2394日目・・・1805年(文化二年)・・・志古津=シコツコ=死骨湖・・・支笏湖・・・

ーーーーー

 「大陸中国
  前漢王朝時代
  朝鮮半島
  三韓時代
  半島南部の泗川一帯には
  弁辰十二ヵ国の一派の拠点
  200年(後漢末〜三国志時代)ころに
  浦上八国の一つの
  史勿国(シコツコク)があった」
 ・・・支笏湖・・・笏(コツ→シャク)・笏拍子
   (しこつこ) 笏=竹+勿=古代大臣
    ↓↑      上朝拿着的手板
    ↓↑      用玉、象牙或竹片制成
    北海道千歳市にある淡水湖
    日本最北の不凍湖
   「アイヌ語・シ・コッ=大きな窪地」に由来    
    松前藩は「志古津(漢字表記)と呼んでいた
    支笏湖=「シコツ川(千歳川)の水源の湖」
   「シコツ・トー」と呼び、改まった場合に
   「シコテムコ・エアン・パラト」
   (シコツ川の・水源・そこに・ある・広い湖)
    と称えていた・・・
   「志古津=シコツコ=死骨湖」の表記が
    1805年(文化二年)に
   「支笏湖」の地名に改名・・・?
 ↓↑
 ・・・史(ふみ)勿(なかれ)国(くに)=無文字の國?
 「浦上八国=金官伽倻国家(狗邪韓国)
  の総称で、
  泗川、巨斎島一带の
  骨浦国・漆浦国・古史浦国▫史勿国▫保羅国」・・・
 「保羅国・古自国・史勿国。
  保羅国・古自国は慶尚南道固城郡
  史勿国は
  慶尚南道
  泗川市に比定。
     勿稽子」
     勿稽子?
      稽=禾尤ヒ日=とどまる・かんがえる
      引きとめる・とどまる
      稽留・稽古・滑稽(コッケイ)・不稽
      無稽・頭を地につける・稽首
      会稽(会計)の恥
      会稽の東=計其道里
           當在
           會稽
           東冶之東=緯度33度→阿蘇山頂・横島
 ↓↑
 これら小国群も
 百済新羅による侵攻を受け
 泗川地域は
 百済の勢力圏に組み込まれた
 512年
 4県を
 倭が百済へ割譲
 532年
 南部の金官国
 新羅に滅ぼされ
 562年
 洛東江流域の
 任那諸国が
 新羅に滅ぼされた
 ↓↑
 新羅
 660年に
 百済を滅亡させ
 史勿県と
 昆明県の
 東西二つの行政区に分割管理
 新羅によって統一された後
 757年
 唐王朝の統治制度が導入
 泗水県・・・泗の水を懸(かける)
       泗水=中国山東省を流れる河川、泗河の古名
          泗水国・泗水郡・泗水の流域にあった
          古代中国の諸侯国
          泗水県=山東省済寧市の管轄下の県
          泗水町熊本県
              菊池郡にあった町
 となり
 固城郡・・・大韓民国慶尚南道の南部
       固城→湖上の琿(群・君→訓)?
             琿=グン・コン・ゴン・キ
 に属した
 ↓↑
 高麗時代
 940年
 地名が
 昆明県・・・昆明に懸(かけ)る
       昆明=中国雲南省省都
       昆明市=省名は雲嶺
       四川省との境の山地の南・石林で有名
      (ベトナムミャンマーへの交通の要地)
       昆明無差別殺傷事件(2014年3月1日21時20分)
 へと改名
 995年
 10道の1つであった
 山南道の
 晋州牧使・・晋州城攻防戦=文禄の役の2回の攻城戦
       第一次攻防戦
       半島の晋州城(チンジュソン・晋州市)を
       敗走した
       柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが
       部下で、守将の
       晋州(もくそ=当字は木曽?=モックサ)
       牧使
       金時敏は
       日本軍の突入を怖れて城門を開く事を拒否
       柳崇仁は城外で日本軍との野戦で戦死
 の管轄下に帰属
 1015年
 泗洲県が新設
 1018年
 河東郡
 晋州牧の管轄下に組み込まれた
 1172年
 西部地域に
 最初の監務(県監)が設置
 ↓↑
 熊川(浦萕)→鎮海→泗川→昆陽→河東・・・カトウ=加藤?
