1387日目・・・1896年(明治二十九)年6月15日夜・・・・「写真のネガ」・・・

 年干支数天干支(蔵干)33 丙 申(己・壬・庚)
 月干支数天干支(蔵干)31 甲 午(丙・ ・丁)      
 日干支数天干支(蔵干)36 己 亥(戊・甲・壬)辰巳
  夜間?        ↓
 時干支数天干支(蔵干)10 癸 酉(庚・ ・辛)?
 時干支数天干支(蔵干)11 甲 戌(辛・丁・戊)?
 時干支数天干支(蔵干)12 乙 亥(戊・甲・壬)?刑
 時干支数天干支(蔵干)12 丙 子(壬・ ・癸)?
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http://photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/2014/03/01meiji_sanriku/
 サンケイニュースより抜粋
 1896(明治二十九)年6月15日夜に発生、2万人以上の死者を出した明治三陸地震津波で、岩手県鍬ケ崎町(現・宮古市鍬ケ崎町)の被災状況を地元写真師が翌朝から撮影したネガ(ガラス乾板)13枚が盛岡地方気象台に残っていたことが28日までに分かった。この時代の災害を記録した写真のネガが見つかるのは非常に珍しく、118年前の生々しい被災状況がネガからの鮮明な写真でよみがえった。
 撮影したのは地元写真師
 「末崎仁平」。
 写真史に登場しない無名写真師ながら「技量は非常に高い」(古写真収集家の石黒敬章氏)と専門家は指摘、災害史、写真史の両面で貴重な資料だとしている。
 末崎についての詳しい資料はないが、岩手日報の前身の地元紙「岩手公報」や東京の「時事新報」に本人が出した当時の写真販売広告によると「鍬ケ崎上町」在住で、
 写真は
 「海嘯(津波のこと)翌朝当海岸ノ惨状ヲ撮影シタルモノ」
 とある。
 この津波では、当時の写真師が撮影した写真が他にもあるが、ネガは見つかっていない。末崎の写真は被災後、最も早い段階の撮影とみられる。
 写真自体は、不鮮明ながら、1974年に郷土史家の花坂蔵之助氏がまとめた「宮古史話」などに収録され、関係者に存在を知られていた。
 ネガからの鮮明な写真は、11日からの国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の企画展「歴史にみる震災」で展示される。
共同通信写真データ部)
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 ・・・「地震津波」+アルファ(原発)・・・それでも「原発」・・・
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 ■無名写真師「技量高い」
  自身も被災しながら奮闘か
 見つかった明治三陸津波のネガについて、古写真収集家の石黒敬章氏は「プリントは残っても重いガラス乾板はほとんどが廃棄されてしまう。日本の報道写真の黎明期のネガは極めてめずらしく、災害史だけでなく、写真史の資料としてもとても貴重だ」と話す。
 鮮明なプリントを見た同氏は「構図、遠近表現など技量は非常に高く、現代の報道写真に通じるセンスがある。おそらく自身も被災しつつ、写真機と乾板をなんとか持ち出し走り回ったのでは」と無名写真師・末崎仁平の?奮闘?を評価した。
 末崎は写真説明で
 「親ハ子ノ屍ヲ潰家ノ下ニ尋ネ
  子ハ親ノ行衛ヲ叫ブ。
  惨ノ最モ酷ナルモノナリ」
 など被災者の目線から状況を痛切に伝えている。
 日本の報道写真の先駆けは
 1888年の
 福島県磐梯山の噴火写真とされる。
 写真の方式が、その場で薬品を調合する湿板から乾板になり、写真師の機動性が増したことが背景にあるが、当初は写真の印刷の技術はなく、精密な
 版画に写し替えて新聞などに掲載された。
 日清戦争(1894〜1895年)のころから
 印刷技術が普及、写真師や軍関係者が撮った戦場写真が雑誌などに載るようになった。
 1896年の
 明治三陸津波では、前年に創刊された
 雑誌
 「太陽」の編集者で、写真師でもあった
 大橋乙羽ら20人以上の
 写真師が被災地入りしたことが
 岩手県の公文書などから分かっている。
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 1896年出来事
 1月6日 - 米国でユタが45番目に州となる
 2月1日 - プッチーニラ・ボエーム」初演
 2月11日 - オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」初演
 4月6日 - 第1回夏季オリンピック
      アテネで開催(〜4月15日)
 6月4日 - ヘンリー・フォード
      初の四輪自動車の試作に成功
 6月15日 - 明治三陸津波(死者2万名)
 7月22日 - 信濃川の堤防各所が決壊
     (横田切れ)
 8月31日 - 第2次伊藤内閣総辞職
 8月31日 - 陸羽地震発生、209名の死者出る
 9月18日 - 第2次松方内閣成立
 11月8日 - 「古事類苑」の刊行はじまる
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E9%A1%9E%E8%8B%91
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 古事類苑(こじるいえん)
 明治政府により編纂
 類書(一種の百科事典)
 明治二十九年(1896)
   〜
 大正三年(19144)
 に刊行
 古代から
 慶応三年(1867)
 までの
 様々な文献から引用した
 例証を分野別に編纂
 日本史研究の基礎資料とされている・・・
 1879年(明治十二年)
 文部省により編纂
 東京学士院、
 皇典講究所
 神宮司庁と事業が引き継がれた。
 完成は
 1907年(明治四十年)
 全1000巻
 和装本
 本文350冊(他に総目録・索引が5冊)
 洋装本で
 50冊(総目録・索引1冊)
 戦後
 吉川弘文館で、
 二度復刻
 全51冊で1967〜71年、1995〜99年)

