401日目・・・簡単にいけるかと思ったら、結構シンドイんだよねッ、「世界の書物」・・・こんなモノにこだわっていたら「世の中の動き」もそっちのけで、日が暮れちゃうんだけれど・・・昨日の続き・・・

naie2008-01-12


 自然と人力・「天工開物」(天工=天のタクミ=自然のメグミ・開物=生産活動・人間が生活に自然物を活用するコト)・・・五穀を尊ぶ・・・「天工開物」は(中国)明末の崇禎十年(1637)に刊行された産業技術に関する啓蒙書である。著者は宋應星という江西省の教育関係者で、のちに安徽省亳州の長官として善政につくしたといわれる。著者の意図は・・・「万を数える事物の中で、人間に有益なものと無益なものとは、それぞれ相半ばしている。ところで世間には聡明で物知りの人々がおり、多くの人々から推称される。しかしこれらの人々はありふれた棗(なつめ)や梨(なし)の花を知らないくせに、古い話に出ている楚萍(ソヒョウ)をあれこれ想像したり、ふだんに使う鍋釜の製法もよく知らないくせに、昔あったという莒鼎(キョウテイ)をとやかく議論したりする」、「学問に専念する方々はどうか机の上にうちすてられたい。この書は立身出世に少しも関わりが無いのである」
 ・・・なるほど目次を見ると、当時科挙をめざして経史の学に泥んでいた立身出世組には、まるで無縁の項目が並んでいる。穀物、衣服、染色、調製(精白、製粉)、製塩、製糖、製陶、鋳造、舟車、鍛造、焙焼(鉱物)、製油、製紙、製錬(練)、兵器、朱墨、醸造、珠玉の十八項目に分かれ、しかもこの順序は「五穀を貴び金玉を賤しむという意味に従っている」というのだから徹底している。
 五穀について例をあげると、稲、麦、黍、稷、梁、粟、麻、豆などについて、その栽培法をくわしく説いており、今日でも参考になる記述が多い。
 ・・・200年間の埋没・・・穀類の前説に「貴族の子弟は百姓をまるで囚人のように考え、学者の家では農夫をさげすんでいる。朝夕の食事に五穀を味わいながら、その由来を忘れた人々は多い」とあるのは正論であるが、彼自身は農民を支配する階級から生まれたのであるから、このような感覚がどこから生じたのか、興味のあるところだ。

 ボクのコトバ・・・「彼自身は農民を支配する階級から生まれたのであるから、このような感覚がどこから生じたのか(?)」とこの本の著者は自問自答して時代的背景や、状況をイロイロ言っているのだが、バッカジャなかろうカネッ。「感覚」はボク的に言い直せば「自覚」であろうと思うのだが、「知識」、「教養」はいつの時代でも「支配階級のモノ」であるのだ。「疎外された人間の現状を自分自身のモノ」として「理屈・理論」で考え、「社会的現状矛盾」を「自覚(感覚)」できるのは「インテリ」であるからである。
 「現状自覚」は現実的な「階級の出自」には関係ない。もちろん、「職業」にも関係ない。「考えるコトのできる人間」ならば「階級階層」に関係無く、その「階級的な立場」が「開物(生活生産活用)」に問われるのだ。
 支配階級(特殊的利害)のタメに立つのか、被支配階級(一般的利害)のタメに立つのか、と・・・
 「社会的諸関係の疎外状況」を客観的に認識し、「自分自身の置かれた立場」を「主体的に自覚した人間」だけが「社会変革」をできるだ・・・

 理性の解放・「方法序説」(デカルト)・・・精神の自叙伝・・・チェスタトンによると「書物を読みたいと思う熱心な人と、読む本が欲しいと思う退屈な人との間には大変な相違がある」というこだが、この後者に対してはとりわけ書き出しが重要である。大衆文学の作家が最初の一行に凝るのはそのためである。
 パスカルは「パンセ」の中で、「著作するときに、最後に考えつくことは、何を最初に置くべきかを知るコトである」と言った。主知的な書物についても、導入部はきわめて重要なのだ。
 「我々に怨みをいだいている者どもが、こんどこそ復讐の思いをとげようと我々を完全に手のうchに握った時、彼等の心を和らげる一番普通の方法は、降参して彼等の憐れみと同情にに訴えることである(モンテーニュ・随想録)」
 「良識はこの世で最も公平に配分されているものである」
 ・・・デカルトの「方法序説」の書き出しは、人の意表をつくとという意味できわめて効果的であるといえよう・・・
 ・・・「というのは、だれもかれもそれが充分に与えられていると思っていて、他のすべてのことでは満足させることのはなはだ難しい人々でさえも、良識については、自分が持っている以上を望まぬのが常だからである」・・・
 ・・・「我々は容易に他人の仲に、勇気・体力・経験・身軽さ・美しさ・などの優越が存在することを認める。だが判断の優越となると、我々はこれを誰にも譲らない。だから他人の中の・単なる生まれつきの良識発している・諸々の理由は、

