698日目・・・夕方に「ダーウインが来た」、夜は「NHKスペシャル・2010年10月17日(日)・ 午後9時00分〜9時49分総合」の「貧者の兵器とロボット兵器〜自爆将軍ハッカーニの戦争〜」を観たけれど・・・「アフガニスタンで続く泥沼の戦い。武装集団は「貧者の兵器」と呼ばれる旧式の銃や爆弾で戦い、アメリカは「ロボット兵器」で攻撃する。知られざるいびつな戦場の姿を描く」・・・未来戦争の「ターミネーダ」だった。比喩的にみれば「アメリカ」が「ロボット軍団」で「アフガン」が「人間軍団」・・・ニュースは大陸中国で
「国家エゴ」・・・イカの「家頁」は、以前にも貼り付けたと思うが「プラトンもどき」からの抜粋だ。
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http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kotukaron/kotukam.htm
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イカは抜粋した部分
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「国家エゴ」
ここで解かりやすく、セルフッシュ(エゴ・EGO)なあなた個人を「国家」に例えて考えてみたらドウであろうか。あなた個人が「国家」とすれば、あなた以外の他人は「他の国家」である。あなたは生きるために何らかの「仕事=生活手段を得る為の生産労働」をせねばならない。あなたは仙人のように孤立的に生きているのではなく、社会的に生きているハズだから他の人々との関係で仕事をしているに違いない。
個人が二人以上の関係になるとお互いの了解を前提にした「ルール=契約=約束事」で生活をしていかなければならない。そして、結果、個人の生活は相互依存関係によって支えられているコトになる。
あなたが、セルフッシュ(エゴ・EGO)な人間でないとするならば、夫婦生活、家族生活、社会生活、市民生活でのあなた個人の生き方は以下のモノとして例える事が出来るだろう。
? あなた個人の「立法」とは、意識的生き方の規範で、「信念・信条」である。
? あなた個人の「行政」とは、生活に於ける実践的行動で、「行為」である。
? あなた個人の「司法」とは、あなたの「行為」の可否を反省する「判断力」である。
? あなた個人の「外交・国際条約」とは、
あなた個人が関係する他の個人との「関係ルール」である。
? あなた個人の「軍事」とは、
相手が?を無視した場合、
自分自身を相手からの
暴力行使、不正行使をはねのける為にとる
「自己防衛」のタメの「暴力行使」、「逃亡」を含めた実践的行為、行動である。
あなたが、セルフッシュ(エゴ・EGO)な人間ならば、既に ? の「信念・信条」が相手の立場を認めない「セルフッシュ(エゴ・EGO)」そのモノなのであろう。
「自己防衛」のタメの「暴力行使」が出来ないとするならば、「逃亡」するより手は無い。「難民」である。何処に「逃亡」すればよいものやら・・・「世界人類、みな、兄弟」になればイイのか?
「私的所有権」を巡る「兄弟姉妹」ほど「近親憎悪」が激しいものはない・・・簡単明解な解決方法は「日本国憲法」を「世界人類の憲法」として相手の意識を「組織化」し、「実践」していくことである・・・「中国」にも「憲法」があるらしいが?・・・気長に暢気になんては言ってられない。今現在目の前にある美味しい物はサッさと食わなきゃ腐るのだ。既に「日本国・憲法」をドブロクのように心髄の根幹を腐らしはじめてから随分となっている。酔ぱらっちゃぁ「理性」なんかは吹っ飛んでしまうのは当たり前だ。酔っ払いの仕業は「自然界の弱肉強食の法」でもないのだ。
「憲法」とは「理想」であり、「理念」であるのだ。この「理想・理念」であるからこそ「憲法」なのである。「弱肉強食の法」を「憲法」とはしないし、いまどき、「人種・民族優位」をダレも「憲法」などとはしないのである。
