2003日目・・・「3月11日のその後」・・・「復興増税納得」だけれど、「配分」には難しい問題も・・・「高台への集団移転」には時間がかかるけれど、五年間の生きて行く時間での未来的生活空間の決定は、個々人の「私有財産の使い方の選択」でもあるから、そう簡単ではない・・・「津波からの安全地帯」への高台移転・・・?・・・「鷣(ハイタカ)神社の石段。高知県宿毛市大島。1995年(平成7年)再建」の写真(ウイッキペデア)には津波の標識(石段には宝永地震津波では39段目まで浸水、安政南海地震では7段目)が掲げられてい

 以下、参照、参考として「山本尚明」氏の論文を断りも無く、少々改作、部分を抜粋添付したモノです・・・申し訳ありません・・・
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 瀬戸内海の
 歴史南海地震津波について
 防災&環境工学研究所
 山本尚明
  ↓↑
 原文
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/23-Yamamoto.pdf
  ↓↑
 瀬戸内海沿岸に来襲した歴史地震津波
 南海地震津波の被害を繰り返し受けてきた
 和歌山県
 徳島県を除き
 他の9府県の沿岸では
 津波の規模や被害の程度も小さい。
 瀬戸内海9府県、瀬戸内海の沿岸では
 津波に関する
 古文書等の記録も
 太平洋沿岸に来襲した津波に比べて格段に少ない・・・
 瀬戸内海沿岸に来襲した
 歴史地震津波に関しては関心も薄く
 その実態は余り知られていない。
 津波の数値シミュレーションを
 実施するうえで必要な断層モデルが提案
 三つの南海地震津波
 (1707 年宝永
  1854 年安政南海
  1946 年昭和南海)
 を取り上げ
 瀬戸内海沿岸の津波高について取りまとめた。
 また,一例として、
 古文書の記録が得られていない
 瀬戸内海の西部に
 位置する任意地点を選定して
 津波の数値シミュレーションを実施し
 各地震津波
 および
 津波の波源域
 を移動させた場合の
 津波高をそれぞれ把握・・・
  ↓↑
 1854年安政南海地震津波
 瀬戸内海の本州沿岸の
 津波高は、東部に位置する
 大阪府で2.4〜3m程度
 兵庫県では2〜3m程度
 1707年宝永地震津波と同様に
 両県とも最高3m程度
 岡山県では1〜2m程度
 広島県では1〜1.5m程度
 山口県でも 1〜1.8m
 と、津波高の分布パターンも
 1707 年宝永地震津波とほぼ同様に
 西低東高の傾向が見られる。
 四国沿岸の津波高は
 香川県で 1〜1.5m程度
 愛媛県では 1〜2.5m程度と推定され
 伊予灘に面する
 愛媛県伊予市が2.5m程度
 松前町が2m程度
 と、この付近は
 四国の他の沿岸に比べて
 津波高が若干高くなる傾向
 九州沿岸の
 大分県では
 津波高が1.5m程度と推定され
 瀬戸内海の西部に位置する
 本州の広島県山口県、四国香川県
 津波高とほぼ同じである。
 1854年安政南海地震津波と前述した
 1707年宝永地震津波を比較して見ると
 津波高は概略同じ高さか
 1707年宝永地震津波の方が
 若干(0.5m程度)
 高くなっていることがわかる。
  ↓↑
 1946年昭和南地震津波
 1707年宝永地震津波
 1854年安政南海地震津波
 比べて津波の規模も小さく
 兵庫県淡路島の南端に位置する
 福良で観測された
 津波高2.1mを除き
 瀬戸内海全域の津波高は
 0.8〜1.2mと低く
 ほぼ一様である・・・
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 であるらしい・・・だが、この「津波の数値シミュレーションの高さ」には疑問ではあるカナ・・・いずれにしても津波は人びとの「低地平野での生活圏」を襲った・・・
 以下も、他のブログ記事の検索から添付したモノです・・・
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  ↓↑
 高地性集落
 日本の弥生時代中・後期に、
 平地と数十メートル以上の標高差がある、
 標高100メートルを超える
 高地の山頂部や斜面に形成された集落
 ↓
 弥生時代の集落遺跡は、
