2396日目・・・「JFK暗殺」・・・「暗殺の連鎖」・・・不都合な人間の抹殺・・・「古人大兄皇子(?〜大化元年九月十二日・645年10月7 日)・古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも呼称・舒明天皇の第一皇子・(厩戸皇子の子?とも)・母は蘇我-馬子の娘、蘇我-法提郎女(ほほてのいらつめ)・大臣、蘇我入鹿と従兄弟・娘は倭姫王(天智天皇の皇后)」・・・「蘇我 善徳(敏達天皇九年・580年〜?」、「蘇我蝦夷(用明天皇元年・586年〜皇極天皇四年六月十三日・645年7月11日)、入鹿(推古天皇十八年・610年〜皇

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 「我(われ・ガ)・蘇(よみがえる・ソ)」・・・
 蘇(そ)=古代の日本で作られていた乳製品
  ↓↑  相当に乾燥し長期保管に耐える
      加熱濃縮系列の乳加工食品
      酥とは同一の物では無い
      チーズとしての蘇(ソ)
      大般涅槃経の乳製品・・・涅槃(ネハン)
                  (ニルヴァーナ)
                  涅=氵+日+十+一
                  槃=舟+几+又+禾(ノ十八)
       nirvāa=吹き消すこと・吹き消された状態
       ニルバナ=似留花(把名・鼻・洟・塙)
            似る場名(地名)→蘇州・蘇聯 
       蘇聯=ソ連邦成立1922年12月30日
          露西亜革命1917年11月7日 
          日本承認=1925年1月20日
               1925年5月23日午前11時11分
               北但馬地震=但馬地震・M8
          米国承認=1933年11月
               1933年3月23日
               授権法(全権委任法)が成立
               1933年3月3日
               三陸地方地震・M8.1
      文武天皇が(700年)に
     「蘇」を税として全国で作るように
      使いが派遣
      典薬寮の乳牛院という機関が
      生産を担って
      薬や神饌としても使われた
      仏教祭事には
      蜜と混ぜられて使用・・・「蘇我+蜜蜂」
     「蘇は乳を煮詰めた
      乳製品で美味しいもの」・・・?
      『大般涅槃経』の記録の五味
      乳→酪→生酥→熟酥→醍醐・・・醍醐味(ダイゴミ)
      酥は醍醐の原料で
      蘇と酥は別もの・・・
      生産地
      摂津国・味原(あじふ)の
      乳牛牧
     (ちちうしまき、ちちゅうしまき)
      古代東国で牛が飼育され
     『延喜式』によれば
      東国すべての国で蘇を貢納
      蘇=牛乳を煮詰めたもの
      酥=牛乳を煮詰めるときに
        出る被膜(乳皮)を集めたもの
      蘇と酥が混同されるのは
      発音が同じであり
      乳製品が「涅槃経」の中で書かれ
      後世になって文献を本に
      復元された為・・・諸説・・・
      蘇酥同一・・・
      蘇をさらに熟成・加工して
      醍醐(チーズ様の乳製品)
      も作られた・・・
      cheese(チーズ)・・・
      地異圖・地位図・・・地位(置)圖→チズ(地図)
      地衣図
      高山帯の最高部で、
      地衣類や
      苔(コケ)類が生え・・・苔=コケ=虚仮・鱗・蘚
      高等植物は
      ほとんど生育しない地帯
      地衣類
      菌類と藻類の共生体・・・金類と毛類?
