無為・・・生滅する現象世界の一切の事物・・・有為
2877日目・文字霊日記
吴=口+天=吳=口+ㄣ+一+人=大声を出して騒ぐ人
吴=口+天
異体字「吳(繁体字)・呉(新字体)」
大声を出して騒ぐ
古代中国の王朝『呉』
長江下流域から江南地方の異称
・・・「吴=口+天」ならば天空を裂く
豪雨と雷雨の轟音だろう・・・台風の目=口・・・?
だが、「呉=吳=片手を上げ、片手に棒を持って
舞い廻る(円舞・歩き回る)人」に見える・・・?
↓↑
实=實=実=み・みのり・たね
・・・實=宀+貫
宀+毌+貝
宀+毌+目+ハ
・・・ハ=漏斗(じょうご・ロウト)
の逆字形?
funnel-shaped
funnel(ファネル)
ジョウゴ=畳語・冗語・剰語
上居
上戸(drinker
tippler
boozer)
宇(空)を貫く目の八・・・台風の眼?
ヤマタのオロチ
(八岐大蛇・・・・八山支一人中厶宀匕
八俣遠呂智・・・八人吴(呉・吳)袁辶呂知日
八俣遠呂知)・・八人吴(呉・吳)袁辶呂知
俣=イ+吴(呉)・・・国字
人物は「呉國の人」・・・?
人物は「呉(くれ)の人」・・・?
「三国志」の魏呉蜀・・・戯語植(誤植)
呉(Wu=ウぅ・222年~280年)
孫権が長江流域に建国・首都は建業(南京付近)
孫呉・東呉
222年
魏に対して称臣の
孫権が
「黄武」と言う新しい元号を使用し
魏からの独立宣言した年
呉の建国として
孫権が皇帝に即位した
229年を採る場合もある
父の孫堅
兄の孫策
の継承
實=実
=ジツ・・・字通
・・・字=宀+子(一了・始終・終始)
中が詰まっている
すき(隙)間がない・・・間隙(カンゲキ)=穴
真実の・実際の
河水冻实了
川の水がすっかり凍りついた
実際・現実・事実・真実
果実・種
実物・現物・切実
名実・実意・結実・実業
↓↑
楞=木+罒+方
十+八+罒+亠+勹
異体字「棱・愣」
繁体字「愣」
リョウ
ロウ
かど
きびしい
(厳・嚴・緊・酷・峻・苛)
すみ(隅・角)
かどばる(角張る)
四角い材木・材木のかど
かどばる・いかつい
↓↑ ↓↑
大仏頂 如来 密因修 証了
義諸 菩薩
万行首
楞厳経
唐の
則天武后の時代(690~704)
インド僧
般刺蜜帝が・・・・判旨(判詞・判史)密綴?
磐氏密綴・伴氏密偵?
南海の・・・・・・難解・何回
制司寺で口訳・・・正史示字出口訳?
房融が筆録・・・・冒由有
偽経の疑い・・・・偽計・偽系
禅や菩薩戒,密教の教義を
仏説の権威を借りて総合的に主張
楞厳=クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳
の「首楞厳三昧経」と同じく
堅固な三昧の意
三昧=サマーディの音写
さんまい=サンスクリット語
ラテン文字転写
samādhi
仏教やヒンドゥー教の瞑想
精神集中が深まりきった状態
三摩地・三摩提とも音訳
心を一つの対象に集中し
動揺しない状態
↓↑
『荘子』=内偏・・・・・・「無為自然」
外篇・雑篇・・・「有為自然」
↓↑
「無為自然」・・・主体の受動状態
作為がなく、自然のまま
仏教の無為とは意味を異にする
仏教の
「為」は「因縁による為作」
↓↑
「有為自然」・・・主体の能動状態
作為が有って、自然を変革
↓↑
仏教の「諸行無常=有為」
因縁関係によって
生滅する現象世界の一切の事物
無為
因果(関係性)を離れた
不生不滅のあり様・・・?
不変化の存在自体・・・?
