1283日目・・・「まよはされて」・・・

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 枕草子
 (一八六段)・・・百八十六段・壱佰八拾六段・壱八六段・陌捌足陸段
          1+8+6=15=十五=壱拾五=足伍
          1×8×6=48=四十八=四拾八=肆足捌

 野分の・・・のわき・のわけ
       秋から冬にかけて吹く暴風
       二百十日、二百二十日前後に吹く台風
       のわきの風
       ↓
       野分(のわき)
       日本海軍の駆逐艦陽炎型駆逐艦第15番艦
       1944年、比島沖海戦で戦没
       初代「野分(初代神風型駆逐艦)に続いて
       二代目
ーー       
 又の・・・
 日・・・
 こそ、・・・
 いみじう・・・意味字得
 哀に・・・・・あわれに・「泡例・沫零」爾
 おぼゆれ。・・憶ゆる・・・溺揺れ

 立蔀、・・・立蔀(たてじとみ)
       隠し戸・防ぎ戸
       砲艦軍船の砲の窓の戸
 透垣・・・・すきがき・すいがき
 などの・・・
 ふし・・・・臥し・伏し
       不死・父子
       付し・附し
       賦し・節
 なみ・・・・名視
       波・浪
       那美・・・伊邪那美
       並み
       納身
 たる・・・・他留
 に、・・・・爾・邇→字
 前栽・・・・せんざい・せんさい・せざい
       千載・潜在・線材
       戦座位
       船災・戦災・・・艦船の船差異 
 ども・・・
 心ぐる・・・
 しげ・・・
 なり。・・・
 大なる・・・ダイなる・台成る
 木ども・・・キども・機共(伴)
 倒れ、・・・
 枝など・・・エなど・柄等
 吹き・・・・
 折られ・・・
 たる・・・
 だに・・・・拿似・打児
       打尼
        尼(あま)=尸(屍)+ヒ
 惜しき・・・
 に、・・・
 萩・・・・・はぎ・剥ぎ・接ぎ・葉義
       ↓
      「萩」は国字
       学名 Lespedeza thunbergii=宮城の萩
       毎年古い株から芽を出すことから
      「ハエキ(生芽)」=早黄・葉黄
      「芽子(はぎ)」は万葉集のヨミ
      「やまははこ・やはずははこ」=胡枝子
       萩=艸(サ)+秋(安芸・安岐・亜紀)
        ↓
       矢作→軽巡洋艦・機密保持のため、
       進水式で配られた記念酒盃には
      「矢矧」の名はなく、「矢に萩の花」を
       あしらった絵が描かれていた
       ↓
      「萩」は「松下村塾」の
      「吉田松蔭」塾生の門人と関係する軍船
       ↓
      「高杉晋作
       文久元年(1861年)三月
       海軍修練のため、藩の所蔵する
       軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ
       文久二年(1862年)五月
       藩命で、
       五代友厚らとともに、
       幕府使節随行員として
       長崎から中国の上海へ渡航
       清の太平天国の乱を見聞して
       七月に帰国(日記「遊清五録」)
ーー↓      
 女郎花・・・おみなえし・チメグサ
       敗醤(ハイショウ)
       ↓  拝承・拝誦・廃娼
       乾燥し煎じたもの・解熱・解毒作用
       万葉集
       秋の七草
      「萩の花尾花・葛花・瞿麦の花
       女郎花・藤袴・朝貌の花
      (「万葉集・巻八・1538」
       「源氏物語」では
        歌の言葉、
        前栽の花や
        襲色目の名)・・・かさねいろめ
        ↓
       能の演目の「女郎花(おみなめし)」
       小野頼風とその妻の話
       頼風に捨てられたと誤解した妻が
       法生川に飛び込んで自殺
       妻の墓の辺りから
       一輪の女郎花が生える
       頼風がその女郎花に近づくと、
       拒絶するかのように女郎花が風で逃げ、
       離れるとまた元に戻った
       それを見て
       彼は妻が拒絶していと思い、
       妻と同じ川に飛び込んで自殺・・・
       花言葉が「約束厳守」・・・?