      地衣植物
      藻類と菌類との共生体
      菌類によって大部分が
      構成される地衣体を形成し
      岩石や樹上に生育する植物群
      地衣体が未分化で
      基物に固着するチズゴケ
      枝状のサルオガセ・リトマスゴケ
      葉状のイワタケ・カブトゴケ
      など
  ↓↑  ↓↑
 cheese(チーズ)
 独語 ケーゼ Käse
 仏語 フロマージュ fromage
 伊語 フォルマッジョ formaggio
 西語 ケッソ queso
 羅語 カーセウス caseus
 希語 チューロス τυρος
 希語 フェッタ Feta(山羊のチーズ)
 露語 スイール сыр
 露語 スゥイル сыр
 蘭語 カース KAAS
 ベンガル語 チャーナ(手作りのカッテージ)
 ヒンディ語 パニール(手作りのカッテージ)
 丁抹語 オスト ost
 諾威語 オスト ost
 瑞典語 オスト ost
 芬蘭語 ユースト juusto
 タミル語 パンニール (インドのチーズの一種)
 羅馬尼亜語 ブルンザ brânză
 波斯語 パニール پنیر
 愛蘭語 カーシュ cáis
 愛蘭語 カース cáis
 立陶宛語 スーリス sūris
 ヒンディー語 パニール पनीर
 捷克語 スィール sýr
 ヘブライ語 グヴィナー גבינה
 斯洛伐克語 スィル syr
 捷克語 シール sýr
 スワヒリ語 ジビニ jibini
 エスペラント語 フロマーヂョ fromaĝo
         カッテージチーズ
 捷克語 トゥヴァロフ tvaroh
  ↓↑
 「蘇 定方」も、・・・「蘇(よみがえる)=艹+魚+禾」
         類字は「蘚(こけ・セン)=艹+魚+羊」=苔
 「定方=テイホウ・ジョウホウ」だが、
 「定レ方」の「レ点」で訓読すれば
 「ホウテイ・ホウジョウ」で
 「よみがえる(蘇)」だろう・・・?
 「方定=ホウテイ=方綴・方程・法廷」・・・・方位・方角
 「ホウジョウ=法帖・豊饒・北條・方城・北城・方丈」
北城=ホクジョウ=北上→北帰行→松浦武四郎
                    北紀行・北帰航
        松浦武四郎=北海道へ六度渡来
        文化十五年二月六日
       (1818年3月12日)
   1818生年 戊 寅(己・丙・甲)
   0003生月 乙 卯(甲・ ・乙)
   0012生日 甲 戌(辛・丁・戊)申酉=空亡
         〜
        明治二十一年
       (1888年2月10日)
   1888没年 戊 子(壬・ ・癸)
   0002没月 甲 寅(己・丙・甲)
   0010没日 辛 亥(戊・甲・壬)
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 ・・・そして、蝦夷地に北上したのは「榎本武揚(えのもと たけあき・1836年10月5日(天保七年八月二十五日)〜1908年(明治四十一年)十月二十六日)・元幕臣明治維新政府官僚、海軍中将、正二位、勲一等子爵・通称は釜次郎・号は梁川(リョウセン)・異名は榎、釜を分解した夏+木+金+八(郎)」・・・
 四稜郭(シリョウカク)・・・「定方」?の稜郭
 箱館戦争の際に
 蝦夷共和国箱館政権)が
 明治二年(1869年)
 北海道函館市に築城した堡塁
 新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる
 五稜郭を援護する支城
 東照宮を守護する為に
 洋式築城法により築かれた
 建設監督は
 大鳥圭介、ブリュネ大尉
 ↓↑
 榎本武揚
 伊能忠敬の弟子であった幕臣
 榎本武規(箱田良助)の次男
 ↓↑
 生年1836 丙 申(己・壬・庚)
 生月0010 丁 酉(庚・ ・辛)
 生日0005 丙 子(壬・ ・癸)申酉=空亡
 ↓↑
 箱館戦争五稜郭の戦い=己巳(キシ)の役
 慶応四年・明治元年〜明治二年(1868年〜1869年)
 戊辰戦争の新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘
 干支が「戊辰〜己巳」に替わった
 ↓↑
 1868年12月4日、約3,000名が「鷲ノ木」に上陸
 1868年10月22日夜、峠下で戦端
 1868年10月26日、五稜郭へ無血入城
 ↓↑
 1868年12月15日、蝦夷地を平定し、箱館政権を樹立
 1868年 戊 辰(乙・癸・戊)食神 月支合金
 0012月 甲 子(壬・ ・癸)偏印 年三合水
 0015日 乙 亥(戊・甲・壬)印綬 年害
 ↓↑
 1869年 6月27日、箱館政権降伏
 1869年 己 巳(戊・庚・丙)傷官 支合水
 0006月 庚 午(丙・ ・丁)偏財 生日沖
 0027日 己 丑(癸・辛・己)傷官 支合火
 ↓↑
 没年1908 戊 申(己・壬・庚)食神・日三合
 没月0010 壬 戌(辛・丁・戊)偏官・月害
 没日0026 甲 寅(己・丙・甲)偏印・年沖
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 蘇我稲目(506年頃〜570年3月22日)
 蘇我馬子(551年〜626年6月19日)
 河上娘
 刀自古郎女(=河上娘?)