「憲法」がなくても、ごく、常識的な社会的人間は「弱肉強食」で生きようとは思っていないハズだし、しないハズだ。だが、ある時、「自然界の弱肉強食の法」がアタリマエのように言われて、その「弱肉強食の法」すらも超えて「実践行動」がなされる場合がある。その最たるモノが戦争地域を限定しない、軍人、兵士、民間人「無差別の戦争・戦闘・テロ」である。「人民(支配階級)戦争」なのである。元々「戦争の現場」ではルールなどはないのだ。殺すか、殺される、かである。
「戦争」にロマンを夢見て、心を躍らせるのは「現実の戦場現場での直面当事者」ではない。物語、映画、ゲームの中での敵をヤツケル主人公は「アンタ」じゃないのだ。「アンタ」は現実には戦場でのた打ち回って殺される、その他大勢の端役なのだ。
「戦争」でなくても、この「弱肉強食の法」は市民社会でも、裏社会でも「金の貸借関係」でワナに填まった人間がもろに経験することだ。市民社会での「金の貸借関係」にはルールがあるが、民法を無視したところで「金を貸した方」も「金を借りた方」も「暴力的」な決着をつけているのはTV、新聞、ニュースが日常茶番で報じているところだ。
「起った事件」は「法が守られなかった結果」である。
「夫婦間暴力・家庭内暴力・学校内のいじめ、暴力」等は眼に見えて倫理、道徳的、法的にも否定されるが、利益、利潤の効率性を追求する「企業・会社」内での「左遷・リストラ・解雇」、「企業・会社」間での競争での倒産は、次元は違うが秩序の中での「弱肉強食の法」ではないのか。職を得たい「失業者」の「失業率」、「企業倒産率」は市民社会での「弱肉強食」のバロメータである。
だが、「余裕(?)のある資本主義社会」では、「私有財産法」を根幹として秩序を守るべく、この「失業率」、「企業倒産率」を一時的なモノと見なして、なんとか低く抑えようともする。余裕のある人は倫理、道徳、宗教心に於いて「乞食」にもカネは恵むのだ。「自然界の死活バランスの弱肉強食の法」とは違う、と。
だが、全世界的規模でみれば、「絶対的私有財産法」が当然であると意識にこびり付いている限り、「資本回転の行き場の無い破綻の繰り返し」は「死活、弱肉強食」を過去も現在も、きっと近々未来にも、この地球上のある地域で現実化させていくのだ。
「憲法」など無くても人は「理想」を望みながら「現実」を生きていくのだ。「理想」とは「コトバ」で言ってしまえば、簡単なことである。人間関係で、
? 殺すな
? 盗むな
? 騙すな
である。だが、「現実の非合理性」と「現実の非業性」・・・?も、?も、?も「守れない理由」はなんであるのか?
「自然界の弱肉強食の法」では?も、?も、?も否定された殺せ、盗め、騙せ、として許されているのだ。理由は動物自身の存在個体と種の存続としての「死活」が賭けられているからだ。人間は社会的存在として自ら、自然界の、この状況から解放されようとしてきたのである。「自然界の死活=飢餓」からの解放として「社会共同体の余剰生産物、富の蓄積」を始めたのだ。そして、その「富の管理者」が必要となったのだ。
「富の管理者」とは「階級社会」の始まりの兆である。?も、?も、?も「余剰生産物」の「管理分配権」を握った「支配階級」の「特殊利害」を覆い隠す「階級レベルとしての法」となっていったのだ。
生殺与奪は支配階級の特権である。他の共同体との交戦権もそれを前提にした・・・?は殺せ、?は盗め、?は騙せである。戦争での?の盗めには人間の「労働力=奴隷」も含まれる。古代ローマでの戦争は「生産力=労働力=奴隷」の獲得でもあった。