 (c)彼が偶然この方向に目をむけたばかりに見出しえたもので、
 (a)我々にだって見つかろう

 くらいに思っている(随想録・自惚れについて)」
 ・・・デカルトにあっては”良識”と言う概念がより明確に定義され・・・つまり”良識”とは「よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力」であり、これはすべての人に生まれつき相等しい。それなら、なぜわれわれの意見がまちまちであるかというと、考えをたどる道筋や考えていることそのものが同一でないためである。「よい精神をもつということだけでは充分でないのであって、大切なのは精神をよく用いること」である。・・・デカルトと言う一個の”精神の自叙伝”なのだ。
 ・・・異端審問の時代に・・・”精神的亡命者”となるなかれ、過去に足をとられるなかれ。これは日本の知的生活者に対する有効な警告となるだろう・・・
 ・・・(デカルトは)「感激に満たされて、驚くべき学問の基礎を見いだした」。「方法序説」の”方法”がそれで、
 (一)法律、習慣、宗教を守り、穏健中正な意見に従って自分を導く。
 (二)行動において、確固とした、またきっぱりとした態度をとる。
 (三)運命よりも自己に打ち克つことにつとめる。
 ・・・「われ思う、ゆえに我あり」・・・
 ・・・デカルトの本当の偉大さは、理性の限界をも認識していたことであろう。理性は人間の蓋然的な産物であるが真理は信仰に依存し、自然界の論証により証明することはできぬことを・・・「方法序説」は屈折光学、気象学、幾何学の三試論の序説として1637年に・・・刊行された。

 ボクのコトバ・・・「デカルト」、ねッ・・・デカルト、カント、ショーペンハゥエル・・・彼が何を言おうとイインだけれどねッ。「科学的な分析、総合の理性」であろうが、理性では証明できない「(宗教的)信仰の真理」であろうが、生きているのは「事実」としての「今現在のボク達」だから。
 いつの時代でも「人間の精神」は自分も含めて状況的な環境の諸関係で「考えるコト・妄想するコト」を望んでいるのさ。しかも「コトバ」で・・・それにしても「精神的亡命者」とは、この本の著者の時代(1970年代)とは別な意味で、「インテリ」ではなく、ごく一般的な生活者が「鬱病」と言う「精神的亡命者」とならざるを得ない現状があるみたいである、ナッ。

 考える葦・「パンセ」(パスカル)・・・美しい普遍性・・・肩書き社会の中で肩書きがなければ生きられず、また肩書きだけにしがみついて生きている現代(1970年代)の日本人には、大いに反省の契機となりうる認識である・・・
 ・・・爪先を向けよう・・・
 「人間はひとくきの葦ににすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だがたとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬコトと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることの中にある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えるコトに努めよう。ここに道徳の原理がある」
 ・・・(パスカルには)まず(神への)信仰の世界という大枠があり、その中で「考える」という手段を通じて、人間の自由、主体性、尊厳を守ろうとする・・・・

 ボクのコトバ・・・「パンセ」執筆の動機は「姪の眼病」が「神の奇跡」によって治癒したことからであったらしい。「種」のある「奇術・手品」は「合理的なトリック」である。それと違う「奇跡」には「種」が見いだせない(?)・・・今現在、見いだせないデケなのかも・・・ネッ。「奇跡」がアルなら「奇跡の合理的な現象構造」があるハズである・・・「軌跡の機能発現構造」は「人間自体の内部」にあるハズと思うが、わからないコトは、「存在の反応、発現機能」ではなく、「存在」するモノが「何故、存在」するのか、と言うコトである。

 遠き人生の旅・「天路遍歴」・・・鋳掛屋の名作・・・虚栄の市・・・120ヶ国に翻訳・・・天国の門・・・

 ボクのコトバ・・・「天国」は退屈だと思うョ、なッ。「地獄」は鬼が追っかけてくるんだから退屈なんて言ってられない。でも、「変化」があって面白いかな、ッ。
 やっぱ、生きているこの「地球」が一番イイんじゃぁないのッ・・・