2188日目・・・昨夜は圧巻の野球ゲームだったが・・・俄か(にわか=似和歌?)旗振り・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・「幢(ドウ)=巾+童」=「昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種・彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした・はたほこ・魔軍を制する仏、菩薩のしるし。また、仏堂の装飾とする垂れ布(たれぎぬ)・古代の儀式に用いる)吹き流し・旗・仏教の経文を刻んだ六角形または円形の石柱=経幢=石製は石幢(セキトウ)」・・・以下はスベテ「黄幢(コウドウ)」に関するブログ記事を参照、参考にし

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 黄幢(コウドウ)
 黄幢とは、黄色い吹き流しのような 軍旗
 黄幢(コウドウ)(軍の指揮に用いる旗)
 黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)
 黄幢(黄色い旗さし)
 黄幢(旗・幡・旛・将)=幡鉾
    はた=機・秦・羽田・葉多・波多・波田
       秦・畑・畠・傍・側・端・圃
 黄幢(黄色い旗ぼこ
        =戈・矛・戛・鉾・鋒→殳=ほこ・シュ・ズ)
 黄幢(コウドウ→憧は幢に修正・・・???)
          「紹煕本」では
          「百衲本」の「黄幢」を「黄憧」とする?
          「幟」は「のぼり」
          「幡」は「はた」・・・八幡(ヤハタ)
 黄竜旗=中国清朝の国旗・黄色地に竜を描いたもの
 黄龍チベットの旗=九寨溝 黄龍


 四神相応=風水の地勢や地相
  ↓↑  四神に中央に
     「黄龍」、「麒麟」を加え「五神」
      背後に山、前方に海、湖沼、河川の水が配置されている
      背山臨水の地
      左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵
      背後の山よりも低い山で囲むことで
      蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態
      四神は、
      背後の山が玄武
      前方の水が朱雀
      玄武を背にして
      左側の砂が青龍
  ↓↑  右側が白虎 
 北は黒龍
 西は白龍
 南は赤龍
 東は青龍
 中央は黄龍
 四海竜王より上
 黄竜と合わせて「五竜
 中国皇帝の旗
 中央を守る
  ↓↑
 四方を司る水の神
 西遊記封神演義の物語に登場
  ↓↑
 封神演義では
 リナタ(李哪吒)=ナタク
 托塔天王(毘沙門天)の
 三男が龍神退治するハナシ
  ↓↑
 7歳(身長6尺)のとき、
 東海龍王敖光の巡海夜叉の
 李良と
 龍王
 三太子敖丙を殺し
 敖丙の背筋を抜き
 父の怒りをうけ、
 罪をあがなうために
 自らの肉と骨を切り自害
 死後母親の夢に現れ、
 己の行宮を建てるよう頼んだ
 神像が
 3年間受香すれば再生できるはずだったが、
 事の次第が
 李靖(唐代の太宗に仕えた軍人・政治家)=李藥師
 に発覚し行宮を焼き払われたため、
 太乙真人は蓮の花に金丹を入れて肉体とし
 哪吒を復活させ、
 父とは
 燃灯道人がとりなし和解
 闡教の道士として父や兄と共に
 周陣営に参加し、
 以後
 商の仙人と闘う
 三面八臂の姿を得た
  ↓↑
 四海竜王
 唐の玄宗が、
 751年に四海の神を封じ
 広(廣)徳王(東海)、
 広(廣)利王(南海)、
 広(廣)潤王(西海)、
 広(廣)澤王(北海)
 の称号をそれぞれに授けた
  ↓↑
 孫悟空にもやられる龍神
  ↓↑
 長男、東海竜王傲廣
 次男、南海竜王敖欽
 三男、西海竜王敖閏
 末弟、北海竜王敖炎
  ↓↑
 龍宮(水晶宮)で
 エビ(海老・蝦・鰕・螧)や
 カニ(蟹)たちに守られ
 海を統治し、雲と雨を操り
 怒ると、都市を洪水にする
 東海竜王が最も大領土をもち
 それぞれ別名を有する
  ↓↑
 東海龍王=敖廣(ごうこう)=廣徳王
 南海龍王=敖欽(ごうきん)=敖紹=廣利王
 西海龍王=敖閏(ごうじゅん)=廣順王
 北海龍王=敖順(ごうじゅん)=敖炎=廣澤王
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 龍神か、蛇神か
 ・・・辰巳(龍蛇)は南東の「戊己=土」に位置


  ↓↑
 伏羲と女媧
  ↓↑
 伏羲=宓羲・包犠・庖犠・伏戯・伏義・伏儀
    三皇の一人
    姓は鳳(凤)姓・太皡庖犠氏は風姓?
