2579日目・・・「遠州つばめ返し」?・・・「越冬つばめ」・・・「ツバメのウタ」・・・卑弥呼・・・西暦170年?〜西暦247年or西暦248年・・・
ーーーーー
燕国・燕州
「燕」=中国河北省北部(北京周辺)に位置
青銅器時代の都市国家
東周期に領域国家に発展し
河北省北部全体を指す
歴史的にこの地域に建てられた
国名、地方名、行政区名
農耕定住地域の華北と
牧畜の満州・内モンゴルの媒介地域
河北省そのものの雅称
↓↑ ↓↑
「燕 (春秋・紀元前1100年ごろ〜紀元前222年)」
周により封建された都市国家から
春秋時代〜戦国時代にかけて領域国家
七雄の一
陳勝・呉広の乱
↓↑
秦末期
韓広
が擁立されて名乗った燕
(紀元前209年〜紀元前207年)
↓↑
臧荼・楚漢戦争
燕の武将
臧荼が
秦末の動乱で
西楚の覇王となった
項羽に封建された
燕国
(紀元前206年〜紀元前202年)
↓↑
盧綰
前漢初期
劉邦と同郷の盟友の
盧綰が
臧荼に替えて諸侯王として
封建された燕国
(紀元前202年〜紀元前195年)
↓↑
公孫氏 (遼東)
三国時代
公孫淵
が魏からの自立を企てて名乗った
燕(236年〜238年)
↓↑
五胡十六国時代
鮮卑の
慕容部が
満州・内モンゴルから
河北省北部に当たる地域に建国
↓↑
前燕(337年〜370年)
五胡十六国時代
慕容皝の建国
↓↑
後燕(384年〜409年)
五胡十六国時代
慕容垂の建国
↓↑
西燕(384年〜394年)
五胡十六国時代
慕容泓の建国
↓↑
南燕(398年 - 410年)
五胡十六国時代
慕容徳の建国
↓↑
北燕(409年〜435年)
五胡十六国時代
馮跋の建国
↓↑
燕 (安史の乱・756年〜759年or763年)
唐代に
平盧節度使
范陽節度使を兼ねた
安禄山
が満州・内モンゴルの
遊牧民を背景に
「安史の乱」で建国
↓↑
桀燕(911年〜914年)
五代十国時代
劉仁恭(息子の劉守光)が
河朔三鎮の勢力を背景に建国
ーーーーー
燕(紀元前1100年頃〜紀元前222年)
周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国
春秋十二列国の一
戦国七雄の一
河北省北部、北京周辺を支配
首都は薊(ケイ・北京)
燕都・薊城の遺蹟は北京市房山区に所在
↓↑
燕の始祖
周建国の元勲
召公奭(召の公である奭の意・ショウコウセキ
奭=大+百+百)
姞姓の伯爵
河南省の
「南燕国」に対して
「北燕」とも
当時は
「燕」ではなく
「匽」と記録
召公の一族は
山東半島の
「奄(魯の近隣)」に封じられ
成王の時(禄父の乱の鎮圧後?)
