2515日目・・・自分自身の問題なのに・・・「他人事」のように、「全力を傾けて膿を出し、全容を解明していきたい、と考えます」・・・敵前逃亡の「柳ケ瀬」・・・「人間失格のトランプ」と何をハナシあうんだか・・・オマケにトランプ以下の「財務省次官のセクハラ」・・・世の中、色んな人間がいるのは当たり前だが・・・色んな人間の一人で、同類である自分自身の中に棲みついているモウひとりの自分自身にも、ゾッと寒気がする・・・TOKYO、マンボ、ドドンパ、ツイスト、ゴゥゴゥ、ロックオトコ?・・・島津亜矢さんは、ナニを歌って

 「子羊」って迷っているんだか、ドウなんだか?・・・
ーーーーー
 石苞(セキハウ)・・・「石」ってペトロ、「羊=未=未艶」ってマリア・・・「竎」、「羯」、「羭」って?・・・「瑪」は「新約」の「使徒行伝の名前に使用される漢字」だが、「瑪瑙」ではない・・・「碼(ヤード)=石+馬=ヤール・イギリスの尺度の単位」って、これも「碼瑙」・・・「密碼=パスワード」・・・「号碼」は中国語で「番号」・・・
 ↓↑
 羊祜(ヨウコ)・・・祜
 221年〜278年
 三国時代から
 西晋にかけての武将
 字は叔子
 曾祖父は
 羊儒・・・儒
 祖父は
 羊続・・・続
 父は
 羊衜・・・衜
 (上党太守)
 母は
 蔡邕の娘
 伯父は羊秘・・・秘
 (京兆太守。妻は蔡氏)
 叔父は羊耽・・・耽
 (泰山太守。妻は辛憲英)
 異母兄は
 羊発(母は孔融の娘)
 同母兄姉は
 羊承・・・承
 羊徽瑜・・・徽瑜
 (司馬師の妻、献皇后)
 妻は
 夏侯覇の娘
 伯母(一説には母)は蔡琰
 ↓↑ 
 羊陸の交わり
 西晋
 羊祜・・・祜
 と
 呉の
 陸抗(リクコウ)
 敵ながらも互いに信義を持って相対
 歩闡(ホセン) の乱
 (西陵の戦い)
 晋呉両軍の総司令官として戦った
 酒や薬を贈りあった
 信義は
 「羊陸之交(羊陸の交わり)」
 領民はその死を嘆いて廟を建て
 「堕涙の碑」と呼ばれた
 ↓↑
 晋の天下統一に貢献した名将
 羊祜
 晋は司馬氏の台頭によって建国
 呉を滅ぼしたのは
 羊祜が貢献
 ↓↑
 ・・・そんなコトより「羊+α」の「α+α+α+・・・」の「α+・・・」はナニを暗示しているんだか?・・・
 ↓↑
 司馬昭の義弟
 はじめ魏に仕え
 司馬炎
 晋を建国すると
 晋に仕え
 対呉戦の都督として活躍
 戦争中に病死
 ↓↑ 
ーーーーー
 司馬炎(シバエン)
 西晋の初代皇帝
 諡号武帝
 魏から禅譲
 晋を建国
 西暦280年
 呉を滅ぼし
 中国を統一
 後に
 八王の乱
 遠因を招いた
 ↓↑
 司馬炎武帝
 265年
 魏の皇帝から禅譲
 晋(西晋)を建国
 280年
 呉を滅ぼし中国を統一
 魏の実権を握っていた
 司馬懿の孫
 魏の
 曹操曹丕親子の武将だった
 司馬懿(仲達)は
 249年
 クーデターによって実権を握り
 その後、その子の
 司馬昭
 孫の
 司馬炎
 と司馬氏が権力を握る
 ↓↑
 司馬炎 (236〜290)
 西晋初代皇帝(在位266〜290)
 魏王朝の実権を握った
 司馬炎
 蜀漢を滅ぼして
 2年後
 曹魏元帝禅譲を迫り
 晋王朝西晋)を建国
 洛陽を都とし
 280年
 江南の
 呉を滅ぼして中国を統一
 州や郡の
 常備兵を削減
 占田・課田法
 戸調式
 など政策を推し進めた
 が、
