610日目・・・また、みてしまった。そして、またもやNHK教育番組・「ハーバード白熱教室」からの抜粋・・・だけれど・・・
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Lecture13 「嘘」の教訓
カントの厳格な道徳性の理論は、どのような例外も許さない。彼は嘘をつくことは、たわいのない嘘であっても、自己の尊厳を損なうと信じていた。サンデル教授は、次の架空の状況を設定し、学生たちに投げかける。友達があなたの家に隠れていて、その友達を殺そうとしている人があなたの家の玄関にやって来た。友達はどこにいるのかと尋ねられたあなたは、嘘をつかずにどう切り抜けるのか。サンデル教授は学生たちの答えから、「誤解を招く真実」の議論へと展開する。「嘘をつくこと」と「嘘ではないが誤解を招く表現」には大きな隔たりがあると言うのだ。そして講義を、真実をごまかしたもっとも有名な例、クリントン大統領がモニカ・ルインスキーとの関係を説明したビデオ・クリップで締めくくる。
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「カント」が「道徳性の理論」を「厳格」に考えるのも勝手で「自由」だけれどもね。そもそも「道徳」とはダレのタメの「道徳」なのか・・・「人間一個人」に「道徳」は必要ない。「人間個々人の諸関係」での「道徳」である。ルールは「個人」からは始らないのさ。そして「初め」からあるわけでもない。
人間の、人類の「コトバ」としての「尊厳」が「先験性的=アプリオリ」にあるわけではない。
日本語での、漢字での「尊厳」とは難しい「コトバ」であるな。
だが簡単に言っちまえば人間同士の相互諸関係での「禁忌」、
「1)盗むな」、
「2)騙すな・ウソをつくな」、
「3)殺すな」、
そして
「4)差別するな」
が「人間諸関係での諸個人の尊厳」と言うコトバに集約されているだろう。
そして、「1)盗むな」が「禁忌」であるのは「人間諸関係の社会共同体の存続保持、維持」のための「根源的な秩序ルール」であるからだ。
1)2)3)は「カント」なんかよりもズゥ〜とズゥ〜とムカシにモーゼが「旧約聖書」で言っているコトである。だが、「モーゼ」の1)2)3)は「同胞の枠内」、4)の「差別」は同胞の枠内でも「同胞奴隷」や「階級序列」があった・・・現在の「日本(経済的)格差社会」は「差別社会」であるのか・・・「法の下」での「自由(選択)」は「平等(?)」であるらしい。
1)2)3)の中でメインのコトバは「1)ぬすむ≠ぬすむナ」である。「1)モノを盗むために2)ダマス」、「1)命を盗むために3)殺す」、「1)盗むために4)差別する」である。「働く人間」が「他の人間」に「盗まれる」のは「社会的総労働の結果」としての「労働」が「論理的な帰結」であるだろう。
とにかく、「2)ダマス=ウソ」は何の為につくのか?・・・
「ウソも方便」とは「法華経」のモノガタリであるのだが・・・「ウソ」には「善と悪のウソ」があるらしい。東洋には「善」と考えられる「道徳的なウソ」があるらしい。東洋では「ウソ」とは「道徳」の「テコ=道具=手段」でもある。「道徳」と言うコトバを主語にしなくても「ウソ」とは「何かの手段としてのコトバ」なのである。
その「ウソ」をつく対象とは「自分自身」と何らかの関係性のある「対象相手」に対してのコトなのか、あるいは「自分自身」に対してなのか(自己欺瞞)、「自分自身」自体に対しても当然であるだろう。自分自身が自分の「痛さ」にウソをつく・・・ナゼか?・・・精神的にも肉体的にも「自己存在(実存)の通常バランス」を採るタメである・・・「痛いシグナル」は「生命実体の維持」としての「存在バランスを快復せよ」との「シグナル」だからね。
人間が「コトバの動物」で、「コトバを手段として思考する動物」であるならば「純粋理性」と言われるモノが「先験性的=アプリオリ」にあるわけではない。そして「純粋理性」なるコトバも「認識主体が関わる諸状況との歴史性=時間性=履歴性」から「自由」であるワケでもない。モチロン、「カント自体の認識・思考」も、彼自身の「哲学」もその「時間性」から「自由」であるわけではない。
a priori/apriority/apriorism・・・演繹的推論・原因より結果への推論/先天的・先験性・・・*先験(センケン)=経験以前、経験する前・・・「センケン」って言う同音異字は「先見・先遣・先賢・専権・仙建・浅見・嬋娟」があるけれど・・・「センゲン=千言・宣言・選言」・・・「ゼンケン=全権・前件・前賢・前賢・全件」・・・「ゼンゲン=漸減・善言・前言」・・・も関係あるコトバだな・・・a posteriori=帰納的に・後天的に・・・
なんか、4月1日の4月バカみたいな「コトバの羅列」だな・・・「a priori/a posteriori」は「a」と「priori(先取り・優先)/posteriori(後ろの・後の・後部)/posteriority(後天的なコト)」が離れている単語だ。
理解しがたいねッ、凡人以下であるボクには・・・だが簡単に言えば
「原因より結果への推論」・・・複数部分のモノ=複数部分のコトバとして「集合構成」された「1つのモノ=1つのコトバ」のことだろう。
「結果より原因への推論」・・・単体のモノ=単体のコトバとしての、その構成された複数の要素を「単体分解、単体分析」された「複数のモノ=コトバ」といことだろう。
演繹・・・・・どのようなものを「リンゴ」と言うのか・・・
漢語→意義を押し広めて詳しく説明すること
国語→一般的な原理から特殊な事理を推定すること
帰納分析・・・「リンゴ」を解体、分析したらナニとナニになるか・・・
漢語→寄せ集める。反切によって漢字の音を出すこと
国語→個々の事実の間に共通点を求めて一般的な法則を引き出すこと