北京近辺に移った
国名を燕といった
(奄=匽=燕=エン)
この時、現地にあった
韓侯国が入れ替わりに
陝西省に移った
燕に残った
韓の旧住民は
多く「韓氏」を名乗った
西周時代
燕の東方(遼寧省朝陽市喀喇沁左翼自治旗)に
「箕侯」という都市国家があり
「燕」の属国であったが
春秋時代を待たずに
北方遊牧民に滅ぼされ
燕に亡命した住民が多かった・・・
春秋時代以降
燕の士大夫層に
「韓」や「箕」を「氏」とする者がみられる・・・
ーーーーー
春秋時代
北方の
山戎に攻められた際
君主・荘公は
隣国の覇者
斉の
桓公に援軍を乞い
山戎軍を撃退
(紀元前664年/紀元前663年)
後
荘公は
桓公に感謝の意を表するために
斉まで
桓公の軍を送って
その際に軍は
燕と斉の国境を越えて
斉国内に入ってしまった
自国まで軍を見送らせることができる者は
天子(周王)しかおらず
時の名宰相
管仲に指摘された
桓公は
一部自領を切り取って
燕に授けた・・・
↓↑
戦国時代
紀元前334年
『史記』蘇秦列伝
「東に
朝鮮・遼東
北に林胡・楼煩
西に雲中・九原
南に呼沱・易水
がある」
紀元前323年
王(左飛)を名乗る
第2代の王の
噲は
宰相の
子之を盲信し
堯舜に倣うと言って禅譲し
騒乱状態
(紀元前315年)
翌年
斉(田斉)が付けこみ
兵を出して侵攻
全土を併合
↓↑
紀元前313年
公子職が
子之を倒し
斉軍も撤退し
公子職は
昭王となった
↓↑
昭王は
斉を憎み
復讐を誓った
昭王は人材を集めることを
郭隗に尋ね
郭隗は
「死んだ馬の骨を買う」の故事を喩え
「まず私を優遇してください
さすれば
郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから
もっと優れた人物は
もっと優遇してくれるに違いないと思って
人材が集まってきます」
と答えた
昭王はこれを容れ
郭隗を師と仰ぎ
特別に宮殿を造って郭隗に与えた
「まず隗より始めよ」・・・
燕には名将
楽毅
蘇秦の弟
蘇代
など人材が集まり
これらを使い
昭王は
燕の改革・再建を進めた。
↓↑
将軍の
秦開を派遣し
北方遊牧民族の
東胡を討つ
新領土に
郡県制をしき
上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東
の5郡を設置
秦開に
造陽から襄平までの
東西二千里にわたる
「燕の長城」を築かせた(魏略)
秦開はさらに
満潘汗(平安北道博川)に至って
朝鮮との境を定めた
↓↑
燕は
斉包囲網を形成し
紀元前285年/紀元前284年
楽毅率いる5ヶ国連合軍50万が
斉軍20万を撃破
楽毅は
斉の首都
臨淄を陥落させ
莒(キョ)と即墨を除く
斉の都市を尽く占領
燕は「朝鮮」を更に討って
朝鮮半島北部も領有
南部の「真番」を略属させ
所々に要塞を築き官吏を派遣
以後約5年間
燕は
河北省
遼寧省
朝鮮半島
山東半島
を併合
『山海経』の
「鉅燕(巨大な燕)」
「全燕(完全な燕)」・・・
↓↑
昭王が死に
子の
恵王が即位
楽毅を疑って
趙に走らせ
紀元前279年
占領していた斉は
田単によって取り返され
山東半島の領土は失った
↓↑
後は
秦が強勢となり
斉や趙に対抗するために
秦と結んだ
紀元前228年
趙が秦によって滅ぼされ
燕は秦と国境を接し
太子丹は
秦王政に
刺客
荊軻を送ったが失敗
(荊軻に同行した
秦舞陽は
秦開の孫)
秦王
政は
燕は攻め首都を陥落(紀元前226年)
太子丹は殺され
燕王喜は遼東に逃れた
紀元前222年
秦の将軍
王賁に攻められ王が捕虜となり
燕は滅亡
