2652日・・・世間はクルシミマスの準備?も終わったようだが・・・前回のツヅキ・・・あまりにも、あまりにも「重複」が多すぎる日常生活の「繰り返し」だが・・・除雪もトイレもシンドいが、同じではない・・・証明不可能なコピペの「主観的な整合性」もズレる・・・?

 ・・・意富留申す徒烏(almost)話意・媒(by) wikipedia・・・
オールモォゥストゥ    バイ
 ・・・天空のスペクタクル・・・オーロラ・四季の絶景・・・
 ・・・龍神とは北方のオーロラ・・・
 SKのレーダー照射ですか・・・NKの砲撃(延坪島砲擊・2010年11月23日)や潜水艦で軍船を真っ二つにされ撃沈(コルベット天安が2010年3月26日)されてもロクな反撃もできなかったのに・・・サッカー会場なんかでのファンの挑発とは次元が違うのに・・・弱い奴と主観的に思って仮想、妄想の敵を探してはガン付けイチャモン・・・
 穏和なJ地域島国住民も怒るがな・・・でも「クジラ」を喰うって、か?・・・捕鯨、必要あるのか・・・
 櫛羅(くじら)・・・供尸羅(くじら)・・・区施羅(古事記)・・・久治良(日本書紀)・・・
 ・・・共存って、横縞のクジラの捕獲はだダレのタメの?
 牛や豚、鶏、様々な生き物を殺して喰う意味って・・・
 鯨波(とき・ゲイハ・勝鬨=合戦の合図)・・・鯨呑・・・渤海を囲む山東、遼東、朝鮮半島西の黄海の地形は鯨の口には見えないけれど・・・突き出た両半島、牙というより、咽喉チンコにはみえる・・・音声の調節器官・・・
 櫛羅藩(くじらはん)、幕末に大和国奈良県御所市櫛羅)に存在した藩・・・慶長十一(1606)年の桑山氏1万 6000石に始り、天和一(1681) 年に入封した「永井直円 (直圓・なおみつ・1万石)」 のときは新庄藩・・・「直円=直圓」・・・七代直幹のとき、陣屋を南方の櫛羅に移して櫛羅藩とした・・・
 北海道の「釧路(くしろ)」って語源はクジラ()の文字訛りかも・・・でも「クッチャロ(屈斜路)はアイヌ語で咽喉」らしい・・・
 前年(延宝八)6月、四代将軍徳川家綱法会の際、永井尚長(なおなが)(丹後宮津城主)が内藤忠勝(志摩鳥羽城主)に殺害されている・・・

ーーー↓↑ーーー
 ・・・???・・・
 新羅(しらぎ・しんら・シルラ・前57年〜935年)
 朝鮮半島南東部にあった国家
 当初は
 「辰韓(シンカン)」
      ・・・紀元前2世紀〜356年
      朝鮮半島南部の
     「帯方」郡・・・東に濊、南に韓、その南端に倭
             204年〜313年の109年間
             朝鮮半島に存在した
             漢代の地方行政組織
      の南
      日本海に接し、後の新羅と重なり
      南の「弁韓」と接し6国であったが
      後に分かれて12国になった
 辰韓十二ヶ国(三國志・卷三十)
 ↓↑
 已柢国
 不斯国
 勤耆国
 弁辰-彌離-彌凍国・・・弁辰
 弁辰-楽奴国・・・・・ 弁辰
 冉奚国
 軍彌国
 如湛国・・・湛(はなはだしい)の如(ごとく)
 ↓↑    湛=氵+甚・・・
           甚=ジン=尽・・・・・筑紫
                盡=つくす=悉くす
                  通句素・儘=コトゴトク
       異体字「沈・浸・淫・潭・㴴」
         たたえる・あつい・ふける・しずむ・ふかい
         タン・チン
         湛然・湛湛・甚大(ジンダイ)
         厚い・ゆたか・ふける・おぼれる
 ↓↑      しずむ
 戸路国
 州鮮国(=馬延国)
 斯盧国・・・斯盧国⇔斯蘆=新羅(シンラ)
 優由国
 ↓↑
 「秦韓(シンカン)」=「辰韓
 「真番郡の語源」⇒「真」が「辰韓」、「番」が「弁韓
  真番郡(シンバン郡)=漢の武帝が元封三(前108) 年
             衛氏朝鮮を滅ぼし、そこに設置した
             漢四郡の一
             真番郡楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡

 鶏林州-都督府(けいりんしゅう-ととくふ)
 唐朝が新羅に設置した統治機関
 都督府制度は唐が周辺諸国を征伐後
 そこの領域に設置した統治制度
 高句麗百済が唐朝により滅亡すると
 旧高句麗に安東 都護府・・・守護・・・主体的軍事組織
 旧百済 に熊津 都督府・・・監督・・・行政指導
 新羅  に鶏林州都督府・・・監督・・・行政指導
 を設置し
 朝鮮半島全域を
 藩属国から
 羈縻州へと変更・・・
 ↓↑
 「斯蘆(シロ)」=「新羅(しらぎ)」・・・領域には
   蘆(あし)=艹+虍+田+皿
 ↓↑      日下(艹)部の
         虎の伝(田)の沙羅(皿・沙良・讃良)
         草壁の虎の子=珂瑠皇子(文武天皇
         草壁皇子の父親=翼虎=天武天皇
         鍔(金+咢)狭の拠(據=扌豦)
         扌(手)+処(豦)・・・処=豦?