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・・・ワッかりまっせん、漢和辞典の説明・・・ここでは「一般的」と言うコトバが「演繹・帰納」の説明で共通として使用されているから「リンゴ」が「一般的」と言う説明にあたるらしい。そして「特殊」や「個々」の部分が具体的な「リンゴ」の「共通点」や「異なる点」の説明にあたるようだ。「リンゴ」と言っても色々な種類があるからなぁ〜。そして「リンゴ」は「果物」で「植物の実」だが、「植物の実」すべてが「果物」ではない。そして「果物」は「リンゴ」だけではない。「リンゴ」は現実存在するようだが、「クダモノ」と言うモノは現実存在しない。そして「植物」と言うものは現実存在しない。すなわち、分類上、便宜上の「抽象概念」、「共通項としての「仕分けコトバ」である。
「先験」は「経験以前」、「知る以前」、「わかっている以前」だから「知らない・わかっていないない」と言うことだ。先ずは目の前に「現物のリンゴらしきモノ」がないとね。何にも無いところからは始まらないから。
「後験(?)」ならば「経験以後」、「知った以後」、「わかった以後」と言うことだろう。「リンゴらしきモノ」が「リンゴ」と理解された以後だ。
「1)ルービック立方体本体と、その2)構成部分である一つ一つの小さな立方体」、あるいは「モザイクの1)完成されたモナリザの絵と、それを2)バラバラにした1つ1つのパーツの部分」をイメージしてくれればいい。これらの説明には二つの説明方法がある。
「1)のモナリザの絵」を主語として、その内容説明を「2)のモザイクの個々のパーツ」でする。・・・モナリザの絵とは複数のモザイクのパーツから成って存在する。
「2)のパーツ」を主語として、その説明を「1)のモナリザの絵」とする。・・・バラバラの複数のパーツモザイクはモナリザの絵を構成するものとして存在する。
これらの説明は「モノの構成=要素」の説明である。
全体=結果からの説明
部分=原因からの説明
そして「構成されたモノ」の「存在の目的性の説明」が、「ある認識人間」には必要だ。「ルービック」、「モザイクの絵」とは「何か?」、の。「人間社会の生活」を前提にすれば、「モノ」として「複数の人間同士間」での「コトバでの意味内容」の共通理解が必要とされるからである。「人間社会の生活」は「協働社会生活」だからね。そして「共通認識されたコトバ」は更に
「一般」、
「特殊」、
「個別」の「コトバ」として日常生活では区別し、使用されている・・・ほとんどが「当たり前=無意識」として・・・
・・・暇で興味があるなら以下のところをクリックして渡来してくれ・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/hancyuron/hancyuron.htm
更に暇だったら
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/index-3.html
をクリックして覗いて、覘いて、そして除いて「選択」するのはご自由です・・・
「嘘をつくこと」と「嘘ではないが誤解を招く表現」とは「誤解」と言うコトバの「主客相互関係に問題」がある。「誤解を招く表現」で「誤解」をさせる人間の「目的意識性」の有無と、「誤解(?)をした人間」の「理解性」の有無である。「2)ウソ)」は「受身」の人間にとって、結果論的に言えば「誤解」そのものと、「曲解」と「無理解」、そして「非理解」があるかも知れない。相互コミュニケーションでのコトバの理解度、「意味内容」のレベルが必ずしも同じではない場合である。
「日本人」が「カント」の「哲学コトバ」を「理解し難い」のは「日本語訳」のせいでもあるらしい。なんせ、日本人が読む「カントの哲学の翻訳用語」は「漢字」だからねッ。明治時代から「デ・カン・ショ」だからね。しかも日本人がナントか、カントか「日本製理解の漢字」で翻訳したモノだから。
だがドイツ語を勉強した「日本人」にとってはアマリ「ムツカシイ」ものとしてではなく、結構スンナリと「理解」されるモノらしいのだ。ドイツ語をドイツ語で理解するらしいから。それでも「カント」は「田舎の人間」で「カント哲学語」には「ドイツの地方方言」がかなりあるらしく、ドイツの都会生活の当時の「教授連中」には難解だったらしいのだ。
「馬蹄屋さんの息子」だったらしい。ボクは「645年の大化の改新」の「蘇我馬子」にカケたいんだけれども・・・「馬子」・・・
今、TVで人気沸騰中の「池上アキラ」さんにでも「カント」解説してもらったら「簡単に理解」できるかもネッ。
そして「日本語」を日本語で理解できないのは一般の日本人ばかりではなく、「政治屋」や「裁判屋」も多いらしいのだが、「官僚屋」は「曲解の名人」らしい。とにかく、「ニホン語」だから・・・
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Lecture14 契約は契約だ
政治哲学を現代に復活させた、ジョン・ロールズの「正義論」を取り上げる。ロールズは「無知のヴェール」という概念を考え出した。それは、誰もお互いに年齢、性別、人種、知性、強さ、社会的地位、富、宗教、そして人生の目的さえも知らない、仮説的な原初状態である。その「無知のヴェール」の背後で交わされた合意こそが、正義の原則であるとロールズは言う。一体この「無知のヴェール」は現実世界においてどう考えればいいのだろうか。サンデル教授は、実際の契約が不公平な結果を生む、ユーモラスな例をいくつか挙げながら、公平な合意とは何かを議論していく。
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「無知のヴェール」・・・「という概念を考え出した。」・・・とは、「考え出した」んだから「妄想」だろうなッ・・・「仮説的な原初状態」の「仮説」だから・・・