    八卦をつくり
    人間に
    漁猟を教えた
 女媧(ジョカ・Nüwa)=女希氏・媧皇・女皇
 古代中国神話の土と縄で人類を創造したとされる女神
 笙簧の発明者
 縄の発明者、葛天氏と同じく伏羲の号に属
 三皇の一人に挙げる説・・・
 姿は蛇身人首
 姓は風
 伏羲とは兄妹で
 身は竜体=人首蛇身
 同じく竜体の伏羲と下体が相交わる神像
 「風俗通義(フウゾクツウギ(後漢末)」には、
 女が人間をつくった
 彼女は初め黄土を人の形にこねあげ、
 人間を丁寧に1人ずつつくっていたが、
 作業に骨が折れすぎて休むまもないのに
 業(ごう)を煮やし
 女は、ついに縄を泥中に浸してそれを引き上げた
 そのときに縄から飛び散った
 泥のしずくがすべて人間になった
 伝承の変化で、
 女は三皇の一人
 男性神の伏羲(ふくぎ)と夫婦となった・・・
 上半身は人間、
 下半身が蛇形に描かれ、
 女媧は右手に「ぶん回し(コンパス)」
 伏羲は左手に「物差し(定規・曲尺)」
 を掲げる
  ↓↑
 中国の黄河黄竜・・・沙漠の竜巻・・・蜃気楼?
 琉球王朝の海人は、
 黄色旗や
 百足(ムカデ)旗を掲げ
 航海の無事を太陽神に祈った
 イルルヤンカシュ=ヒッタイトの竜
  ↓↑ 
 太極八卦
 太極四卦旗
 「五爪龍旗・四爪龍旗」
 朴泳孝が出発前に清朝政府に
 中国の
 五爪龍旗の使用を打診
 清朝
 「潘属国は四爪龍旗の使用しか認められない」
 と拒否
 中国の使節
 馬建忠は
 中国伝統の
 大極八卦旗を国旗として使用することを勧め、
 朝鮮政府も受け入れた。朝鮮の太極旗の始まり
 清の国旗の竜は爪が5本
 藩属国は4本
 牙旗=中国で、旗ざおの先を
    象牙で飾り
    猛獣が牙(きば )で身を守る形とした
    天子または大将軍のいる所に立てる旗
    大将旗
    牙纛=呉の孫権が・・・・・・旗の色はナニ?
       中央軍につねにたてていた
       黄竜の牙旗・・・・・・龍は黄色だった?
                  黄幡=黄幢?は呉の幡
ーーーーー
 ・・・「幢=巾+童(立里)」の類字は「憧撞瞳童」・・・「魏志倭人伝」の著者(?)の漢字使用は周到であるカナ・・・帰化人の翻訳教養・・・サスガだが・・・妄想だが・・・
ーーーーー
  ↓↑
 「其の六(年?)... 同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に
  黄幢とみられるものが描かれていた」・・・?
  ↓↑
 其八年(西暦二四七年=247年)
 太守
 王祈
 到官
 倭女王
 卑彌呼
 與
 狗奴國
 男王
 卑彌弓呼・・・・卑彌弓、呼、素、不和・・・?
 素不和
 遣倭
 載斯烏越・・・・載、斯、烏を越る・・・?
 等詣
 郡説
 相攻撃状
 遣
 塞曹掾史
 張政
 等
 因斎
 詔書
 黄幢
 拝
 假
 難升米・・・・難升の米=米を升(はかる)のは難しい?
             飢饉だろう・・・
 爲
 檄
 告喩
 之
 卑彌呼
 以死・・・・・殺された・・・死を以て・・・自殺?
 大作冢
 徑百餘歩
 徇葬者
 奴婢百餘人
 更
 立
 男王・・・・・狗奴國の「卑彌弓呼」ではない?
 國中
 不服
 更
 相誅殺
 當時
 殺
 千餘人
 復立
 卑彌呼
 宗女
 壹与・・・・・・壹與、臺與
 年十三
 爲王
 國中
 遂定
 政・・・・・・・「張政」なのか、政(まつり)なのか?
 等
 以
 檄
 告喩
 壹与
 壹与
 遣
 倭大夫
 率善中郎将・・・・率善か、「率膳」の御膳立てなのか?
 掖邪狗・・・・・・掖邪狗(わきやく)なのか、
          ワ記の訳なのか?