↓↑
「諸存在」は「諸関係」で
「相互依存」として
「存在」しているから
個々諸々の独立、単体の
「不変化の存在自体」は有りえず
「因果(関係性)を離れた」
「無為=不生不滅のあり様」
とは
人間脳ミソ内の
思考、思惟の願望に過ぎない・・・
四次元現象=「妄想・夢想」界の事象
↓↑
・・・篸=竹+參
=かんざし=髪挿し・髪飾り
=神指し
上指し
神坐し
金指し
兓
↓↑
・・・
私の外的対象⇔私の感性・感覚・五感⇔私の認識⇔私の思惟
⇔私の判断⇔私の言語発言・行動実践
私の言語記録・記述
私の外的対象⇔私の感覚享受⇔好き嫌い⇔私の理屈・批評
⇔私の言語記憶・印象記憶
⇔私の対象の考察思考設計
⇔私の習作・偽作・創作・造作、表現
↓↑
私の外的対象⇔私の感覚享受⇔私の脳神経系⇔私の肉体反応機能
私のカミのケ⇔私の神経系統の変化
↓↑
彡⇔ 三・川・𡿦・巛・・・・𡿭・巜
瞐=視覚
耳聑聶=䪭=聴覚
舙=味覚
鼻=𩡌=嗅覚
身體を覆う皮膚=掱又双叒叕=触覚
惢⇔直観覚=過去の全経験的反応
私達=众𠈌⇔厽⇔譶・𧭛・𧮦⇔吅・品・㗊・𠾅
↓↑
ム=私=Ⅰ=I=ⅰ
厸=㕕=私私=我々夫婦=Ⅱ=II=ⅱ
厽=私+私私=私と我々の子供達=Ⅰ+Ⅱ=III=Ⅲ=ⅲ
厽=私私私=私と家族=「III=Ⅲ=ⅲ」の生活生産活動
𠫬=私私私私=私と縁戚血縁一族
=「Ⅳ・ⅳ」=「V-Ⅰ」
=「IIII」=「ⅡⅡ=亖」
↓↑
參=厽+㐱・・・厽=我々家族を
㐱=乗せる㐱(𠆢の彡)
𠆢=屋根(箱舟の甲板)の
彡=水の流れの跡地
中洲(なかす・中の州)=沴
川の中の島に
乗りあがった船の上の
我々家族
厶+厸+人+彡
厶+ム+ム+人+彡
厶+ム+ム+𠆢+彡
↓↑
荘子(則陽)
荘子(荘周)の著書
道家の文献
内篇 七篇= 7=漆
外篇十五篇=15=壱拾伍=壹足伍
雑篇十一篇=11=壱拾壱=壹足壹
の
三十三篇=33
↓↑ =参拾参=參足參
参=參
・・・篸=竹+參
=かんざし=髪挿し・髪飾り
楴・鈿・釵・簪・笄・兂⇔兓(するどい)
縫い針・針を刺して縫い綴(つづ)る
參=厽+㐱
厶+厸+人+彡
厶+ム+ム+人+彡
厶+ム+ム+𠆢+彡
「𠆢=ノ+ヽ=ノ+丶=ノ+乀
・・・人⇔入・八
ひとがしら(人頭)・・・へ=ヱ
ひとやね(人屋根))」
「彡=サン・セン=長く垂らした髪飾り
刷毛跡・毛羽あと・爪痕・引掻き傷」
「㐱=髪の毛が多い 黒髪・稠髮
鬒=髟+眞」
髟=镸+彡
Γ+三+厶+彡
厂+三+ム+彡
三+丨+一+厶+彡
ヒョウ
髪の毛が
長く垂れ下がるさま
沴=氵+㐱=水+㐱
氵+𠆢+彡
レイ・ライ
水不利也・从水㐱聲
スムーズ(smooth)な
流れを妨(さまた)げる
中洲(なかす)
參
サン
シン
みっつ・みつ
まいる・まいった
まじわる
いりまじる
加わる・仲間にはいる
参加・参陣
目上の人に会う
高貴な人に謁見する
比べる・調べる
契約書で
書き換え防止の為に
「三」の代わりに用いる「大字」
二十八宿の一
からすき(唐犁・唐犂)星
長短不揃いに入り混じるさま
参差(シンシ)=長短の等しくないさま
参差錯落
「あらゆる建築の様式を
一軒づつ別にさせて
ヱネチアの町のように
参差錯落たる美観を造るように
(森鴎外・妄想)
参差不斉(シンシフセイ)
まいる=神社や寺などに詣でる
まいる=行く、来るを
へりくだっていう語
↓↑ まいる=負ける・弱る・参った
「荘子」本文の
字 数=約、六萬伍仟文字
譯、陸(理句)蔓撰文字?