         豦=虍+豕
         異体字「𤢓」
 ↓↑      ↓↑
豦(やめない・キョ・ゴ)
         盧=めしびつ・くろい・ロ
           めしびつ・めし入れ
           すびつ・火入れ
           くろい・くろいもの
           酒場
           あし・よし・イネ科の多年草
         慮(おもう・思慮・考慮)
         盦(ふた・オウ・アン・オン)=酓+皿
         廬(いおり)
         蘆(あし)
         濾(こす・濾過・濾紙)
         瀘壚爐籚瓐
 ↓↑   蘆=あし草・あし・よし・ロ・ル・リョ=芦・葦
 ↓↑   蘆角・ 蘆荻 (ロテキ)・葫蘆 (コロ)
 「弁韓」人とは互いに雑居し
     風俗や言語は類似(三国志・魏書巻30辰韓伝)・・・
 「弁韓」人とは城郭や衣服は同じだが
     風俗と言語は異なっていた(後漢書巻85辰韓伝)・・・
     韓のコトバをワキマエル
     韓を弁(わき)まえて護る?
     韓人を弁別する・韓人とは弁(バブル・シリンダー)
     cylinder=円筒・bubble=膨張・膨らみ
     バブルヘッド. bubblehead
     ・・・おめでたい奴・潜水夫・潜水艦員
     弁=厶+廾=辧・辯・辨・辦・瓣・𧩵
     異体字「𠮽・卞・𠭛・𢍍・𢍙・㝸・𥿋・覍・麰
         𢍘・䛒・办・辩・𠷊・𡭪・𦌽・𦭷・𧪔
         𨐾・𪌸・𪍓・𪍘・𪍫」
    「韓=𠦝+韋」
       𠦝(旱・乾く)+韋(なめしがわ)
       𠦝=十+日+十・・・日照り=旱・旱魃・乾燥
       韋=なめしがわ・そむく=ユ+礀+口+ヰ
         ヰ=「丅(下)+十」=「丄(上)+十」
           上下を組む・・・十+十=井桁
           干=一+十・・・・・・干支
           年=𠂉+ヰ=午+丄・・・年齢
           舛=夕+ヰ・・・桝=木+舛
             夊(スイ・右足)+ヰ(カ・左足)
            =そむく・たがう・ます(升・枡・桝)
 ・・・「辰韓人は常に馬韓人を主(あるじ)とした」
 ・・・「辰韓(秦韓)人は秦からの逃亡難民、移民」
 ・・・「以秦人,故名之曰秦韓。其言語名物,有似中國人
     (北史・巻94新羅伝)」
 ・・・「真番莫」=「真莫番」=辰韓(秦韓)・馬韓弁韓
 「新羅」を正式な国号
 ↓↑
 羈縻政策(キビセイサク)
 中国の王朝によっておこなわれた
 周辺の異民族に対する統御政策
 領域化=内地化・本土並み・・・
 羈縻 =キビ=占領地は国家官僚組織で異民族支配
 冊封 =土地の行政支配権を現地人に君主、領主として与える
 などの形態の一
 羈縻(キビ)
 中国に
 友好的な国王・首長を選び
 「都督」・刺史・県令などに任じ
 彼らがもともと有していた
 統治権
 中国の政治機構における
 官吏であるという名目で行使させた
 羈縻州の長官は
 唐の一地方官吏であるが
 現地の部族内部から見れば
 王または首長であった
 「都護府」はほとんど・・・「都護府
 唐王朝
 太宗・高宗の時代に置かれ
 羈縻政策の元に置かれた
 国王・首長は
 「都護府」の下の
 「都督」・刺史・県令・・・都の監督官
  ・・・都=者+阝(邑)=都=ツ・ト・みやこ
 ↓↑    すべて
       都=漆塗りの器・・・?
              ・・・首都(Capital city)≒都
              周代
              行政上の区画で
              君主の
              宗廟のある場所を都(ト・ツ)
       「都」=全て寄せ合わせ、残らず集める意=都合
        京師=都⇔鄙
        天子の居ますみやこ
        京は大、師は衆
        大衆のおる所の意
        春秋成十三「公如京師」
       「京都」は晋の時代
        景王の諱を避けて
        京師を京都とした
        魏志帝紀「任城王薨於京都」
 ↓↑    ↓↑
        都=者+阝(邑)=者口巴(塒・蜷局・渦)
        =者(耂+曰+丶)+阝
        =者(土+ノ+曰+丶)+阝
         耂=老いかんむり・老いがしら
           おい(老・耂)
        =者(十+一+ノ+曰+丶)+阝
       ・・・「焚火のため木の枝を集めた形象」?
          「煮の原字・近称指示語・主語を示す助辞」
          「耂=交差させ集めた木の枝で
             (老・考の部首とは異なる)」?
             ・・・土を掘る棒(ノ=道具・鍬・鋤)
           +
          「曰=祝詞を入れる器、函、箱」で
           盛った土塁の中に段差を造って
           煮物容器に点火する形象?
           者=「土に埋めた呪いの言葉の入った函」?