 ↓↑
 高麗滅亡
 李氏朝鮮が建国
 1413年
 泗洲県
 が
 泗川県へ改名
 改めて監務(県監)が設置
 1415年
 倭寇襲来対策
 泗川鎮鎮兵馬使
 兼
 判県使
 が新設される。
 1419年
 南海県と昆明県が合併、昆南郡へ昇格
 1423年
 兵馬節制使が導入
 1430年
 昆陽県城に
 1445年に
 泗川県城(宣仁里)に
 それぞれ土壁の城壁が建造
 新羅時代からあった
 県役所(監務・県監)
 と住民らの居住区を囲む形で城壁が設置
 朝鮮式邑城誕生
 1468年
 泗川鎮へ改編
 泗川邑城内に
 県監兵馬節制使
 兼
 県監
 が新設
 李朝末期の
 1895年
 八道制が廃止
 全国23府制となり
 昆陽郡と合併された泗川郡は
 晋州府の管轄下に帰属
ーーーーー
 ↓↑
 文禄・慶長の役・・・韓国では「壬辰・丁酉の倭乱」
 ↓↑
 文禄元年=万暦二十年
      宣祖二十五年
     (1592年)
  〜
 文禄二年(1593年)
 ↓↑
 慶長二年(1597年)
 講和交渉決裂
 慶長の役
 慶長三年
 万暦二十六年
 宣祖三十一年(1598年)
 ↓↑
 太閤豊臣秀吉の死
 日本軍撤退で終結
ーー↓↑ーー
 泗川新城
 朝鮮軍
 日本軍が新築した倭城を
 泗川新塞と呼称
 ↓↑
 平山城
 北、西、南を
 海に囲まれた天然の要害
 数千もの船舶が停泊できた
 陸続きの部分は
 東面のみ
 石垣が積み上げられ
 外側には3重の防護柵
 堀として海水が引かれた
 城郭の郭は
 本丸、二の丸、三の丸、外郭の4重構造
 長曾我部元親、中川秀成、池田秀氏
 毛利吉成、伊東祐兵、秋月種長
 高橋元種、相良頼房、島津豊久
 軍監であった
 垣見一直らが築城を担当
 1597年10月29日に着工
 12月27日に完成
 ↓↑
 後、
 島津義弘
 が守備を担当
 9月下旬
 島津軍の
 泗川一帯での激戦の最中
 西隣の
 順天城
 に籠る
 小西行長軍にも
 6万の明・朝鮮連合軍が迫った
 十月一日の
 泗川の大敗北を知らないまま
 明・朝鮮連合軍は
 十月二日に
 順天城への総攻撃を開始
 大量の鉄砲による
 日本軍の迎撃を受け
 五日間におよぶ攻城戦で
 膠着状態
 秀吉の死で
 双方は休戦協定
 籠城する
 小西行長軍は撤退をはかるも
 十一月中旬になっても
 朝鮮、明水軍は海上封鎖を解除せず
 日本軍は
 順天湾に閉じ込められ
 巨済島の
 日本水軍は総力をあげて
 順天城守備軍の救出作戦を決行
 「新城=泗川新城」より
 島津義弘軍も援軍として順天へ向かった
 この島津軍が
 「李舜臣」を討ち取った・・・
 順天城の攻防戦
 「露梁海戦」・・・慶長三(1598年)十一月十八日
          無血撤退の双方合意で
          撤退しようとした
          順天城守備の
          小西行長らに対し
          合意を無視し
          明・朝鮮が攻撃
          島津軍を中心の日本軍が救援
          小西行長軍は
          巨済島への撤退に成功
 が「李 舜臣」が戦死
 「朝鮮の役」の最後の戦闘となった
ーー↓↑ーー 
 文禄・慶長の役・・・韓国では「壬辰・丁酉の倭乱」
 ↓↑
 文禄元年=万暦二十年
      宣祖二十五年
     (1592年)
  〜
 文禄二年(1593年)
 休戦
 ↓↑
 慶長二年(1597年)
 講和交渉決裂
 ↓↑
 慶長の役
 慶長三年
 万暦二十六年
 宣祖三十一年(1598年)
 太閤豊臣秀吉の死
 日本軍撤退で終結
 ↓↑
 文禄元年への改元
 十二月八日
 (グレゴリオ暦1593年1月10日)
 に行われ
 四月十二日の
 釜山上陸で始まった
 戦役初年の
 1592年のほとんどの出来事は
 天正二十年の出来事
 ・・二十=弐拾=念・・・
ーー↓↑ーー
 663年・白村江の海戦
  ↓↑