 女色に溺れ外戚の専横を許した

            • -

 司馬懿
 河内郡
 温県
 孝敬里
 出身
 司馬防の次子
 楚漢戦争期の
 十八王の一人である
 殷王
 司馬卬の12世孫
 司馬氏は代々
 尚書などの高官を輩出
 ↓↑
 兄に
 司馬朗(伯達)
 弟に
 司馬孚(叔達)
 司馬馗(季達)
 司馬恂(顕達)
 司馬進(恵達)
 司馬通(雅達)
 司馬敏(幼達)
 司馬家の8人の男子は
 「司馬八達」
−ーーーー
 司馬師(シバシ)
 208年〜255年
 魏の武将、政治家
 字は
 子元
 西晋
 世宗の廟号
 景帝の諡号
 司馬懿の長子
 司馬昭・司馬榦の同母兄
 生母は
 張春華(宣穆皇后)
 ↓↑
 司馬懿-仲達
 179年〜251年9月7日
 後漢末期〜三国時代
 曹魏にかけての武将・政治家
 西晋の礎を築いた
 字は
 仲達
 西晋が建てられ
 廟号を高祖
 諡号を宣帝
−ーーーー
 太和二年(228年)
 孟達
 蜀漢
 諸葛亮と内応して
 魏に叛いた
 司馬懿が赴任していた
 宛から
 孟達の任地である上庸までは
 通常の行軍で1ヶ月の道程
 司馬懿
 丁寧な書簡を送って
 孟達を迷わせ
 昼夜兼行の進軍を強行
 8日で上庸までたどり着いた
 城を包囲された
 孟達は、同僚や部下に離反され
 司馬懿はこれを破り、斬首した
 諸葛亮蜀漢の中枢は動揺
 ↓↑ 
 青龍二年(234年)
 「死せる諸葛
  生ける仲達を走らす
 (死諸葛走生仲達)」
ーーーーー
 公孫淵の征討
 「遼隧の戦い」
 景初二年(238年)
 遼東に拠っていた
 公孫淵が反乱
 司馬懿
 征討を命じられ
 明帝は
 公孫淵の策を
 司馬懿に尋ねた
 司馬懿
 「城を捨てて逃げるが上策、
  遼水に拠って
  我が大軍に抗するは次策、
  襄平に籠もるなら
  生捕りになるだけです。
  公孫淵が知恵者ならば、
  城を捨てることも有るでしょうが、
  公孫淵はそんな策を
  考えつける人物ではありません」
 と答えた。
 ↓↑
 司馬懿
 毌丘倹
 胡遵
 らとともに
 公孫淵討伐に出発
 司馬懿が遼東に到着したころ
 遼東では長雨が続き
 遠征はさらに長引くおそれがあった
 廷臣たちは遠征の中止を
 曹叡に訴えたが、
 「司馬公は機に応じて
  戦略を立てることのできる人物だ。
  彼に任せておけば間違いはない」
 と
 魏の征討に対し
 公孫淵
 呉に援軍を求めたが
 孫権
 「司馬公は用兵に優れ、
  自在に使うこと神の如しという
  そんな人物を相手にせねばならないとは
  あなたもお気の毒だ」
 と書簡を送っただけ
 司馬懿
 野戦で
 公孫淵が派遣した軍勢を破り
 公孫淵は籠城
 公孫淵軍は兵は多く、食料は少なかった
 司馬懿はこれを見て
 「兵力が多く兵站の確保が難しいときには
  ある程度犠牲が出ようとも
  速戦でかたをつけるべきで
  逆に兵力が少なく
  兵站が安定している場合には
  持久戦を行うのがよい」
 と部下に語った
 出征前、明帝に
 「反乱をどう平らげるか」
 と聞かれた司馬懿
 「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、
  その他休養などに60日を当てるとして、
  1年もあれば充分でしょう」
 と答え、この通りに軍を動かし、
 公孫淵を破った