督亢の地(燕の本土)は
秦の広陽郡となり
昭王が置いた
5郡と合わせて
秦の統治下では6郡となった
朝鮮半島の
燕の諸要塞は
「上鄣」と「下鄣」の2ヶ所にまとめられ
遼東郡に属することになり
官吏を派遣して治められた
↓↑
秦末漢初
紀元前209年
趙にいた
武臣から派遣されてきた
将軍
韓広
が現地の燕人らに推戴されて
燕王となって自立
紀元前206年
項羽の封建により
臧荼が燕王に立てられ
燕王だった
韓広は
遼東王に遷された
臧荼は
韓広を攻め
遼東を併合
燕全体の王となった
朝鮮半島は放置
燕王
臧荼は
紀元前204年に
韓信に帰順
紀元前202年に
群雄諸王らとともに
劉邦に
皇帝の尊号を奉った
後、反乱を起こし臧荼は処刑
代わって
盧綰が燕王に封建された
紀元前195年
盧綰は
匈奴に亡命
燕国は廃され郡県となった
ーーーーー
倭との関係
『山海経』海内北経に
「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」
倭は燕の属国
↓↑
燕の姓は姞(女+吉)
↓↑
倭の位置
後の玄菟郡の
「蓋馬(西蓋馬県、蓋馬大山)」
遼東半島の
「蓋平(遼寧省営口市)」
鉅燕を『史記』の「全燕」と同じとみて
山東半島の「蓋(現在の山東省淄博市沂源県)」
朝鮮半島江原道の
「濊(ワイ)」
馬韓の「乾馬(全羅南道益山)」
↓↑ ↓↑
『山海経』海内北経
「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」
ーーーーー
公孫氏(コウソンシ)
三国時代
2世紀後半
後漢の地方官だった
公孫度が
「黄巾の乱」=黄巾之乱・後漢末期の西暦184年(中平一年)
太平道の教祖張角を指導者とする信者が
各地で起こした農民反乱
以来の混乱に乗じ
遼東地方に
半独立政権を樹立
↓↑
領土は朝鮮半島中西部の
帯方郡を境に
南は韓と接し
東北は高句麗
西北は烏丸・鮮卑
と接する
遼東以北の地は
中華圏の北東端
漢・魏王朝からは絶域
公孫氏の勢力圏を
確立
公孫康の時代以後
韓や倭は
帯方郡に帰属した・・・帯(たらし)の方(かた)の郡(こおり)?
↓↑
189年
公孫度
後漢により
遼東太守に任命
後
後漢から自立
朝鮮半島の北端である
楽浪郡
山東半島まで勢力を伸張
↓↑
204年
公孫度の嫡子
公孫康
が
楽浪郡の南に
帯方郡を設置
韓や倭を勢力下に置く
↓↑
曹操により
公孫康は
後漢に服属し
左将軍の官位を授けられた
後継には弟である
公孫恭が立った
↓↑
228年
公孫康の子
公孫淵
が謀叛し
叔父から位を奪う
当時、後漢が崩壊し
魏・呉・蜀
の三国に分立・・・
↓↑
公孫淵(コウソンエン)・・・淵=エン=円・延・猿・鉛・艶・燕
は
自領と隣接する
魏に臣従
一方で
呉と同盟工作
↓↑
236年
魏の皇帝
曹叡
から上洛を求められ
公孫淵
は魏に反旗
燕王を称した
↓↑
翌237年
年号を
紹漢・・・紹=つぐ・うけつぐ・とりもつ・ひきあわせる・ショウ
紹介・紹述・介紹・継紹
と定め
支配体制を確立
近隣部族に
印璽を与えるなどして
魏を刺激し
軍事衝突は決定的となる
↓↑
公孫淵
魏の
幽州刺史の軍勢を退けた
↓↑
238年
太尉
司馬懿・・・司馬懿=シバイ=芝居・芝井・四倍・司馬意
の討伐を受け
国都
襄平
を包囲され降伏
一族ともども処刑され
公孫氏の勢力は消滅・・・全滅?
「遼隧(リョウスイ)の戦い」・・・
↓↑
公孫恭
は魏への忠義を貫いたとして
処刑されなかったが
子がおらず
公孫恭の死により
公孫度の子孫は滅亡・・・滅亡?・・・残党は倭国へ天孫降臨?