 「白村江=錦江=熊川=泗川」=「白馬江」
 「白い村」は
 「白色=白雪・白州=しらす=白砂」
           知らす=曰(いわく)
 「錦江(きんこう、クムガン)=熊川(くまがわ)」
  にしきえ          ユウセン
          クムガン =クマガワ
  ↓↑
 「錦江は大韓民国南西部の主要河川
  全羅北道長水郡の
  小白山脈に端を発し
  全羅北道忠清北道忠清北道
  大田・・・大田(テジョン)広域市←忠清南道に属
       西に「鶏龍山(ケリョンさん)」
       同名の山は
       巨済島=瀆盧国
       の中央部に
      「鶏龍山(ケリョンサン)」として存在
       巨済島付近の海上
       玉浦海戦
       巨済島海戦(漆川梁海戦)
       閑山島海戦
       が戦われた
  の
  道市境・忠清南道を通ったのち
  忠清南道全羅北道の道境を流れ
  群山
  と
  舒川の市郡境で
  黄海に注ぐ」
  ↓↑
 「倭水軍=隋残党亡命水軍+百済水軍
       +
 「筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)=薩野馬とも表記」
  筑紫の君=「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」
       俀王の姓は阿毎
          字は多利思北孤
          號は阿輩雞彌(おほきみ)
          妻は雞弥(きみ)・・・
       聖徳太子
       推古六年(598年)
       菩岐 岐美   郎女
      (ほき きみ の いらつめ)
       と結婚・・・
 「薩夜麻=さやま=薩野馬・・・薩摩」
 「島津(薩摩)水軍=鹿児湾水軍=錦江湾水軍」
  ↓↑
 「白村江の戦い」で戦死
  天智二年八月二十八日
  (663年10月5日)
  ↓↑
  朴市 秦    田来津
 (えち はた の たくつ
  不詳〜天智天皇二年八月二十八日
        (663年10月5日)
  ↓↑
  安曇 比羅夫(安曇山背)
  662年
  倭の人質であった
  百済王子、豊璋
  と
  水軍170隻を率いて百済に渡った
  後、「大錦中」に任じられた・・・大の錦の中?
  長野県
  安曇野市
  穂高神社
  安曇連比羅夫命として祀られる・・・?
     比(くらべる)
      羅(あみ)
       夫(おっと・フ)
        命(みこと・いのち・メイ)
  先祖
  阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良、磯武良とも書く)
  阿度部磯良(あとべのいそら)
  石清水八幡宮の縁起(八幡愚童訓)
  に
 「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり
  志賀海神社(福岡市)の祭神であった
 「神功皇后三韓征伐で新羅出兵の際
  阿曇磯良に協力を求め、承諾して皇后を庇護」
 「細男の舞=神功皇后が舞わせたところ、
       貝殻のついた醜い顔を
       白布で隠した磯良が現れた
       白布の覆面姿の男たちが舞う」
  現在は
 「綿津見(わたつみ)」三神を祀る・・・
  綿津見=錦津見?・・・綿(もめん)=錦(にしき)
  志賀海神社は古代の創建以来、
  阿曇氏が祭祀を司っている
  ↓↑
  氏は秦、朴市
  姓は造
  大花上・秦河勝
  の子(系図有)
  朴市 秦    田来津
 (えち はた の たくつ)
 渡来系氏族の
 秦氏の一族?・・・陽侯氏も秦氏
          隋王朝の残党だろう? 
 近江国
 愛智郡
 に移り地名を冠して
 朴市秦と名乗ったと考えられる
 愛智=えち=朴市(十八ト亠巾)?・・・重位置?
