2393日目・・・毎日の生活の「衣食住」だが、「食費」を抜いても「4、5万」はかかる・・・生きているコトで確実に自己確認できるのは、「喰うコト」、「トイレに行くコト」、「寝るコト」で、それらが出来れば文句は無い・・・「トイレに行くコト」だが、いくら力(リキ)んでも、踏ん張ってもデテコナイ・・・耳に聴こえるのは脈拍の音・・・狭い空間で長いして、ナンで出てこないんだョ、ッて
・・・ツクヅク考えてしまう・・・「ウン」は排便ではなく、「生産」で、造り出したモノを意識的に産み出すコトなんだって・・・なんか、自分の自然体から疎外されるって・・・
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泗川(サチョン・シセン)市・・・川=チョン=セン=かわ
↓↑・・・泗水(シスイ)・・・・泗=サ=シ=なみだ=泪
↓↑ 水=スイ=みず
↓↑ 「三泗=三重県の三重郡・四日市市地区」
中華人民共和国山東省を
流れる河川、泗河の古名
泗水国、泗水郡
泗水の流域にあった古代中国の諸侯国
泗水県
中華人民共和国
山東省
済寧市の管轄下にある県
↓↑ ↓↑
泗水町(しすいまち)
熊本県
菊池郡・・・菊池渓谷・「菊池=久々知(くくち)」
鞠智城(きくちじょう・くくちのき)
朝鮮式山城で
白村江の戦い(663年)で、
唐・新羅連合軍に敗北後
倭の防衛のために築いた
水城(664年)
大野城(665年)
基肄城
(キイジョウ・キイのき・椽城・記夷城)
・・・キシ?
椽=屋根板を支えるために
棟木から軒桁に架け渡す長い材
はえき・たりき
などと、665年ころに
同時期に築かれた
八角形建物跡で、城自体が役所機能を有し
大宰府と連動した軍事施設
九州(倭国)防衛のための山城・・・
にあった町
由来は、町内を流れる
合志川に
鞍岳川、矢護川、若木川、小原川
の4本の支流が合流することと
1889 年(明治二十二年)
前身の
泗水村
成立当時は
合志郡であったことから、
合志と孔子を
掛け孔子生誕の地とされる
↓↑中国山東省泗水県に因んだ・・・
↓↑
津の国=摂津(せっつ)の国=攝津國
阪府北中部の大半と兵庫県南東部
「なには・泣かず・来(こ)や・長らへ・見つ」
などにかかる歌枕
「いにしへの ながらの橋も
津の国の なには朽ちせず
なほ残りけり(新千載・雑下)」
の「くま河・くまがわ・熊川」
「巨麻川」は「狭山池西除川」
「駒川」
「御熊川」→「猫間川」
↓↑
球磨川(くまがわ)・・・球=王+求
磨=广+林+石
熊本県南部の
人吉盆地を貫流
川辺川をはじめとする支流を併せ
八代平野に至り
八代海(不知火海)に注ぐ
球磨川水系の本流で
熊本県内最大の川
↓↑
泗沘(しび・サビ)
百済の古都
忠清南道扶餘郡
第二十六代
聖王十六年(538年)
国都の
「熊津=ユウシン・ウンジン=忠清南道公州市
=万葉仮名で「麻那利(くまなり・こむなり)」
まなり
百済語で「固麻那羅(コマナル)」
から
「泗沘(シヒ・シビ)=扶餘」に遷都
「沘=氵+比=異体字は 㲺(氵+七)・水源」
百済滅亡の660年までの国都
「所夫里(ソフリ・三国史記、百済本紀の分註)」
「所夫里・泗沘(新羅本紀の本文)」
「地理志では
本文に所夫里・・・夫(おっと)の里(さと)の所(ところ)
分注に泗沘」・・・泗(泪・洟水
なみだ・はなみず・氵+四=水+肆)
の沘(水源・氵+上+七匕ヒ=比較)=熊津
扶蘇山・扶餘県
忠清南道西南部
錦江(白馬江)流域に位置
北は忠清南道青陽郡、公州市
東は論山市
南は錦江を隔てて
全羅北道益山市と接する
西は忠清南道保寧市と舒川郡
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「泗沘(シヒ・シビ・サビ)・熊江=白馬江=錦江」
か?
「泗川(シセン・シガン・サガン)・熊川」
か?
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大韓民国
慶尚南道の南部
港湾都市
「泗川」湾の入口に
三千浦港
「文禄・慶長の役」の
「泗川(シセン)の戦」の場所
1510年
朝鮮の三浦で起きた日本人の反乱
1426年
日本船の朝鮮での停泊地は
富山浦(釜山)
薺浦(せいほ)=熊川
塩浦(蔚山)
の三浦
薺徳洞(セイトクドウ)槐井里(カイイリ)
15世紀初めに
乃而浦倭館(薺浦倭館)が設置
釜山浦とともに
興利倭船(日本の商船)の入港が許可された
2つの港(塩浦が追加され、三浦と呼ばれる)
の一つとなり、日朝貿易の拠点
薺浦は1494年には
約2,500人もの
日本人が居住する
日本人居留地
「恒居倭」と呼ばれた
日本人居留民の活動は
両国間の摩擦を引き起こし
1510年
三浦の乱になり
三浦の乱後、日朝貿易が再開されると
薺浦が唯一の開港地となった
1544年
蛇梁倭変・・・?蛇(へび)の
梁(はり)の
倭(ワ)の変(ヘン)・・・?
