2409日目・・・「2017/11/17/金」・・・目を覚まして窓から外を眺めたら50〜60?くらいの積雪・・・空は真っ蒼で眩しいお天道さま・・・兎に角、外に出て家の周りの雪投げ、雪掻きをしなくちゃぁと・・・玄関からの通り道はスベテが塞がれ、モチロン庭の通り道も・・・それに積雪の朝にはイツモは街の除雪車で公道は除雪されているハズだが、役場の手が回らなかったらしい・・・乗用車のタイヤの轍(わだち)で狭い道筋がつけられているだけ・・・外で出逢ったお隣の御主人も朝の早くから雪投げで、今現在は二回目の除雪仕事を


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 劉仁軌 伝
 ↓↑
 劉仁軌
 660年〜663年の
 「唐・新羅」vs「百済・倭の戦争」
 に関わった人物
 「旧唐書・巻八十四巻・列伝三十四」
 の
 「劉仁軌伝」
 ↓↑
 俄(にわ)かにして、
 余豊=扶余豊(フ-ヨホウ)、
 (鬼室)福信
 を襲って殺し、
 また遣使して
 高麗および倭国に往かせ、
 兵を請わしめて
 以って官軍(唐軍)を拒めり。
 右威衛将軍
 孫仁師・・・孫(まご)の仁(ひとし)の師(出師・水師)?
 に詔して、
 兵を率い、海に浮かび、
 以って之の援けとなさしむ。
 孫仁師、
 既にして
 劉仁軌・・・劉(リュウ)の仁(ジン)の軌(軌道)
 等と相合い、
 兵士大いに振るえり。
 ↓↑
 余豊=扶-余豊(フ-ヨホウ)
 は
 百済三十一代
 義慈王の子で
 扶-余隆(フ-ヨリュウ
     ・・・扶(たすけ)余(あまり)隆(隆盛)
 の弟
 倭国に人質(虜)となって滞在
 故国(百済)の危機のため
 帰国していた
 「日本書紀舒明天皇紀」
 三年(631)三月条
 「百済義慈王
  王子・豊章を入質せしむ」
 「天智天皇紀・元年(663)」
 「正月、
  百済
  佐平
  鬼室福信
  に
  矢を十万隻、
  糸五百斤、
  綿一千斤・・・(略)、を賜う
  ↓↑
  この月、唐人・新羅人ら高麗を撃つ
  高麗、救いを国家(倭國)に乞う」
 とあり、・・・「唐+新羅」vs「高麗+倭國+百済
 「五月、
  大将軍
  大錦中・・・・大錦(おおにしき)の中(なか)?
          錦江=白村江=熊江・・・???
  阿曇(あづみ)-比羅夫-連・・・曇=づみ=連視・積・罪・詰
  ↓↑  曇(くもり)=雲で空が覆われている状態で
             降水や雷のない天気状態
             透明なものや
             光をよく反射するものなどが
             曇ってぼんやりすること
      曇(くもり)雲=層積雲の俗称
        白、灰色の雲が塊をなしている状態
      曇=ドン・タン
        くもり・くもる・どんより重苦しくくもる
        つやがなくなる・心配
        悲しみなどのため、暗いようす
  ↓↑    カガミ(鏡・鑑)のクモリ(雲・翳・蜘蛛蜊)
  ら、
  船師・・・水師・提督=底努句
  百七十艘・・・170艘(嫂)・・・壱百七足=壱百漆拾
              嫂=兄嫁に対する直接の呼びかけ
              嫂=女+叟=ねえ-さん・あね-さん
        「壇の浦・義経八嫂飛び」の歌舞伎のビラの
         題字は「義経八嫂飛び」?
        「さん」=「接尾」の「さま=様」の音変化?
