タカ アマ ヶ ハラのコン ラン

 2979日目・文字霊日記
 臺乙・泰一・太一・太乙真人(眞人)・「真人・眞人」
 天文訓・・・「紫薇宮は太一の常居・北辰(北極)」・・・
 ↓↑
 アメ・アマ=米國文の君
 ↓↑
 「太白」・・・「金星・宵の明星=長庚」・・・
 フトッチョの白(いわく)の人・・・
         金武誉志・良い之名生定=譯語拿・科の得・・・?

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 太伯(タイハク)
    太った人は白い・・・?
    戴白=頭が白髪の老人
    碓礴⇔磅礴=ボウハク=旁礴・旁魄
    混じり合って一つになること
    何事も両極が磅礴して流転
    広がり満ちること・満ちふさがること
    般礴=ハンパク
    両足を前に投げ出して座る
    碓穿⇔碓=いしうす・穀物を挽いて粉にする道具
       穿=穴+牙=セン
       うが つ ・ほじ る・ほじくる・ はく・はつる
       つらぬく・・・小碓命熊襲タケルの尻を突く
       石碓・木臼・碾臼
       ウスを搗く・・・杵=きね=木根・稀音・記音
       餅搗き・粟搗き⇔阿波突き⇔
 虞仲(グチュウ)
    怖れ=恐れ=畏れ
      =虞(おそれ)=虍+呉=大海人皇子天武天皇
              虎 呉=くれ
      仲=イ+中・・・中大兄皇子天智天皇葛城皇子
              中臣鎌足中臣鎌子藤原鎌足
 ↓↑

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 中国周王朝
 古公
 亶父の子で兄弟
 后稷が始祖
  ・・・稷=禾+田+儿+夂
     稷 (アワ)
     稷 (ウルシキビ)=粳の黍
     稷 (キビ・キミ)・稷 (ショク)
      =黍=粟の別称・・・高粱(コウリャン)?
       穀神の稷=周王朝の祖先
            社稷が国家自体をも意味
 杜          杜
 「神奈備(かむなび・かんなび)」
 という神が鎮座する森
 神代・上代(かみしろ)
 「屋敷林」などの「人工林」「二次林」
 杜(やまなし)
 杜絶(ふさがる・トゼツ・途絶)
 杜撰(ズサン・いいかげん)
 山野に自生する落葉果樹
 西周
 鎬京の東に存在した国名=伯爵国
 杜 杜
   社(やしろ)=集会所・役所⇔神社
   鎮守の杜(もり)
   杜の鍛冶屋・道具の生産場所?
   ビーナス(金星)の夫は
   ヘイパイストス(鍛冶屋)
   杜=木+土

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    =きび・イネ(稲)科の一年草=黍⇔粟⇔米
     黍の原産地
     五穀の一・黍稷(ショショク)・類 黍(ショ)
     五穀の神・それをまつるやしろ・社稷
     たおさ(田長)・農業を監督する役人
     后稷(コウショク)・社稷(シャショク)
     黍稷(ショショク)
 姓 周宗家と同じ姫(キ)
 紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物
 季歴の兄・・・「李=木+子」の「暦=厤+日」
 文王の伯父・・・文=亠(音略)+乂
 ↓↑
 太伯は長男
 呉(句呉)の祖
 泰伯
 日本の皇統は太伯の末裔・・・との説・・・荒唐無稽?
 「自謂太伯之後(自ら太伯の後と謂う)」
 林羅山・・・囃子(早矢止)羅簒(残)?
 神武天皇、太伯末裔説
 呉王「夫差」の後・・・越王「勾践」=「臥薪嘗胆」
            越前・越中・越後
            ・・・米どころ=米国=亜米利加
 ↓↑          ↓↑
 遼隧の戦い=魏vs燕
    ・・・倭は燕に属す?