 蘇我-法提郎女・・・ナゼ、「法提郎女」なのか?
              「法廷牢序」?
          提=手にぶら下げる・提出・持ち上げる
            上に動かす・提昇
            引き出す・引き出して注目させる
            提起・提案・提供
            さげる・テイ・ダイ
            提琴・提携
            差し出す・持ち出す
            提案・提起・提供・提言・提示
            提出・提唱・前提
            先に立って引き連れる
        「提督→底度久御魂(そこどくみたま)」
            溺死の「猿田比古」 
 川堀
 杲安
 蘇我善徳(580年〜?
 蘇我 倉麻呂(雄当)
 蘇我蝦夷(586年〜645年7月11日)
 蘇我入鹿(610年〜645年6月12日)
 ↓↑   ↓↑
      643年11月
      入鹿は斑鳩宮を襲い
      山背大兄王
      その厩戸(馬宿・聖徳太子)の
      一族を滅ぼした
 ↓↑
 蘇 定方(592年〜667年)
 本貫、冀州武邑県
 蘇邕の子
 ↓↑
  邕(ヨウ・ユ)
 蔡邕・・・蔡倫=宦官・字は敬仲
 (サイヨウ   ↓↑
  132〜192年) ↓↑
 ↓↑      50年?〜121年?
 ↓↑      紙の発明者
        「和帝」のとき・・・倭帝=ワテイ=倭綴
         尚方令(帝室技芸長官)
         元興一(105)年
         竹木簡、白絹などに代えて
         樹皮、麻頭、魚網、襤褸などから
         紙をつくり、和帝に献上
         初元一(114)年
         龍亭侯
         長楽太僕 (卿)
         安帝即位とともに
         帝の祖母を陥れたことで
 ↓↑      服毒自殺                
 建寧三(170)年
 「霊帝」の郎中
 東観で書物の校定
 熹平四(175)年
 「諸経の文字平定を奏請し
 みずから書して
 石に刻み太學の門外に建てた(熹平石経)
 董卓に召されたが
 董卓の誅死後、投獄され獄中で死亡
     ↓↑
     「董卓」をたよった
     「丁原」は
     董卓の策で部下の
     「呂布(?〜198)」に殺され
     董卓は「王允」に唆された
     「呂布」に殺された
     呂布は「劉備」or「曹操」の軍に殺された
ーーーーー
  邕=巛+邑(口巴)=ヨウ・ユ・・・三く=くくく
   異体字=巛+口+囗           3×9=弐拾七(漆)
   周囲を川(巛)や堀で囲まれた都市
   ふさぐ・周囲を囲って封じ込める
   やわらぐ・なごむ
   ピンイン(Yōng)付属形態素
   川の名に用いる
   邕江=広西・チワン族自治区にある川の名
      広西チワン族自治区南寧の別称
      広西南寧の別称邕剧
      広西チワン族自治区
      粤(えつ)語による地方劇
      邑(ユウ・オウ)=むら・くに・・・阝
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 邕=武帝(543年〜578年6月21日)
      北朝北周の第三代皇帝
   武帝の諱は「邕(ヨウ)」
   姓は「宇文」
   西魏
  「宇文 泰」の四男
   姓  宇文
   字  爾羅突
   諡号 武皇帝
   廟号 高祖
   生年 大統九年(543年)
   没年 宣政元年六月一日
      (578年6月21日)
   父  宇文泰(ウブンタイ)
   母  叱奴(口七女又)太后
   皇后 阿史那(アシナ)皇后
   側室 李皇后、庫汗姫
      馮姫、薛世婦
      鄭姫(北斉南陽王-高綽の寡婦
   子
   宣帝
   宇文贇・・・贇=斌(文武)+貝(目八)
          =イン・よし・すばらしい・美しい
   宇文贊(漢王)
   宇文贄(秦王)
   宇文允(魯王)
   宇文充(趙王)
   宇文兌(蔡王)・・・兌=八+兄=蔡王
              =かえる・よろこぶ・するどい
               ダ・タイ・エツ・エイ
               兌換・易の八卦の一
               沢・少女・秋
               方角で西
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 宇文 化及(ウブン カ-キュウ)
       宇文 化 及・・・宇宙の文化を及ぼす?
