2036日目・・・連動地震・・・「丙申年」の「壬辰月」の「丁卯日」、「戊辰日」、「己巳日」・・・「地震」被災地のミナサン、なんとか、コラエテッ!・・・アメが優しく、カゼが穏やかに、大地が寝がえりをしない様に・・・祈りたい・・・「うどん屋」に嫁に行った「N・O」さんも、無事であることを・・・

ーーーーー
  ↓↑
 「丙申年」???
 2016年4月14日
 16年丙申・比肩
 04月壬辰・偏官―印綬・正官・食神
 15日丙寅
    支合
 22時己亥・傷官
  ↓↑
 2016年4月15日
 16年丙申・劫財
 04月壬辰・正官―偏印・偏官・傷官
    害
 15日丁卯
    三合乙
 22時辛亥 
  ↓↑
 2016年4月16日
 16年丙申・・・
 04月壬辰 |
    刑 |
 16日戊辰 |
    三合壬
 00時壬子 |
ーーーーー
 ↓↑
 1956年(昭和31年)
 丙申年
 ↓↑
 1896年(明治29年
 丙申年
 6月15日明治三陸津波(死者2万名)
 7月22日信濃川の堤防各所が決壊
     被災面積18000haに及ぶ(横田切れ)
 8月31日陸羽地震発生(209名の死者)
     山崩れ9899箇所
 ↓↑
 1836年(天保7年)
 申年がしん(さるどしがしん)
 鳥取藩における
 「天保の大飢饉」の呼称
 「がしん」とは、各地の方言で
 「餓死」が転訛した飢饉を表す言葉
 鳥取藩内における飢饉が
 本格化した
 1836年(天保7年)
 が申年であったことから、この名で呼ばれた
 ↓↑
 天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)
 1833年天保4年)に始まり、
 1835年〜1837年にかけて最大規模化した飢饉
 1839年天保10年)まで続いた
 1836年(天保7年)までと定義する説も・・・
 「天保の大飢饉」は
 寛永享保天明
 に続く江戸四大飢饉の一つ
 で、
 寛永の飢饉を除いた
 江戸三大飢饉の一つ
 ↓↑ ↓↑ 
 天保4年(1833年
 大雨による洪水や冷害による大凶作
 東北地方(陸奥国出羽国)の被害が最大
 仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、
 実高で100万石を超える石高を有していたが、
 米作に偏った政策を行っていたため被害甚大
 50年前の天明の飢饉と比較して、
 凶作対策が行われたため死者の数は少なかった
 商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大
 貧困の百姓が多く餓死
 各地で餓死者を多数出し、
 徳川幕府は救済のため、
 江戸で
 市中21ヶ所に
 御救小屋(5800人収容)を設置
 救済者は70万人を超えた
 米価急騰
 各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発
 天保7年6月
 幕府直轄領である
 甲斐国一国規模の百姓一揆となった
 天保騒動や、
 天保8年2月に大坂で起こった
 大塩平八郎の乱の原因・・・
 大阪では毎日約150人〜200人を超える餓死者を出した・・・
 ↓↑ ↓↑ 
 犠牲者を出さなかった藩
 田原藩では、
 家老の
 渡辺崋山
 師であった
 佐藤信淵の思想を基にした「
 凶荒心得書」を著して藩主に提出し、
 役人の綱紀粛正と倹約、
 民衆の救済を最優先すべきと説き、
 給与改革や
 義倉の整備を実行して成果
 米沢藩でも、
 天明の大飢饉の教訓を生かして
 義倉の整備や
 「かてもの」
 という救荒食の手引書を作成配布し事前対策・・・
  ↓↑
 東北から北陸や山陰の日本海側や、
 近畿から四国などまで広い地域で、
 「てんぽな」または「てんぽ」という
 形容動詞・形容詞が用いられる
 大変な、とんでもない、とてつもない、途方もない
 などの広い意味を表し
 天保の飢饉に由来・・・
 更に強調した意味で
 「天明天保な」とも・・・
  ↓↑
 天保騒動(てんぽうそうどう)
 天保7年(1836年)8月
 甲斐国で起こった百姓一揆
 甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生
 国中地方へ波及し