       ・・・勘違いだろう・・・
      「男郎・郎」が「いらっこ」・・・
      「郎」は中国では官吏官職名である
ーーーーーーーー↓
       「郎」の考察・・・の「ついで」に
       以下の頭ダシの
       年代数、人名と地名が・・・「?」である・・・
        ↓
       660年・・・・紀元前660年は皇紀元年
       干支・庚申・・・かの兄の申(猿)
       斉明天皇六年
       皇紀1320年・・・壱千参百弐拾年
       唐=顕慶五年
       中大兄皇子
       飛鳥に
       漏刻台を造る
       ↓
       七月
       新羅からの救援要請を受けて
       唐が軍を起こし
       百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる
       唐で高宗に代わり
       則天武后が権力を握り始める
       山上憶良が誕生(660〜733年)
       御名部皇女が誕生(660〜没年不詳?)
       十一月
       百済の第三十一代国王
       義慈王が死去(599〜660年)
       ↓↑
       一月一日
       高句麗使
      「乙相賀取文」
       百余人、筑紫に到着
       三月十日
      「蘇定方」と
       在唐中の新羅王子
      「金仁問」、
        ↓↑
      「金仁問」の履歴
       新羅王族将軍
       字は仁寿
       武烈王(金春秋)の
       次男
       文武王の弟
       651年から唐都長安に没するまで
       七たび唐に渡る
       唐の宿衛に
       22年間留まり
       唐・新羅間の外交の主幹をなした
        ↓
       新羅王(金春秋)に百済討伐を命じる
       九月二十三日
       唐の高宗、百濟に五都督府を設置し、
      「郎将」の
      「劉仁願」に都城を守らせ、
       ↓↑
      「劉仁願」の経歴
       字は士元
       太宗の内供奉
       645年(貞観十九年)高句麗征討で大功
       654年(永徽五年)百済平定に従軍
       663年(竜朔三年=天智二年)
       百済の州柔城を陥れ,
      「白村江口」で倭軍を大破
       664年(麟徳一年)
       667年(乾封二年)
       百済占領軍司令官
       668年(総章一年八月辛酉)
       高句麗征討に際し
       軍を逗留させた罪で
      「姚州」に流刑
       ↓↑
       左衛
      「中郎将」の
      「王文度」を・・・「蘇定方」と対立した奸臣?
       熊津都督に任命
       ↓
       九月二十八日
      「王文度」急死
      「劉仁願」に交替させる
       十一月一日
      「蘇定方」、
       百済義慈王
       百済の王族・高官五十八人を連れて
       高宗の許に赴く
       高宗、義慈王を宥すが
       義慈王、唐で病死
       ↓
       661年(龍朔元年)
       三月
      「劉仁軌」を検校帯方州刺史とし、
       かつての王文度の軍を率いさせ、
       新羅兵を徴発して
      「劉仁願」を救援するよう詔
       ↓
       662年
       干支年・壬戌
       天智天皇元年
       皇紀1322年
         壱千参百弐拾弐
       唐=龍朔二年
         龍(リュウ)の
           劉・隆・柳・留・立
         朔(サク)の
           策・作・窄・搾
           割・裂・索
           咲
           佐久・叉句・査句・差句
         二年(ニネン・ジネン)
            似撚・爾撚・字撚
               時撚・事念
               児念
       2月20日(天智天皇元年一月二十七日)
       天智天皇百済
       鬼室福信に品を下賜
       3月28日(天智天皇元年三月四日)
       天智天皇百済
       余豊璋に布を下賜
       三月
       白村江の戦い
       第二派出発
       軍主力の二万七千人
       上毛野君稚子
       巨勢神前臣・譯語・・・おさだ
       阿倍・比羅夫・・・・・ひらふ
      (阿倍・引田・比羅夫)
          音伝・隠伝
          陰伝・允伝・寅(虎)伝
       吉田松蔭 木戸孝允 大海人皇子
       四月
       馬の尾に鼠が子を産むのを発見
      (高句麗が破れ日本に属する暗示)・・・?