晋代
郭象・・・郭(くるわ)の象(かたち)
「郭務悰」を設定登場させ
「記紀」に絡ませた?
廓(くるわ)通いの粋なアニさん・・・?
郭=享+阝
享=亠+口+一+了
=亯=亠+口+日
享=亯・・・子(一了)=日
子刻=二十四時
一日の境目
キョウ
あたる・・・當
うける・・・受
授受・與受
・・・生殺-与奪?
すすめる
すすめる
もてなす
たてまつる
まつる
供える
供え物をする
受けとる・受け入れる
あてはまる・かなう
薦める・受ける
務=矛+攵+力=务
矛+务
予+丿+夂+力
龴+乛+亅+丿+夂+力
ム・ブ
つとめ・つとまる
つとめる
あなどり
あなどる
はたらく・尽力する
仕事・役目
努力して・できるかぎり
あなどり=侮=人は𠂉で毋(毌・母・貫)く
・・・穴+鳥=鴪=イチ・イツ
はやい
異体字「鴪・鴥」
鳥の速く飛ぶさま
「鴪 隼(イツジュン)=はやぶさ」
・・・なぜ、穴の鳥が
「鴪=速い」なのか?
鴥=鳥+宇(宀・空・天蓋)の八(捌)
鴪(鳥が
穴=すきま=隙間を
すり抜ける様に速く飛ぶ)⇔燕・鳦?
あなどる=侮=イ+毎(𠂉+毋・𠂉+毌・𠂉+母)
人が髪挿し(𠂉)で貫く
イは貫=毋毌母の目のㇵ
つらぬく目の人(ㇵ)
マ=又・・・?
マ=々・・・?
マ=ムの反転の字・・・?
マ=フ+丶
=𠃌+丶⇔刁・刀
刁=𠃌+㇀
異体字「刀・叼=口+刁」
舌がぶら下がった鐘
古代の軍事道具
鍋と警告用の銅鑼とを兼ねた
刁斗(チョウトウ)
軍隊で
鍋(なべ)と銅鑼(どら)を兼ねた
銅器
昼は食物を煮
夜は打ち鳴らして警戒
するのに用いた
ずるい・チョウ(テウ)
↓↑ 狡猾
↓↑ 悰=忄+宗=ソウ・ズ・たのしむ=愉
「郭象」が
漢の時代の荘子の教材を分析し
荘周
の思想と
異なるものが
混じっていたので
10分の3を削除したモノ・・・
↓↑
『史記(老子韓非列伝)』
『荘子』の書は
十万(萬)余字
『漢書(芸文志=藝文志)』
↓↑ ↓↑ ↓↑
・・・安芸=安藝・・・あ藝⇔瓊々藝=邇々藝
芸亭=藝亭・・石上 宅嗣
・・・阿閦寺(アシュクジ)を建立
閦=シュク
おおい
英語=crowd=群衆・群れる
crow =カラス・鴉・烏
cloud =クラウド・雲
ア シュク ジ
阿(亜・倦・鴉・蛙・丫)宿 字?
倦怠・厭・猒・阿伎留・秋留
↓↑ ↓↑ ↓↑
「阿藝 登比」(自阿下四字以音)
誉津別命(日本書紀)
(ほむつわけのみこと)
本牟都和気命(古事記)
本牟智和気命(古事記)
品津別皇子(尾張国風土記逸文)
垂仁天皇の第一皇子
母は
狭穂姫命(日本書紀)
(さほひめのみこと・彦坐王の女)
沙本 毘売命(古事記)
佐波遅比売命(古事記)
↓↑ ↓↑
垂仁天皇(崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)
第11代天皇(垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)
活目入彦五十狭茅天皇(日本書紀)
活目入彦五十狭茅尊
(いく めいりびこいさちのみこと)
伊久米伊理毘古伊佐知命(古事記)
(いくめいりびこいさちのみこと)
崇神天皇の第三皇子
都は大和国
纏向 珠 城
(まきむくのたまき)宮
↓↑
五十二篇
↓↑
唐代
道教を信仰した
玄宗皇帝によって
荘子に
「南華真人(南華眞人)」の号が贈られ
書物『荘子』も
『南華真経(南華眞經)』
と呼ばれるようになった
ーーーーー
↓↑
鴪
毎=𠂉+毋(毌・母)・・・阿毎王朝
ー↓↑ーーー
毌丘 倹(カンキュウケン)
?~正元二年閏一月二十一日
(255年3月16日)
中国三国時代
魏の武将
字 仲恭
河東郡・・・「加藤・過当・寡頭・下島」群
聞喜県・・・聞いて喜び懸ける?
