域権益を巡る決戦
 百済は滅亡
 新羅による朝鮮半島統一
 倭国(九州阿毎王朝)
 北方の
 高句麗朝鮮半島
 その権益を巡って戦った
  ↓↑ 
 「日本書紀・671年の条」
 「筑紫君 薩夜麻=薩野馬とも表記
  (ちくしのきみ
      さちやま)
     「天智紀・持統紀」に二度記録
      天智十年(671年)十一月十日
      對馬國司
      遣使
      於
      筑紫 大宰府、言
     「月生二日
      沙門道久
      筑紫君
      薩野馬
      韓嶋勝娑婆
      布師首磐
      四人、從唐來曰が唐から帰国した」
  ↓↑
 「筑紫君」=「阿毎王朝の倭王
 「日出づる処の天子」=「オオキミ」
 「開皇二十(600)年
  倭王
  姓は阿毎、
  字は多利思比孤、
  阿輩雞(鶏)彌
  と号す・・・」
 ↓↑
 大和朝廷畿内)からは
 「筑紫君」=倭王(九州)であった・・・
 ↓↑
 663年
 白村江の戦争が終結
 ↓↑
 671年
 倭王(筑紫君-薩夜麻)
        薩野馬(薩夜麻)=薩摩(さつま)?
 が
 唐から帰国した・・・
 ↓↑
 八年間、唐王国に捕虜となっていた
 ↓↑
 九州を管理統括するのは
 「大和政権の太宰府の長官」・・・「筑紫君」
 「倭国=九州=太宰府
 「東北(蝦夷)地方」の
 統治代行した
 「奥州鎮守府の長官」
 と同じ
 ↓↑
 天智十年(671年)十一月十日
         十一月甲午朔癸卯(十日)
 對馬國司、遣使於筑紫大宰府
 言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬
   ・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、
   從唐來曰
   『唐國使人
    郭務悰
    等六百人
    送使
    沙宅孫登
    等一千四百人、
    總合二千人
    乘船卌七隻、
    倶泊
    於
    比智嶋、
    相謂之曰、
    今吾輩人船數衆、
    忽然到彼、
    恐
    彼防人
    驚
    駭射戰。
    乃
    遣
    道久
    等
    預稍披陳
    來朝之意。』」
 ↓↑
 持統四年(690年)十月二十二日
 詔軍丁
 筑紫國上陽竎郡人
 大伴部
 博麻曰
 「於
  天豐財重日足姬天皇七年、
  救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。
  洎天命開別天皇三年、
  土師連-富杼
  氷連老
  筑紫君-薩夜麻
  弓削連-元寶兒、四人、
  思欲奏聞唐人所計、
  緣無衣粮、憂不能達。
  於是、
  博麻
  謂
  土師-富杼
  等曰
  『我欲共汝還向本朝。
   緣無衣粮、
   倶不能去。
   願
   賣我身以充衣食。』
   富杼等、依博麻計、得通天朝。
   汝獨淹滯他界、
   於今
   卅年矣。
   朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。
   故、賜
   務大肆、
   幷絁五匹
   綿一十屯
   布卅端
   稻一千束
   水田四町。
   其水田、及至曾孫也。
   免三族課役、以顯其功。」
  ↓↑
 「筑紫君-薩夜麻」
 らの帰国
 唐人2000人
 「進駐(日本書紀)」
 戦勝国新羅人
 亡国の民・百済
 も「日本」に流れ込んだ・・・戦争難民?
 ↓↑
 斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳〜
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 高句麗百済新羅が使を遣わして朝貢
 蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献
 有間皇子の変で
 蘇我赤兄
 天皇の3つの失政を挙げた・・・?
 大いに倉を建てて
 民の財を積み集めた・・・戦争兵糧備蓄
 長く溝を掘って
 公糧を損費した・・・・・溝は防御濠
 船に石を載せて
 運び積んで丘にした・・・砦の石垣
 ↓↑
 朝鮮半島の諸国と使者を交換
 唐にも使者を派遣
 蝦夷
 三度にわたって
 阿倍比羅夫を海路の遠征で蝦夷地を平定
 蝦夷地北海岸、樺太に存在した
 粛慎に出兵勝利・・・粛慎≒高句麗・・・?