↓↑
『新撰姓氏録』は
「常世連(とこよのむらじ)」なる
↓↑・・・常 世 連=赤染氏・・・常世連
『続日本紀』
天平十九年(747)八月
正六位上
赤染造広足(あかぞめのつくり・ひろたり)
赤染高麻呂ら九人に
常世連(とこよのむらじ)の姓を賜ふ」
天平勝宝二年(750)九月
正六位上
赤染造広足
赤染高麻呂
ら二十四人に
常世連(とこよのむらじ)の姓を賜ふ」
宝亀八年(777)四月
右京の人従六位
赤染国持ら四人
河内大県(かわちのおおあがた)郡の人
赤染人足ら十三人
遠江国蓁原(はいばら)郡の人
従八位下
赤染長浜
因幡国八上郡の人
外従六位
赤染帯縄・・・帯(たらし)の縄(なわ)
・・・帯刀・刀帯=たてわき?
ら十九人に
↓↑ 姓を常世連(とこよのむらじ)と賜ふ」
大陸から日本へ土着した
帰化人の氏族について
公孫淵
の
末裔であると記述・・・
↓↑
系譜
公孫延
↓↑
公孫度
↓↑
公孫康
↓↑
公孫晃
ーーーーー
オオヤケ(公=八ム)の
孫(孑=ボウフラの系)
系統・体系・家系
糸すじのようにつながるもの・次々につながった関係
系図・系統・系譜・系列・家系・山系・水系
直系・同系・母系・傍系
組織立ったまとまり・大系・体系
(分散しないように紐・縄・リボンで)結ぶ、締める
・・・???
・・・236年〜238年(景初二年)
「遼隧の戦い(遼寧省-鞍山市-海城市)」
太尉
司馬懿
の討伐を受け
国都
襄平に包囲され降伏
一族ともども処刑
公孫氏
の勢力は消滅・・・???・・・倭国へ逃亡?
↓↑
景初二年(238年)12月
卑弥呼、
初めて難升米らを
魏に派遣
魏から
親魏倭王の
仮の金印と
銅鏡100枚を与えられた
↓↑
正始元年(240年)
帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ
詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた
↓↑
正始四年(243年)12月
倭王は大夫の
伊聲耆
掖邪狗
ら八人を復遣使として魏に派遣
掖邪狗らは
率善中郎将の印綬を受けた
↓↑
正始六年(245年)
難升米に黄幢を授与
↓↑
正始八年(247年)
倭は
載斯
烏越
らを
帯方郡に派遣
狗奴国との戦いを報告
魏は
張政を倭に派遣
難升米に
詔書、黄幢を授与
↓↑
?- 卑弥呼が死に、墓が作られた
男王が立つが、国が混乱し
互いに誅殺しあい千人余が死んだ
卑弥呼の宗女「壹與」を
十三歳で王に立て
国を鎮定
倭の女王
壹與は
掖邪狗
ら20人に
張政の帰還を送らせ
掖邪狗らはそのまま都に向かい
男女の
生口30人と
白珠5000孔
青大句珠2枚
異文の雑錦20匹を貢いだ
↓↑
『後漢書』
建武中元二年(57年)
倭奴国が金印を授与される
↓↑
永初元年(107年)
倭国王の
帥升が
安帝に拝謁を願う
↓↑
桓帝と霊帝の間(146年〜189年)
倭国大乱
↓↑
189年前後?
名を卑彌呼
年増だが嫁がず
神鬼道に仕え
妖術を以て大衆を惑わす
↓↑
『晋書』
泰始二年(266年)
倭の遣使が入貢
邪馬台国からの最後の入貢
↓↑
『三国史記』
新羅本紀
173年
倭の女王卑弥呼が新羅に使者を派遣
193年
倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った
208年
倭軍が新羅を攻め
新羅は
伊伐飡の
「利音」を派遣して防いだ?・・・「利音」
232年
倭軍が新羅に侵入
王都
金城を包囲
新羅王自ら出陣し
倭軍は逃走
新羅は軽騎兵を派遣して追撃
倭兵の死体と捕虜は
合わせて千人
287年
倭軍が新羅に攻め入り
一礼部(地名、場所は不明)を
襲撃して火攻めにした
倭軍は
新羅兵千人を捕虜にした
↓↑
『三国史記』
于老列伝
233年
倭軍が新羅の東方から攻め入った
新羅の
伊飡の
于老が沙道(地名)で倭軍と戦った
于老は火計をもって
倭軍の船を焼き
倭兵は溺れて全滅
249年
倭国使臣が
新羅の
舒弗邯の
于老を殺した
↓↑
『梁書』
光和年間(178年〜184年)
倭国の内乱
卑彌呼、女性を共立して王とした
正始年間(240年〜249年)
卑弥呼、死亡
↓↑
『隋書』
桓帝
と
霊帝の間
(146年〜189年)
倭国大乱
189年前後?