 隋の政治家、軍人
 隋末の混乱期に独立し
 皇帝を僭称
 「許」を建国・・・・・許=言+午(ノ一十)=うま=馬
                      宇摩合
 宇文智及・・・宇文智-及
 宇文恵及・・・宇文恵-及
 の兄、
 宇文士及・・・宇文士-及
 の異母兄
  ↓↑
 北周
 左翊衛将軍
 宇文述
 の長男
 代郡
 武川鎮(内蒙古武川県)に生まれ
 長安で育った
 長安では「軽薄公子」と呼ばれ
 幼少の頃より
 楊広の寵愛を受け
 煬帝の即位後は
 太僕少卿に任じられた
 大業十二年(616年)
 父(宇文述)が死去
 右屯衛将軍に任命
  ↓↑
 大業十四年(618年)
 叛乱を避け
 江南の江都(揚州)に逃れ
 大興城へ帰還しようとしない
 煬帝
 に対し
 司馬徳戡・趙行枢・薛世良
 らによる反乱が計画
 「宇文化及」はその指導者に推戴された
 「宇文化及」は弟の
 「宇文智及」とともに
 「煬帝」を弑殺
 「煬帝」の弟である
 蜀王秀の子
 「秦王浩」を擁立し・・・「秦の王の浩(ひろい・おおきい)」
              ハタの王の浩(氵+告)
 自ら
 大丞相となり北上
 王世充・李淵・李密
 らの勢力に阻まれ
 長安に入ることはできなかった
 「宇文化及」は
 「楊-浩(秦王浩)」を毒殺し・・・陽侯氏→薩摩→島津
 魏県を根拠地として自ら
 皇帝に即位
 国号を
 「許」
 元号
 「天寿」と定めた
  ↓↑
 天寿二年(619年)
 竇建徳に
 聊城で敗れ
 智及ら部下は処刑
 自らは子の
 宇文承基・・・承基・・・基を継承・承諾・承知
 宇文承趾・・・承趾・・・趾(足止)を継承
 とともに
 「襄国」に運ばれて斬首
 「化及」の首は
 突厥に嫁いだ
 「文帝」の宗室の娘である
 義成公主
 に送られた
  ↓↑
 武徳二(619)
 隋の反臣
 北周系の門閥
 宇文述・・・・宇の文を述(のべる)
 の長子
 隋末に各地で反乱が起ったとき
 「化及」・・・化して及ぶ
  は
 北帰を望む軍人らを率いて
 江都にいた
 煬帝を殺した
 「化及」は
 煬帝の甥
 「楊浩」
 を擁立して
 北帰しようとしたが
 途中で
 「楊浩」を殺し
 みずから帝位についた
 国を
 「許」と号し
 年号を
 「天寿」と称し百官を任命
 「竇建徳 (トウケントク)」
 と戦って敗れ、斬殺された
  ↓↑
 隋の貴族
 「煬帝」の殺害者
 「宇文化及」
  ↓↑
 父の
 「宇文述」
 は
 煬帝の寵を得て貴顕の地位に上った
 「宇文化及」も
 右屯衛将軍を授けられたが
 弟の
 「宇文智及」
 とともに非行多く
 軽薄公子とよばれた
 大業(605〜616)末年
 煬帝は反乱情勢に阻まれ
 江都(江蘇省江都県)の離宮から
 動かず
 「宇文化及」
 は北帰を望む近衛軍の将兵に擁されて
 「煬帝」を殺し
 帝の甥
 「浩」を奉じて北上
 魏県(河北省大名県)で
 「浩」を殺し
 自ら即位し
 「許国」を建國したが
 「竇建徳(トウケントク)」
 に滅ぼされた
  ↓↑
 皇帝を僭称し
 「許」を建国
 宇文智及
 宇文恵及
 の兄
 宇文士及
 の異母兄
ーー↓↑ーー
 宇文元(荊王)=周武帝宇文邕的第七子=武帝
 武帝(ぶてい)=宇文邕
         北朝鮮卑系の宇文氏が建国した
         北周の第三代皇帝
         姓は宇文
         諱は邕(ウオウ・ユ)
         西魏の実力者
         宇文泰の四男
         独裁の従兄
        「宇文護」を
         572年に誅殺、親政し
        「皇帝」号をやめ、
        「天王」を採用・・・「天皇」?