             と
          「丶=主(ぬし・あるじ)」
             丶=灯・ともし火=灯火=燈火・ぽち
               チユ・しるし・點
               主宰(組織の中心)の主の古字
               主人・あるじ
       都=京=亠+口+亅+八=宮拠(寓所・寓処)
         ・・・「国城曰都・言国君所居・人所都会也」
       都=京=亠+口+亅+八=宮拠(寓所・寓処)
         ・・・「全部・全て・集合=聚集・巨大市場」
            「拠点・依拠・割拠・準拠・占拠」
             足場・よりどころ
            「原拠・根拠・典拠・本拠・論拠」
        「京」=みやこ(帝都)・切り立った高い場所
            丘、高い、多い
            くじら(鯨=京)などの意
       異体字「都・𨜞・𨛷・𨜁・𨟞」
       邑=大里⇔阜=小里
 などに任命された

ーーーーー
 581年
 建国された
 隋は
 中国大陸を統一し
 文帝・煬帝の治世に
 4度の高句麗遠征(隋の高句麗遠征)
 を行って失敗
 後、隋は国内の反乱で
 618年
 煬帝が殺害されて滅んだ
 建国された
 唐は
 628年
 国内を統一
 唐は
 二代、太宗・高宗の時に
 高句麗
 3度(644年,661年,667年)に渡って
 侵攻を重ねて征服・・・
 663年には・・・「白村江の戦い
ーーーーー
 ↓↑ ↓↑
ーーーーー
 鶏足山城・・・鶏の足跡は「蒼頡」漢字発明の切っ掛け
 鶏足山の上にある
 山城(山頂を囲んで築いた城)
 百済の甕山城と比定
 百済復興軍がこの山城を根拠とし
 新羅軍の進路を遮断した
 この山城は
 下に
 犬頭城と同じ堡塁があり・・・尾張の「犬山」と関係あるか?
 付近に
 迭峴城・陵城・内斯只城・雨述城・真峴城・沙井城
 があった
 ↓↑
 善徳女王(632年〜647年)
 のもとで
 金春秋(太宗-武烈王)は
  ・・・金の春(雪解け)と秋(豊穣・収穫)?
 唐化政策を採用
 654年
 武烈王(〜661年)に即位
 唐への忠誠を示し
 648年頃から
 唐による
 百済侵攻が画策
 649年
 新羅
 金春秋に代わって
 金多遂を
 倭国へ派遣
 ↓↑
 百済
 642年から
 新羅侵攻を繰り返し
 654年
 飢饉が半島を襲ったが
 百済
 義慈王
 飢饉対策をとらず
 655年2月
 皇太子の
 扶余隆
 のために
 宮殿を修理するなどで国を疲弊させ
 656年3月
 義慈王を諌めた
 佐平の
 成忠(浄忠)を投獄、獄死させた
 百済の退廃について
 「この禍を招けり」と日本書紀に記録
 657年4月
 旱魃発生
 唐はすでに
 643年9月
 「海の険を負い、兵械を修さず
  男女分離し相い宴聚するを好む(冊付元亀)」
 防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を得ていた
 659年4月
 唐は秘密裏に出撃準備
 「国家
  来年必ず
  海東の政あらん
  汝ら
  倭客
  東に帰ることを得ず」
 として倭国が送った遣唐使
 洛陽にとどめ
 百済への出兵計画を秘密にした
 ↓↑
 大化の改新(645年)最中の
 倭国内部でも警戒感
 大化改新期の外交
 唐が
 倭国からは離れた
 反唐の
 高句麗ではなく
 親唐(?)であった
 百済を海路から攻撃・・・可能性の計画
 ↓↑
 倭国外交政策
 友好関係にあった
 中国王朝(唐)
   ・・・「唐王朝」の
       敵は百済倭国
       逃散し残存した
      「隋王朝水軍」・・・?髄・膸
       膸=月+遀=⺼+遀
       異体字「𦢪・髓・髄・隨・隨・髓」
       膸=物事の中心部分
       膸・膸・・・随所に存在する・・・ナにが?
 と
 百済との間で
 二者択一を迫られる
 「一貫した親百済路線説」・・・「膸王朝水軍」?
 ↓↑
 「孝徳天皇=親百済派・・・?
  中大兄皇子=親唐・新羅派」・・・?
 ↓↑
 「孝徳天皇=親唐・新羅
  中大兄皇子=親百済派」・・・?
 など・・・
 ↓↑
 新羅征討進言
 白雉二年(651年)
 左大臣
 巨勢
 徳陀子が
 倭国の実力者の
 中大兄皇子天智天皇)に
 新羅征討を進言したが
 採用されなかった・・・
 ↓↑
 白雉四年(653年)
 白雉五年(654年)
 と2年連続で遣唐使が派遣された・・・情報収集?
 ↓↑ 
 蝦夷・粛慎討伐
 斉明天皇
 越国守
 阿倍比羅夫
 658年(斉明天皇四年)4月
 659年(斉明天皇五年)3月
 に蝦夷を討伐・・・?・・・ナゼ?
 660年(斉明天皇六年)3月
 に粛慎の討伐・・・?・・・ナゼ?
 ↓↑
 660年
 百済
 唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡
 後、
 鬼室福信
 らによって
 百済復興運動が展開
 救援を求められた
 倭国
 663年
 白村江で敗戦
 ↓↑
 660年3月
 新羅からの救援要請を受け
 唐は軍を起こし
 蘇定方
 を
 神丘道行軍大総管に任命
 劉伯英
 将軍に
 水陸13万の軍を率いさせ
 新羅にも従軍を命じた
 唐軍は水上から
 新羅は陸上から
 攻撃する
 水陸二方面作戦
 唐13万
 新羅5万
 の合計18万の大軍
 ↓↑
 百済王を
 諌めて獄死した
 佐平
 成忠(セイチュウ)
 は唐軍の侵攻を予見
 陸での
 炭峴(大田広域市西の峠)・・・大田?