 等二十人
 送
 政
 等
 還
 因
 詣
 臺
 献上
 男女生口三十人
 貢
 白珠
 五千孔
 青大句珠二枚
 異文
 雑錦二十匹
  ↓↑
 王頎は)塞曹掾史・張政(せんそうえんし・ちょうせい)等を遣わして、詔書・黄幢(こうどう )を(倭に)齎(もたら)し、難升米(なしめ)に拜假(はいか)し、檄(げき)を為して、之を告 喩(こくゆ)す。
  ↓↑
 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
 其八年、太守王[斤頁]到官
 倭女王卑彌呼 與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和、
遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政 等因齎
詔書・黄幢、
拜假
難升米

檄告喩之。
  ↓↑
 倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。
 倭の載斯烏越等を遣わして 郡に詣り、相攻撃する状を説く。
 塞曹史張政等を遣わし、
 因って
 詔書・黄幢を齎し、
 難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。
  ↓↑
 黄幢(こうどう)である・・・
 黄幢の幢とは、軍事指揮や儀仗行列に用いられる
 旌旗(せいき)・・・?・・・旌=方+ノ一(髪挿し)+生
 の一種で、
 天子が部下に権限を付与した印しとして与えたものだった。
 遼陽北園墓の墓室には、
 騎従がもつ幢が描かれている。
 幢形のものが二つ重なって描かれている・・・?

  ↓↑
 率善中郎将
 中郎将とは交代で宿直して宮城を護衛する武官の長
 この職は、
 秦代に、始まり、
 宋代以後には廃止
 秩は比二千石
 中郎将は郎中令に属し、
 五官・左・右の
 三中郎将が常置
 必要に応じて種種の
 「雑中郎将」(匈奴中郎将・建義中郎将等々)が任命された
 率善中郎将も、 「雑中郎将」の類に属する
 率善の意味・・・帰義候・・・率善=帰義・・・?「率膳」?
 中郎将に任ぜられるのは原則として
 内臣に限られ
 「難升米」の場合はむしろ例外?・・・漢字は「難の升の米」である
 239年
 「難升米」は
 「率善中郎将の位」
 245年
 黄幢を賜った
  ↓↑
 奴国男王
 卑弥弓呼
 素
 不和
 遣倭
 載斯烏越・・・・・・載斯烏越=斯(これ・この・かく・シ)
                烏(カラス・ウ)
                を越えるコトを載せる・・・?
 等
 詣
 郡
 説
 相攻撃状
 遣
 塞曹掾史
 張政
 等因
 齎
 詔書
 黄幢
 拝假
 難升.
 (難升)米
 為
 激
 告喩
 之
 卑弥呼
 以
 死
 大冢径百余歩・・」
  ↓↑
 「幢」を、
 『後漢書』の
 班超伝
 にみえる
 李賢の注には
 「鼓吹・幢麾、皆大将所有」
 とあることを確認、
 諸橋『大漢和辞典』では、
 軍の指揮に用いる
 「はた」(はたぼこ=旗+矛)であるとしている・・・
 「幢」が「軍旗の一種」で、
 少なくとも唐代には、
 将軍・刺使の威儀を示した儀飾の一つであった・・・?
  ↓↑
 「一番古い軍旗としての幢の記録は、
  栗原の探したものでは、
  『漢書』の
  韓延寿伝という」
 漢の宣帝のとき、
 延寿が東郡太守として在任中、
 都試の際に
 「幟」を立ててこれに臨んだ・・・「幟」は「幢」か?
 自分が考案した
 「各種の儀飾り」が、反対派によって劾奏され、
 「棄市」という極刑に処せられてしまった
     ・・・棄市=公衆の面前で打ち首にして、
           その死体を市中に晒すこと
 「問われた罪が、幟を立てて都試に臨んだこと」
 だというのである・・・?「都試」って、「都の試験」?
 「幢」は、
 王権の権力行使や軍事権に関わる重要なシンボル・・・
 ・・・深く考えなくてもハタならば「重要なシンボル」であろう・・・
 「内臣以外の賜幢」の例としては、
 「泄帰泥」に与えられたものが一つだけある・・・「泄の帰の泥」・・・排泄物も泥も同じ?