 一国規模の騒動となった
 別称に
 郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動
  ↓↑  ↓↑
 1776年(安永4年12月10日〜安永5年11月21日)
 丙申年
 『画図百鬼夜行』(がずひゃっきやこう)
 安永5年(1776年)に刊行
 鳥山石燕の妖怪画集・・・
 1777年
 アメリカ独立戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)
 ↓↑
 1700年代
 1769年:イギリスのアークライトが水力紡績機を発明する
 1770(明和7)年後桃園天皇即位。
 1771(明和8)年前野良沢杉田玄白らが、
         千住・小塚原で死刑囚の解剖を見て、
         『ターヘルアナトミア』の翻訳をはじめる
 1771(明和8)年伊勢神宮へのおかげまいりが流行
 1771(明和8)年唐津藩で虹の松原一揆がおこる
 1772(安永1)年田沼意次が老中になる
 1772(安永1)年江戸で大火がおこる(行人坂火事)。
 1774(安永3)年前野良沢杉田玄白らが『解体新書』を出版
 1774年フランスでルイ十六世が即位する
 1775(安永4)年スウェーデン
          植物学者ツンベルグが来日
 1775年アメリカで独立戦争が始まる(〜83年)
 ↓↑
 1776年(安永4年12月10日〜安永5年11月21日)年
     平賀源内がエレキテルの器械を完成させる
 1776年アメリカが独立宣言をする
 1776年イギリスのアダム・スミスが『国富論』を著す
 ↓↑ ↓↑
 1779(安永8)年光格天皇即位
 1783(天明3)年浅間山の大爆発。
 1783(天明3)年東北地方を中心に
        全国的な大飢饉が起こる
       (天明の大飢饉
 1786(天明6)年田沼意次が老中から失脚
 1786(天明6)年最上徳内が千島地方を探検する
 1786(天明6)年林子平が『海国兵談』を著す
 1787(天明7)年米価が上がり、
         江戸・大阪などで打ち壊し
 1787(天明7)年松平定信が老中になり
         寛政の改革が始まる
 1789(寛政1)年クナシリ島でアイヌの大規模な反乱
 1789(寛政1)年幕府が旗本・御家人
         借金に棄損令
 1789(寛政1)年幕府が諸大名に
         囲米を命じる
 ↓↑ ↓↑
 1716年(正徳6年、享保元年6月22日)
 丙申年
 九州南部の霧島山中央部
 新燃岳
 享保噴火が始まる
 ↓↑
 1656年(明暦2年)
 丙申年
 ↓↑ ↓↑
 1596年(文禄5年、慶長元年(10月27日〜)
 丙申年
 9月1日〜5日(文禄5年閏7月9日〜13日)
 慶長伊予地震(けいちょういよじしん)
 1596年9月1日(文禄5年閏7月9日亥刻)夜に発生
 ↓↑
 慶長豊後地震
 文禄5年7月から地震が頻発、翌閏7月まで続き、
 閏7月12日申刻(午後4時)に本震が発生、津波も発生
 津波による流出家屋数千戸、死者708名
 高崎山由布岳の山崩れ
 ↓↑
 相前後して、
 閏7月9日に慶長伊予地震
 閏7月13日に慶長伏見地震(共に規模はM7.0と推定)発生
 10月27日、文禄から慶長へ改元
 慶長伏見地震
 ↓↑
 慶長伊予地震(けいちょういよじしん)は、
 1596年9月1日(文禄5年閏7月9日亥刻)夜に発生
 地震規模はマグニチュード7前後
 死者800余人
 別府湾にあった
 瓜生島
 久光島
 の
 2島が沈んだ
 ↓↑
 1596年9月4日
 豊予海峡を挟んで対岸の
 大分で発生した慶長豊後地震
 と、
 4日後の
 1596年9月5日に発生した
 慶長伏見地震(ともにM7.0規模)を
 合わせて、
 中央構造線
 及び、
 その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つ
 板島城(宇和島城郭)で破損
 豊後奥浜(沖の浜)が海没、人畜二千余死亡
 豊後府中で寺社倒壊、津波
 ↓↑
 1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜
 豊後地震を9月1日とするものもある・・・
 薩摩で大地震・・・