    『山海経』第十二「海内北経」
    「蓋國 在 鉅燕南
           倭北
           倭屬燕」
    「鉅」=金+巨
     鉅(いず)くんぞ
     鉅(おお)い
     鉅(おお)きい
     鉅(なん)ぞ
   「鉅鹿(キョロク)=秦代
     河北省平郷県に置かれた
     郡、県の名
 ↓↑  ↓↑
     紀元前207年
     鉅鹿の戦い
    「陳勝呉広の乱」
     直後
     項羽の「楚軍」
     と
     章邯の「秦軍」
     との間で
     鉅鹿(河北省邢台市平郷県)
     で行われた戦い

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     鉅鹿県
     河北省
     邢台市
     に位置する県
     秦代~南北朝時代
     同名の巨鹿県が設置されたが
     別県
     ↓↑
     曹州教案(そうしゅうきょうあん)
     1897年
     11月1日
     山東省曹州で発生した
     教案(反キリスト教事件)
     鉅野教案・鉅野事件とも
     山東
     曹州府
     鉅野県
     張家荘のカトリック教会が
     大刀会数人の略奪に遭い
     教会内にいた
     フランツィスクス・ニース
    (Franciscus Nies、能方済)
     リヒャルト・ヘンレ
    (Richard Henle、韓理加略)
     の2人のドイツ人神父が殺害された
     事件の直前に
     曹州府
     寿張県(陽穀県寿張鎮)
     の教会の襲撃事件発生
     11月6日
     ドイツ帝国
     山東省に出兵
     膠州湾を占領
     外交折衝が行われたが
     交渉中に
     山東巡撫
     李秉衡
     が解任
     1898年
     清朝は過失を認め
     ドイツに22万両の賠償金
     済寧など3ヶ所に教会を建設
    「独清条約」が結ばれ
     ドイツは99年間
     膠州湾を租借
     鉄道建設権
     鉱山の採掘権を得た
 ↓↑  ↓↑
     「鉅燕」の南
     「蓋國」・・・朝鮮半島
     「倭國」の北
     ↓↑
     蓋国は鉅燕の南・・・蓋(天蓋・鍋蓋)
     蓋=ふた=亠(鍋蓋・音の略字)
     倭の北にあり
     倭は「燕」に属す・・・?
        燕=「公孫」氏・・・公孫淵
           天孫=天津族
           隋の煬帝の宮城内の
           天津川・天津橋

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 ↓↑   ↓↑
 238年8月・・・・6月、卑弥呼、魏に使者派遣
          6月、邪馬台国の女王、魏に使者派遣
          ↓↑・・・倭の使者は「何處」にいた?
          8月、遼隧の戦い・・・?
          ↓↑
          12月、明帝から
           「親魏倭王」の金印・紫綬と銅鏡」
            などを下賜(魏志倭人伝
          6月、卑弥呼は「燕」を裏切った・・・?
          6月、卑弥呼は「魏」に恭順した・・・?
          6月、卑弥呼は「呉」を裏切った・・・?
          6月、卑弥呼は「高句麗」を裏切った・・・?
 ↓↑
 虞仲は次男
 仲雍・呉仲
 ↓↑
 末子は季歴
 歴の子は
 昌(文王)
 文王
 父は季歴
 母は太任・・・大任
 弟に
 虢仲
 虢叔
 祖父は古公亶父
 伯父は太伯と虞仲
 ↓↑
 子は武王
 武王の 后妃
 太姒  帝乙の妹・・・太姒(女以)
 ↓↑
 瓠=夸+瓜
   大+亏+瓜
   大+一+丂+瓜
   カク
   コ
   ひさご(瓢)・・・向後・久語
   ふくべ(瓢)・・・服部・福部・福邉
   ひょうたん・・・・瓢箪
  「瓠落(カクラク)」=丸く中が空虚なさま

 ・・・豊臣秀吉・・・千成瓢箪・・・成金・・・?
    出自・・・半島渡来人・・・記之下・・・
 ↓↑
 秦=三+人+禾
   一+人+禾
    シン
    はた
    戦國時代の七雄の一
    秦國・・・
    ↓↑
    新羅=斯盧=辰韓・・・「秦韓」?