 海での
 白江の防衛を進言
 が、百済王はこれを顧みなかった
 古馬弥知(こまみち)県に
 流されていた
 佐平
 興首(コウシュ)
 も同様の作戦を進言していたが
 王や官僚はこれを
 流罪の恨みでの
 誤った作戦を進言したとして
 唐軍が
 炭峴と白江を通過したのちに
 迎撃すべきと進言
 百済
 の作戦が定まらぬうちに
 唐軍はすでに
 炭峴と白江を超えて侵入
 ↓↑
 百済
 階伯将軍の
 決死隊5000兵が
 3つの陣を構えて待ちぶせ
 新羅側は
 太子
 金法敏(文武王)
 欽純(キンジュン)将軍・・・欽(金を欠く)純(糸も屯)
 品日(ヒンジツ)将軍・・・品の日?
 らが兵5万を3つにわけて
 黄山を突破しようとしたが
 百済軍にはばまれた
 7月9日の
 黄山の戦いで
 階伯ら百済軍は
 新羅軍をはばみ
 四戦を勝ったが
 戦死
 戦いで
 新羅軍にも多大な損害
 唐との合流の
 約束期日
 7月10日に遅れ
 唐の
 蘇定方
 はこれを咎め
 新羅
 金文穎・・・金の文の穎
   穎=ヒ+禾+頁=「かひ・エイ」・植物の穂・稲穂
     稲の穂先・穎果
     錐(きり)や筆など、とがった物の先
     穎脱・毛穎
     才知が鋭い
     穎悟・穎才
 を斬ろうとしたが
 金は
 黄山の戦いを見ずに
 咎を受けるのであれば
 唐と戦うと言い放ち
 斬られそうになったが
 蘇定方の部下が取り成し
 罪を許された
 ↓↑
 唐軍は白江を越え
 上陸し
 熊津口の防衛線を破り王都に迫った
 ↓↑
 7月12日
 唐軍は王都を包囲
 百済王族の投降希望者が多数でたが
 唐側はこれを拒否
 7月13日
 義慈王
 熊津城に逃亡
 太子隆が降伏
 7月18日
 義慈王が降伏
 百済滅亡
ーーーーー

 660年(斉明天皇六年)8月
 百済滅亡後
 唐は
 百済の旧領を
 羈縻支配
 唐は
 劉仁願将軍に
 王都
 泗沘城を守備させ
 王文度(オウブンタク)
 を
 熊津都督として派遣
 唐は戦勝記念碑
 「大唐平百済国碑銘」を建て
 戦前の百済の退廃について
 「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ
  刑罰の及ぶところただ忠良にあり」
 と彫られた
 大唐平百済国碑銘は
 現在も
 扶餘郡
 定林寺
 五重石塔
 に残っている
 ↓↑
 唐の戦略
 高句麗征伐
 百済討伐は
 障害要因の戦術除去
 唐軍の主力は
 高句麗に向かうと
 百済遺民
 鬼室福信・黒歯常之
 らが
 百済復興運動展開
 8月2日
 百済残党が小規模の反撃を開始
 8月26日
 新羅軍から
 任存(ニンゾン・忠南礼山郡大興面)
 を防衛
 9月3日
 劉仁願将軍が
 泗沘城に駐屯
 百済残党が侵入を繰り返し
 撃退されるが
 泗沘の南の山に
 4、5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した
 百済遺民に呼応して
 20余城が百済復興運動に応じた
 熊津都督
 王文度は・・・・王の文の度
 着任後急死・・・?
 ↓↑
 唐軍本隊は
 高句麗に向かって救援できず
 新羅軍が
 百済残党の掃討
 10月9日
 ニレ城を攻撃
 18日
 攻略後
 百済の20余城は降伏
 10月30日
 泗沘の南の山の
 百済駐屯軍を殲滅し
 1500人を斬首
 ↓↑
 百済遺臣の
 西武恩卒
 鬼室福信
 僧侶
 道琛(ドウチン)
 黒歯常之
 らの
 任存城や
 達率
 余自信の
 周留(スル)城
 などで抵抗
 ↓↑
 百済滅亡(660)の後
 百済の遺臣は
 鬼室福信
 黒歯常之
 らが
 復興の兵をあげ
 倭国に滞在していた
 百済王の太子
 豊璋王
 を擁立しよう
 倭国に救援要請
 ↓↑
 中大兄皇子
 承諾、百済難民を受け入れ
 唐・新羅との対立
 ↓↑
 661年
 斉明天皇は九州へ出兵
 邦の津にて急死
 斉明天皇崩御
 皇子は即位せずに称制
 朴市秦造田来津・・・朴市秦-造-田来津
 (造船責任者)を    秦-造=造船責任者
             秦(秦=新羅)⇔帰化隋王朝残党?
 司令官に任命して
 全面的に支援
 後
 倭国軍は三派に分かれて
 朝鮮半島南部に上陸・・・
 ↓↑
 軍事力
 唐・新羅連合軍
 660年
 百済討伐の
 唐軍13万
 新羅5万の兵力・・・
 唐軍は
 百済の役(660年)の際よりも増強
 唐の水軍
 その主力は
 靺鞨で構成・・・靺鞨人?
ーー↓↑ーー

 日本書紀
 白村江の戦い
 663年〜666年にかけて
 「唐国の使人
  郭務悰
  等
  六百人
  送使
  沙宅・・・百済人の官位
  孫登・・・「孫が登る」・・・天孫の降臨(上陸)?