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 斉明元年(655年)
 7月11日
 北の蝦夷99人・東の蝦夷95人
 百済の調使150人を饗応
 8月1日
 河辺麻呂が大唐から帰国
 10月13日
 小墾田に宮の造営中止
 冬、飛鳥板蓋宮が火災、
   飛鳥川原宮に遷幸
 ↓↑
 斉明二年(656年・63歳)
 8月8日
 高句麗
 大使
 達沙
 副使
 伊利之
 総計81人を遣わし
 調を進める
 9月
 高句麗
 大使
 膳葉積
 副使
 坂合部磐鍬
 以下の使を遣わす
 飛鳥の岡本に宮造り開始
 高句麗百済新羅
 が使を遣わして調を進めたため
 紺の幕を張って饗応
 宮室が建ったので
 遷幸し後
 飛鳥岡本宮と名付けるが
 岡本宮が火災に遭う
 香久山の西から
 石上山まで溝を掘り
 舟で石を運んで
 石垣を巡らせた
 吉野宮を造営
 多武峰に両槻宮を造営
 土木工事、水溝工事は
 後世に
 「狂心の渠」
 と揶揄された・・・なぜ、後世なのか?
 西海使の
 佐伯栲縄
 吉士国勝
 らが
 百済より還って
 鸚鵡を献上
 ↓↑
 斉明三年(657年・64歳)
 7月3日
 覩貨邏国の
 (とからのくに)?
 ↓↑   吐噶喇列島(とかられっとう)
      南西諸島の鹿児島県側の
 ↓↑   薩南諸島に属する島嶼
 男2人・女4人が筑紫に漂着し、召す
 7月15日
 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り
 盂蘭盆会を行なった
 暮に覩貨邏人を饗応
 9月
 有間皇子が狂を装い
 牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛
 天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと云う
 使を新羅に遣って
 僧の
 智達
 間人御厩
 依網稚子
 らを
 新羅の使に付けて
 大唐に送ってほしいと告げる
 新羅が受け入れなかったので
 智達らは帰国
 ↓↑
 斉明四年(658年・65歳)
 1月13日
 左大臣
 巨勢徳多
 死去
 4月
 阿倍比羅夫
 蝦夷に遠征
 降伏した蝦夷
 恩荷を
 渟代・津軽二郡の郡領に定め
 有馬浜で
 渡島の蝦夷を饗応
 5月
 皇孫の
 建王が8歳で薨去
 天皇は甚哀
 7月4日
 蝦夷二百余が朝献
 常よりも厚く饗応し、
 位階を授け、物を与える
 7月
 僧の
 智通
 智達
 が勅を受けて
 新羅の船に乗って
 大唐国に行き
 玄奘法師から
 無性衆生義(法相宗)を受ける
 10月15日
 紀温湯に行く
 11月5日
 蘇我赤兄
 有間皇子の謀反を通報
 11月11日
 有間皇子を絞首刑
 塩屋鯯肴
 と
 新田部米麻呂
 を斬刑
 沙門の
 智喩が
 指南車を作る
 ↓↑
 斉明五年(659年・66歳)
 1月3日
 紀温湯から帰る
 3月1日
 吉野に行く
 3月3日
 近江の平浦に行幸
 3月10日
 吐火羅人が妻の
 舎衛婦人と共に来る
 3月17日
 甘檮丘の東の川辺に
 須弥山を造り
 陸奥と越の蝦夷を饗応
 3月
 阿倍比羅夫
 蝦夷国を討たせる
 阿倍は一つの場所に
 飽田・渟代二郡の
 蝦夷241人とその虜31人
 津軽郡蝦夷112人とその虜4人
 胆振鉏の蝦夷20人を
 集めて饗応し禄を与える
 後方羊蹄に郡領を置く
 粛慎と戦って帰り
 虜49人を献じる
 7月3日
 坂合部石布
 と
 津守吉祥
 を唐国に派遣
 7月15日
 群臣に詔し
 京の内の寺に
 盂蘭盆経を説かせ
 七世の父母に報いさせる
 ↓↑
 斉明六年(660年・67歳)
 1月1日
 高句麗の使者
 賀取文
 ら百人余が筑紫に到着
 3月
 阿倍比羅夫
 粛慎を討たせる
 比羅夫は
 大河のほとりで
 粛慎に攻められた
 渡島の
 蝦夷に助けを求められる
 比羅夫は粛慎を
 幣賄弁島まで追って
 彼らと戦い、これを破る
 5月8日
 賀取文
 らが難波館に到着
 5月
 勅して
 百の高座と
 百の納袈裟を作り
 仁王般若会を行う
 皇太子(中大兄皇子)が
 初めて漏刻を作る
 阿倍比羅夫
 夷50人余りを献じる
 石上池のほとりに
 須弥山を作り
 粛慎47人を饗応
 国中の百姓が
 訳もなく武器を持って道を往来・・・
 7月16日
 賀取文らが帰る
 覩貨邏人の
 乾豆波斯達阿が
 帰国のための送使を求め
 妻を留めて
 数十人と西海の路に入る
 7月