       司馬の緒(著)の
       杜松視が史(詞・示)の有無
       ↓
      ネズ(杜松・学名 Juniperus rigida)
      ヒノキ科ビャクシン属に属する針葉樹
      常緑
      別名は「ネズミサシ・ムロ・モロノキ」
      和名はネズの硬い針葉を
      ネズミ除けに使っていたことから、
      ネズミを刺すという意でネズミサシ
      それが「ネズ」と縮まった
     「杜松(トショウ)」=木+土+木+公
                木戸  起稿
            紀土(壱拾壱) 危行・奇功
            記怒(言己奴心)奇行・紀行
                    紀綱・貴公
     「杜松(ねず)」は「杜撰(ズサン)」
       ↓
      五月
      阿倍比羅夫百済救援に派遣
      余豊璋を百済に送り王位を継がせる
      草壁皇子の誕生→皇太子
              ・・・久坂玄瑞(随・隋)
     (662年〜689年)
      新城公主、死去・・・・身上・心情・真情
      ↓       シンジョウの
      ↓       同音漢字のスベテ
      ↓       ↓↑
      ↓       木戸孝允桂小五郎
              雅号
             「松菊」
             「木圭・猫堂・鬼怒・広寒
              老梅書屋・竿鈴・干令」
              夫人は
              芸妓
             「幾松(木戸松子)」
              (天保四年六月二十六日
               1833年8月11日
                〜
      ↓         明治十年
      ↓        1877年5月26日)
      ↓      「捨て松」は
      ↓      「大山捨松=山川さき(咲子)」
      唐の太宗
      李世民
      長孫皇后の間に生まれた
      二十一番目の女(娘)
      長孫詮に降嫁
      652年、新城公主に改封
      長孫(無忌・无忌)氏は
      武則天と争って没落し
      長孫詮も巂州に流刑、暗殺
      新城公主は
      韋正矩に再嫁
      韋正矩は公主に乱暴無礼
      662年冬、
      夫の韋正矩の暴行で死亡
      高宗は激怒して、
      663年一月に韋正矩を処刑
      韋氏の家族を流刑に処す
      新城公主は
      昭陵に陪葬
     (634年〜662年)
       ↓↑
       663年
       六月
       百済王の豊璋が
      「鬼室福信」を殺害
       百済高句麗と倭に援軍を求め、
       唐軍を阻むが
      「孫仁師」の軍に破れる
      「孫仁師」は、
       検校帯方州刺史としての
      「劉仁軌」と、
      「劉仁願」の軍と合流
       加林城よりも周留城を先に攻めることを議す
      「孫仁師・劉仁願」と
       新羅
      「金法敏」の軍は陸から進軍し、
      「劉仁軌」と「杜爽・扶餘隆」が水軍を率い、
       熊津江から白江に行き、
       陸軍と合流し、
       周留城に向かう
       ↓
       八月二十七日
       百済への援軍、白村江に到着し唐軍と戦い
       退却
       日本書紀(八月・二十七条)
       ↓
       九月八日
       劉仁軌の水軍、
       白江河口にて倭軍を大破
       周留城落城
       百済王の豊璋、高句麗へ脱出
       扶餘忠勝・忠志
       倭国、眈羅国、降伏
      「遅受信」のみ
      「任存城」で降伏せず
       旧唐書
      「劉仁軌」に倭軍、白村江で唐軍に大敗
       新羅軍と唐軍が
       豆陵(良尹)城・周留城などを攻略
       百済王の
       豊璋、脱出
       一説に高句麗に逃亡
       王子
       忠勝・忠志や倭人、降伏
      「遲受信」のみ任存城に拠って抵抗
       三国史記・五月条
       ↓   
       八月二十八日
       白村江で唐軍と再戦し大敗
       溺死者多数で
      「朴市田来津」が戦死
       百済王の
       豊璋、高句麗に逃亡
       ↓
       九月七日
       唐軍、百済の州柔城を攻略
       百済人、倭の援軍と協議
       九月・七条
       新唐書
       九月・八条
       三国史記
       十一日に
      「弖礼城」に向けて出発し、
       十三日到着
       ↓
       664年
       十月
       高句麗
      「泉蓋蘇文」死亡
       十月六日
      「劉仁軌」上言
       高宗、扶余隆を熊津都督とする
       ↓↑
      「劉仁軌」の経歴
      「劉仁軌(602年〜685年3月2日)」
       字は正則
       楽城文献公・汴州尉氏出身
       ↓↑
       天智(テンヂ)天皇(669年)
       七年
       冬十月、大唐大將軍英公、打滅高麗
       ↓
       天智天皇(670年)
       八年
       十二月、
       災大藏。
       是冬、修高安城、收畿內之田税。
       于時、
       災
       斑鳩寺。
       是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。
       又
       以
       佐平
       餘自信
       佐平
       鬼室集斯
       等男女七百餘人、
       遷居
       近江國蒲生郡
       又
       大唐遣
       郭務悰
       等二千餘人。
       ↓
       天智天皇(671年)
       九年