卑彌呼、女性
鬼道を以て
よく大衆を魅惑
国人は王として共立
↓↑
『北史』
光和年間(178年〜184年)
倭国の内乱
184年前後?
卑彌呼、女性が
よく鬼道を以て衆を惑わし
国人は王に共立
↓↑
日本列島、
皆既日食
247年3月24日日没
248年9月 5日日出
ーーーーー
・・・???・・・
公孫氏は後漢の時代より遼東に移り住み、勢力を強めた
歴代の王朝は遼東を絶域とし
周辺異民族との流通交易を行わなかった
公孫氏は
後漢末期の戦乱、三国鼎立後
各国は国益と隣国への牽制も兼ね
辺境部族と交流を持ちかけるようになった・・・
↓↑
呉は
遼東に
周賀を送り込もうと謀るが
魏の
田豫に敗れ
遼東公孫氏の
公孫淵は
孫権に使節を送り
呉に恭順を示すふりをしながら
呉の使者を襲撃
その首を魏に送り
魏の
曹叡より
楽浪公と専断権を得た
↓↑
公孫淵の裏切りに
孫権は公孫淵討伐軍を派遣しようとするが
臣下の
薛綜から
公孫淵の支配地を得ても利益が無い事
海洋遠征は危険である事
兵士の脚気で兵を失う不利益を上訴
断念した(三国志・薛綜伝)
↓↑
237年
孫権は
高句麗と通じ
遼東へ親征を行おうとし
魏は
毌丘倹を派遣し
これと対陣
毌丘倹が
鮮卑の軍を動かし
遼東に駐屯
孫権は親征を断念
魏は
公孫淵に対し上洛を命じたが
公孫淵はこれを拒否
挙兵して
遼隧で
毌丘倹を撃退
↓↑
同年
公孫淵は
燕王を称し
年号を紹漢とし
独立を宣言
周辺部族を掌握し
玉璽を与え
魏との国境をめぐり抗戦継続
↓↑
遼隧の戦い
238年
曹叡は
司馬懿に4万余の兵を与え
公孫淵征伐を命じた
公孫淵も
卑衍
楊祚
らに数万の軍を与えて
遼隧に派遣
司馬懿が遼東に到着すると
卑衍が攻撃したが
司馬懿は
胡遵らを派遣し
卑衍を破った
↓↑
・・・「卑」が「衍=はびこる・あふれる・蔓衍(マンエン)・しく・ひろげる・ひろがる・衍義・敷衍・あまり・余分な・衍字・衍文・ 類 羨(セン)・ひろい・おおきい・大衍(タイエン)・ 敷衍(フエン)・墳衍(フンエン)・蔓衍(マンエン)・衍義(エンギ)・衍字( エンジ)」・・・?