によって国交が断絶
1547年
丁未約条により国交が回復
対日交易港は
釜山一港に限定
薺浦での日朝貿易は行われなくなった
中世、
朝鮮の
「熊川県」は
陶器の産地として知られ
日本での
高麗茶碗の分類の一つに
「熊川(こもがい)」
と呼ばれる陶器がある
文禄・慶長の役の際に
熊川の陶工は
松浦鎮信によって
平戸に連行され、
熊川での陶器生産は終焉
熊川の陶工が
平戸から
佐世保に移って生産したものが
三川内焼となった
文禄の役の際に
薺浦付近に
「熊川倭城」を建設
↓↑
「泗川の戦い」は
「文禄・慶長の役」の合戦の一
慶長三年
(明の万暦二十六年九月・1598年10月)
朝鮮半島の
泗川で
島津義弘
率いる七千が
明の武将
董一元
率いる数万の
明・朝鮮連合軍と戦って
撃退し
劣勢な島津軍が勝利した
↓↑
島津義弘は
泗川新城を背に強固な陣を張り
伏兵を配置
明、朝鮮連合軍の攻撃に対し
大量の鉄砲を使用し
地雷などで対抗
鉄片や鉄釘を
砲弾の代わりに
装填し
大砲にも使用
明将
茅国器
葉邦榮
彭信古
などは
泗川新城の大手に
郝三聘
師道立
馬呈文
藍芳威
などが左右に備え
董一元
が中軍として
泗川新城に攻めた
白と赤の
2匹の狐が城中より
明・朝鮮連合軍の方へ走って行った
これを見た
島津軍は
稲荷大明神が
勝戦の奇瑞を示すとして
士気を高め戦った・・・
↓↑
明・朝鮮連合軍の火薬庫爆発
島津軍は城門を開き打って出
島津義弘は伏兵を出動させ
敵の隊列を寸断し混乱させ
義弘本隊も攻勢に転じ
義弘自ら4人斬り
島津忠恒
↓↑・・島津家久、(第十八代)
初代薩摩藩主・通称又八郎
島津義弘の三男
「絵本太閤記」は「島津亦七郎忠常」
鹿児島湾の
別名である
「錦江湾」・・・・「錦江の湾」?
という呼び名は、
忠恒が詠んだ
「浪のおり
かくる錦は・・・隠る「ニシキ」?
磯山の梢に
さらす花の色かな」
という歌に由来する・・・?
「加治木・黒川岬の鳳山軒にて」で詠んだ・・・
「錦江湾は汚れやすく、一度汚すと、
きれいにすることが難しい海域
(錦江湾・水の話
フジクリーン工業株式会社のブログ)」
「桜島=鹿児島」だった・・・由来説は
「火山を意味するカグ
↓↑ 多くの水夫(かこ)が住んでいた」
も槍を受け負傷するも
敵七人を斬って奮戦
島津軍は南江の右岸まで追撃
混乱し壊走する
明、朝鮮連合軍は
南江において無数の溺死者を出した
十月一日夜
島津軍は
泗川の平原において
勝鬨式を挙行し
戦闘は幕を閉じた
その後
島津義弘は
「鬼石蔓子(おにしまづ)」
と恐れられた
『朝鮮王朝実録』
三路の戦い
(第二次蔚山城の戦い
泗川の戦い
順天の戦い)
で
明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退
三路に分かれ逃避の準備をした・・・
↓↑
「釣り野伏せり・釣り野伏」戦法
島津義弘は
泗川の戦いに
七匹の猫を連れていった
猫の瞳孔の開き具合によって
時を知ることができた・・・?
島津義弘は七匹の猫を各陣営に置き
瞳孔の大きさを見て
時刻をはかり
出撃の合図に使用した・・・
鹿児島には
「猫神神社」が存在する
↓↑
「三千浦へそれる
(サムチョンポロパジダ)?
=話が脇道にそれる
脱線する
物事が予想外の方向へ進む」
の意味であるらしい・・・
「三千浦(サムチョンポ)」は、
「韓国・南海岸にある漁港」・・・
「泗川の戦い
島津軍が
1597年10月
泗川に城を築き
翌年九月
明将軍・董一元
と
朝鮮将軍
鄭起竜
が率いる連合軍が
島津家臣
川上忠実の守る
旧泗川城を陥落させ
新泗川城に迫ったが
反撃され潰滅」
「露梁津の海戦」は
「小西行長軍が
1598年
朝鮮から撤退する際
順天で
明将軍
陳リン
朝鮮将軍の
李舜臣
率いる朝鮮連合軍が追撃したが
島津軍が
李舜臣を戦死させ
小西行長の軍を撤退させた」・・・
ーーーーー
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