  等
  千四百人
  総合べて
  二千人が
  船四十七隻に・・・2000÷47=42.55
  乗りて倶に
  比知嶋・・・比(くらべる)知(しる)嶋(しま・山鳥
  に泊りて相謂りて
  曰わく
  「今吾輩が人船、数衆し。
   忽然に彼に到らば、
   恐るらくは
   彼の防人
   驚きとよみて
   射戦はむといふ。
   乃ち
   道久
   等を遣して、
   預めやうやくに
   来朝る意を披き陳さしむ」
 と、合計2千人の
   唐兵や百済人が上陸・・・進駐軍
 ↓↑
 水軍
 7,000名
 170余隻の水軍・・・7000÷170=41.17
 指揮官は
 劉仁軌
 杜爽
 元
 百済太子の
 扶余隆・・・余(アマ)りの
       隆(さかん・たかい・隆起)を
       扶(たすける・扶助・扶養)
 ↓↑
 唐
 陸軍
 陸軍指揮官は
 孫仁師
 劉仁願
 新羅王の
 金法敏(文武王)
 ↓↑
 倭国
 第一派
 1万余人
 船舶170余隻
 ↓↑・・・舟の大きさの規模は
   10000÷170=58.8235
   およそ、一隻に60人の乗船規模?
   60人乗れる船の大きさは?
   造船技術はダレから・・・
   遣唐使の船は奈良時代の資料に
   約600人を4隻の船で派遣した
   一隻に150人程度乗船
   150人が数日寝泊り出来る船
   約300トンくらいの船・・・
   150÷60=2.5
 ↓↑約120トンくらいの軍船・・・
 ↓↑
 指揮官は
 安曇-比羅夫
 狭井-檳榔・・・檳榔(ビンロウ)=ヤシ科の植物
         噛みタバコに似た使われ方
 朴市-秦造-田来津
 ↓↑
 第二派
 2万7千人。軍主力
 指揮官は
 上毛野-君-稚子
 巨勢-神前臣-譯語・・・通訳
 阿倍比羅夫
 (阿倍-引田-比羅夫)
 ↓↑
 第三派
 1万余人
 指揮官は
 廬原-君臣
 (いおはらのきみおみ)
 (廬原国造の子孫
  静岡県静岡市清水区を本拠)
 ↓↑
 661年5月
 第一派
 倭国軍が出発
 指揮官は
 安曇比羅夫
 狭井檳榔
 朴市秦造田来津
 豊璋王・・・・・豊の璋(王章)の王
 を護送する先遣隊
 船舶170余隻
 兵力1万余人・・・
 ↓↑
 662年3月
 主力部隊
 第二派倭国軍が出発
 指揮官は
 上毛野-君-稚子
 巨勢-神前-臣-譯語(おさだ・ヤクゴ)
 阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)
 ↓↑
 663年(天智二年)
 豊璋王
 は
 鬼室福信
 と対立し
 鬼室福信
 を斬る
 倭国の援軍を得
 百済復興軍は
 百済南部に
 侵入した新羅軍を駆逐
 ↓↑
 唐は
 劉仁軌
 率いる
 水軍7,000名を派遣
 唐・新羅軍は、水陸併進し
 陸上部隊
 唐の将
 孫仁師
 劉仁願
 新羅王の
 金法敏(文武王)
 が指揮
 ↓↑
 劉仁軌
 杜爽
 及
 元百済太子の
 扶余隆
 が率いる
 170余隻の水軍は
 熊津江に沿って下り
 陸上部隊と会合して
 倭国軍を挟撃
 ↓↑
 倭国百済連合軍は
 鬼室福信の事件の影響により
 白村江への到着が
 10日遅れ
 唐・新羅軍のいる
 白村江河口に対して突撃、海戦
 倭国軍は
 三軍編成をとり
 4度攻撃した
 火計、干潮の時間差などにより
 663年
 唐・新羅水軍に大敗
 ↓↑
 唐・新羅の軍は
 倭国百済の軍を破り
 百済復興勢力は崩壊
 ↓↑
 白村江の戦い(663年8月28日)
 天智天皇二年八月二十七日〜八月二十八日
 (ユリウス暦
 663年10月4日〜10月5日)
 に集結し
 1,000隻余りの・・・1,000隻余りの倭船?
       ・・・造船調達⇔残存隋王朝の水軍?
 倭船のうち・・・・倭船?
 400隻余りが炎上・・・
 白村江の戦い唐王朝vs隋王朝
             の倭国への亡命水軍?
             残存遺族?
