943日目・・・老中は備後福山藩主(広島県)阿部正弘(1819〜1857当時33才)。「安政元年・嘉永七年(壱千八百五拾四・1854年=甲寅年). ペリーが江戸湾に再来・参(3)月参(3)日(3月31日)日米和親条約(神奈川条約)を締結・・・中国清王朝・咸豊帝(かんぽうてい、道光壱拾壱年陸月玖日(1831年7月17日)〜咸豊壱拾壱年漆月壱拾七日(1861年8月22日)、在位1850年3月9日〜1861年8月22日)は中国清朝の第九代皇帝・諱は奕詝(詝→言+宁)・廟号は文宗(ぶんそう)・「咸豊帝」・道光帝

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 壬辰年(弐千壱拾弐年)・・・あれから6(陸)年目・・・「2006(丙戌・平成壱拾八)年・壱拾弐月・弐拾壱日」に書いた「187日目の記事」の貼り付けデス・・・「ワールドくりっく(朝日新聞)」・・・「国家の本質(?)」・・・どうやら、この記事を書いた人は、今現代の「イラク」や「スーダン」などの国内無秩序の中、暴力的なテロでの殺害現状をコメントした「アナンのコトバ(独裁者の方がまし)」を捉えて「国家の本質」を「警察秩序」と見なしているらしい。
 二者択一としての「独裁国家秩序」での「生命の保証」か、「国家警察秩序の崩壊」での「銃、及び殺害武器を有した無差別的な暴力的殺し合い」が頻繁に起こる中での「自己防衛」による「生命の保証」か、と・・・

 かってのアメリカ新大陸開拓時代の「拳銃をぶら下げた無宿者の存在」は「法」も「社会秩序を守る保安官」もいなかったにもかかわらず「無法者」と呼ばれた。「無法者」の「法」とは「道徳・倫理」のコトを指しているのだろうか(?)。ならば、この「無宿人」達は「無道徳・無倫理」の人々だった。ほとんどが「山賊・海賊」に類する人間であったろう。

 しかも、「国家」としての「法秩序・警察機構」がある現在のアメリカ合衆国内での「殺人事件」は何秒間、何分間の内に「銃による殺人事件」が頻繁に起きている。

 確かに人数はアメリカよりは遥かに少ないが、「法治国家」であるらしい「日本国」では「銃」と言う武器ではなくても一日に「ニ、三人の殺人事件」が報道機関によって報道されている。

 世界各国の「自動車事故」による「死亡」は過失が多いとは言え、「殺人事件」と言えるようなモノばかり・・・

 当然、「武器」も「自動車」も少ない「国家」ではその「兇器」ともなるモノでの「殺人」は少ないだろう。

 「法治国家」の秩序があろうが無かろうが「殺人」は起こるし、その「殺人」から被害に会わないようにするためには「自己防衛」しかない。「秩序がある所」でも、「武器の無い所」でも「殺人」は起こるのだ。「国家の法律・法機構」が個々人の「生命」をまもってくれるモノではないからだ。ほとんどの「法の執行」は「詐欺・強盗・傷害・殺人」の後に「発動」する・・・被害者にとっては後の祭りだ・・・ョッ。

 中日新聞に現在掲載されている坂口安吾の「堕落論」は「既成秩序(帝国日本)=国家秩序、規範、ルール=天皇制」、「過去の規範(道徳・倫理)」の「否定」としての「堕落論」であった。だから、「堕落」は「新たな秩序」の根源として捉えられている。「堕落」は「無秩序」ではない。「既成秩序の否定」として、「新たな秩序の出発点」として・・・しかも、想定されているのは「敗戦日本国内」での出発点としての「堕落」である。モウ少し言えば「堕落」自体が「秩序」なのだ。そして、モウ少し言えば「日本的堕落」とは「アメリカ式の秩序の受け入れ、容認」だった。「堕落の基準」とは「日本的規範」から逸脱するコトであった。しかも自ら考え出した「新たな規範」では無く、「アメリカ」から借りてきた無条件の受け入れと「真似」であった。