切っ掛けはヘレンであれ、怨みであれ、ナンであれ、戦争を単純に考えれば、敵対する共同体に対する収奪の支配権の確立である。?の盗めが目的で、?の騙せは戦術である。?の殺せは対峙する相手の抵抗状況次第である。?の盗めは商品交易を前提にしない暴力的略奪である。市民社会では「強盗」である。暴力的略奪をしないためには・・・「盗むために嘘をつく(ウソはドロボウのはじまり)=策略なのだ」・・・。なぜ、盗みたくなるのか?・・・その根拠は何か?・・・カネも無く食う物が無くなったら・・・これも単純に考えれば「無いモノに対する欲得」で、その殆どが「交換対価になる物(金銭)が無い場合」である。あっても盗むのは心理的スリルに興奮する性癖の万引きか、プロである。市民社会では盗みを目的にした殺人ならば強盗殺人である。騙しての盗みは詐欺である。で、「国家間、共同体間の戦争」が始まれば皆がグルになって殺せ、盗め、騙せをヤルのだ。
そして「現代の戦争現場の一兵士」は一見、「自然界の弱肉強食の法の意味、目的」すらも逸脱した「トリガー・ボタン・ゲーム感覚」で虐殺、殺し合いをやっている・・・上官の命令で始る「一兵士の殺人に理由は無い」のだ。あるのは「殺人命令」だけである。第二次世界大戦の独ソ戦を描いた映画「スターリングラードに登場する狙撃者」に政治的思想はあったのか?・・・戦意高揚のタメに利用されたのか?・・・その「目的性」を吹っ飛ばして自分の命も相手の命も危険、危険感覚にさらしてみたい人間もいる。理由を訊いても生きている人間、動いている人間をタダ殺してみたかった、と言う市民社会での犯罪少年や、犯罪者と同じレベル・・・スリル感覚のみ、コロシの状況現場に当事者としてタダ、自分の身を置きたかっただけ・・・「自然界の弱肉強食」には「殺しの理由・目的」がアル・・・食って生きるタメだ。殺して生きるタメだ。だが、「理由・・・食う目的、盗む目的の無い殺人」も「武器を手にした人間」はヤル・・・「怨恨殺人」には理由と目的がある・・・そして一般的には「殺人目的のタメだけの愉快殺人」・・・「一家心中殺人・恋愛心中殺人・道連れ心中殺人」・・・「宗教・思想目的の殺人」・・・「国家・民族・人種・血統」・・・共同体を防衛するタメの殺人・・・色々な「殺人の理由」があるのだが・・・簡単に殺される側の人間はたまったモノじゃない。
国家間戦争の目的は「ヌスムコト(利権獲得=戦略的目的)」で、「ダマスコト・オドスコト(戦術=手段)」も、「コロスコト(戦術=手段)」もその付随事項のテコ=手段である。だが負けた国家支配階級は「ヌスマレ」ても、「ダマサレ」ても、「オドサレ」ても、「命」があってのモノである。全てが「不必要にコロサレテ」も、全てを「不必要にコロシテ」も得策は無いのだ。
農耕社会と狩猟・牧畜社会の接点でのイサカイ、戦争はその「相互の共同体間での富の防衛=富の略奪」の関係である。
農耕社会では多少の天候=自然災害があっても、その食料確保=余剰生産物の蓄積には有利である。農耕社会は圧倒的にその共同体の人口を養い、増加させることが出来るのだ。自然災害の飢えから「自立」出来るのは、労働と生産秩序のある「農耕社会」である。その為の「貯蔵庫=穀物倉庫=自然災害時の備蓄=餓えからの防御」こそが「農耕社会の発生」であるからだ。だが、その「共同体の余剰生産物=蓄積された富」は私的所有=私的分配として指導者に管理を握られたのだ。
殆どの食料が直接的に自然に依拠している狩猟・牧畜社会ではその余剰生産物の蓄積に不利であった。動物の肉類は燻製にでもしなければ備蓄保存は無理である。しかもその保存の量は知れているのだ。しかも牧畜は必然的に定住し得ない社会である。狩猟種族もその獲物を獲得するには、まったく自然の流れに委ねざるを得ないのだ。ましてや「生もの」は大猟、大漁であっても保存には限界がある。
食う物が無くなった牧畜、狩猟種族共同体はどうするか?・・・物々交換での平和的交易?・・・自然のなすがママに家族が、共同体が飢えで切羽詰っているのだ・・・相手がすんなりと備蓄している穀物=食料を分けてくれるならばイイのだが?・・・生きる為には食うモノを持っている奴から「盗もうとする」に違いない。備蓄している奴は「盗まれないため」には武装し戦ってマモルより他に手段はない。これが「自然」であり、「戦争の原点」である。