         様=十+八+羊+水=樣=十+八+羊+永
         様(樣)子をミル
         人名・役職名・団体名などに付いて
         尊敬の意を表す
         動物名などに付いて、親愛の意を表す
        「お嬢さん・佐藤さん・部長さん・お猿さん」
         体言または体言に準ずる語に
        「お・ご(御)」を冠したものに付いて丁寧語
        「品・色・物品の質や種類」の多種多様
        「〜のごとくに・〜のように」
         日本のみで使用
        「さま」
        「姓名、職名などの下につける敬語」
        「語の下 につけて丁寧に言う言葉」
        「将来そのようにアレと希望する語」
        嘆きや悲しみの哀悼の「ご愁傷様」
        「きまった 形式・かた・手本・様式・仕様」
        「様=樣」
        「さま・ありさま・かたち・様子・状態・同様」
        「のり(法律)・手本」
        「鋳型・雛(ひな)形」
        「あや=綵」、「模様」
        「語の下につけて丁寧に言う言葉・ご苦労様」
        「ゆえ・わけ」
        「こと・物事」
        「ざま・ありさま」
         様の類語
  ↓↑    「君(くん)・氏(し)・殿(どの)」
  を率いて
  豊章らを
  百済国に送る」
 とある
 ↓↑
 扶余隆
 水軍および糧船を率い
 熊津江
 より
 白江
 に往き、陸軍と会し、
 同じく
 周留城に趣く趣けり。
 仁軌、
 白江の口において
 倭兵に遇い、
 四戦にかち、
 その舟400艘を焚けり。
 煙焔は天に漲り、海水みな赤く、
 賊衆大潰せり。
 余豊、
 身を脱して走れば、
 その宝剣を獲たり。
 偽りて
 王子
 扶余忠勝・忠志
 ら士女および倭衆ならびに
 耽羅国を率いて使いし、
 一時に並びて降りれり。
 百済の諸城はみな帰順すれど、
 賊師
 遅受信、・・・・「遅(遅れる)受信」って?、名前か?
 任存城に拠りて降りざりき。
  ↓↑
 麟紱元年(664)正月16日
 雲中都護府
 単于都護府と改称
 殷王
 李旭輪を単于大都護とする
 かつて李靖が突厥を破った時、
 三百帳を雲中城へ移し、
 阿史徳氏をその長とした
 それ以来部落は次第に人が増えて行った
 阿史徳氏が闕を詣でた時、
 胡法に則って親王を可汗に立て
 これを統率するよう請願した。
 高宗皇帝は、召見して、言った。
 「今の可汗は、昔の単于だ。」
  こうして単于都護府と改称され、
 殷王へ遙頒させたのである。
 ↓↑
 5月
 劉仁軌は
 郭務悰を首班として
 対馬
 筑紫から
 倭国に上陸させて事後処理
 10月6日
 検校熊津都督
 劉仁軌が上言
 高宗皇帝は、これに従った
 扶余隆を
 熊津都尉とし
 その余衆を招かせた・・・
ーー↓↑ーー
 438年
 倭王珍が宋に朝献
 自ら
 「使持節都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓
  六国諸軍事安東大将軍倭国王
 と称し、正式の 任命を求める。(『宋書倭国伝)
 4月
 宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀
 珍はまた、
 倭隋ら
 十三人を
 平西・征虜・冠軍・輔国将軍
 にされんことを求め、許される。(『宋書倭国伝)
 451年
 倭王済
 宋朝
 文帝から
 「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓
  六国諸軍事」
 を加号される。
 安東将軍はもとのまま。(『宋書倭国伝)
 七月
 安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀
 477年
 倭王武は自ら
 「使持節都督倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓
  七国諸軍事安東大将軍倭国王
 と称する。(『宋書』倭 国伝)
 478年
 順帝、武を
 「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓
  六国諸軍事安東大将軍倭王
 とする。(『宋書』順帝紀倭国伝)
ーー↓↑ーー
 百済
 近肖古王・・・百済の第十三代の王
       (在位346年〜375年)
        第十一代の
        比流王の第二子
 の建国
 346年
 〜
 高句麗
 に滅ぼされる
 475年まで
 熊津
 再興の
 475年
 〜
 泗沘に
 遷都する
 538年まで
 泗沘への遷都〜滅亡する
 660年まで
ーー↓↑ーー
 「百済
  高句麗に敗れたと聞き、
  雄略天皇
  久麻那利(くまなり・熊津)を
  文周王に与えて
  百済を復興させた」
 倭国
 雄略天皇
 百済を復興させた・・・
 「熊津の土地」
 「久麻那利・・・くまなり=熊也=熊名理=球磨名里
         「高麗(狛)那の里」?
