402日目・・・13日の日曜日・・・「ダーゥインがきた」・・・陸で生きる「ヨダレカケ」、スゴイナァ〜ッ。生きるって凄い。大河ドラマの「篤姫」・・・「私の心は私だけのモノ。誰にも縛られるモノではありません」・・・タシカに、「ココロ」だけは何を考えようが、空想、妄想しようが「自由」である。そして、「ココロの自由」とは「判断の選択」である、ナッ・・・だが「ココロの自由」は、また他人に押し付けるモノでもない、他の人にも「判断」の、「選択」の「自由」があるからだ・・・万人を納得させる「科学知識・判断」とは違う領域
ヒトのココロを「自分の判断」で動かす、動いてくれるようになってくれるのは並たいていジャァない。モチロン、「大きな自然界の動き」を制御するなんてコトは不可能に近いが、ここでは「人間社会の枠内」がテーマである。
相手が自分と同じような「判断レベル」に無い場合はドゥスル・・・?・・・そして、その自分自身の「判断の基準」になるものは「何か?」・・・「共同幻想」、「協働観念」である。
今まで上げてきた「世界の書物」の中に記されている「諸書物」を漠然と読んでいたのでは、その「解答」を見出すのに難しい。が、毎度言ってきたことだが、「旧約聖書」には簡単明瞭に、
「殺すな」
「騙すな」
「盗むな」
と語られている。これが、「社会生活の根本的なココロの規範」であるだろう。これらに更に
「威嚇、強制するな」
を加えればイイ。だが、「何々するな、何々してはダメ」と否定のコトバとして、禁止のコトバとして、禁じざるを得ないのは、「人間」が常に、
「殺す」
「騙す」
「威嚇・強制」
「盗む」
をする「傾向」があるからである。動物である「人間」も生きるためには「自然界の弱肉強食の法則」から逃げるコトは出来ない。動物の「狩」は、人間にとって「飼育家畜の屠殺」になったのに過ぎない。そして「人間社会の協働秩序」であるべきモノは「分業秩序=私有財産秩序」として、個人の「自我」、「過度なワガママが膨脹」した結果のピラミッド型階級社会になったのである。
時には「一共同体単位」としての「ワガママ」は領土的に膨脹する。
「ワガママの膨脹」は自分自身が他者からナニモノかを「盗む」ところで「機能」している。「他者」から「盗む」とは、「奪うコト」、「搾取するコト」であり、他者との合意的な諸状況にあっては「摂取する」、「取り込む」、「吸収する」と言うコトバに替えられて使用される。
「命を盗む」とは「殺すコト」である。「騙す」とは「盗むために騙す」のである。「騙すコト」は必ずしも「盗むコト」にはつながらないが、その「騙す目的意志」は必ず「特殊な利害の貫徹」としてある。
第二の聖書・「ロビンソン・クルーソー」・・・老後の楽しみ・・・絶対の孤独・・・。それをいかに克服するか。ロビンソンの冒険の意味は、物質文明の建設ではなく、究極には精神文明の維持と向上にあったことは明白であり、それがこの物語に深みと、時代を超えた普遍性をもたらしたのである。
ロビンソンはいかにして孤独を免れたか? 信仰によってである。そのさい導きとなったものは、むろん聖書であった。
・・・一から始める・・・「願わくば悔い改めをわれに与えたまえ」・・・もはや孤独な生活など問題ではなかった。そんなことは魂の救済に比べたら、まったくどうでもよいことであった・・・彼は無人島の中に自由の境地を見出し、発展的に生きる意欲を獲得したのである・・・
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ボクのコトバ・・・ロビンソンは孤島に聖書を三冊も持って生活を始めた。そして彼は聖書を読むコトで「過去の自分自身」が「罪深い人間の生活」であることを悟ったらしいのだが、孤独な「老後の楽しみ」とは「聖書」を読んで「過去の罪深さ悔い改めるコト」らしい。西洋人の手前勝手な「若い時の罪深さ」を合理化している。聖書世界の西洋人は罪深いコトを過去にやっても、ジジ、ババになって足腰立たなくなった未来に懺悔で救われるのだ、と言う手前勝手な生活パターンをもって自己合理化しているんだろう。
孤独な老人にとって、聖書はあまり面白くないから時代的には「ロビンソン・クルソーの物語」を読み、その「彼の意欲」に自分を重ねたかったのだろう。懺悔で結果は救われるんだろうけれど、「魂」がね・・・人間ってあさはかな考えを考え出す動物であることだけは間違いない。