         578年
         陣中にて病を得て崩御
         皇太子の
        「宇文贇(宣帝)」が新たに即位
         ↓↑
         第三十代
        「敏達天皇
         宣化天皇三年(538年?)
         〜
         敏達天皇十四年八月十五日(585年9月14日?)
         在位
         敏達天皇元年4月3日
         572年4月30日?
          〜
         585年9月14日?
         和風諡号
         渟中倉太珠敷尊
        (ぬなくらのふとたましきのみこと)
         沼名倉太珠敷命
         別名、他田天皇
  ↓↑
 武帝=宇文邕
    突厥と同盟して北斉を攻撃
    儒教・仏教・道教
    に関する討論会を開き
    儒者・僧侶・道士の優劣を競わせた
  ↓↑
 天和七年(572年)
 地方から首都長安に戻った
 「宇文護」
 を誅殺し
 親政を開始
  ↓↑
 建徳三年(574年)
 道教と仏教をともに廃止
 仏教・道教の研究機関として
 通道観を設置
 120名の通道観学士を選任
 寺院の破壊と財産の没収
 僧侶の還俗を行って財産を没収
 税賦を逃れる目的で
 僧籍に入る者を還俗させて税を取り
 財政改善を狙った
 (三武一宗の廃仏)
  ↓↑
 建徳二年(573年)
 陳の
 宣帝
 陳頊
 が
 将
 呉明徹を遣わして
 北斉軍を討ち破り
 寿陽など江北の九郡を奪った
 陳の攻撃で弱った北斉
 これらの富裕な土地を
 奪還する能力が欠如していると
 「武帝(宇文邕)」は
 建徳四年(575年)
 北斉への本格的な攻撃を開始
 建徳五年(576年)
 平陽と晋陽を奪い
 建徳六年(577年)
 首都の
 鄴を包囲
 北斉を滅ぼし
 北魏の東西分裂以来
 四十数年ぶりに華北統一
 武帝(宇文邕)は
 北斉旧皇族である
 高一族や
 北斉の臣下たちに
 寛大な処置で臨み
 最後まで北斉に忠実だった者は厚遇
 李徳林
 は法律制度を整備するために重用
 旧北斉領内においても
 仏道二教の廃毀を断行
ーー↓↑ーー
 邕=武帝
 北朝北周の第三代皇帝
 武帝(宇文邕)
 周礼を理想
 鮮卑への復古も標榜する
 北周朝の政策に則って
 仏道二教を廃止
 武帝は、道教の外護者であり
 通道観においても
 道教の経典研究を行い
 道教典籍を編纂
 『無上秘要』という道教類書
  ↓↑
 宣政元年(578年)
 彭城で陳軍を破って
 呉明徹を捕らえた
 武帝(宇文邕)は呉明徹を
 懐徳公に封じ厚遇
 突厥に親征を企てたが
 罹病し、間もなく崩御
 享年36(満34歳没)
  ↓↑
 没後の仏教説話
 武帝崩御
 数種の説話伝承が流布
 廃仏皇帝の因果応報としての
 末路を示す伝説
 冥界説話や応報説話
 寿命のある人が
 誤って閻魔王のもとに送られ
 審判の結果
 その誤りが判明して
 蘇生し、見聞したさまを語った・・・
 武帝の話説によれば
 彼を煽動した
 衛元嵩は、閻魔王の管轄外にあって
 武帝の受けているような
 地獄での仏罰を受けていない
 三界をくまなく捜索しても、
 その姿を発見し得ない・・・
ーーーーー
 武帝崩御
 皇太子の宇文贇(宣帝)が即位
 暗愚の息子・・・
 即位した宣帝は
 武帝を支えていた一族群臣を粛清
 即位の翌年
 579年
 皇太子の
 宇文闡(静帝)に譲位
 自らは
 天元皇帝と称した
 実権は外戚
 随国公
 楊堅が掌握・・・
 580年
 宣帝は22歳で崩御
 8歳の静帝の下で
 楊堅は兵権を掌握
 隋王の称号を与えられ
 581年
 楊堅静帝より禅譲を受け
 隋を建国
 北周は滅亡
 北周皇族の宇文氏は
 静帝を初めとして
 楊堅によって皆殺しにされた
 例外として
 虞国公の
 宇文興
 (宇文韜(宇文泰の祖父)
  の兄の
  宇文阿頭