    真番=シン パン
    辰韓=シン カン
    秦韓=シン カン
      =秦の始皇帝時代
       秦人奴隷が
       朝鮮(百済)東部に
       逃亡移民・・・
      「新羅=斯盧=辰韓」≠「秦韓」?
      「秦韓」=亡命「秦國人」
    ↓↑
    辰韓十二カ國・・・弓月國=融通國
             百二十県の民?
    ↓↑
    已柢國(邦)(己柢國)
    不斯國(邦)
    勤耆國(邦)
    弁辰彌離彌凍國(邦)
    弁辰楽奴國(邦)
    冉奚國(邦)
    軍彌國(邦)
    如湛國(邦)
    戸路國(邦)
    州鮮國(邦)(馬延國)
    斯盧國(邦)=新羅辰韓・・・「秦韓」?
    優由國(邦)
    ・・・辰韓人(秦韓人)は
      「國」のことを「邦」と呼称
       辰韓人(秦韓人)は秦語を使用
    ↓↑
   「其名
    國 為邦・・・「國」を「邦」と爲す
    弓 為弧
    賊 為寇
    行酒為行觴
    相呼為徒
    有似秦語
    故或名
    之 為秦韓」
    ↓↑
    邦→國・・・劉「邦」の
           「邦」を避け「國」替えた
    始皇帝     の「 秦」以前は「邦」
    劉邦=沛公=高祖の「前漢」以後は「國」
    と記録・・・
    ↓↑
    劉邦
    廟号 太 祖(タイソ)
    諡号 高皇帝(コウコウテイ
    通号 高 祖(コウソ)     
    ↓↑
    倭王「珍」が
    元嘉十五年(438年)
   「使持節都督倭
    百済
    新羅
    任那
    秦韓
    慕韓
    六國諸軍事
    安東大将軍
    倭國王」
    を自称・・・
    倭王
   「斉・興・武」の記録も
    同上「秦韓」の記録
    ↓↑
    万葉集新羅奇(しらき)
    出雲風土記=志羅紀(しらき)
    はた・姓氏の一種
    秦氏⇔服部・・・機織部の職名
       服部(はっとり)=呉服
    弓月君の民
    養蚕や織絹に従事
    その絹織物は
    柔らかく
   「肌」のように暖かいことから
   「波多」の姓を賜る・・・?
    肌=はだ=波田・・・秦(はた)?
    ↓↑
    仁徳天皇の時代
    波多姓を賜った
    子孫は氏姓に
    登呂志公
    秦酒公
    を賜り
    雄略天皇の御代
   「禹都萬佐(うつまさ・太秦
    を賜った
    ↓↑
   秦河勝・・・雄略天皇時代・・・
   ↓↑
   景行天皇
   倭 建
   仲哀天皇
   神功皇后
   応神天皇
   仁徳天皇
   ↓↑
   応神天皇十四年~十六年
   ↓↑
   仲哀天皇八年
   始皇帝
   三世孫・・・・・・・三世孫?
   孝武王
   の子の
   功満王・・・・・・十二世孫?
   が
   来朝
   さらに
   功満王の子の
   融通王・・・・・・十三世孫?
   弓月君と民が
   百済を経て渡来・・・
   ↓↑
   応神天皇十四年
   弓月君
   弓月國
   百二十県の民とともに
   帰化を上奏
   ↓↑
   新羅の妨害を受け
   葛城襲津彦を派遣
   その庇護下で
   弓月君の民は
   加羅に逗留
   三年経過
   ↓↑
   応神天皇十六年八月
   平群木菟 宿禰
   的戸田  宿禰
   が新羅牽制のため
   加羅に派遣され
   弓月君の民が渡来実現
   ↓↑
   弓月國=中央アジアの國
   弓月君=融通王・・・融通(ユウズウ)?