 司馬懿の思惑通り、
 公孫淵軍の食料は底をつき
 公孫淵は使者を送り
 人質を差し出して
 和議と助命を嘆願
 司馬懿はこれを拒絶
 「戦には五つの要点がある。
  戦意があるときに闘い、
  戦えなければ守り、
  守れなければ逃げる。
  あとは降るか死ぬかだ。
  お前達は降伏しようともしなかったな。
  ならば残るは死あるのみ。
  人質など無用である」
 公孫淵は子の
 公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて
 包囲を突破して逃亡
 司馬懿は追撃し
 公孫淵親子を斬り殺した
 城は陥落し
 司馬懿公孫淵の高官たちを斬り
 遼東の制圧
 中原の戦乱から避難してきた人々が
 大量に暮らしていた
 遼東は、
 反魏の温床になるおそれがあると
 司馬懿
 15歳以上の男子を
 数千人(7000人ほど)殺した
 公孫淵の滅亡によって
 朝鮮半島北部が魏に押さえられ
 邪馬台国
 卑弥呼
 魏に使者を派遣
 ・・・「公(天子)の
     孫(まご)の淵(ふち)」
 ・・・淵=氵(水)+𣶒(片一爿)
ーーーーー
 淵=ふち・エン
   水を深くたたえている所
   海淵・深淵
   物事の出てくる根源
   淵源
   物の多く集まる所
   淵藪 (エンソウ)
   「渊・渕」は俗字
   すえ・すけ・なみ・のぶ
   ひろ・ふか・ふかし
   「淵 (どぶ) 釣り」
  異体字は渊・渕(俗字)
  𡆼(同字)・𣶒(古字)・囦(古字)
  𠝃(古字)・𣴸(同字)・𣴺(同字)
  渁(同字)・渆(同字)・㴊(同字)
  𣾬(同字)・㶜(同字)
  声符「𣶒」・婣・䨊・淵・鼘・𨓯
 ↓↑
  䨊=雥+𣶒
  異体字は𩁵
  声符「𣶒」・𣶒・婣・淵・鼘・𨓯
  淵
  異体字は渊(簡体字・俗字)・渕(俗字)
  𡆼(同字)・𣶒(古字)・囦(古字)
  𠝃(古字)・𣴸(同字)・𣴺(同字)
  渁(同字)・渆(同字)・㴊(同字)
  𣾬(同字)・㶜(同字)
  発音は ふち・かたい・はなわ
      エン(ヱン)
  名乗は、しずか、すえ、すけ、なみ、のぶ
      ひろ(佐藤信淵
      ふか、ふかし
      ふち(賀茂真淵
ーーーーー
 権力闘争
 魏の
 景初三年(239年)
 曹叡が死亡
 曹真の長男
 曹爽と共に次代の帝
 曹芳の補佐を託された
 『漢晋春秋』によると、
 曹叡は当初
 曹宇を大将軍に任じ
 後事を託そうと考えていたが
 劉放
 と
 孫資
 の2人の進言により彼を罷免し
 曹爽
 と
 司馬懿
 の2人に後事を託すことになった・・・
 ↓↑
 権力独占を狙う
 曹爽の画策により
 司馬懿
 名誉職の
 太傅に転任
 軍権はそのままで、依然として
 対蜀漢の最前線を任されていたため
 曹爽が内政、
 司馬懿が軍事を分け合う形になった
 (当初、軍権を保証するため
  大司馬を兼任させる予定だったが
  不吉な先例があった
  という理由で見送られた
  また
  曹爽と同じく
  「剣履上殿」
  「入朝不趨」
  「謁賛不名」
  (剣を帯び靴を履いたまま
   昇殿しても許され
   小走りに走らずともよく
   皇帝に目通りする際は
   実名を避けてもらえる)
  の特権を与えられた
 ↓↑
 正始二年(241年)