  の孫、
  宇文仲
  の子)、
 宇文洛(字は永洛)
 父子の系統のみは許され
 唐に仕えて存続した・・・
ーー↓↑ーー
 「党錮の禁
 166年(延熹九年)〜169年(建寧二年)
 ・・・・宦官と儒教の学徒の官僚と対立し、官僚たちを党人と言い、党人が宦官によって禁固・・・
ーー↓↑ーー
 武内
 宿禰
  ↓
 蘇我
 石川(宿禰
 満智
 韓子
 高麗
 稲目・・・武烈天皇八年
      (506年頃)
        〜
      欽明天皇三十二年三月一日
      (570年3月22日)
      財務に手腕を振るい
      王辰爾を遣わして船賦を数え記録
      諸国に屯倉を設置
 馬子   境部摩理勢・法提郎女・堅塩・小姉
 蝦夷   倉麻呂   古人大兄皇子
 入鹿   倉山田石川麻呂・赤兄・連子・日向・果安
      姪娘
      元明
 ↓↑
 兄=あに=昆・豈・詎・晜・阿似・阿爾・阿仁・王仁
          詎=キョ・ゴ・なんぞ
          晜=兄
            昆(晜)孫の子(七代後)
 玄孫(やしゃご)・・・曾孫の子(四代後)
 来孫(らいそん)・・・玄孫の子(五代後)
 昆孫(こんそん)・・・来孫の子(六代後)。晜孫
 仍孫(じょうそん)・・・昆(晜)孫の子(七代後)
 雲孫(うんそん)・・・仍孫の子(八代後)
 ↓↑
 晜孫(昆孫)=本人を1世とすれば
           7世(6代後)の末裔
  ↓↑
 藤原不比等に嫁ぎ
 武智麻呂、房前、宇合の三男を儲けた
 母親
 蘇我 娼子(そがのしょうし・そがのまさこ)
 蘇我 媼子(そがのおんし・そがのおうなこ)
 「娼子=媼子」は同一人物
  ↓↑
 蘇我氏の血縁
 持統天皇(大叔父
      蘇我倉山田石川麻呂の外孫)
 に不比等が取り立てられ
 後年
 藤原仲麻呂
 石川年足を取り立てたのも
 彼女の血縁による・・・
 蘇我氏(石川氏)自体は
 天武天皇の皇統断絶
 女系で藤原氏を通し
 血統(蘇我氏)を伝えたのは
 蘇我稲目の娘の
 蘇我堅塩媛
 蘇我堅塩媛―桜井皇子―
       吉備姫王―皇極天皇天智天皇
  ↓↑
 「娼子=媼子」の
  ↓↑
 父は蘇我連子=蘇我連子(そがのむらじこ)
        推古天皇十九年(611年)?
         〜
        天智天皇三年(664年5月)
        名前は連=むらじ=武羅自・牟羅志
        氏姓=蘇我朝臣
        蘇我倉麻呂蘇我雄正)の子
 母は未詳
 兄は蘇我安麻呂
 夫は藤原不比等
 長男は藤原武智麻呂
 次男は藤原房前
 三男は藤原宇合(馬飼)
  ↓↑
 藤原馬飼(宇合・宇摩合)
 霊亀二年(716年)八月
 第九次遣唐使
 遣唐副使
 (遣唐押使は多治比県守
 (遣唐大使は大伴山守)
 霊亀三年(717年)六月〜七月ごろ入唐
 十月に長安到着
 養老二年(718年)十月
 遣唐使節一行は九州に帰着
 養老三年(719年)正月に復命
 藤原宇合
 正五位上に昇叙
 遣唐使節としての入唐を通じ
 「馬養」から「宇合」に改名・・・
  ↓↑
ーーーーー
 蘇 定方
  ↓↑
 660年
 熊津道大総管
 百済征討で
 城山から海をわたって
 熊津口に上陸
 真都城に進軍
 百済義慈王・・・孝、泰、隆、演、豊璋
         勇(百済王善光・帰化
         などの6人の王子
         他、庶子41人
         父親、武王の死により即位
         唐から
        「柱国・帯方郡王・百済王」の称号
 と
 太子の隆
 は一旦
 北方に逃走
 泗沘城を包囲
 義慈の子の泰が抗戦しようとしたが
 義慈王は開門して降伏
 百済の将軍の
 禰植と義慈は唐軍に降り
 泰も捕らえられ
 百済王義慈・隆・泰
 らは
 東都洛陽に送られた
ーー↓↑ーー
 百済
 義慈王
 ↓↑
 黄帝の子の
 少昊・・・少昊(ショウコウ)
      中国古代の五帝の一人