  は
  任那国・・・・みまな國
  の
  下-哆呼利-県・・・久麻那利(こむなり)
           下-哆呼唎-県(シモ タコリ コオリ)
  の
  別邑なり」・・・別の邑(むら・さと・くに)
 倭国任那)が支配していた
 任那国(倭国)の土地の一部
 ・・・半島の南東部(慶尚南道
     慶尚南道
     北は慶尚北道
     西は全羅南道
     北西部は全羅北道
     慶尚南道の南側は対馬海峡
     北部に大邱広域市
     北東部に蔚山広域市
     東南部に釜山広域市
     道庁所在地は昌原(チャンウォン)
     他
     馬山(マサン)、晋州(チンジュ)
     鎮海(チンヘ)、統営(トンヨン)
     泗川(サチョン)・・・1995年5月10日
                三千浦市+泗川郡
                泗川市が発足
     金海(キムヘ)・・・金海加羅
               朝鮮古代の加羅諸国中の有力国
               別名
               金官加羅
               大伽耶
               狗邪(くや)国
               狗邪韓国
               駕洛(から)国
               任那(みまな)加羅
               任那
     密陽(ミリャン)
     巨済(コジェ)
     梁山(ヤンサン)
 雄略天皇
 百済・・・全羅南道全羅北道
 の
 文周王に
 熊津・・・・・・・・・・半島の南東部→熊津=熊川?
 を与え
 復興させた・・・
 雄略天皇倭王武
 は
 477年
 自らを百済を含めた
 安東大将軍と主張
 しかし
 順帝は
 百済を含めなかった・・・
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 ↓↑
 罷(まか)る=罒+能
        朝廷などの意向を受けて
        地方または他所へ行く
 罷=罒(網)+ム+月(肉・舟)+匕+匕
   罒=横目
   ↓↑
   能(よく)・熊(くま)・羆(ひぐま)・態(タイ)
   くま=球磨・久萬・隈・隅・阿・嵎・粂
   ↓↑
   匕
   左右反転した人の字(右向きの人の形の象形)
   並ぶというような意味・・・
   「匕、亦た比を用(もつ)て
    飯を取る所以なり。一名、柶」
   「さじ(匙)・しゃもじ(杓文字)の象形
   「妣」の初文であり
   「死亡した母親・亡き母なり」の意味
   「牝の匕は女性器」
   匕(さじ・ヒ)=右向きの人・さじ・小刀
     ヒ、七、七とは別字
   さじ(匙=匕)を投げる
   ・・・調薬で病人を救う方法がもはや無い
    異体字
    枇・鈚・比・牝
    声符「匕」
    化・牝・㠲・齔・疕・此・尼・魚+匕
    匕七匙頃傾真(眞)老
   ヒ(カ・クワ)=説文に
       「變ずるなり・到人に從ふ」
        とあり人を逆さまにした字で
        化の初文
        人の死を表す
        意符
        匕を意符に持つ漢字は
        比、北、㫐、頃、旨など
        匕を声符とする漢字は
        牝、旨、尼(会意説)
        疕、㠲、𩵏など・・・
        匕と七は混同し易い
        匕は匕首(短剣)の匕として用いる
   ↓↑   七の場合は化する意
   匕鬯(ヒチョウ)を喪(うしな)わず
   震は百里を驚かせども
   匕鬯を喪(うしな)わず
   震為雷=震は雷 、突発して起こる変動
   ↓↑  匕鬯の
      「匕(ヒ)」は
       神霊に供物を奉ずる匙
      「鬯(チョウ)」は
   ↓↑  儀式に使う香酒
   語彙
   匕首
   ↓↑
   匕首(あいくち・ひしゅ・ビーショゥ)
   合口(あいくち)=鍔(つば)の無い短刀
   日本語は「合口」
   中国語の「匕首(ひしゅ、ビーショゥ)」
   と混同された
   本来の「匕首」は、その形状・定義も
   合口とは厳密には異なる
   日本での用例
   合口(あいくち)=鍔が無いために