 周囲に濠をめぐらして
 外敵の侵入を防ぐ
 環濠集落が主たるものであり、
 これらはコメの生産地となる
 水田に近い平野部や
 台地上に形成されていた。
 それに対して、
 人間が生活するには適さないと思われる
 山地の頂上・斜面・丘陵から、
 弥生時代中期〜後期の集落遺跡、
 高地性集落の遺跡が見つかっており、
 「逃げ城」
 や
 「狼煙台」などの
 軍事目的の集落であった等、
 様々な議論が提起されている・・・
 ↓
 高地性集落の分布
 弥生中期に
 中部瀬戸内
 大阪湾岸に
 弥生後期に
 近畿とその周辺部にほぼ限定されている
 古墳時代前期には、
 西日本の
 広島・鳥取に、
 北陸の
 富山・石川・新潟
 に分布
 北部九州にはみられない集落
 集落遺跡の多くは
 平地や
 海を広く展望できる
 高い位置にあり
 西方からの進入に備えたものであり、
 焼け土を伴うことが多いことから、
 のろしの跡と推定されている
 ↓
 高地性集落
 弥生時代中期〜後期
 西日本に多い集落の一つ
 海や平野を
 眺望できる山頂や丘陵の尾根上につくられ
 火を焚いた跡
 石鏃が多量に出土
 弥生時代
 社会状況のなかで
 戦闘に備えた
 防砦・烽台の機能をもった遺跡・・・
 ↓
 弥生時代中期
 瀬戸内海
 大阪湾沿岸の
 丘陵・山頂につくられた集落
 兵庫県芦屋市会下山遺跡
 香川県三豊(みとよ)市詫間(たくま)町
 紫雲出遺跡では
 石槍・石鏃が多く
 軍事的緊張に対応した
 防御集落と考えられる・・・
 ↓
 稲作と低地居住が
 時代の趨勢の原史時代
 水田経営と日常の居住条件を犠牲にし、
 斜面の急な比高の高い所に
 営まれた異常ともみられる
 弥生系統の集落遺跡を
 「広義の高地性集落」とよんでいる。
 「狭義の高地性集落」は、
 展望がきく
 山頂や尾根筋とか、
 斜面の急峻な高い台地に立地し、
 武器的遺物や防備施設の遺構など、
 軍事的防衛機能をもつとみられる集落遺跡
 「高地性集落」とよぶときは
 狭義の高地性集落をさし、
 集落成立の主体的機能と、
 その後に生じた派生的副次機能をもつものとがある。
 高地への出現と消滅という
 垂直的遷移現象が
 特定の時期と地域に現れることがある
 分布は
 本州、四国、九州にみられるが、
 大部分は
 北部九州と
 畿内を結ぶ瀬戸内と四国に集中
 原因は、
 潜在的な自然環境の変化のほか、
 稲作前線の拡張や
 政治を背景とする軍事的緊張と緩和が作用
 遺跡の発掘調査からは、
 高地性集落が一時的というより、
 かなり整備された
 定住型の集落である・・・
 狩猟用とは思えない
 大きさの石鏃(石の矢尻)も
 高地性集落の多くから発見
 ↓
 高地性集落を山城のように
 軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている・・・
 高地性遺跡からも
 同時期の平地の遺跡とほぼ同じ内容の遺物が見つかっており
 単なる監視所・のろし台といったものではなく、
 かなりの期間、
 住居を構えた場所だったことも判明・・・
 ↓
 集落の分布状況から、
 弥生中期〜後期にかけて、
 北部九州〜瀬戸内沿岸〜畿内の地域間で
 軍事衝突を伴う
 政治的紛争が絶えなかったとの推測・・・
 畿内を中心とした地域で進められていた
 統合・連合への動きであった。
 豊中市勝部遺跡の木棺から
 石槍が背に刺さった遺体や
 石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見
 これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる
 弥生中期〜後期という時期に着目し、
 中国史書に見える
 倭国王の登場や
 倭国大乱との関連を重視する見方や、
 九州勢力の東進に対する備えと見る説もある・・・
 ↓
 環濠集落はほぼ
 弥生時代全期間を通じて存在した
 近隣のクニやムラとの戦いに備えたものであり、
 北部九州とヤマトのような
 遠く離れた地域間の戦いに備えたものでない・・・
 20世紀末期ごろからは、
 高地性集落を
 特殊な集落と捉えるのではなく、
 他の
 環濠集落
 や
 非環濠集落
 との関連性に着目し、
 地域の拠点となる