      姓は己
 金天氏・・氏は金天氏
     (鳳鳥氏・青陽氏・窮桑氏・雲陽氏)
      とも称す
      名は摯(シ・鷙・質)、玄囂
      号は「昊(蔯・皓・邕)」とも
     「朱宣・少昊(太昊の徳行継承による)」
 の
 子孫である
 ↓↑
 新羅軍に
 649年8月
 道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗
 651年
 唐に朝貢した折
 高宗から
 新羅との和睦を進める璽書を送られた
 後も新羅との争い
 655年
 高句麗・靺鞨と組んで
 新羅の30城を奪った
 驕慢になった義慈王
 酒色に走り朝政を顧みなくなった・・・
 これを諫めた
 佐平の成忠(浄忠)を投獄
 660年
 唐の高宗は
 蘇定方に大軍13万を与え
 新羅
 武烈王・金庾信
 の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)し
 百済を征討
 百済軍は
 白江(錦江の支流)に
 迎撃したが大敗
 唐・新羅軍が首都の
 泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると
 義慈王はいったん
 太子(隆)とともに北方へ逃亡
 百済王の第2子の
 泰が自ら王を名乗って
 泗沘城を固守したが
 太子の子の
 文思が隆に相談し
 唐軍が去ったとしても
 自立した泰に害せられることを恐れて投降
 泰も開城して投降し
 逃げのびていた義慈王も諸城をあげて降伏
 百済は滅んだ
 義慈王は妻子とともに長安に送られ
 その年のうちに唐で病死
 「金紫光禄大夫・衛尉卿」
 の爵号を贈られ
 洛陽市かその近くに葬られた
 隆には
 司稼卿
 の爵号が贈られた・・・
 ↓↑
 百済滅亡後
 豊璋が倭国の軍事援助で
 復興戦争
 白村江の戦い(663年)で大敗
 唐は
 百済旧領に
 熊津都督府を置いて
 羈縻州としたが
 百済遺民を慰撫するため
 665年
 義慈王の王子の
 扶余隆を
 熊津都督
 百済郡公
 熊津道総管
 兼
 馬韓道安撫大使
 として
 旧百済王城の
 熊津城に入れ
 その統治に当たった
 後、新羅の勢力が強くなり
 都督府は撤退
 高句麗百済の地は
 新羅渤海、靺鞨
 に分割され
 百済の影響は
 朝鮮半島から完全に消滅
 677年2月
 唐は扶余隆の封爵を
 かつての
 百済国王と同じ
 光禄大夫
 太常員外卿
 熊津都督
 帯方郡
 に格上げし
 熊津都督府を回復しようとしたが
 既に百済旧領は
 新羅領となっており
 隆は熊津城に帰ることが出来なかった
 682年
 隆は洛陽に没し
 輔国大将軍の爵号を追贈
 武則天
 隆の孫の
 扶余敬に
 衛尉卿を授けて
 帯方郡王に封じたが
 旧領の回復は全く出来ず
 子孫も断絶した
 1920年
 扶余隆の墓誌が洛陽で出土
 中国正史や『三国史記
 等には記載されていない
 隆の経歴や爵号、生没年などが判明
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 善徳女王(ゼントコジョオウ)
 647年2月17日(旧暦1月8日)
 新羅の第27代の王
 在位、632年〜647年
 新羅初の女王
 姓は金
 諱は徳曼
 真平王の娘
 母は金氏の
 葛文王、福勝の娘の
 摩耶夫人
 王配は
 水月
 葛文王
 朴欽飯
 3人姉妹(三国史記では長女
      三国遺事、花郎世記では次女
     で、男兄弟はいない)
 632年1月
 先王死去したときに男子がなく
 父母ともに
 王族である聖骨の男子がいなく
 徳曼が
 呪術者的性格・・・鬼道?・・・三つの「予言」
 に期待され
 王位を継いだ
 即位して後に
 聖祖皇姑の号を
 国人?
 から奉られた
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 ・・・???・・・