   柄と鞘がぴったり納まる様子から来て
   懐に隠せる合口はヤクザや博徒
   喧嘩道具に重宝された
   ドスが俗称
   ↓↑
   鏃(矢尻)
   銃刀法において
  「あいくち」は
  「刀」や「剣」等とは異って
   刃渡りに関わらず「刀剣類」に分類
   所持の規制及び処罰の対象
   中国での用例
   匕首は、古代から使用されている
   暗器(身につけられる小さな武器)で
   横から見たときに
   匙(さじ)のような形の刃先を持つ短刀
   用途は暗殺用・・・
  「匕首」は暗殺の道具
   ↓↑  
 罷=やめる
   中止する・廃止する
   罷買同盟
   しりぞける(引き下がらせる・追い返す)
   解雇する(罷免)
   許す・釈放する
   帰る
   つかれる(疲)
   疲れてやるきがなくなる(罷弊)
   病気になる
   にぶい・おろか(罷士)
   弱い
   きわまる(罷極)
   まかる
   退出する・去り帰る
   来る
   行く
   死ぬ
ーー↓↑ーー
 ・・・???・・・
 切羽詰られ=物事が差迫って、どうにも切抜けられなくなる
 ↓↑    追いつめられて全く窮する
       切羽は鐔(つば・鍔)を
       刀身に固定させるために
       柄とハバキの間に挟み込む卵形の薄い銅板
       切羽により挟み込まれた鐔が
       固定されている状態に譬え
       身動きのとれない様を
       切羽詰まると云う
 ↓↑    ハバキ=鎺・鈨・はばき
          =日本刀の部材の一つ
           刀身の手元の部分に嵌める金具
           鎺金 (はばきがね)
          「鎺」は国字
           はばきがね
           人が脛巾(はばき)をはいた形に似て
           刀剣などの刀身が鍔(つば) に
           接する部分に
           嵌(は)める鞘口(さやぐち)形の金具
           刀身が鞘から
           抜け落ちないようにするためツメル
           鞘(さや)の中で刀身は
           鞘(さや)に触れることなく
           浮かせるモノ
           はばき=刀の根元をしっかり締めくくり
           刀身がぐらぐらして
           鞘(さや)に当たらないように
           支える役目をしている
 ↓↑    はばき=脛巾・行纏=旅行や作業などの際
           脛(すね・臑)に巻きつけ
           紐(ひも)で結び、
           動きやすくしたもの
           古くは藁(わら)や布で作った
           後世の脚絆(きゃはん)
 ↓↑        脛巾裳(はばきも)
 つめる(詰める)・なじる(詰る)
 詰問
 反詰・喬詰・查詰・盤詰・研詰・究詰・維摩
 詰責・詰難・責詰
 詰屈・詰屈・詰屈聱牙・詰旦・詰曲・詰禁・駁詰
 ↓↑
 「刀=かたな=片名」の
 「鞘(さや・ショウ)=革+肖」
          ・・・「肖古王=照古王」?
 ↓↑
 自然乾燥で10年以上寝かした
 朴(ほお・パク)の木を使用
   ・・・朴市=朴市 秦    田来津
        (えち はた の たくつ)
      ?〜天智天皇二年八月二十八日
(663年10月5日)
      氏は秦、朴市とも・・・朴市=愛智
      姓は造
      大花上・秦河勝の子・・・
      645(大化元)年
      古人大兄皇子
      蘇我田口川堀
      物部朴井椎子
      吉備笠垂
      倭漢文麻呂
      らと共に、改新政権に対する
      謀反計画の謀反に加わったが
      吉備笠垂
      の裏切りによって失敗
      皇子は殺害された?・・・
      兵は向けたが皇子を殺害したかどうか?
      ・・・で、
     「朴市-秦-田来津」は許された・・・?
      ↓↑
      662(天智元)年
      小山下の位
      秦田来津
      は
      狭井梹榔=さいのあじまさ=狭井檳榔・・・?