「戦争での殺し合い=盗むタメの手段=盗まれないタメの手段」である。だが犠牲的ダメージは双方の「国家支配=階級収奪」秩序維持に取って最小限がイイに違いない。農耕サイクル社会を襲う狩猟・遊牧民は穀物収穫後を見計らってやってくる。あるいはその時期の「食糧事情」によってランダムに。だが、次回の食料を略奪するためには農耕社会のすべてを破壊するワケにはいかないのだ。もちろん、農耕社会はその被害を少なくするためには武装して自らの共同体の命をまもる。
「国家」は「国家間対立」することで「国家の特殊化された支配幻想を国民にオシツケル」ことが出来るのだ。農耕社会に取って盗む奴がいなくなれば問題解決である。「世界帝国=国家間秩序を統一」すればイイのだ。「世界帝国」とはその領土的枠内で「無国家」と言うコトである。「帝国」の完成は平和維持と言うことだ。だが「帝国」を支えてきた軍人の生活費の捻出はもはや領土的な拡大では賄えないし、その存在意義も薄れる。帝国維持の諸経費、軍人、国家官僚の給料の捻出の殆どは「帝国内の階級分化している農民、農奴」からの収奪である。
「平和(?)な帝国」は文人官僚の帝国となるのだ。そして地域的に富が不均衡に発展する帝国は支配権力が分散、分裂する小国家になるのが必然だ。その交替の時期こそ「暴力=武力」を握る軍人兵士である。国家は暴力的に帝国秩序に集約され、帝国は再度、暴力的に地域国家に分裂するのである。
そして「国家間戦争」が「命を賭けない儀式=懐柔交渉=冊封=手打ち式」ともなる。だが「国家間外交条約」が長期にまもられることは「歴史的条件」には無い。常に破られるモノである。国家支配階級にとっては軍人、武力の蓄積と戦争訓練は、対外的に絶対条件である。そして、なによりも国内の階級収奪の「暴力=武力秩序」こそが自己存在の立場を維持する条件である。
外交と武力、これのバランスをオロソカにした「階級国家」は国家間戦争に傾いて滅びるのだ。
「私有財産法」もその目的は「ヌスムコト(搾取)」で、「ダマスコト・オドスコト(法)」も、「強制束縛、監禁(法の実行)」も、「コロスコト(法の実行)」もその付随事項である。殺さず、生かさずに「ダマシ」て、搾りあげて「私的所有の富を蓄積」し、その「管理・分配の権利」を握り、「法と武力」で維持しながら、他の人々を支配するのが「支配階級」なのだ・・・だが自然災害はその「階級社会」を丸ごと滅亡させてしまう。「伝染病細菌・ヴィルス」は人間の意図(階級的存在秩序)を無視したところであらゆる人々をコロシテしまう、が・・・人間はコレをも「意図的にバラ撒く存在」になっている。
だからこそ、「私有財産の蓄積=生産物の直接搾取=市場でのモノの交換売買による儲け」を埒外に疎外したところで、極端な階級社会を戒める「理想」を「文字」に記録した「憲法」ともなるのだ。
「憲法」とは「理想」を掲げ、その理想目的を追求すべき条文なのである。「現実状況」に合わせる、と言ったモノではないのだ。そして、守られるかどうかは別である。いかなる「法律」も事後によって裁かれる基準である。
「憲法」とは、護られるべきモノとしての「理性的思想の幻想銘文」なのである。
守られるか、どうかは「私有財産を根幹にした階級社会を解放する、?盗むな、?騙すな、?殺すなと言う立場」にコソあるのだ。
「支配階級」とは「被支配階級」から「?盗む為」に「?騙して」、時には「?脅す・殺す」存在であると言うことだ。
「国家組織」とは対外的にも国内的にも「?騙して、?盗む為に、?脅す・殺す」と言う「支配階級の組織」である。
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「民族」ってドコに居るんだろうね・・・$$$\\\・・・?
この「兵隊の顔々」は「民族づら(面)」しているような人種には見えないけれど・・・