 内容
 天部、歳時部、地部、神祇部、帝王部、官位部、封禄部、政治部、法律部、泉貨部、称量部、外交部、兵事部、武技部、方技部、宗教部、文学部、礼式部、楽舞部、人部、姓名部、産業部、服飾部、飲食部、居処部、器用部、遊戯部、動物部、植物部、金石部
 の30部門からなる。
 それぞれの項目に簡単な説明を付け、
 六国史以降、
 慶応期までの文献から
 参考になる箇所を引用
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 皇典講究所が編纂を引き受けたのは
 1890年(明治二十三年)
 同時期に
 國學院國學院大學)を開設し、授業
 1895年
 神宮司庁に引き継がれる
 皇典講究所
 メンバーが引き続き編集委員を担当
 明治期の国学者による一大事業であった

 熊田淳美
 『三大編纂物
  群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史』
 (勉誠出版・2009年)に経緯が詳しい。

 2010年
 『古事類苑新仮名索引』が刊行
 『古事類苑索引』を
 現代仮名遣いに直しただけでなく、
 旧版の
 誤り
 984箇所を訂正・・・?
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 1896年の
 誕生人
 8月27日 - 宮沢賢治
      詩人・児童文学者・農学者(〜1933年)
 9月1日 - シモン・バレル、ピアニスト(〜1951年)
 9月4日 - アントナン・アルトー
      劇作家・詩人(〜1948年)
 9月6日 - マリオ・プラーツ
      美術史家・文学研究者(〜1982年)
 9月15日 - 村山槐多
      画家(〜1919年)
 9月15日 - 土光敏夫
      実業家・経団連会長(〜1988年)
 9月29日 - 正木ひろし
      弁護士(〜1975年)
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 ・・・「古事類苑(こじるいえん)」・・・???・・・
 「コジ=虎子・誇示・固持・固辞・故事・居士・孤児・古寺・故事・古事」の「類縁」・・・
 「写本のネガ」は何処にあるんだか・・・
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 「ネガ(陰画)」=ネガフィルムとは、被写体の明暗や色が反転した画像がつくられる写真フィルム。
 「ネガ」は「ネガティブ (negative)」の略。
 英語では「negative film」と表記
 カラーフィルムの場合、色は被写体の色の補色(ネガ=陰画)が現れる・・・
 「ポジ(陽画)」=「ポジティブ(positive)」の略。
 写真像の明暗が被写体の明暗と同じに再現された画像。
 ・・・「青焼き」は「製図」・・・
 英語は「blueprint」
 「ジアゾ式複写技法」で、
 光の明暗が青色の濃淡として写る
 ・・・「白焼き(whiteprint)」・・・
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 青焼き、白焼きの意味の変遷
 青焼き=ヘキサシアノ鉄酸塩による
     青写真の陰画(青地に白線)
 白焼き=ジアゾ式コピーによる
     陽画(白地に青線)
 乾式ジアゾ式複写機の普及後は
 青焼き=湿式コピー
     青く発色し、地の部分もうっすら青い
 白焼き=乾式コピー
     褐色や黒色に発色し、地の部分が白い
 PPC方式の大判コピー機の普及後
 青焼き=ジアゾ式コピー(主に湿式)
 白焼き=PPC方式コピー
 現在は
 紙焼き=コピー、プリンターで紙に出力すること
 皿焼き=CD-R、DVD-RにCADデータを記録すること
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 ・・・「インガ」と「ヨウガ」の同音異字漢字のスベテ・・・「オン」ならば・・・
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 「ネガ」=ハングルで「내가」・「わたしが」
      「내=ネ」は、わたし
      「가=ガ」は、助詞の「〜が」
      「ネ=네가」は「お前が」・・・
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 である・・・カナ・・・喜多川歌麿の「深川の冬」発見・・・