 呉の朱然らが樊城を包囲すると
 自ら進み出て
 軽騎兵を率いて救援におもむき
 朱然を退けた(芍陂の役)
 『晋書』宣帝紀
 干宝
 『晋紀』によれば
 司馬懿
 朱然を追撃して、大いに破った
 『三国志』には
 司馬懿朱然を破ったという記述はない
 243年
 呉の諸葛恪を撤退させた
 これに対して
 正始五年(244年)
 曹爽が行った
 蜀漢出兵(興勢の役)は失敗
 司馬懿は失敗を予期し
 反対していたので
 両者の対立が表面化・・・
 ↓↑
 正始七年(246年)
 呉の侵攻では
 曹爽は逃げて来た住民を帰すよう主張
 司馬懿は反対したが聞き入れられず
 その結果
 魏は大損害
 正始八年(247年)5月
 70歳近い高齢と病気を理由に引退
 曹爽も司馬懿を警戒し
 司馬懿
 曹爽一派の
 李勝の前で芝居を打ち
 李勝が見舞いのため自宅を訪ねてきた際
 李勝が言ったことを
 わざと聞き間違えたり
 薬を飲むときに
 ダラダラとこぼすなどして
 耄碌した姿を見せた・・・
 ↓↑
 正始十年(249年)1月6日
 曹爽が曹芳の供をして
 曹叡の墓参りに行くため
 洛陽を留守にした機会を見計らって
 司馬懿はクーデター
 司馬懿
 郭太后に上奏し
 曹爽兄弟の官職を解任する令を得た
 司馬懿
 司馬師・司馬孚に
 洛陽の宮城を制圧させ
 郭太后の令を用いて
 高柔・王観に命じて
 洛陽の
 曹爽・曹羲の陣営を制圧し
 洛陽を制圧
 司馬懿
 蒋済とともに
 洛水の岸辺に布陣し
 免官するだけだと
 曹爽を説得し
 戦わずして降伏させた(高平陵の変)
 1月10日
 曹爽らに謀反の企みがあったとし
 一族郎党皆殺しにした
 曹爽の腹心の
 何晏・桓範
 らを一族と共に処刑
 『晋書』は
 「これが忠臣の行いと言えようか」
 と非難
 実権を握っていた
 司馬懿だったが
 丞相の位を与えられた際
 これを固辞
 嘉平三年(251年)
 王淩
 らの企てた
 楚王
 曹彪を擁立し
 曹氏の実権を取り戻すクーデターを
 密告により察知
 司馬懿は証拠を握ると
 硬軟両面で
 王淩を追い込み、降伏させた
 王淩は
 司馬懿が自分を殺すことを悟って自殺
 曹彪も自殺を命じられた
 後
 魏の皇族をすべて
 曹操時代の
 魏都であった
 鄴に軟禁
 司馬懿
 魏における全権を握ったものの
 自身は同年に死去
 首陽山に埋葬
 孫の
 司馬炎
 魏より禅譲を受け
 皇帝となり
 祖父の
 司馬懿
 高祖宣帝と追号
 ↓↑
 魏の礎を創った
 曹操は・・・曹(ソウ)操(あやつる)
 ↓↑    曹=ソウ(サウ)・ゾウ(ザウ)
         つかさ・役人・役所の部屋・法曹
         仲間・ともがら・児曹
         軍隊の階級の一・曹長・軍曹・兵曹・陸曹
         「曹達 (ソーダ) 」の略
         「重曹
         へや・つぼね
         「曹司」
         とも・のぶ
 ↓↑      軍曹 (さかん) ・将曹 (さかん)
 西晋の礎を築く
 司馬懿に対して
 「司馬懿
  誰かに仕えるような男ではない」
 と常に警戒していた
 「狼顧の相」
 「狼顧」というのは
 「狼が用心深く背後を振り返るように
  警戒心が強く老獪なこと」
 を指す
 司馬氏の
 西晋を滅ぼした一人
 後趙の・・・後生・語史和得?