の人
父 毌丘興
妻 荀氏・・・荀=艹+勹+日
艹+旬
旬=勹+日
シュン
ジュン
十日・十日間・上旬、下旬
十年・七旬(七十歳)
あまね・ゆきわたる・みちる
魚や野菜などの味が最もよい時期
弟 毌丘秀
子 毌丘甸・・・甸=勹+田
かり・デン
甸=デン・テン
おさ める・かり・かる
天子直属の都周辺の土地
「甸服・畿甸(キデン)」
郊外・おさ(治)める
農作物・刈
かり・狩りをする・かる
毌丘宗
娘 毌丘芝
孫 毌丘重・・・貫く阜(丘)が重る
・・・丘=キュウ=臼=旧=舊
=究・・・宄(よこしま)
↓↑
宄(キ)=宀+九
内乱・内部の災禍
邪(よこしま)な
内乱を起こすもの
「姦なり
外なるを盜と爲し
内なるを宄と爲す
(説文 解字・巻七)」
宄=𡧌=𠬚=𡧫
毌丘奥・・・
ー↓↑ーーー
公孫 淵 燕王朝 237年~238年
都城 襄平
姓・諱 淵
字 文懿
生年 不詳
没年 紹漢二年八月二十六日
(238年8月23日)・・・貳陌(辟)参拾(足)捌撚
捌解通 念参比
父 公孫康
年号 紹漢 237年~238年=景初二年
景初二年六月
238年
卑弥呼の帯方郡への遣使
公孫氏滅亡の直前
魏志倭人伝
↓↑
卑衍(ヒエン)・・・卑弥呼との縁戚?
公孫淵の配下の将
公孫淵討伐に進軍してきた
司馬懿と戦い
夏侯覇に討ち取られた
ー↓↑ーーー
景初二年(238年)
遼東
公孫淵が反乱
司馬懿は征討を命じられ
毌丘倹
胡遵
らと
公孫淵討伐に出発
曹叡は
司馬公に
戦局を任せた
↓↑
公孫淵は
呉に援軍を求め
孫権は使者を殺害しようとしたが
配下の
羊衜は恩を売った方が得策と進言
孫権は
援軍を約束した
司馬懿は野戦で
公孫淵が派遣した軍勢を破り
公孫淵は籠城
公孫淵軍の食料は底をつき
使者を送り
人質を差し出して
和議と助命を嘆願
司馬懿は拒絶
公孫淵は子の
公孫脩とともに
数百騎の騎兵隊を率いて逃亡
司馬懿は追撃して
公孫淵親子を斬り殺した
呉は援軍を送ったが
既に公孫淵父子が敗死
遼東で略奪して引き上げた
↓↑
邪馬台国の
卑弥呼が魏に使者を派遣
司馬懿は自らの徳として
厚遇した・・・
↓↑
景初三年(239年)
曹叡が死
曹真の長男
曹爽と共に
次代の帝
曹芳の補佐を託された
↓↑
曹爽の画策で
司馬懿は名誉職の太傅に転任
軍権はそのままで
対蜀漢の最前線を任され
曹爽が内政
司馬懿が軍事
↓↑
当初は
曹爽が年長の
司馬懿を立てていた
↓↑
正始二年(241年)
呉の
朱然らが
樊城を包囲
軽騎兵を指揮し救援
朱然を退けた(芍陂の役)
『晋書』宣帝紀
干宝『晋紀』に
司馬懿は
朱然を追撃して撃破
243年
呉の諸葛恪を撤退させた
正始五年(244年)
曹爽が行った
蜀漢出兵(興勢の役)は失敗
これ以降両者の対立
後
正始七年(246年)
呉の侵攻で
曹爽は逃げて来た住民を帰すよう主張
司馬懿は反対
魏は大損害
正始八年(247年)五月
70歳近い高齢と病気を理由に引退
曹爽は
司馬懿を警戒し
司馬懿は
曹爽一派の
李勝の前で芝居を打ち
李勝が見舞いに訪ねてきた際
耄碌した姿を見せた
↓↑
正始十年(249年)一月六日
曹爽が
曹芳の供をして