  (ゆづきのきみ・ユツキ・ユンヅ)
   ↓↑
   秦氏(秦酒公)
  「禹豆満佐=うずまさ」
   ↓↑
   秦 河勝・・・推古・聖徳太子時代
   姓 造
   秦 丹照
   or
   秦 國勝
   の子との・・・系図
   古墳時代飛鳥時代
   冠位 大仁・小徳
      大華上
      19階の上から7番目
      小紫の下、大花下の上
   主君 用明天皇崇峻天皇推古天皇
  ↓↑
  大秦町(たいしんちょう)
  秦梨町(はだなしちょう)
  太 秦 青木 ケ原 町
 (うずまさあおきがはらちょう)
  太 秦 青 木元 町
 (うずまさあおきもとちょう)
  太 秦 荒 木町
 (うずまさあらきちょう)
 ↓↑
 太=大+丶
   タ
   タイ
   ダイ
   ふとい
   ふとる
   はなはだ
   非常に・ひどく
   年長者や身分の高い人に対する敬称
   ふとい・ふとっている・肥えている
   ふとい・ふてぶてしい・ずぶとい・大胆
   ふとる・肥える
   ↓↑
 太(ふと) い
 太(ふと) る
 太(はなは)だ

 太(うず)=太秦(うずまさ)
 『日本書紀
 推古十一年(603年)十一月条・・・十一・拾壱
 聖徳太子
 から
 秦河勝
 が仏像を賜り
 蜂岡寺(はちおかでら・広隆寺)を建立
 『上宮聖徳太子伝補闕記』
 『聖徳太子伝暦
 秦河勝
 が
 聖徳太子に仕えて活躍した
 ↓↑
 太秦(うずまさ)
 地名由来
 雄略天皇の御世
 渡来系の豪族
 秦氏(秦酒公)が
 絹を
 「うず高く積んだ」ことから
 「禹豆満佐=うずまさ」
 の号を与えられ
 これに
 「太秦
 の漢字表記を当てた・・・???
 「大秦(だいしん)」
 中国史書記載
 ローマ帝国東ローマ帝国
 ↓↑
 范曄
 司馬彪
 後漢書卷八十八
 西域傳 第七十八
 安息
 「和帝 永元九年
  都護
  班超
  遣
  甘英
  使
  大秦
  抵條支
  臨 大海 欲度
  而 安息西界 船人
  謂 英 曰
  海水廣大
  往來者 逢 善風 三月乃得度
  若
  遇□風
  亦 有二歲者
  故 入海 人皆 繼三歲糧
  海中 善使人思土戀慕 數有死亡者」
 「安息=アルサケス朝パルティア
     始祖アルシャク
       Aršak(アルサケス1世)の音写
  ↓↑ 
 「後漢書
 「和帝の・・・・・和=倭+綴・諦
  永元九年(97年)
  西域
  都護の
  班超・・・磐調・・・磐余=神武
  が
  甘英・・・・・甘(あまい=阿毎王朝
           うまい
           旨い・美味い・巧い)
         英(はなぶさ・・・英国
           はなびら・・・英吉利
           はなしべ・・・噺部
           花弁・瓣)
  を使者として
  大秦・・・太秦(うずまさ)・・・秦國
  に派遣」
 ↓↑
 范曄
 司馬彪
 後漢書 卷八十八
 西域傳 第七十八 大秦国
 「至
  桓帝・・・桓武
  延熹九年
  大秦王
  安敦
  遣使
  自
  日南・・・日本の南・・・?