 ↓↑
 九州の豪族
 筑紫-君-薩夜麻・・・薩=艹+隆(阝夂生)
           夜=亠+イ+攵+丶
           麻=广+木+木
 土師
 富杼
 氷老
 大伴-部-博麻
 が唐軍に束縛
 8年間
 捕虜として唐に抑留され
 後、釈放帰国・・・
 大敗した
 倭国水軍は
 転戦中の
 倭国
 百済遺民
 を船に乗せ
 帰国
 ↓↑
 唐が
 666年から
 高句麗へ侵攻
 3度の攻勢によって
 668年
 高句麗を滅ぼし
 安東都護府・・・安東の都護府高句麗の領内
 を設置
 百済
 豊璋王は
 高句麗へ亡命していたが
 捕らえられ幽閉
 ↓↑
 渤海の建国
 698年
 靺鞨
 粟末部は
 高句麗遺民などと共に
 満州南部で
 渤海国を建国
 ↓↑
 唐と対立し
 後に
 唐から冊封を受け臣従
 日本は
 新羅との関係が悪化する中
 渤海からの朝貢を受け
 遣渤海使をおこなう
 渤海とは
 新潟や北陸などの
 日本海側沿岸で交流
 ↓↑
 唐は
 百済高句麗の故地に
 「羈縻州」を設置
 新羅にも
 「羈縻州」を設置する方針・・・
 新羅
 旧高句麗の遺臣らを使って
 669年
 唐に対して蜂起させ
 670年
 唐が西域で
 吐蕃と戦っている隙に
 新羅
 唐の
 熊津都督府を襲撃
 唐の官吏を多数殺害
 他方で
 唐へ使節を送って
 降伏を願い出
 硬軟両用で唐と対峙
 新羅
 再び唐の冊封を受け
 唐は
 清川江以南の領土を
 新羅に管理させるという形式をとって
 和睦が成立
 唐軍は
 675年
 撤収
 新羅によって半島統一
 ↓↑
 敗戦した
 倭国
 朝鮮半島の領地・権益を失い
 外交政策・国防体制・政治体制など
 統治の基礎部分を変革
 唐との友好関係樹立
 国家体制の整備・改革
 近江令法令
 飛鳥浄御原令
 の制定
 律令国家の建設
 倭国
 「日本」と国号を変えた
 ↓↑
 665年
 唐の
 朝散大夫
 沂州
 司馬
 上柱国の
 劉徳高
 が戦後処理の使節として来日
 3ヶ月後に・・・3ヶ月の間、駐留
 劉徳高は帰国
 唐使を送るため
 倭国側は
 守大石らを
 送唐客使(遣唐使)として派遣
 ↓↑
 667年
 唐の
 百済鎮将
 劉仁願
 が
 熊津「都督府」
 (唐が百済占領後に置いた5都督府の一)
 の役人に命じ
 日本側の捕虜を
 筑紫
 「都督府」・・・「都督府」=「唐の占領出先機関」?
 ↓↑      九州博多近辺は唐の領土化
         都督府⇔都護府・・・?
          督 ≠ 護
         監督 ≠守護
         ↓↑
         都護府(トゴフ)=中国の漢、唐王朝の時代に
         辺境警備・周辺諸民族統治などのために
         置かれた
         軍事機関
        「都護府」の長官は「都護」
 ↓↑      ↓↑
         唐王朝
         安東、安北、単于、北庭、安西、安南
         の
         六都護府を設け
        「羈縻」政策を開始した
        「羈縻(キビ)」政策・・・???・・・
 ↓↑      ↓↑
       唐の羈縻(キビ)州
       初期には辺境の
      「都督府」・・・「都督府」⇔「都護府
       が管掌し
       漢人官僚の下に首長など
       辺外部族の有力者が組織された
       領域が広がるにしたがって
       新たに
      「都護府」・・・「都護府」⇔「都督府」
       が設置
       これによって
       統括されるようになった
      「都護府」では
       長官である「都護」をはじめ
       主要な職員はすべて
       漢人あるいは
       漢化(帰化・臣従)した異民族が当てられた
       これらの
      「都護府」はほとんど
       太宗・高宗の時代に置かれ
      「羈縻(キビ)」政策の元に置かれた
       国王・首長は
      「都護府」・・・「都護府
       の下の
 ↓↑   「都督」・刺史・県令
 ↓↑    などに任命された・・・
 筑紫
 「都督府」
 に送ってきた・・・「筑紫」の「都督府」は
          「日本」の政治機関組織ではない・・・?
          「筑紫」は
           唐王朝支配下の「都督府⇔都護府」・・・?
 ↓↑
 天智天皇
 669年
 河内鯨・・・くじら
 らを
 遣唐使として派遣
 百済の影響下の
 耽羅も戦後・・・耽羅=トラ=虎・彪・寅・禽=済州島
         耽牟羅(たんむら)、忱弥多礼(とむたれ)
         耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記
         天武天皇大海人皇子=羽の生えた虎
                    羽の付けた虎
 唐に使節を送った・・・?
 日本にも派遣してきた・・・
 670年頃
 唐の倭国侵略の風聞
 天武期・持統期に
 一時的な中断
 遣唐使は長らく継続され
 唐からの使者も来訪・・・来日要請された律宗
             鑑真=天平勝宝五年十二月十二日
                (754年1月9日)
 ↓↑
 684年(天武十三年)
  猪使   連  子首
 (いつかいのむらじこびと)
  筑 紫 三宅  連  得 許
 (つくしのみやけのむらじとくこ)
 が、遣唐留学生であった
  土師 宿 禰甥
 (はじのすくねおい)
  白 猪 史  宝然
 (しらいのふびとほね)
 らとともに
 新羅経由で帰国・・・ナゼ、新羅経由なのか?
 最初の
 白村江(663年)の戦い
 における捕虜帰還・・・捕虜を奴隷とはせずに
            釈放帰還させるとは?
            劉仁軌なら理解できるが・・・
            則天武后なら、ドウするか?
            郭務悰とは何者か?