 百済が唐と新羅により滅亡
 9月5日
 百済
 建率の某と
 沙弥の覚従らが来日
 鬼室福信が
 百済復興のために戦っていることを伝える
 10月
 鬼室福信が
 貴智らを遣わし
 唐の俘百余人を献上し
 援兵を求め
 皇子の
 扶余
 豊璋
 の帰国を願う
 天皇百済を助けるための出兵を命じ
 礼を尽くして
 豊璋の帰国を命じる
 12月24日
 軍器の準備のため難波宮行幸
 ↓↑
 斉明七年(661年・68歳)
 1月6日
 西に向かって出航
 1月8日
 大伯海に至る
 大田皇女が皇女を産み
 大伯皇女と名付ける
 1月14日
 伊予の
 熟田津の
 石湯行宮に泊まる
 3月25日
 娜大津に着き
 磐瀬行宮に居す
 4月
 百済の福信が
 使を遣わして
 王子の
 糺解の帰国を求める
 5月9日
 朝倉
 橘広庭宮に遷幸
 5月23日
 耽羅が初めて
 王子の
 阿波伎
 らを遣わして貢献
 7月24日
 朝倉宮で
 崩御・・・死亡
 8月1日
 皇太子が天皇の喪に付き添い
 磐瀬宮に到着
 10月7日
 天皇の喪が帰りの海路に出航
 10月23日
 天皇の喪が難波津に着く
 11月7日
 飛鳥の川原で殯
 9日まで発哀
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 斉明五年(660年)
 百済
 唐と新羅によって滅ぼされた
 日本に滞在していた
 百済王子
 豊璋を百済に送り
 百済を援けるため
 難波に遷って武器と船舶を作らせ
 瀬戸内海を西に渡り
 筑紫の
 朝倉宮に遷幸し戦争に備えた
 ↓↑
 斉明六年(661年)、68歳
 崩御死亡
 中大兄皇子は即位せずに称制
 朴市秦造田来津(造船責任者)
 を司令官に任命
 倭軍は朝鮮半島南部に上陸
 ↓↑
 斉明七年(662年)、69歳
 (日本書紀)・・・天豊財重日足姫天皇
 ↓↑
 663年
 白村江の戦い
 唐と新羅の連合軍に敗北
 ↓↑
 高句麗
 天智七年(668年)十月
 唐将軍の
 英公
 によって滅ぼされた
 ↓↑
 錦江 (韓国の地名・クムガン)・・・クムガン?
               熊川=クマガン?
 白馬江=熊津江=Geum River
 白村江(ハクソンコウ=ハクすきのえ)
 白江之口(旧唐書
 (西暦663年)倭軍、壊滅
 ・・・鎮(金+真 眞)魂(二+ム+鬼)の場所
        ヒ= 十
       写真=写眞=シャシン=捨身(すてみ)
 「白村江」=白江(錦江)が
       黄海に流れ込む海辺を
       白村江と呼んだ
 

 錦木・錦松台・錦水城
 錦江 (四川省)
 錦江 (韓国)
 錦江(にしきの里)
 錦江台
 東錦洞(トングムドン
 西錦洞(ソグムドン

 韓国中部
 忠清南道(チュンチョンナムド)
 公州(コンジュ)
 公山城(コンサンソン)
 朝鮮三国時代
 百済(ペッチェ)時代
 に造られた城郭
 百済
 文周(ムンジュ)王
 475年
 に現在のソウルから首都を遷都
 武寧王陵などの古墳群
 
 熊津(ユウシン・ウンジン)
 古代朝鮮の
 百済・・・・・久多羅木
        くたらき・くたらぎ・くだらぎ
        倶利伽羅
        くりから
        言語同断
        こくらだ・てくら・てくらた
        てくらだ・てらく・てらくだ
        言語道断
        てくら
 の古都
 万葉仮名では
 「久麻那利
 (くまなり・こむなり)」
 百済語で
 「固麻那羅
 (コマナル)」
 熊川(錦江)のほとりの都市
 現在の
 忠清南道公州市
 475年
 高句麗
 長寿王が
 百済の国都
 漢城(ソウル)を陥落させ
 百済
 蓋鹵王を処刑
 南方に逃れていた
 (新羅救援を求めに行っていた)
 文周王が
 即位し
 首都を
 熊津に移した
 538年
 後に
 聖王が
 南方の
 泗沘(忠清南道扶余郡)へ遷都
 63年間、百済の首都
 新羅の統一の後
 「熊川州→熊州」
 という名称を経
 高麗時代に
 「公州」に改称
 公州市には
 「熊津洞」
 という地名が残る

 百済の熊津への遷都の記事
  ↓↑
 『三国史記
 百済本紀
 文周王即位年(475年)
 十月条
  ↓↑
 『三国遺事』
 王暦
 文周王条
 「移都熊川」
  ↓↑
 『日本書紀
 雄略天皇二十一年(477年)・・・477=肆陌七拾漆
 春三月条
 「天皇聞。
  百済為高麗所破、
  以
  久麻那利
  賜
  汶洲王、
  救興其国」
ーーーーー
 ・・・