       九州
       琉球・沖縄
       琉=王+㐬=琉璃(ガラス)
         王+亠+ム+川
         王+云+川
         王+亠+厶+川
         㐬=育・・・子の逆字+肉
        「頭を下にした胎児
         流れる水=羊水」の象形
         出産時
         羊水が流れ出る意
       球=王+求・・・王を求める・継体
  ↓↑                
  徼外・・・国境・もとめる・徼幸
          さえぎる
       辺外の徼塞(キョウサイ)
       国境の砦(とりで)・要塞・城塞
       南を徼
       北を塞
  獻
  象牙﹑犀角﹑玳瑁
  始乃一通焉」
  ↓↑
 「安敦=ローマ皇帝
    マルクス・アウレリウス・アントニヌス
   (在位161年~180年)
    or
    その先代皇帝
    アントニヌス・ピウス
   (在位138年~161年)」
  の「アントニヌス」の音写
  ↓↑
 「桓帝の延憙九年(166年)
  大秦国王の
  安敦(アントン)が遣わした使者が
  日南郡(越南北部)に訪れ
  象牙・犀角・玳瑁を献上
  初めて
  大秦と漢は
  交流」
 ↓↑
 太郎・太刀・太鼓・地団太・図太い
 太乙・太平・太成・太晟・太清
 太生・太誠・太聖・太子・太師・太志
 ↓↑
 㑀=㐲・傣
   㐲=海島
 ↓↑
 伏(ふす)
 ↓↑
 汰(おご)る
 汰(にご)る
 汰(よな)げる
 淘汰
 音沙汰
 無沙汰
 胡乱の沙汰(ウロンのサタ)
 疑わしい噂(うわさ)のこと
 「胡乱」=疑わしい
 「沙汰」=評判
 沙汰の限り
 是非や善悪を
 議論する必要もないほどに悪いこと
 論外
 「沙汰」=物事の是非や善悪を議論すること
 ↓↑
 假=仮=亻+厂+又
   カ・ケ
   かり
   假=亻厂又反=仮
   他から(他のものを)一時的に借りる
   他に一時的に貸す
   同「叚」
   実際とは違うが
   一時的に他のものを用いる
   足りないところに
   他のものを借りて当てる
   他のもので間に合わせる・補う
   取り敢えず~する・一時的に~する
   実際はどうか分からないが
   もしも~であるならば
   もしも~とするならば
   暇(いとま)
   仕事などの合間の
   何もすることがない時間
   同「暇(ひま)」
 ↓↑
 呉
 遼東に
 周賀を送り込もうと謀るも
 魏の
 田豫に敗れる
 ↓↑
 遼東公孫氏
 公孫淵
 孫権使節を送り
 呉に恭順のふりをしながら
 呉の使者を襲撃
 その首を魏に送り
 曹叡より
 楽浪公と
 専断権を勝ち得た
 ↓↑
 孫権
 公孫淵討伐軍を
 派遣しようとするが
 薛綜が
 公孫淵
 支配地を
 得ても利益が無い
 海洋遠征は危険
 脚気で兵を失う
 と上訴
 断念(『三国志』薛綜伝)
 ↓↑
 公孫淵
 233年12月
 呉の使者を斬って魏への忠誠を表そうとした
 呉の使者60人ほどが
 高句麗に逃れ
 呉王の詔勅
 東川王に伝えた
 詔勅
 高句麗に対して
 遼東の領有を認めることが記録
 高句麗は呉と同盟
 東川王は
 236年7月
 呉の使者を斬り
 首を魏に送り
 魏の改元を祝う使者を派遣(237年)
 魏の
 司馬懿
 公孫淵を討つ際に兵を派遣(238年)
 公孫氏の滅んだ後
 242年
 遼東の西安平県を襲撃し
 魏と対立
 244年8月
 毌丘倹に攻め入られ
 国都の丸都城を陥落させられた
 東川王は
 南沃沮まで逃れたが
 王を支えたのは
 王直属の東部の
 密友・紐由
 下部の
 劉屋句
 ↓↑
 紐由は偽りの投降の後
 魏の将軍を刺殺して相死にし
 魏軍は退却
 東川王は国都に戻った
 論功行賞では専ら直属の
 密友・劉屋句らが恩賞を受け