 拠点集落と
 その他の集落という関係で見直す動きも出ている。
 ↓
 高地性集落遺跡、
 香川県三豊市詫間町
 紫雲出山遺跡
 (しうでやまいせき、標高352メートル)、
 高松市岩清尾山古墳群
 (いわせおやまこふんぐん、標高232メートル)、
 愛媛県西条市
 八堂山遺跡
 (はちどうやまいせき、標高196.5メートル)、
 瀬戸内海に浮かぶ
 男鹿島(たんがしま)の山頂にある
 兵庫県飾磨郡家島町
 大山神社遺跡(標高220メートル)、
 神戸市伯母野山遺跡(標高130メートル)、
 芦屋市
 会下山遺跡
 (えげのやまいせき、標高185メートル)、
 城山遺跡(標高250メートル)、
 岡山市貝殻山遺跡(標高284m)、
 柏原市高尾山遺跡(標高280メートル)
 などがある。
 ↓
 高地性環濠集落
 新潟県神林村に所在する弥生時代後期後半の
 山元遺跡
 東北の文化圏では初めての環濠集落
 長辺100メートル以上、
 短辺約50メートルの広さで、
 深さ約1メートル、
 溝の断面は逆台形である。
 環濠外の
 土抗墓群から
 61点に及ぶ大量のガラス玉が出土
 ↓
 弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸の
 高地性集落は
 石鏃の出土量が顕著で、
 他の石製武器の存在も目立っている
 全ての高地性集落に
 防衛的性格を強調するのではないが、
 これらの地域の
 高地性集落は
 防塞としての役割が
 あったものと考えられている・・・
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 ・・・「津波からの安全地帯への移転」あるいは、「二重の予備集落」・・・?・・・以下も「ウイッキペデア」・・・
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 684年11月26日(11月29日)(天武13年10月14日)
 白鳳地震(天武地震
 M 8 1⁄4、死者多数。亥時(午後9時 - 11時頃)
 土佐で津波により大きな被害
 伊予湯泉(道後温泉)は埋没して出なくなり、
 田園(約 12 km²)が海面下へ沈下
 (『日本書紀』の南海地震の最古の記録)
 東海、東南海地震震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見
 887年8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日)
 仁和地震
 M 8.0 - 8.5、五畿七道諸国、京都・摂津を中心に死者多数
 津波あり
 東海、東南海地震震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見
 1099年2月16日(2月22日)(承徳3年1月24日)
 康和地震
 M 8.0 - 8.3、興福寺西金堂・塔小破、大門と回廊が倒壊
 摂津天王寺回廊倒る。死者数、
 津波記録は未確認、
 地殻変動で田千余町(約1,000ha)みな海に沈む
 この地震の2年2ヶ月前に
 永長地震発生(東海・東南海地震連動と推定)
 1361年7月26日(8月3日)
 (南朝:正平16年6月24日、北朝:康安元年6月24日)
 正平地震(康安地震
 M 8 1⁄4 - 8.5、死者多数
 摂津・阿波・土佐で津波により大きな被害
 摂津四天王寺の金堂が転倒し圧死者
 津波で摂津・阿波・土佐に被害、
 特に阿波の雪(由岐)湊で流失1,700戸、流死60余
 東海地震の発生は不明だが、同時期に東南海地震が発生・・・説
 東大地震研が調査した法隆寺の記録によると、
 淡路島の障壁にも関わらず、
 大阪市天王寺区でも海岸から
 4km以上に渡り津波が押し寄せた
 伊勢神宮の古文書でも当時の記録
 1707年10月28日(宝永4年10月4日)
 宝永地震(東海・東南海・南海地震
 M 8.6、
 五畿七道諸国、東海地方から九州東部の広い範囲が激震域
 この地震の49日後に
 富士山が噴火し
 宝永山(火口)ができる(宝永大噴火
 死者2万人余、倒壊家屋6万戸余
 房総半島から九州まで
 大津波が襲来し、大坂、土佐の被害が甚大
 青龍寺や久礼では
 標高25mの地点まで遡上