 石勒は・・・石の勒(革力)
 司馬懿
 郭太后
 を利用したことを
 曹操
 献帝を利用したことに
 引き比べて非難
 「大丈夫たる者、磊磊落落(磊落)
  日月が明るく輝くように
  物事を行うべきであって
  曹孟徳(曹操
  や
  司馬仲達父子
 (司馬懿司馬師司馬昭
  のように、
  孤児(献帝)や
  寡婦(郭太后)を欺き
  狐のように媚びて
  天下を取るような
  真似は絶対にできない」と
 ↓↑
 宗室
 后妃
 正室張春華(宣穆皇后)
 側室=伏夫人、張夫人、柏夫人
 子女
 景帝 司馬師 (母=宣穆皇后)
 文帝 司馬昭 (同上)
 汝南文成王 司馬亮 (母=伏夫人)
 琅邪武王 司馬伷 (同上)
 清恵亭侯 司馬京 (同上)-24歳で早世
 扶風武王 司馬駿 (同上)
 平原王 司馬榦 (母=宣穆皇后)
 梁孝王 司馬肜 (母=張夫人)
 趙王(建始帝) 司馬倫 (母=柏夫人)
 南陽公主 (荀霬の妻、母=宣穆皇后)
 高陸公主 (杜預の妻)
 ↓↑
 司馬倫
 西晋
 第三代皇帝
 八王の乱
 八王の1人
 字は子彝
 司馬懿の第9子(末子)
 建始帝
 諡号ではなく
 私年号の
 建始から取ったもの・・・
 ・・・倭のタケルは・・・
 「私ネン号の建が始め」
 ↓↑
 石勒
 五胡十六国時代
 後趙の創建者
 字は世龍
 上党郡
 武郷県
 (山西省楡社県の西北)
 出身の
 羯族・・・「般若心経」の「」
 で
 匈奴別部の
 羌渠の血統
 元の名を
 「㔨」と言い
 幼名は
 「匐勒」
 祖父は
 耶弈于
 父は
 周曷朱(又の名を乞翼加)
 前趙の将軍として各地を攻略し
 王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷
 といった敵対勢力を次々と滅ぼした
 劉聡の死際には後事を託され
 劉曜と対立すると自立して
 後趙を樹立
 前趙を滅亡に追いやって
 華北に覇を唱えた
 奴隷から
 皇帝まで昇った
 中国史上唯一の人物・・・
ーーーーー
 ・・・
 異=田+共
 通仮字、機
 異体字、異・𠔱・异・𢄖・𤱨・𤱺・𢍀
 簡体字、异
 声符「異」、㔴・翼・潩・𩙺・𠪙
       䔬・禩・𩛛・廙・趩
 ↓↑
 セキホウ隊
 西郷隆盛岩倉具視の支援を得
 慶応四年一月八日(1868年2月1日)
 近江国松尾山
 金剛輪寺において結成
 隊長は
 相楽総三
 綾小路俊実
 滋野井公寿
 らを盟主として擁立
ーーーーー
 ・・・???・・・
 羊鑑=匈奴中郎将の羊済の子
ーーーーー
 多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)
 奈良時代
 天武(672年〜686年)に活躍したとされる
 上野国(群馬県)の豪族
 多胡郡の郡司
 多胡碑によれば
 「和銅四年
  近隣三郡から三百戸を
  切り取り
  羊
  なる者に与え
  多胡郡とした」
  と記載
 「羊」
 多胡碑の原文は漢文であり
 「給羊」の句があることから発想
 人名説以外に
 方角説
 時刻説などがある
 現在学説では人名説が有力
 名前については
 多胡(藤原)羊太夫宗勝
     小幡羊太夫とも
ーーーーー
 茞=艹+臣=シン=fragrant plant,angelica
   異体字は茝
   声符「臣」・臣・嚚・䢻・姫・頣・䛗・挋
 ↓↑
 羊茞
 羊衜(ヨウドウ)=羊茞
 211年〜?
 221年〜278年?