曹叡の墓参
洛陽を留守にした時
司馬懿は
郭太后に上奏し
曹爽兄弟の官職を解任
司馬懿は
司馬師
司馬孚に
洛陽の宮城を制圧させ
郭太后の令を用いて
高柔
王観
に命じて
洛陽の
曹爽
曹羲の陣営を制圧
洛陽も制圧
司馬懿は
蒋済とともに
洛水の岸辺に布陣
免官するだけだと
曹爽を説得し
戦わずして降伏させた
(高平陵の変)
一月十日
曹爽らに謀反の企みとし
一族郎党皆殺しにした
曹爽の腹心の
何晏
桓範
らを一族と共に処刑
丞相の位を与えられた際
固辞した
↓↑
嘉平三年(251年)
王淩
らの企てた
楚王
曹彪を擁立のクーデターを
密告により察知し
王淩を追い込み、降伏させた
王淩は自殺した(王淩の乱)
曹彪も自殺を命じられた
後
魏の皇族をすべて
曹操時代の魏都であった
鄴に軟禁
司馬懿は
魏の全権を握ったが
同年に死去
後に孫の
司馬炎
が魏より禅譲され
皇帝となり
司馬懿を高祖宣帝と追号
ー↓↑ーーー
『梁書』
「至魏
景初三年=239年
公孫淵誅後
卑彌呼
始
遺使朝貢」
『北史』倭国伝
「魏
景初三年=239年
公孫文懿 誅後
卑彌呼
始
遣使朝貢」
公孫淵が殺された後の
景初三年=239年
『日本書紀』
神功皇后三十九年
干支年の太歳 己未=239年
分注に
明帝
景初三年(239年)六月
景初(ケイショ)
三国時代
魏の
明帝
曹叡の治世に行われた
3番目の元号
237年~238年~239年
景初 元年 二年 三年
西暦 237年 238年 239年
干支 丁巳 戊午 己未
↓↑
元年三月 改元改暦し景初暦が施行
三年一月 明帝 崩御
斉王 曹芳 即位
ー↓↑ーー
宄(よこしま)
よこしま
横島
↓↑
犯・・・犯罪・犯行
菅・・・菅公・菅原道真
「邪宗門」芥川竜之介
「菅相丞」・・・?
漢・・・痴漢・漢字
奸・・・奸計
淫・・・淫乱
猥・・・猥褻
歪・・・歪曲
矮・・・矮小
曲・・・曲者
冒・・・感冒・冒寒・冒疾・貪冒・冒嫉
冒瀆(ボウトク)・冒険・冒頭
侵・・・侵犯・侵入・侵略
佞・・・侫
奸佞(カンネイ)・姦佞(カンネイ)
巧佞(コウネイ)・邪佞( ジャネイ)
弁佞(ベンネイ)・便佞(ベンネイ)
不佞(フネイ)
佞奸(ネイカン)
佞言(ネイゲン)・佞者(ネイシャ)
佞臣(ネイシン)・佞人(ネイジン)
佞諂(ネイテン)・佞弁(ネイベン)
阿・・・阿諛(アユ)・曲学阿世・おもねる
违・・・違
邪・・・邪悪
侫・・・佞・侫媚(ネイビ)・こびる
姦・・・強姦
違・・・违
違反
叛・・・叛逆
逆・・・逆心・逆臣
謀・・・策謀・謀議・陰謀
辟・・・闢
辟易・徴辟
招辟(ショウヘキ)・大辟(タイヘキ)
百辟(ヒャクヘキ)・復辟(フクヘキ)
便辟(ベンヘキ)
慝・・・奸慝・姦慝・淑慝
匿・・・隠匿・匿名・竄匿(ザントク)
潜匿・蔵匿・秘匿
僭・・・僭称
冤・・・冤罪
讒・・・讒慝(ザントク)
讒=言+兔+兔
言+毚
毚=㲋=大型のうさぎ(兔)
素速く逃げる兔
転じて「狡猾」
狡・・・ずるい
猾・・・ずるい
ー↓↑ーーー
毌丘 倹(カンキュウケン)
↓↑
父は曹操に仕えた
曹丕(文帝)の時代
武威太守
蘇則
郝昭
と共に
雍州・涼州の平定に功績