↓↑
公孫淵は
遼隧に数十里
(三国志には二十里、晋書には六・七十里ほどと記録)
の塹壕を掘り
司馬懿の軍を迎え撃った
遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固と見た司馬懿は
東南に退却したとみせかけ
国都の襄平に侵攻
公孫淵は
遼隧の軍を撤退させ
都の守備に当たらせたが
防戦一方となり敗退を繰り返し
司馬懿に襄平を包囲される
↓↑
長雨の時期
兵糧が底を突き
公孫淵は
人質を出して和睦しようと画策
司馬懿はこれを許さず
公孫淵を捕え、処刑
公孫淵の子
公孫脩
をはじめとする一族も討たれ
遼東の公孫氏は滅亡
↓↑
戦後
司馬懿はこの地に
魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよう
当地の15歳以上の男子を皆殺しにし
夥しい数の亡骸で京観を作った・・・
↓↑
公孫淵は
呉の
孫権に謝罪し
援軍を求め
239年
孫権は援軍として
羊衜
鄭冑
孫怡
を派遣
魏の
曹叡が死去し
魏は遼東への配慮を欠き
羊衜らが
遼東の
牧羊城(旅順口)で
魏の
張持
高慮
らを破って
その男女を捕虜として帰国
↓↑
238年
遼東公孫氏が滅亡し
倭国が魏に使節を派遣
↓↑
公孫氏が
遼東で消滅したことで
倭国は
中国大陸の
文化に直接触れることが
可能になった・・・
遼東公孫氏を滅ぼした
魏は、
完全に遼東半島を支配
更に
高句麗と
国境を巡って衝突
244年
魏は
毌丘倹
を派遣し
高句麗を侵攻
遼隧の戦い
で司馬氏は
魏の軍権を掌握
後に国権の強化を目論む
曹爽との政争に繋がっていく
ーーーーー
極東の
国際情勢
57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、中遼の二郡とし
自らの太守を置く
また、山東半島に営州刺史を置き
「遼東侯・平州牧」と号した
「公孫度」の子、「康」が継ぎ、
「度」の弟、「恭」が「永寧郷侯」
となり、
「康」は西暦196〜220年まで
楽浪郡を分けて
帯方郡を置いた
220年 後漢滅亡
魏王・「曹丕」、「献帝」を廃し
魏の「文帝」となる
221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
「公孫康」の子、「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
「車騎将軍」の爵号を授く
232年 呉の「孫権」、「淵」に「燕王」の爵位を与える
233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣
「淵」はこの使者を殺し、
その首を「魏」に差しだし、
「楽浪公」の爵位を得る
235年 高句麗王、「位宮=第11代、東川王
姓は高、諱は憂位居、幼名は郊彘・東壌王」
呉から「単・」の爵号を受く
姓は位・名は宮
高句麗の王、伊夷模(イイモ)と妾の子
呉の孫権が遼東の
公孫淵に
使者を送り
公孫淵に殺されたとき
逃げてきた呉の人間を保護し呉に送り返した
238年
魏の
司馬懿が公孫淵を討伐したとき
魏に加担
242年
西安平に進入し略奪
幽州刺史の
毋丘倹に撃退され
都の丸都を破壊され逃亡
(魏書・東夷伝、毋丘倹伝、呉書・呉主伝)
237年 「魏」は幽州刺史の
「毋丘倹」を将軍にし「淵」軍と戦い敗北
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・238年 六月、「卑弥呼」、大夫「難升米」を「魏」におくる
・ ↓
・ 八月、「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に
・ 「淵」軍敗北、戦死
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
239年 帯方郡・太守「弓遵」が「韓」族に攻められ戦死。
「韓」滅亡
244年 「魏」は幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし、
高句麗軍を壊滅さす
帯方郡太守「王頎」、
塞曹掾史
「張政」を「倭国」に派遣
この「年表」に記されている「人名」と「官名」、「地名」の漢字とその「音」に注意すれば「古事記」が何を示唆しているか明かである。
更に「238年」の「六月」と「八月」・・・ワズカ、「二カ月間」・・・。
「卑弥呼」の「倭」は、少なくても「六月」までは「もと『燕』に属」さざるを得なかったハズである・・・?
何故なら
「公孫淵=燕」は
「237年」には「呉」と同盟、あるいは册封関係にあり、
敵対する
「魏」の「幽州刺史」の
「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、勝利し、
翌年の
「238年の八月」に
「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北し、
戦死したのである。
時間的な流れでいえば、
「倭」は「八月」までは
「呉」と深い関係にあった
「公孫淵=燕」に「属」していたハズだ・・・
もちろん、状況的に、直接的にも
「倭」は「呉」と深い関係にあったのだ。
すると、
「238年『六月』」、
この『六月』に
「卑弥呼」が
大夫
「難升米」を「魏」に送る 、
と云うことはどういうことなのであるか。
朝鮮半島はいまだ
この年の『八月』まで「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
どのような経路でいけたのか?・・・
どのような目論見で「難升米」を「魏」におくったのか?