ーーーーー
 天智天皇三年(664)
 郭務悰は
 白村江の戦い(663)の
 戦後処理のため
 唐の百済鎮将
 劉仁願
 の命で来日
 天智天皇から
 正式の唐使とみとめられず帰国
 ↓↑
 天智天皇四年(665)
 郭務悰は
 唐使
 劉徳高とともに来日
 ↓↑
 天智天皇十年(671)
 郭務悰は
 百済の難民
 二千余人をひきいて来日したが
 ↓↑
 天智天皇十一年(672)
 筑紫(つくし)で
 天智天皇の死を知らされ帰国
ーー↓↑ーー
 郭務悰は・・・郭・務・悰=心+宗(宀示)
            ・・・心はウを示す
               鸕(ウ)野讃良=持統天皇
 朝散大夫
 上柱国
 ↓↑
 664年
 旧百済領占領軍の
 鎮将
 劉仁願の命により
 百済
 禰軍
 らとともに
 戦後処理の交渉のため来日
 表函と献物を進める
 朝廷は
 郭務悰を
 鎮将の私使と認めて
 大宰府で交渉させ
 入京を許さなかった
 ↓↑
 665年
 劉徳高とともに表函を携えて
 再び来日し
 入京を許される
 ↓↑
 669年
 に来日
 ↓↑
 671年
 百済
 沙宅-孫登・・・沙(沙良・沙羅)=宇之沙羅
            鸕野讚良(うののさらら・うののささら)
            に宅す-孫(まご)の登(登場)
 らとともに
 総勢2000人で来日
 ↓↑
 672年
 天智天皇の死後
 甲冑・弓矢
 絁・布・綿
 を与えられて帰還
 ↓↑
 秋八月
 遣達率(ダチソチ)
 答㶱春初(トウホンシュンソ)
 築城
 於長門国
 遣達率
 憶礼福留(オクライフクル)
 達率
 四比福夫(シヒフクブ)
 於筑紫国
 築大野
 及
 椽(キ)二城。
 耽羅(タムラ=済州島
 遣使來朝。
 九月庚午朔壬辰、
 唐国遣
 朝散大夫
 沂州(キシュウ)
 司馬
 上柱国
 劉紱高
 等。
 (等謂、右戎衞(ユウジュウエイ)郎將
     上柱国
     百濟禰軍(クダラノネグン)
     朝散大夫
     柱国
     郭務悰、
       ・・・郭(くるわ)の
          務(つとめ)の
          悰(忄の宗=立身弁のムネ=ウのす)
          悰=たのしむ・ソウ・ズ
            enjoy, amuse, please, joy
            縁女意・編む施・振れ施・序意?
            鳶如意?
          宗=教義・教理・信仰の組織団体
            宗教・宗門
            みたまや・祖先をまつる所
            宗廟(ソウビョウ)
            おおもと・いえもと・祖先
            宗家・宗主
            かしら・おさ・中心人物
            宗匠・詩宗
            中心となる考え・むね
     凡
     二百五十四人。
     七月廿八日
     至于
     對馬、
     九月廿日
     至于
     筑紫、
     廿二日
     進
     表函(フミヒツ)焉。)
 冬十月己亥朔己酉、
 大閲
 于
 菟道(ウジ=京都府宇治市)。・・・宇治・氏・蛆
          うじ=得字・鸕字・鵜字・卯字・兎字・烏字
 十一月己巳朔辛巳、
 饗賜
 劉紱高
 等。
 十二月戊戌朔辛亥、
 賜物
 於
 劉紱高
 等。
 是月、
 劉紱高
 等
 罷歸。
 是歲、
 遣小錦守-君-大石
 等
 於大唐、云々。
 (等謂、小山坂合部-連-石積
     大乙吉士岐彌(キシノキミ)
       吉士針間(キシノハリマ)。
     蓋送唐使人乎。)
     吉士は新羅の官名・・・新羅の吉士舞いは阿部の管轄
ーーーーー
 ↓↑
 690年(持統四年)
 持統天皇
 筑後国
 上陽竎郡(上妻郡)の住人
 大伴部博麻
 に対して
 「唐の抑留捕虜」とされ
 「土師- 連- 富杼
 (はじのむらじほど)」
 「氷- 連- 老
 (ひのむらじおゆ)」
 「筑紫-  君-薩 夜麻
 (つくしのきみさちやま)」
 「弓削- 連- 元 宝
 (ゆげのむらじげんぽう)」
 の児の四人が
 唐で日本襲撃計画を聞き
 朝廷に奏上したいが
 帰れないことを憂えた
 その時あなたは、
 富杼らに
 『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』
 と言った
 そのため
 筑紫君
 薩夜麻
 富杼
 らは日本へ帰り奏上できたが
 あなたは三十年近くも
 唐に留まった後にやっと帰ることが出来た
 わたし(持統天皇)は、あなたが
 朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」
 と詔して
 表彰し
 大伴部博麻の一族に
 土地などの褒美を与えた
 ↓↑
 幕末の
 文久年間・・・万延の後、元治の前・1861年1864年まで
 大伴部博麻
 を顕彰する碑が
 地元(福岡県八女市)に建てられた
 ↓↑
 707年
 讃岐国
  錦 部  刀良
 (にしこりのとら)
 陸奥国
  生王 五百足
 (みぶのいおたり)
 筑後国
  許勢部 形 見
 (こせべのかたみ)
 らも帰還
 696年に報賞を受けた
  物  部 薬
 (もののべのくすり)
  壬生 諸 石
 (みぶのもろし)
 の例があえう・・・
 ↓↑
 白村江(663年)敗戦
 天智天皇
 防衛網の構築、強化
 百済帰化人の協力の下
 対馬
 北部九州の
 大宰府の水城(みずき)
 瀬戸内海沿いの
 西日本各地(長門、屋嶋城、岡山)
 に
 朝鮮式・・・ナゼ、朝鮮式なのか?