将作大匠
毌丘倹は父の死後
爵位を継いだ
↓↑
毌丘倹
曹叡(平原王・明帝)
に即位前から仕え、厚遇
曹叡
即位時に
尚書郎
羽林監
に昇進
後
洛陽の典農
曹叡の土木工事を諌め
荊州刺史
幽州・豫州・揚州
刺史を歴任
↓↑
高句麗遠征
遼東の
公孫淵
は
呉の
孫権の調略い加担
毌丘倹は
曹叡の命令により
幽州刺史に転じ
237年
高句麗
烏桓
に援軍を求め
余剰戦力を動員して
公孫淵征伐を図った
衛臻から
兵数に任せ
用兵を軽視していると批判された
公孫淵を攻めきれず撤退
公孫淵を増幅
燕王を自称
238年・・・239年=景初三年 卑弥呼 魏に遣使
司馬懿
の指揮下で
公孫淵を破った(遼隧の戦い)
功績で
安邑侯に昇進
↓↑
呉の朝鮮半島調略
魏が
楽浪郡
帯方郡
を設置
高句麗の
東川王(憂位居)は
公孫淵討伐には協力的だったが
242年以降
魏と険悪な関係になった
毌丘倹は高句麗へ攻勢
244年
東へ進軍
高句麗を大破
都の
丸都を蹂躙
東川王(憂位居)は逃亡
司馬師が実権を握り
胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰
と共に
四方の都督の一人として存在
252年
鎮南将軍・豫州刺史
毌丘倹は
孫権の死に乗じ
王昶・胡遵
と共に
呉征伐を上奏
傅嘏の反対があったが
出征許可(東関の役)
毌丘倹は
王昶と共に
荊州方面で
陽動軍を率いて
呉を牽制
本隊を率いた
揚州方面の
胡遵・諸葛誕が
呉の
諸葛恪に敗れ
失敗した(東興の戦い)
毌丘倹は鎮東将軍に転じ
敗北した
諸葛誕に代わり
文欽(揚州刺史)
と共に呉への備えとして
揚州に鎮すことになった
↓↑
253年
諸葛恪が
魏に侵攻
毌丘倹は
文欽
司馬孚
合肥新城の
張特と共に防ぎ
撤退する
諸葛恪を
司馬師の指示に従い
文欽と共に追撃
(合肥新城の戦い)
毌丘倹は
戦死した兵士の功績を上奏
家族のために便宜を図った
(三少帝紀)
↓↑
毌丘倹
文欽
の反乱
254年
司馬師が
夏侯玄
李豊等
のクーデターを鎮圧
曹芳(斉王)を廃位
夏侯玄
李豊
と親しかった
毌丘倹の地位も不安定となった
毌丘倹は
元
曹爽の寵臣
文欽を取り込み
反乱の準備
255年
天変を瑞祥と確信し
文欽と共に6万の兵を率いて挙兵
司馬師の排斥を上奏したが容れられず
司馬師は
王基の意見を容れ
十数万の討伐軍を送った
司馬師は
毌丘倹が弱勢を見定める
自壊を待ち
諸葛誕
胡遵
に
毌丘倹の本拠、寿春を脅かさせ
毌丘倹軍の将兵を次々に投降させた
鄧艾が一万余の兵を率いて
楽嘉に駐屯していたため
文欽と子の
文鴦は
楽嘉を攻めようと画策
司馬師らが大軍を率いて
楽嘉に駐屯していたため
文欽・文鴦らは恐れをなし
戦線を東に下げた(楽嘉の戦い)
文鴦が魏軍相手に善戦したが
司馬師は
近衛騎兵隊を放って追撃
文欽を撃破
文欽・文鴦
らは数万の軍勢と共に
呉へ亡命
毌丘倹は
文欽が負けたと聞くと
軍勢を捨てて逃走
弟の
毌丘秀
孫の
毌丘重
は呉への亡命成功
↓↑
毌丘倹
自身は逃走中に
安風津の都尉配下の民
張属に討たれた(毌丘倹の反乱)