 延暦年間(782年〜806年)
 「依知秦公(えちはたのきみ)」
 と記された木簡が発見された
 上蚊野古墳群(愛知郡秦荘町大字上蚊野)
 は
 「依智(依知)秦」氏の居住地
 古墳時代後期における
 渡来系氏族の居住が契機となって
 本格的な群集墳を造営した・・・
  ↓↑
 阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ
 生没年不詳
 氏姓は阿倍引田臣
 冠位は大錦上
 越国守・後将軍・大宰帥
 を歴任
 斉明天皇四年(658年)から三年間
 日本海側を北海道までを航海
 蝦夷を服属させ
 粛慎と交戦
 父は阿倍目or阿倍浄足
子は宿奈麻呂、引田広目、安麻呂、船守
 阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)
 阿倍引田臣
 ↓↑
 阿倍 比羅夫
 斉明天皇四年(658年)四月
 蝦夷に遠征
 降伏した
 蝦夷
 恩荷・・・齶田(秋田)で迎え、朝廷へ服属
      小乙上の冠位を与えられた
 を
 渟代・津軽二郡の郡領(長)に定め
 有馬浜で
 渡島の蝦夷を饗応
 生きている
 羆(ヒグマ)二匹・・・羆=網(罒・横目・余拠目)+熊(能火)
 羆(ヒグマ)の・・・・羆=網(罒・横目・余拠目)+熊(能火
 皮七十枚を献上
 斉明天皇五年(659年)三月
 蝦夷国を討つ・・・蝦夷=蝸牛・海老・蝦蟇・・・洟垂
          夷=一+人+弓=えびす・えみし・えぞ
                 恵比須・恵美子・重蘇
 阿倍比羅夫=官位は「大錦上」=大(おほ)の
                錦(にしき)の
                上(うえ・かみ・ジョウ)
 は
 一つの場所に
 飽田・渟代二郡の
 蝦夷241人とその虜31人
 津軽郡
 蝦夷112人とその虜4人
 胆振鉏の
 蝦夷20人
 を集めて饗応し禄を与える
 後方羊蹄・・・語法(誤報)・要諦
     ・・・後志(しりべし)幼帝
 に郡領を置く
 粛慎(シュクシン・みしはせ・あしはせ)
 と戦って帰り
 虜49人を献じる
 斉明天皇六年(660年)三月
 粛慎を討つ
 比羅夫は
 大河(石狩川、or 後志利別川
 のほとりで
 粛慎に攻められた
 渡島の蝦夷に助けを求められ
 比羅夫は粛慎を
 幣賄弁島(へろべのしま=樺太 or 奥尻島
 まで追って彼らと戦い
 能登(のと)馬身龍(まむたつ)?
       noteの「バシンリュウ=葉晋留」?
 が戦死するが
 これを破る
 斉明天皇六年
 (660年)
 五月・・・660年、百済滅亡
 ↓↑   唐の蘇定方将軍
      熊津道大総管となり
      城山から渡海し
      熊津口に上陸
      沿岸の百済軍を撃破し
      真都城に進軍
      百済義慈王の太子の
      隆は高句麗に逃走
      泗沘城は包囲され
      義慈の子の
      泰が王を称し
      抗戦を続けようとしたが
      義慈は開門、降伏
      百済将軍の
      禰植と義慈は唐軍に降り、泰も捕らえられ
      百済滅亡
      百済王義慈や隆・泰らは東都洛陽に送られた
 ↓↑   ↓↑
      蘇定方(592年〜667年)・・・・「蘇・我」氏?
      名は烈・字は定方・諡を荘
      本貫は
      冀州武邑県・・・キシュウ・ブユウ・懸
      父は
      蘇邕
      隋末に
      蘇邕は郷里の数千人を率いて
      劇県の叛乱軍の
      張金称・楊公卿らを撃破
      定方は15歳で父の下で従軍
      後
      竇建徳の部将の
      高雅賢の養子になった
      657年
      蘇定方は
      伊麗道行軍大総管に抜擢され
      西突厥の王(可汗)
      「阿史那賀魯(あしな がろ・あしだ かろ)
       阿史那劫越の子
       可汗号は
       沙鉢羅可汗(イシュバラカガン)」
      と戦い、
      石国に逃れた可汗を拘束
      功績により
      左驍衛大将軍に任ぜられ
      邢国公に封ぜられた
      子の
      蘇慶節も
      武邑県公に封ぜられた
      659年
      蘇定方は
      遼東道行軍大総管
      平壌道行軍大総管
      高句麗の軍を
      浿江で破り
      馬邑山の敵営を陥落させ
      平壌を包囲
      大雪で包囲を解いて帰還
      涼州安集大使に任ぜられて
      吐蕃や吐谷渾とも戦った
      667年に76歳で死去
      高宗は、
      左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈
      高句麗
      武将・淵蓋蘇文の死後、内部紛争
      668年11月・・・十一月・・・
      新羅と唐の連合軍に滅ぼされた
      「百済」と「高句麗」は
      同族の祖先の「扶余」族
      「新羅」は「倭」と同族か?・・・
      ・・・「燕・遼・女真」もみんな同族近親?