    ・・・土木技術者は半島難民・・・だった
            ・・・徴用民ではなく亡命、難民
 古代山城の防衛砦を築き
 北部九州沿岸に
 防人(さきもり)配備
 667年
 都を
 難波から
 近江京
 へ移し
 防衛体制を敷いた
 ↓↑
 671年
 天智天皇が急死
 大友皇子弘文天皇・伊賀皇子)
      ・・・母は伊賀采女-宅子娘
          (いがのうねめ-やかこのいらつめ)
 と
 大海人皇子
 が皇位で対立
 672年
 壬申の乱
 勝利した
 大海人皇子
 天武天皇(生年不詳〜686年)
 として即位
 ↓↑
 天武天皇
 専制的な統治体制を備え
 遣唐使は廃止
 新羅からは新羅使が来朝
 倭国からも新羅遣新羅使を派遣
 その数は天武治世だけで
 14回に上る
 天武天皇没(686年)後
 両国の関係は悪化
 ↓↑
 持統天皇
 701年
 大宝律令制定
 日本と国号
 中央集権国家を完成
 702年以後
 文武天皇によって
 遣唐使の再開
 粟田真人を派遣
 唐との国交回復
 ↓↑
 百済遺民の四散
 天智十年(670年)正月
 佐平(百済の1等官)
 鬼室福信の功により
 縁者の
 鬼室集斯
 が
 小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)
 ↓↑
 百済王の一族
 豊璋王の弟
 善光(禅広)は
 百済王(くだらのこにきし)
 という姓氏が与えられ、朝廷に仕える
 後、陸奥において金鉱を発見し
 奈良大仏の建立に貢献した功により
 百済
 敬福
 は従三位を授けられた
ーーーーー
 ・・・???・・・
 狭井 檳榔(さい の あじまさ)
 姓は連
 狭井氏(佐為氏)
 饒速日命の子孫
 ↓↑
 物部氏が改氏した
 石川朝臣と同祖
 ↓↑
 『播磨国風土記』に
 仁徳天皇の記事に
  狭井  連   佐夜
 (さい の むらじ さや)
 が掲載
 『続日本紀』巻第一に
 文武天皇
 700年
 刑部親王忍壁皇子
 以下19人とともに
 大宝律令の撰定者
  狭井  宿禰  尺麻呂
 (さい の すくね さかまろ)
 の名が記録
 ↓↑
 大山下(だいせんげ)
  狭井  連   檳 榔
 (さゐ の むらじ あぢまさ)
 小山下(せうせんげ)
  秦   造    田来津
 (はだ の みやつこ たくつ)
 を使(つかは)して
 百済を守護(まも)らしむといふ
 ↓↑
 『書紀』
 巻第二十七
 中大兄皇子
 九月に長津宮から
 百済の王子(せしむ)
 余豊璋に
 冠位十九階の
 織冠(おりものこうぶり)を授け
 太安安万侶の祖父の
 多   臣  蒋 敷
(おお の おみ こもしき)の
 同母妹と結婚させている
 ↓↑
 乃(すなは)ち
 大山下狭井連檳榔
 小山下秦造田来津
 を遣(つかは)して
 軍(いくさ)
 五千余
 (いつちぢみあまり)
 を率(ゐ)て
 本郷(もとつくに)を
 衛(まも)り送らしむ
 ↓↑
 (兵5000を率いて
  百済の王子
  余豊璋(よほうしょう)を
  本国に護送した)・・・本郷は誰の「本郷」?
 ↓↑
 この年の12月
 高句麗
 唐軍の侵入があったが
 逆に2つの城を奪還
 ↓↑
 播磨国
 狭夜郡(さよぐん)・・・佐夜
 から
 祟りの魔剣が朝廷に献上
 662年
 天智天皇元年3月(大陸の記録では2月)
 新羅軍が高句麗に侵入
 大和政権軍は
 高句麗の要請を受け
 援軍派遣
 新羅
 唐軍の援助を得られず
 攻略は失敗
 ↓↑
 5月
 阿曇比羅夫
 等は
 船師(ふないくさ)
 170艘を率いて
 豊璋
 途中で加わった
 鬼室福信
 らを百済に送り
 豊璋を百済王位につけた
 ↓↑
 同年12月
 豊璋と
 福信
 狭井連(檳榔)
  朴市  田来津
 (えち の たくつ=秦田来津)
 とともに論議
 ↓↑
 「州柔(つぬ、周留城・山岳)〜避城(へさし・平野)」
 拠点(都の選定論議
 田来津らは州柔
 豊璋らは避城
 ↓↑
 翌月
  上毛  野 君  稚子
 (かみつけ の きみ わかこ)
  巨勢 神 前   臣  訳語
 (こせのかむさき の おみ おさ)
  阿倍 引 田  臣  比羅夫
 (あべのひけた の おみ ひらふ
 の率いる日本からの援軍
 2万7千人が到着し
 新羅を討った
 唐側も増援軍
 7千が到着
 ↓↑
 鬼室福信に謀叛の疑い
 として
 豊璋は福信を処刑
 ↓↑
 白村江の戦い
 朴市秦田来津が戦死
 檳榔は消息不詳
 狭井連氏
 天武天皇十三年(684年)
 八色の姓制定により
 「宿禰
 の姓を得た
ーーーーー
 ・・・???・・・