「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、
「呉=燕」の配下にありながらも
二股をかけざるを得なかったのだ。
あるいは
「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に
「卑弥呼」は乗せられたのである。
あるいは「呉」そのものと「縁籍」であった。
そして、
『八月』、
「公孫淵=燕」は
「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
『十二月』、
「卑弥呼」は
「魏王=明帝」から
詔と「親魏倭王」としての
「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらっている。
238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
245年(正始6年)「倭王」 が派遣・魏へ使
247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦
卑弥呼の死亡
「邪馬台国で男王」立つが「内乱」
「宗女・壱與」が「十三才で女王」となる
238年から六年後、
244年に
「高句麗王=位宮」も敗北した。
朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・
当然、「倭」へ、である・・・。
そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は
「魏」の
「張政」に担ぎ上げられた
「壱与」に権力交替したのである。
「狗奴国との対立」や
「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
すなわち、この部分に於いても
「陳寿」は
「使役=シエキ=使訳(?)」の報告すべてが
正しいわけがあるまい、と言っているのだ。
「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。
同音異字なら「芝居」で、しかも「芝居」は日本語であるから・・・。
・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・
「卑弥呼」の排除である。
243年は「宗主国」である「魏の帯方郡太守」が
「倭へ使者」を派遣してきたのである。
その後の
「壱与」の権力交替は「帯方郡使」としての
「張政=魏」の策謀による
「淵=燕=呉」親派の「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」
あるいは
「溺殺」によるものである・・・?
「張政」と「壱与」の「告喩」としての「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、「長崎」、「諌早」、「熊本・宇土・横島」とその勢力を浸透させて「卑弥呼」を殺害したのだ・・・
その後、「壱与」は「宇佐」に東遷し、権力の基盤を「大分」に置いた。だが、「卑弥呼」の親派勢力は長崎「諌早」、「天草諸島」、「熊本・横島」にその勢力を有していたハズである・・・。
結論的に九州は「魏」の配下に入ったが、
「二人の女王」の勢力は
「遼東半島」、「山東半島」、「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、
「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と
「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」
に分裂=磐余(イワレ)=大分していたのだ。
もちろん、
「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は
「博多・伊都=須佐之男」であるハズだ。
その後、
「卑弥呼」の勢力は何処へ移動して行ったのか?
広島の「呉」、「吉備」、四国の「土佐」、「紀伊」、「奈良」、山陰の「越」へ・・・「尾張」、「美濃」へ。
「壱与」の勢力は何処へ?