首級は都で晒された
↓↑
子の
毌丘甸は在京していたため
逃走を図ったが捕らえられ誅殺
妻の
荀氏も捕らえられたが
縁戚の
荀顗
荀虞の嘆願で助命された
身重であった娘も
母の荀氏が
何曾に助命を嘆願し許された
毌丘倹の子(毌丘甸の弟)で
呉への使者となった
毌丘宗はそのまま呉に仕えた
西晋が呉を討伐すると
毌丘宗とその子の
毌丘奥は許され
西晋に出仕
↓↑
毌丘倹の遺跡
1906年
輯安北方で
「毌丘倹紀功碑」が発見
242年(魏の正始3年)建立
高句麗征伐の功績を称えたもの
2005年3月5日
本籍地
山西省
運城市
聞喜県で
毌丘倹と一族を祀った碑が発見
碑には
毌丘一族18名の姓名
背面の下方に
「難主毌丘儉」
と刻まれていた
毌丘元顯が
399年頃に毌丘寺で修行
この前後に建立された・・・
↓↑
諸橋轍次
大漢和辞典
及び
中華書局本発行の
『晋書』にある
「校勘記」によると
姓の
『毌』の字は「貫く」の意で
「毋(ブ・なかれ)」
「母(ボウ・はは)」
と混同し易いが、別字
しかし
『晋書』の注釈書の一つ
『晋書音義』によると
「毌」の字は「毋」であり
音は
「ブ(無)」で
「ブキュウケン」
と読むべきだと記され
後者の説に従う学者も多い・・・
裴松之によれば
「毌丘倹」は
「司馬孚と我々は計略を立て
要害の地を遮り
戦闘を避け
引き返して
合肥新城を守りました
死者が泥にまみれたものの
魏の将兵は昼も夜も守り続け
100日間頑張りました
魏が軍隊を持って以来
これほどの苦難は
存在しなかったでしょう」
と上奏・・・
原文は「ウイッキペデア」・・・デス・・・
ーーーーー
・・・???・・・「よこしま」と訓読みするカンジが多い・・・
「よこしま=横島・横嶋・横嶌」がナゼ「邪悪」なのか・・・?
「よこしま=横縞」で「たてじま=縦縞」でないから・・・
命令系統の
「横列=横の序列=平等」・・・横島・横縞・・緯度?
「楯列=縦の序列=高低」・・・縦島・縦縞・・経度?
↓↑
緯書
漢代
儒家の経書を
神秘主義的に解釈した書物」
「緯(よこ糸)」
「経(たて糸)」
経書に対応する
書物(群)を指して
「緯書」
↓↑
七経
『詩・書・礼・楽・易・春秋・孝経』
に対して
「緯書」が作られ
「七緯(シチイ)と総称
↓↑
狭義の
緯書は
経書の注釈
経書の内容に
従って書かれた書物を指しているが
緯書は
天文占など
未来記としての
「讖記(シンキ)」
と同様の内容を含んでいる
広義では
緯と讖とを総称して
「緯書」と呼んでいる
「讖緯説・讖緯思想」
とも呼ばれている
前漢末~後漢
隆盛し
後漢では内学と呼ばれた
緯書の原本は
「隋の煬帝」により
禁書処分されて散逸
三善清行による
「革命勘文」
(『群書類従』
第貮拾六輯 雜部所収)
に『易緯・詩緯』が
逸文として断片的に残る
鄭玄の注に
辛酉革命説の記述
神話や伝説、迷信
などを含む一方
天文や暦法、地理
などの史料を含む
↓↑
緯書遺例
↓↑
易緯乾鑿度
書緯考霊曜
詩緯含神霧
礼緯稽命徴
楽緯動声儀
春秋元命包
孝経援神契
尚書中候握河紀
論語讖比考
河図括地象
洛書霊準聴
ーーーーー
・・・