      ↓↑      ↓↑  
          梹(木兵)=檳(木賓)→兵=賓
      ↓↑  青森県東津軽郡
          外ヶ浜町三厩
          梹榔(字)
          ↓↑
          賓客=敬って
             もてなすべき客人
             訪れて来た人
          嬪=女+賓=天皇の寝所に侍する女官
          ↓↑皇后・妃・夫人の下位で
            四位・五位の者
            後世の
            女御(にょうご)・更衣(こうい)
          ↓↑
          賓県(ヒン-ケン)
          中華人民共和国
          黒竜江省ハルビン市に位置する県
          県人民政府の所在地は
          賓州鎮
          漢晋代は「挹婁」
          南北朝時代は「勿吉」
          隋代は「靺鞨」の居住地
          唐代は「渤海」の版図
          968年
         「渤海」滅亡
         「遼」により
          東京道・・・その後
         「金」により上京会寧府
         「元」は遼陽省開元路
         「明」は奴儿干都司
          を設置
         「清」初はニングタ将軍の管轄区
          1744年(乾隆九年)
          ラリン・アルチュカ副都統の管轄
         (拉林  阿勒楚喀)
          1880年(光緒六年)
          賓州庁が設置
          1909年(宣統元年)
          賓州府に昇格
          中華民国成立で
          1913年(民国二年)
          賓県と改称・・・
          当初は吉林省の管轄
          1945年(民国三十四年)
          松江省に
          1954年
          黒竜江省に移管
      ↓↑  ↓↑
          檳榔・蒲葵・梹榔
          ヤシ科の常緑高木
          暖地の海岸付近に生え
          シュロ(棕櫚)に似る
          高さ10メートル近く
          葉は大きな扇状で柄が長く
          幹の頂に多数集まってつく
          花は黄色で小さく
          果実は楕円形で青色
      ↓↑  ↓↑
          檳榔子・梹榔子
          檳榔樹の種子
          健胃
          収斂(シュウレン)
          ↓↑・・・縮むこと・引き締まること
          ↓↑   一つにまとまること・集約
               租税などを取り立てること
               生物学で
               系統の異なる生物どうし
               近似した形質をもつ
               方向へと進化する現象
          ↓↑   相近・収れん
          条虫駆除
          などの薬用
          暗黒色の染め物の染料に使用
      ↓↑  古名、
      ↓↑  あじまさ・・・阿字正・阿字眞差
                 庵治倭・蛙詞眞作?
      ↓↑  ↓  ↑
      ↓↑  阿島 さッ?・・・阿毎王朝の島(横島)
          味鋺 さッ?
          名古屋市北区
          味鋺あじま)は元は悪地で
          湿地帯の悪しき地・・・?
         「鋺(かなまり)」=「金の椀」
                  =「金物の椀」
                  =「仮名モノの話夢」
      ↓↑  ↓↑
      ↓↑  檳榔毛の車・梹榔毛の車
      ↓↑  檳榔の
          葉を
          細かに裂き
      ↓↑  白く
          晒(さら)したもので
      ↓↑  車の箱を
          覆(おほ)った牛車
      ↓↑  大臣以下、四位以上の
      ↓↑  公卿 ・女房・高僧が乗った牛車
      と
      兵五千を率いて
      百済王子
      豊璋
      の帰国に従って
      百済渡航
      王位についた
      豊璋
      と
      鬼室福信は
      都を山害の地である
      州柔から
      平地で農業生産力の高い
      避城へ遷そうと議したが
      田来津は避城は敵に近く
      平地での防衛に不向きして反対
      二カ月後
      避城で
      新羅の攻撃を受け
      州柔に撤退
      ↓↑
      663(天智二)年
      白村江で
      唐水軍に大敗
 ↓↑   戦死
 朴(ほお・パク・ボク)の木は油気がなく
 磁気を遮断する特性があり
 固すぎず、
 あく(灰汁)がないので
 刀が錆びない
 ↓↑
 「え の き=榎=朴」
 「榎(十八夏・十八一ノ目夂)・榎木」
 「榎=えのき=朴市(えのち・えいち)」?
 「ニレ(楡)科の落葉高木
  高さは20メートル
  葉は左右不同の広卵形・雌雄同株
  春に葉とともに淡黄色の小花を数個ずつつける
  小核果は熟すと橙色になり食用
  材は器具・薪炭などに使用
  昔は街道の一里塚に植えられた
  古名は「え」
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 ・・・???・・・