 「ジュンちゃん」もプレスリーの無条件の「ファン」であった・・・「不安」じゃぁないよなッ・・・日系一世、二世、三世からは「恥さらし」である。当時の日系人の子弟がアメリカ国家に「忠誠登録」し、「アメリカ軍」として殆どがヨーロッパ戦線で戦死したのを「ジュンちゃん」は理解していないであろうな・・・もちろん、「アベちゃん」も。「忠誠登録」とはアメリカ国内に沙漠に隔離収容された「日系人同胞、家族」の「命の保障」であった。「忠誠登録」とはアメリカ政府による「国家的強制」であった。ナニが「自由の国」であるものか・・・今現在のアメリカ政府のアメリカ国内に住む「イスラム教徒」の扱いをミヨ、ッ。

 「国家の本質」とは「支配階級の利害」を「スベテの国民」に貫徹させるための「ルール」である。「被支配階級」に対してだけではない。「スベテの国民、市民(支配階級に属する人間も含む)」としてである。

 「ルール」とは「相互の諸関係の約束事」であり、「約束事」は「音声コトバ」で「記憶されたモノ」であり、「コトバで記録されたモノ」である。「階級序列社会」の枠内で「相互の立場を認め合う約束事」であるから一方に不利な約束でも「不利な立場」で、その「約束=法」を納得し、その「履行」を守り、「実行」するのである。そして「支配階級の利害」はまもられていく。

 そして「社会共同体の秩序」は「国家秩序=階級秩序」と言うモノがなくても「存在」するハズ、なのだ。

 毎度、毎回、シツコイけれど、

 「?殺すな」

 「?騙すな」

 「?盗むな」

 「?差別するな」

 と、「禁忌文」として。

 そして「国家」は「支配階級の利害貫徹」、すなわち、「富の管理の独占権」、「富の配分の独占権」、そのタメの「暴力の独占権」を貫徹する条件とあれば、

 「?殺せ」

 「?騙せ」

 「?盗め」

 「?差別しろ」

 と、その「法秩序」を「肯定命令文」とするのだ。モチロン、「命令→義務」として・・・

 「人間個々人の立場」とは「生存・実存」としての「自己独裁=自我決定」で、「エゴ=セルフッシュ」である。だが、人間諸関係は決して状況的なバランスに於ける「平等・同等」ではない(老若男女、体力、能力等)けれど、「対等」であると、する「立場」に立つならば、

 「?殺せ」

 「?騙せ」

 「?盗め」

 は必要としないモノとなるだろう。実現は今現在も、未来も、「不可能」に思えるが、「社会共同体」としての「考え方」、「思想」である。

 「独裁者の国家」もその「独裁権力」によって「無差別に殺人」をするのである。「民主主義の国家」も「選択(選挙)=個々人の選択権」で特定の人物に「独裁権」を与えるのである。

 そして「自由主義の国家」などは無いのである。「自由主義」とは、あっても無くても「私的なカネの使い方の自由」な「主義」である。「国家」ではなく、「国家枠を超えたカネの使える人々の自由」である。

 「屈辱」を受けたら「生」よりも「死」を「選べ」と「教えられてきた」のは「武士」である・・・「責任」の問題ではなく、「義務」としての「死の選択」は「帝国日本人」も「教えられてきた」・・・だが、敗戦で「一部の軍人・政治家」以外は自ら強要した思想、「戦陣訓」を投げ捨て「生」を選択した。

 この「生」は「命令」された「義務」であった・・・から・・・「帝国日本支配者階級」は毛頭、自らの「死の選択」を考えていなかったのさッ。

 「自由・人権」は「生活の安全の前にはニ義的」ではないのさ・・・「自由・人権」を「確立」するタメの「駆け引き」をしながら「生活の安全」をまもっていくのさッ・・・そして、かっての「日本地域に住んだ人々」はシタタカに「命」を繋いできたのさ・・・