 部族をひきいて、
 魏に帰属した
 「泄帰泥」にあたえたもの・・・
 「曲蓋・鼓吹を与えて、元通り住まわせ、
  鮮卑族に対抗させた」
 という記録である・・・らしい・・・研究、勉強家はスゴイねッ・・・
  ↓↑
 日本語訳は『三国志
 魏書・烏丸鮮卑東夷伝
 『世界古典文学全集24B三国志?』筑摩書房
 (現在は筑摩文庫にも収録されている)291頁にある・・・らしい。
  ↓↑
 武田幸男の黄幢の見解
 中央公論社
 『世界の歴史6隋唐帝国と古代朝鮮
  第2部朝鮮の古代から新羅渤海へ』1997年
 (中公文庫版は2008年刊 332頁〜336頁)
  ↓↑
 「魏は倭の難升米に黄幢授与することにした。
  「幢」というのは、
  袋状の軍旗であり、
  「黄」色陰陽五行説にいう五行の一つ、
  魏の土徳を意味していて、
  黄幢は魏の軍事力を象徴した。
  黄幢の授与を通じて、
  魏は軍事的連携をはかったのであろう。
  おりしも、
  魏の高句麗攻撃が最高潮にたっし、
  母丘倹が東方世界を制圧しかかっていたころである。
  帯方郡
  黄幢を届けるまで
  三年かかったのも
  郡自体が作戦の展開中だったからである。
  難升米は魏が注目し、
  高く評価した人物であった。
  卑弥呼が男弟一人を頼りに
  神聖統治の宗教的な統括者として
  振る舞う中で、
  大夫の難升米は行政実績があり、
  すでに外交手腕も認められて、
  世俗面を代表する重鎮であった。
  魏は外交辞令だけで、
  率善中郎将に任じたのではなかった。
  今度は、
  外臣としての彼に、
  軍事的な指導性が期待された。
  女王国は、
  魏の東方戦略に組み込まれていたのである・・・
  ↓↑ 
 卑弥呼の軍団に
 外国人の軍事顧問がついたのである。
 黄幢の軍事的意味あいは、
 当面、
 卑弥弓呼の打倒に向けられていたはずである。
 結局、
 張政が
 翌248年に還ったところをみると、
 それが少しでも効いたのかも知れない」
  ↓↑
 ・・・「さすが、武田幸男」ですか?・・・
  ↓↑
 先の「栗原(論文)」の
 黄幢についての見解の紹介で
 脱落していた重要な指摘に、
 呉が、
 公孫淵に与えた詔書の件があった。
 三国志呉志の注で、
 「裴松之」は
 「江表伝」を引用しているところの記述である。
 呉王の孫権
 公孫淵に送った詔書のことである。
 公孫淵
 「燕王」とするとともに、
 「戎事あれば兵馬の
 「典蓋・麾幢」を与える」・・・麾(さしまねく・キ
                軍を指図する旗)の幢
                麾下の旗
                靡(なびく)に類字
 記されている・・・・そうである・・・
  ↓↑
 橿原日記
 平成20年9月14日
 黒塚古墳から出土した
 用途不明のU字形鉄製品
 原文記事は以下
  ↓↑
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_09_15.htm
  ↓↑
 用途不明のU字形鉄製品
 県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)
 の発掘調査報告書によれば、
 大小2本のU字形に曲げられた鉄製品は、
 木棺の北小口の外側に置かれ、
 石室の北東の隅に立てかけてあった。
 2本の鉄棒の間にはV字形をとどめる鉄板製の管があり、
 大半は崩落していたが、
 U字形鉄棒の間をつないだ形を保つ部分だったと思われる。
 この製品の両側に接して、
 全長40cm前後の棒状鉄製品が立てた状態で5点、
 横にして移動した状態で9点出土したとのことだ。
 発掘当時、
 この大小2本のU字形に曲げた鉄製品が
 何であるか類推できなかった。
 そのため調査報告書でも
 「用途不明の鉄製品」と記されている。
 謎のU字形鉄製品は、
 両端がとがった長さ約70cmと57cmの
 鉄の棒をU字形に曲げ、
 その間に長さ5cmのパイプ(鉄板を丸めたもの)を
 V字形に並べパイプの中にひもを通して結びつけていたようだ。
 その後、X線撮影で調べてみると、
 リボンのような絹織物が巻き付けてあったことが判明した。
 そのため、
 一種の吹き流しのようなものではなかったかと想像された。
 だが、他に出土例がなく相変わらず
 その形状や使用目的は謎のままだった。
  ↓↑
 印綬を授かったのは、
 女王卑弥呼だけではない
 239年
 遣魏使節
 大夫・難升米(なしめ)
 次使・都市牛利(つしぐり)・・・都も市の牛の利?