 ↓↑
 『言経卿記』や『孝亮宿禰日次記』には
 閏七月九日亥刻に地震があったと記され、
 京都でも有感であったとされる
 しかし
 『由原宮年代略記』や『大般若波羅密多経奥書』など
 豊後の地震
 閏7月9日とする史料も存在し、
 かつては伊予被害記録も豊後地震の一部とされていた
 ↓↑
 10月19日サン=フェリペ号が
        四国土佐沖に漂着
        (サン=フェリペ号事件)
 ↓↑
 12月16日(文禄5年10月27日)
 地震などの災異のため改元
 慶長元年=丙申年
 ↓↑ ↓↑
 慶長伊予地震
 1596年9月1日、
 伊予国をおそった地震
 M 7.0、寺社倒壊等
 中央構造線沿いと推定される地震
 慶長豊後地震(大分地震
 1596年9月4日、
 豊後国をおそった地震
 M 7.0〜7.8、死者710人
 中央構造線と連続している可能性がある
 別府湾〜日出生断層帯で発生した
 上記地震との連動型地震
 ↓↑
 慶長伏見地震
 1596年9月5日、
 近畿地方をおそった地震
 M 7.0〜7.1
 京都や堺で死者合計1,000人以上
 伏見城天守や石垣が損壊、
 余震が翌年春まで続く
 有馬〜高槻断層帯
 あるいは
 六甲〜淡路島断層帯における地震
 上記二つの地震に誘発されて発生
 ↓↑ ↓↑
 慶長地震
 1605年2月3日、
 南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、
 伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論・・・
 M 7.9〜8.0
 紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説も
 M 8.4〜8.5ともされ
 津波地震と考えられており、
 地震動による被害は少なかったが、
 現在の千葉県から九州に至る広範囲の
 太平洋岸に
 津波が襲来し、
 死者1〜2万人
 ↓↑
 会津地震(慶長会津地震
 1611年9月27日、
 会津地方をおそった直下型地震
 M 6.9。寺社損壊、死者3,700人
 ↓↑
 慶長三陸地震慶長三陸地震津波
 1611年12月2日
 三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)
 津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、
 千島・色丹沖の震源と連動した
 大地震津波だったとする説も
 大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大
 地震被害の記録はほとんど無い・・・
 ↓↑
 1614年11月26日
 慶長十九年十月二十五日の地震
 従来
 高田領大地震とされ
 会津から松山に至る
 日本各地に被害記録があり、震源不明
 ↓↑ ↓↑
 1536年(天文5年)
 丙申年
 1476年(文明8年)
 1416年(応永23年)
 1356年(正平11年)(北朝=文和5年、延文元年3月28日)
 1296年(永仁4年)
 ↓↑
 869年貞観地震
 599年5月26日(5月28日)(推古7年4月27日) 推古地震
己未(丁・乙・己)
 己巳(戊・庚・丙)
 己未(丁・乙・己)(26日)
 辛酉(庚・ ・辛)(28日)
ーーーーー
 ・・・「416年8月22日(8月23日)・允恭5年7月14日・允恭地震」は記録上、最初の地震・・・
 丙辰年
 丙申月
 戊子日(22日)
  ↓
 己丑日(23日)
ーーーーー
 ・・・
 丙申年の60年周期
 ↓↑
 36年+60+60+60+60・・・・
 ↓↑
 036・096・156・216・276
 336・396・456・516・576
 636・696・756・816・876
 936・996・1056・1116・1176
 1236・1296・1356・1416・1476
 1536・1596・1656・1716・1776
 1836・1896・1956
 2016
 2076・・・・?・・・「年の干支」だけでは理解は不可能であるカナ・・・「允恭地震」の記録は「丙辰年」だけれども・・・「年解通似知字(事)=ねんげつにちじ=年月日」・・・?