 ↓↑      
 蝦夷50人余りを献じる
 粛慎の37人を饗応・・・?
 白村江の戦い
 662年
 中大兄皇子天智天皇)の命で
 征新羅将軍として
 百済救援のために
 朝鮮半島に向かった
 663年
 新羅と唐の連合軍に
 「白村江の戦い」で敗北・・・
  ↓↑
 天智十年(671年)十一月十日
 「沙門 -道久(ドウク)
  筑紫君-薩野馬(さつやま・さやま)・・・さつま
  韓嶋 -勝裟婆(かっさば・すぐりさば)
  布師 -首-磐(いわ)」
  ↓↑
 壬申の乱
 天武天皇元年六月二十四日〜七月二十三日
 (ユリウス暦 672年7月24日〜8月21日)
  ↓↑
 持統四年(690年)十月二十二日
 「土師-連-富杼(ほど)→意富富杼王(おお-ほど-の-おおきみ)
  氷 -連-老(おゆ・おひ)
  筑紫-君-薩夜麻
  弓削-連-元寶の兒・・・弓削-連-元の寶兒?
  四人」
 「軍丁
  筑紫國
  上陽竎郡人
  大伴部-博麻(はかま)」・・・
 「汝、獨淹滯他界、
  於今、卅年矣」・・・
 「お前は、一人外国に長く留まり、
  今年で30年」・・・690−663=27・・・27年
ーーーーー
 1872年
 闕字の廃止令
 が、
 闕字の慣行は復活
ーーーーー
 漆=うるし=得るシ・宇留志
   有留氏=「有留=ありとめ・ありどめ・うる」氏
 蒔絵(まきえ・ジカイ)
 彫漆(ほりうるし・チョウシツ)
 蒟醤(きんま・クショウ)
 沈金(チンキン)
 螺鈿(ラデン)
 平文(ひょうもん・ヘイブン)
 堆錦(ついきん・タイキン)
 ↓↑
 蒔絵(まきえ)
 漆で文様を描き、金粉などを降り掛け、
 文様部分に固着させる技法
 ↓↑
 彫漆(チョウシツ)
 厚く塗り重ねた漆に文様を彫る技法
 表面の色の違いにより
 堆朱(ツイシュ)
 堆黒(ツイコク)
 がある
 中国の漆工、
 紅花緑葉は応用した技法
 ↓↑
 蒟醤(きんま)
 塗り重ねた漆に文様を彫り、
 色漆を塗り込んでから研ぎ、
 平面的な文様を描き出す技法
 東南アジアで盛んに用いられている。
 タイ国の植物の実の名称
 蒟蒻(コンニャク)
 ↓↑
 沈金(ちんきん)
 漆を塗った器物の表面に文様を彫り
 金箔や金粉を塗りこむ技法
 中国の技法、戧金(ソウキン)に同じ
 ↓↑
 螺鈿(らでん)
 文様の形に切った夜光貝等の貝殻を貼り付け、
 さらに漆を塗り研ぎ出す技法
 ↓↑
 平文(ひょうもん)
 金属(金、銀、錫等)の薄い板を
 文様の形に切って貼り付け
 さらに漆を塗り平坦に研ぎ出す技法
 金貝(かながい)ともいう
 漆と金属の高低差があると
 平脱(へいだつ)となる
 平文、平脱は同じ意味で取られている・・・
 ↓↑
 堆錦(ツイキン)・・・堆=十+一+隹
    堆(つもる)=タイ=碓(うす)
    碓=石(一ノ囗)+隹・・・囗(くに)・口(くち)
                囗=エ・イ 口=コウ・ク
      からうす(加羅臼・殻ウス)
      足の力や水の力で穀物をつくウス
      ふみウス
    錦(キン・にしき)=金白巾=綿(メン・わた)
    堆=タイ・ツイ・うずたかい
      渦(うず)たかく積み上げる
      堆積・堆肥
      ツイ・いくつも重ねる
      堆朱(ツイシュ)=地固めした
      素地(きじ)の上に朱漆を数十回以上
      塗り重ねて層を作り
      乾燥後これに文様を彫刻したもの
      堆紅 (ツイコウ)=彫漆の一
      朱漆を何度も厚く塗り重ねる過程で
      黒漆の層を入れ
      彫り目の断面の朱色地に
 ↓↑   黒い筋が表れるようにしたもの
 堆錦(ツイキン)
 琉球(沖縄)漆器特有の技法
 漆と各種の顔料を練り合わせ
 これを押し広げて型にはめるか
 または切り取って文様を作り
 漆器の表面にはりつけるもの
ーーーーーー
 ・・・「波多(はた・秦・幡・波多)氏は、平安末期から肥前松浦地方で活躍した上松浦党の最大の一族で、東松浦郡 波多村を中心に佐志氏から分かれて成立・・・
 ↓↑
 波多氏は