 道後温泉の湧出が145日間止まる
 1854年12月24日(嘉永7年11月5日)
 安政南海地震
 M 8.4、死者千 - 3千人
 紀伊・土佐などで
 津波により大きな被害(串本で最大波高11m)
 大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流
 道後温泉の湧出が106日間止まる
 この32時間前に
 安政東海地震東南海地震含む)が発生
 両地震による死者の合計は約3万人との説
 余震とみられる地震は9年間で2,979回記録(『真覚寺日記』)
 1946年(昭和21年)12月21日
 昭和南地震
 M 8.0、被害は中部以西の日本各地にわたり、
 死者1,330名
 家屋全壊11,591戸
 半壊23,487戸
 流失1,451戸
 焼失2,598戸
 津波静岡県より九州にいたる海岸に来襲、
 高知・三重・徳島沿岸で4〜6 mに達した
 室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、
 室戸で1.27m
 潮岬で0.7m上昇
 須崎・甲浦で約1m沈下
 高知付近で田園15km2が海面下に沈没
 道後温泉の湧出が38日間止まる
 山口県美祢市(旧美祢郡別府村、共和村)では
 秋吉台麓の厚東川沿いの低地に
 「口径1〜11m、深さ1〜5mの堆積地ドリーネが150余発生
 この地震の2年前、
 1944年(昭和19年)12月7日
 昭和東南海地震が発生
  ↓↑
 734年5月14日(5月18日)(天平6年4月7日)
 畿内七道地震
 津波の記録が確認されず、
 生駒断層帯の活動による内陸地震との説
 794年8月9日(8月13日)
 (延暦13年7月10日 - 巨大地震津波が発生と日本紀略の記述
 「宮中並びに京畿官舎及び人家震う。或いは震死する者あり」
 しかし
 「震死」は
 一般的に「雷に打たれて死ぬことを意味」し、
 地震ではないとも・・・?
 10世紀後半頃
 奈良県香芝町の
 箸尾遺跡に砂脈跡がある
 徳島県海陽町千光寺の
 『薬師如来出現図』には、
 永延元年5月(987年)に
 漁船が波に呑まれたとき
 薬師如来が現れて助けたという縁起伝承が描かれ、
 南海地震津波と考えられたことも有ったが、
 江戸時代後期に書かれたもの・・・
 1185年8月6日(8月13日)(元暦2年7月9日)
 津波と思われる記録から
 文治地震南海トラフ沿いの巨大地震とする説
 13世紀前半頃
 大阪府堺市
 石津太神社
 和歌山県箕島の
 藤波遺跡に
 南海地震によると思われる
 液状化現象の遺跡
 1233年3月17日(3月24日)(貞永2年2月5日)
 に諸国?で大地震の記録が存在・・・
 1408年1月12日(1月21日)(応永14年12月14日)
 応永地震
 京都・紀伊・伊勢で地震
 鎌倉に津波、熊野本宮の温泉の湧出が停止
 明応地震《1498年9月11日(9月20日)(明応7年8月25日)
 東海・東南海地震
 M 8.2 - 8.4、死者3万〜4万人以上と推定
 伊勢・駿河などで津波により大きな被害
 浜名湖が海と繋がり、
 伊勢大湊で家屋1,000戸、溺死者5,000人
 伊勢志摩で溺死者10,000人
 静岡県志太郡の『林叟院記録』で溺死者26,000人
 1498年6月30日(7月9日)(明応7年6月11日)
 中国・揚子江の水面を揺るがしたとされる、
 日向灘地震が南海地震に相当するとの説
 明応地震の73日前に発生し、
 南海地震東海地震に先行した例・・・
 安政地震後に起きた
 豊予海峡地震も上海付近を強く揺らした
 1520年3月25日(4月4日)(永正17年3月7日)
 永正地震
 京都・紀伊地震。熊野、那智で寺社が破壊
 津波
 1605年2月3日(慶長9年12月16日)
 慶長地震(東海・東南海・南海地震?)
 M 7.9〜8、関東から九州までの太平洋岸に津波
 房総半島・紀伊・阿波・土佐などで大被害
 八丈島でも津波による死者57人。死者1万〜2万人と推定
ーーーーー
 ・・・東海=トウカイ=倒壊・凍解・問うかい・・・訳得掛意・・・南海=ナンカイ=何回・何階・難解・・・何かい、名務歌意・・・???・・・清瀧・青龍・襲(おそう・かさねる・奇襲)・籠(駕籠・かご)・・・加護・・・