 呉の武将・政治家
 荊州南陽郡の人
 羊茞とも
 弁論の才能を有す
 225年
 蜀漢の使者の
 費禕が来訪したとき
 呉側で論争を挑んだ人物の1人
 229年
 孫登が皇太子になると
 その賓客になった
 翌年
 20歳で太子
 中庶子に昇進
 魏の
 隠蕃という人物が帰順してくると
 朱拠
 郝普
 などが彼を賞賛したが
 羊衜は彼と付き合おうとしなかった
 やがて
 隠蕃が間諜であることが判った
 ↓↑
 衜(みち・ドオ・ダオ)=道
   Dao
 衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
   謂う・云う・言う
   導(みちび)く
   人が行き来するための通り道
   道路
   人が守り行うべき決まり
   道理(ドウリ)
   云う・語る・述べる・唱える
   老子荘子の教え・道教
   漢代の行政区画の名
   導く・手引きする・教え導く
   昔の地域区分の名
   東海道
   中仙道(なかセンドウ・中山道
   山陽道
   西海道
   みち・学問や芸術のわざ・技術
 ↓↑
 衜=彳+首+亍
   異体字は「衟・道・噵」
 ↓↑
 道=衜=衟
   𨔞・𨖁・噵・𨗓
   𧗞=道の籀文(石鼓文の註)
   遯=字彙補と同じ音「𧗟」
 ↓↑
 北海道
ーーーーー
 ↓↑
 戊辰
 248年干支=戊辰・・・正始九年
   9月 5日の朝 5:50・・・日食
   卑弥呼死没?
 248/9/5/5:50
 戊辰(乙・癸・戊)⇔龍・竜
 庚申(己・壬・庚)⇔猿・猨・猴・猱・狙・沙流
 辛酉(庚・ ・辛)⇔鳥・隹
 ↓↑
 神功皇后四十八年八月一日?
 ↓↑
 戊辰戦争(ボシンセンソウ)
 慶応四年/明治元年〜明治二年
 1868年〜1869年
 明治政府樹立の
 薩摩藩長州藩土佐藩
 ら
 新政府軍
 と
 旧幕府勢力
 奥羽越列藩同盟
 が戦った内戦
 明治新政府が同戦争に勝利
 戦争経緯
 鳥羽・伏見の戦い
 甲州勝沼の戦い
 宇都宮城の戦い
 北越戦争
 東北戦争
 箱館戦争
 旧暦
 慶応四年一月三日
 1868年1月27日
  〜
 1869年6月27日
 明治二年五月十八日
ーーーーー
 蔡 邕(サイ ヨウ)
 ?132年、133年〜192年
 後漢末期の政治家・儒者・書家
 字は伯喈(ハクカイ)
 兗州
 陳留郡
 圉県の人
 父は蔡棱
 娘は蔡琰
 従弟は蔡谷
 外孫は
 羊徽瑜(西晋の景献皇后)
 羊祜

 太傅の胡廣に師事
 辞章・ 数術を好み
 音律を解した
 170年
 司徒
 橋玄の府にまねかれ敬待
 郎中として東観で書物を校閲
 議郎に還った

 彼は経書の文字が時を経る間に
 転写などによって
 誤謬が生じ
 後学の人を誤らせるのを恐れ
 馬日磾
 ら数人とともに
 霊帝に願い出て
 経書の文字を正定する許可を得た
 蔡邕
 自ら隷書でこれを書き
 石工に刻ませ
 183年に完成
 洛陽の
 太学の門前にこの石碑を立てた
 「熹平石経」と称された
 後漢になって
 古文経学が盛んになり
 今文との比較研究が行われ
 諸儒がそれぞれ異説を唱えた際
 熹平石経
 が彼らの準拠となった
 清朝末期の
 光緒四年以来、洛陽の故趾から
 断片が相次いで出土

 周の文王を祖とし
 蔡国初代国王は
 蔡仲(蔡胡)
 子孫が
 「蔡邕」
 蔡邕の娘
 蔡琰は
 曹操がその暗記力に感嘆した
 蔡琰は芸術肌
 演奏中に切れた琴の絃を聞いて
 当てることができた
 蔡邕・蔡琰の祖先に
 蔡勲という県令を務めた人物は
 前漢を滅ぼした
 王莽に反発して隠棲
ーーーーー
 「泰山郡の名族=羊氏」・・・