 源久の二男持の子孫
 室町時代
 波多氏は、
 松浦一族である
 佐志氏、呼子氏、鴨打氏、塩津留氏
 らと共同して海外交易を行った・・・
 波多氏は現在の北波多付近を根拠地とし、
 岸岳城を本拠に勢力を拡大・・・
 松浦一族である
 佐志氏・・・佐志 房(さし ふさし)
 (さし)  ?〜文永十年(1274年)十月
 ↓↑    鎌倉時代中期の武将
       松浦党肥前国松浦郡佐志村の地頭
       鎌倉幕府より将軍家下文を受け
       東国御家人に準ずる存在として地頭を務める
       元寇において
       文永十年(1274年)十月十六日
       文永の役
       佐須浦で
       3万数千人の蒙古軍と
       松浦党松浦郡
       戦った・・・
       佐志房と子息の
       直(なおす)、留(とむる)、勇(いさむ)
       は討ち死
       後、遺領をめぐって
       直の子、「熊太丸」
       と
       勇の娘、「久曽(くそ)」
       が争っている
 ↓↑   (『有浦文書』弘安2年10月8日関東下知状)
 呼子氏・・・松浦党の勢力下にあり
 (よびこ) 倭寇の根拠地
 ↓↑    佐賀県北西部、東松浦郡にあった
       唐津市の北西端部を占める地域
       東松浦半島の北端、玄界灘の加部(かべ)島、
       小川島を含む
       加部島とは呼子大橋で結ばれる
       玄武岩台地を背にした溺(おぼ)れ谷に
       呼子港があり、加部島が防波堤をなす
       古来、壱岐対馬を経て
       朝鮮に至る最短コースの要津
       豊臣秀吉
       近くの名護屋築城
       小川島はかつて玄海捕鯨基地
 ↓↑   『呼子町史(1978・呼子町)』
 鴨打氏・・・松浦一党に属・波多持の子、至が鴨打を称した
 (かもち) 後鳥羽院の御宇、至は上洛し禁中の警固で
 ↓↑    院が飼われているいる鴨のところへ
       一羽の新鴨が飛び来って
       双方嘴合戦に及んだ
       至は走り寄って、
       扇で新鴨を打ち、院の鴨を守った
       これを愛でた院は
 ↓↑   「鴨打」の名字を与えて、美濃守に任じた
 塩津留氏・・戦国初期の文明四年(1472)
       壱岐を分割知行していた
       志佐・佐志・呼子・塩津留氏に対し
       岸嶽城主、波多泰が攻撃しこれを滅し
       壱岐の城主となった波多泰は
       亀丘城に修築を加え
       一族の
       阿波守某を代官として壱岐を支配させた
       永禄八年(1565)
       日高甲斐守政が
       波多政を据えて全島を支配
       江戸時代、平戸松浦藩壱岐城代が館を構え
       支配の拠点とした
       朝鮮王朝は
       倭寇沈静化の一策として
       倭寇禁圧に協力的な西国諸勢力、
       倭寇自体に通交権を与え、
       平和的通交者へと懐柔した
       塩津留氏は壱岐牧山氏から通交権を譲り受け
       牧山氏名義の偽使通交も行った
 ↓↑
 らと共同して海外交易を行ったが、
 港は他氏が押えていたため、十分な海外交易を行えなかった
 他方、佐志氏、呼子氏、塩津留氏らは
 壱岐島を分割支配し、
 波多氏を尻目に海外交易で利益をあげていた・・・

 文明四年(1472)
 「波多」下野守「泰」は
 壱岐島を不意に
 志佐、佐志、鴨打、呼子、塩津留
 の松浦党の五氏、
 佐志氏らの代官を追い払い
 壱岐島支配下におき
 以後、
 波多氏は
 岸岳城に拠り、
 壱岐島の海外交易をもって
 戦力・財力ともに他の
 上松浦一族を圧する存在に成長・・・
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 北海道(蝦夷)探険の
 「松浦武四郎」は
 「松浦一族」だったであろう・・・