 もそれぞれ
 銀印青綬を受けている
 243年(正始四)に派遣された
 大夫・伊声耆(いえせき)・・・伊の声は
                耆(おいる・ギ・シ・ジ
                老人・六十歳or八十歳)
                伯耆国(ほうきのくに)は
                鳥取県
 掖耶狗(えきやく)
 ら8人もみな
 率善中朗将の印綬を受けている
  ↓↑ 
 邪馬台国の所在地を示す物的証拠
 黄幢(こうどう)である。
 黄幢の「幢」とは、
 軍事指揮や儀仗行列に用いられる
 旌旗(せいき)の一種で、
 天子が部下に権限を付与した印しとして与えた
 遼陽北園墓の墓室には、
 騎従が持つ
 幢が描かれている。
 幢形のものが
 二つ重なり、
 上は黒、
 下は赤に塗られ、
 上のものは
 丸い傘状のものの下に
 短い垂れ下がりがあり、
 下の方は
 鳥の長い羽毛が垂れている図である
  ↓↑
 三国志・魏書東夷伝
 245年(正始六)5月
 魏の
 母丘倹(かんきゅうけん)、高句麗に侵攻
 楽浪郡の軍隊とあわせる。
 詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢を賜い、
 郡に付して假授せしむ。
 247年(正始八)
 太守王斤頁(おうき)、官に到る。
 倭の女王卑弥呼、 狗奴國の男王卑弥弓呼
 と素より和せず。
 倭の
 載斯(さいし)・烏越(うえつ)らを遣わし
 郡に詣り、
 相攻撃する状を説く。
 塞曹エン史
 張政
 らを遣わし、
 因って
 詔書
 黄幢
 をもたらし、
 難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す・・・
  ↓↑
 発掘中の黒塚古墳の石室内
 U字形鉄製品を見て、
 「黄幢」と直感した考古学者がいる。
 徳島大学
 東潮教授である。
 そのとき、この鉄製品が
 難升米が貰った黄幢ならば、
 銀印があるかもしれないと、
 発掘調査員に話したという。
 しかし、棺外の北小口にあった
 画文帯神獣鏡付近や棺内から
 銀印は見つからなかったとのことだ・・・
  ↓↑
 中国の三国時代
 魏の曹氏
 蜀の劉氏
 呉の孫氏
 と
 公孫氏 が、
 燕
 という国を建てて遼東の地を支配
 燕と対峙した
 魏は、ひそかに
 黄海を越えて
 帯方郡楽浪郡を掌握すると、
 燕王の退路を絶ってこれを攻めた。
 燕王公孫淵は敗死
 彼らが歴代にわたってきた支配領域は
 魏の支配する領域となった。
 西暦238年、
 魏の年号
 明帝の
 景初二年
  ↓↑
 239年(景初三)
 倭の女王・卑弥呼が 帯方郡を介して
 魏の都・洛陽に慶賀の使節を派遣した
 238年
 魏の
 司馬懿
 公孫淵を討伐
 高句麗
 燕に援軍を送ったが、燕は滅びた
  ↓↑
 242年(正始三)
 高句麗西安平地区に侵入
 244年(正始五)
 魏の将軍
 母丘倹(かんきゅうけん)が
 高句麗に侵攻し、
 国内城を陥落させた
 245年(正始五) 楽浪郡太守
 劉茂
 と
 帯方郡太守
 弓遵
 は、遼東の
 濊(ワイ)=氵+歳
 が
 高句麗についたので、軍を派遣してこれを伐った
 同年の
 五月
 母丘倹は高句麗に侵攻し、
 楽浪郡からの援軍と合流して戦った
 246年(正始七)
 母丘倹は高句麗の領土に侵攻
 魏が倭の
 大夫
 難升米
 に
 黄幢(こうどう)
 を授けたのは、
 魏と高句麗が緊張状態にあった最中のこと・・・である・・・
  ↓↑
 東教授が
 黒塚古墳の石室の片隅で見つかった
 U字型鉄製品に注目された理由・・・
 この鉄製品が本当に
 難升米に仮授された
 黄幢ならば・・・
 倭が魏の
 冊封体制に組み込まれ、
 倭の軍隊が
 広開土王の軍と干戈を交える
 150年も前から
 高句麗を仮想敵国としていた・・・
  ↓↑
 ただし、この黄幢に関してはさまざまな疑問がある。
 まず、
 なぜ倭国の女王である
 卑弥呼に対してではなく、
 難升米に対して仮授したのか。
 また、
 「仮授」とは仮に貸し与えることで、
 永久に授与するという意味ではない。
 つまり、
 仮授された
 黄幢
 は戦争が終われば
 返還すべき性質の旌旗であるということだ。
 それが
 何故古墳に埋納できたのか?
ーーーーー
 ・・・いやぁ〜、以上の考察は面白かったデス・・・
 ・・・ナゼですか?
 多分、「黄の幢」が巾の童で、「巾の立つ里」だったから・・・
 妄想デシタ・・・カナ・・・
 「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・ハタハタの漢字「鰰・鱩・雷魚・燭魚」・・・