 部族制国家に依拠した王権から
 貴族制性格となった
 国都
 丸都城が荒廃
 245年
 平壌城を築いて遷都
 平壌平壌直轄市)には
 魏の
 楽浪郡があるため
 丸都城の別名
 集安地方の域名とする説
 ↓↑
 245年
 3月
 日本海地方の人が
 美女を献じ
 後宮にいれ
 10月
 新羅の北辺を侵攻
 248年2月
 新羅と和を結んだ
 248年9月
 死去
 柴原に埋葬
 東川王と諡
 ↓↑
 237年      丁巳
 神功皇后    三十七年
 皇紀       0897年
 中国
 魏      青龍 五年
        景初 元年
 燕 公孫淵:  紹漢 元年
 蜀      建興十五年
 呉      嘉禾 六年
 朝鮮
 高句麗    東川王十一年
        第11代の王
        姓  高
        諱  憂位居
        幼名 郊彘
        別名 東壌王
 ↓↑
 新羅     助賁王 八年

 百済     古尓王 四年
 ↓↑
 孫権
 高句麗と通じ
 遼東へ親征を行おうとした
 魏は
 毌丘倹を派遣
 毌丘倹が
 鮮卑の軍を動かし
 遼東に駐屯させ
 孫権は親征を断念
 魏は
 公孫淵に対し上洛を命じたが
 公孫淵はこれを拒否
 挙兵して遼隧で
 毌丘倹を撃退
 公孫淵は燕王を称し
 年号を紹漢と定め
 独立を宣言
 周辺部族を掌握して
 玉璽を与え
 魏との国境をめぐり抗戦継続
 ↓↑
 238年干支 戊午
 倭
 神功皇后  三十八年
 皇紀    898  年
 中国
 魏     景初二年
 燕 公孫淵 紹漢二年
 蜀(蜀漢) 延熙元年
 呉     嘉禾七年・赤烏元年
 ↓↑
 八月
 遼東の燕國
 公孫淵(燕王)が
 魏に謀反し
 司馬懿
 の追討軍に敗れ滅亡
 公孫氏の遼東支配が終わる
 ↓↑
 曹叡
 司馬懿
 公孫淵
 征伐を命じた
 ↓↑
 公孫淵
 卑衍
 楊祚
 らを
 遼隧
 に派遣
 司馬懿が遼東に到着
 卑衍が攻撃したが
 司馬懿
 胡遵らを派遣し
 卑衍を破った
 ↓↑
 公孫淵
 遼隧に数十里の塹壕を掘り
 司馬懿の軍を迎え撃った
 公孫淵の防衛陣が堅固と見て
 司馬懿は東南に退却したとみせかけ
 国都の襄平に侵攻
 公孫淵は遼隧の軍を撤退させ
 都の守備に当たらせたが
 敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲された
 ↓↑
 長雨、兵糧不足で
 公孫淵は人質を出して
 和睦を画策するが
 司馬懿は許さず
 公孫淵を捕え、処刑
 公孫淵の子
 公孫脩、一族も討たれ
 公孫氏は滅亡
 ↓↑
 司馬懿
 当地の15歳以上の男子を皆殺しにした
 ↓↑
 公孫淵
 呉の孫権
 謝罪とともに援軍を求める使いを派遣
 ↓↑
 239年
 孫権
 羊衜・鄭冑・孫怡
 を派遣
 曹叡が死去
 羊衜らが
 遼東の牧羊城(旅順口)で
 魏の
 張持
 高慮
 らを破って
 男女を捕虜として帰国
 ↓↑
 魏
 遼東半島を勢力下に置き
 高句麗とも国境を巡って衝突
 ↓↑
 魏は
 毌丘倹を派遣
 高句麗を侵攻
 ↓↑
 「遼隧の戦い」
 司馬氏は魏の軍権を掌握し
 曹爽と政争
 ↓↑
 呉の年号
 「赤烏元年」
 紀年銘の
 画文帯神獣鏡が
 山梨県
 西八代郡
 市川三郷町
 の
 鳥居原
 狐塚
 古墳
 から出土
ーーーーー
 ・・・???・・・

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 「月間の日干支サイクル」
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 「年月日時×大運干支命式表の組織化」
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