四国の「愛媛=讃岐=サ貫」、「阿波」、山陰の「出雲」へ。
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日本列島=「弓状の周囲」を一周しながら、
「二つの勢力」は「斑点」のように
「縄文人=蝦夷」の地へと分散、移民して行った。
特に「卑弥呼」の勢力は
「縄文人=蝦夷」と血縁的にも強く結び付いていったハズである
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帯方郡(たいほう-ぐん)は
204年〜313年の
109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する)。
楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。
帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあった
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後漢の末、
中平六年(189年)に
中国東北部の
遼東太守となった
公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、
後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、
現在の平壌付近から
漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。
その後を継いだ嫡子
公孫康は、
建安九年(204年)
楽浪郡十八城の南半
屯有県(黄海北道黄州か)以南を割くとともに
南方の土着勢力韓・濊族を討ち
併せて帯方郡として
「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」
という朝鮮半島南半の統治体制を築く。
郡治とは、
その周囲の数十県(城)の
軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、
個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。
公孫康はほどなく
魏の曹操に恭順し、その推薦によって
後漢の
献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、
帯方郡も後漢の郡として追認された。
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公孫康の死後、
その子の
公孫淵が幼いために
公孫康の実弟
公孫恭が後を継ぎ、
後漢の献帝から
禅譲を受けた
魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により
車騎将軍・襄平侯に封じられた。
しかし
太和二年(228年)
成長した
公孫康の子の
公孫淵は
叔父の
公孫恭の位を奪い取り
魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて
揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。
公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、
魏朝の仇敵である
呉の孫権との同盟を画策し、
最終的には、
魏から受けた
大司馬・楽浪公の地位を不足とし、
景初元年(237年)
反旗を翻して独立を宣言。
遼東の襄平城で
燕王を自称するにいたる。
帯方郡も
楽浪郡もそのまま燕に属した。
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翌年(238年)
魏の太尉
司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ
長期の兵糧攻めにあって
公孫淵とその子
公孫脩は滅びる。
これまで
帯方郡は「後漢─魏─燕」と、
形式的にはその所属に変遷があったが、
実質的は一貫して
公孫氏の領有下にあり
韓や倭といった
東夷からの朝貢は
公孫氏が受け取っていた・・・
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魏の直轄経営
襄平城の攻城戦の最中
魏は
劉虵と
鮮于嗣をそれぞれ
帯方太守、楽浪太守に任じ、
両者を密かに海路で
山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。
帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。
帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。
太守・劉虵は、
周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、
魏との冊封関係を改めて結び直した。
邪馬台国・卑弥呼も
景初二年六月
(238年・『魏志倭人伝』の記述は誤りで
景初三年が正しいとする説も?)
この新生・帯方郡の地へ
朝貢使の難升米を派遣した
このとき太守は
劉夏であったが
彼は郡の官吏を付けて
後漢の都・洛陽まで
難升米の一行を送らせた。
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正始元年(240年)
新太守、
弓遵は
魏の詔書・金印紫綬を配下の
梯儁に持たせて
卑弥呼のもとへ送った。
ところがこの弓遵は、
同六年(245年)に嶺東へ遠征し
東濊を討った後、
それまで帯方郡が所管していた
辰韓八国を
楽浪郡へ編入することになり、
その決定を現地に伝えた際、
通訳が誤訳を犯し
韓族を激怒させ
郡内の韓族が
帯方郡の
崎離営を襲った。
これを
弓遵と
楽浪太守の
劉茂が兵を興して討ち、
魏軍は韓族を滅亡させたが
弓遵は戦死
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同八年(247年)
弓遵から引き継いだ太守
王頎は、
倭の使者から
邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け
自ら上洛して官の決裁を仰ぐが
魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく
魏の少帝の
詔書と黄幢を携えた
塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の
張政が派遣された。
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歴代太守の記録
戦死した
弓遵の例を除き
外交官としての
非軍事的活動が主である
その頻繁な人事異動には(8年間で4人の太守)
帯方郡の軍閥化を防ぎ
第2の
公孫氏を生まぬようにするための
魏の基本方針・・・?
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帯方郡の滅亡
泰始元年(265年)
魏の重臣であった
司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が
魏の曹奐(元帝)から禅譲を受けて
晋朝(西晋)を興すが、
永康元年(300年)
身内の八王の乱で混迷状態
この時代、
帯方郡に属する県は
帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥
の7県であった(『晋書地理志』)
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建興元年(313年)
遼東へ進出した
高句麗が南下して
楽浪郡を占領
朝鮮半島南半に孤立した
帯方郡は
晋の手を離れ情報も途絶した。
元の帯方郡や楽浪郡南部に残された
漢人の政権や都市は
東晋を奉じて
5世紀初頭までの存続が確認
が、
5世紀前半には
百済によって征服され
5世紀後半に
高句麗が百済を駆逐して支配下へ置いた。
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倭との関係
帯方郡の滅亡後も地理的概念として帯方の名は残った
広開土王碑文によると
404年
倭から百済征伐の形で北侵
帯方界(旧帯方郡の境界?)に進入し
高句麗と戦って
無数の将兵を失った・・・
ーーーーー
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