       正月
       戊子(日)、
       宣朝庭之禮儀與行路之相避。
       復
       禁斷
       誣妄・妖偽。
       ↓
       二月、
       造戸籍、斷盜賊與浮浪。
       ↓
       三月甲戌朔壬午、
       於山御井傍、
       敷諸藭座而班幣帛、
       中臣金連宣祝詞。
       ↓
       夏
       四月
       癸卯(日)朔壬申夜半之後、
       災法隆寺、一屋無餘。
       大雨雷震。
       ↓
       五月、
       童謠曰、
       ↓
       于知波志能
       都梅能阿素弭爾
       伊提麻栖古
       多麻提能伊鞞能
       野鞞古能度珥
       伊提麻志能
       倶伊播阿羅珥茹
       伊提麻西古
       多麻提能鞞能
       野鞞古能度珥
       ↓
       天智天皇(672年)
       十年春正月
       己亥(日)
       朔庚子、
       大錦上
       蘇我赤兄
       與
       大錦下
       巨勢人臣
       進於殿前、奏賀正事。
       癸卯(日)、
       大錦上
       中臣金連
       命宣藭事。
       是日、
       以
       大友皇子
       拜
       太政大臣
       以
       蘇我赤兄
       爲
       左大臣
       以
       中臣金連
       爲
       右大臣、
       以
       蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣
       爲
       御史大夫
       御史蓋今之大納言乎。
       甲辰(日)、
       東宮太皇弟
       奉宣
       或本云
       大友皇子
       宣命
       施行
       冠位法度之事、
       大赦天下。
       法度冠位之名、
       具載於
       新律令也。

       丁未(日)、高麗、遣上部
                大相
                可婁
                等進調。
       辛亥(日)、百濟鎭將
                劉仁願、
                遣
                李守眞
                等上表。
       劉仁願の672年の存在?
       668年(総章一年八月辛酉)
       高句麗征討に際し
       軍を逗留させた罪で
      「姚州」に流刑

       ↓↑
       天智天皇
       十年(672年)
       二月
       戊辰(日)朔庚寅、
       百濟、遣臺久用善等進調。
       三月
       戊戌(日)朔庚子、
       黃書造本實、獻水臬。
       甲寅(日)、
       常陸國、
       貢
       中臣部若子、
       長尺六寸、
       其生年
       丙辰至於
       此歲十六年也。
       夏四月
       丁卯(日)朔辛卯、
       置
       漏剋於新臺、
       始打
       候時動鍾鼓、
       始用
       漏剋。
       此漏剋者、
       天皇爲皇太子時、
       始親所製造也、云々。
       是月、筑紫言、
       八足
       之
       鹿生
       而卽死。
       五月
       丁酉(日)朔辛丑、
       天皇御西小殿、皇太子・群臣侍宴。
       於是、再奏田儛。
       六月
       丙寅(日)朔己巳、
       宣
       百濟三部使人所請軍事。
       庚辰(日)、
       百濟遣
       羿眞子
       等進調。
       是月、
       以
       栗隈王
       爲
       筑紫率。
       新羅、遣使進調、
       別獻
       水牛一頭
       山鶏一隻。
       秋七月
       丙申(日)朔丙午、
       唐人
       李守眞等
       百濟使人等、
       並罷歸。
       八月
       乙丑(日)朔丁卯、
       高麗上部大相
       可婁
       等罷歸。
       壬午(日)、
       饗賜
       蝦夷
       九月、
       天皇寢疾不豫。
       或本云八月天皇疾病。
       冬十月
       甲子(日)朔庚午、
       新羅遣沙飡
       金萬
       等、進調。
       辛未(日)、
       於內裏、開百佛眼。
       是月、天皇遣使、
       奉
       袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀
       及
       諸珍財
       於
       法興寺佛。
       庚辰(日)、天皇疾病彌留。
       勅喚東宮引入臥內、
       詔曰、朕疾甚、以後事屬汝、云々。
       於是、再拜稱疾固辭、
       不受曰
      「請奉洪業付屬大后
       令大友王奉宣諸政。
       臣請願奉
       爲天皇出家修道。」
       天皇許焉。
       東宮
       起而再拜、便向於內裏佛殿之南、
       踞坐胡床、剃除鬢髮、爲沙門。
       於是、天皇
       次田生磐、送袈裟。
       壬午(日)、
       東宮
       見
       天皇
       請之吉野修行佛道、天皇許焉。
       東宮、卽入於吉野。
       大臣等侍送、至菟道而還。
       十一月
       甲午(日)朔癸卯、
       對馬國司、遣使於筑紫大宰府
       言
      「月生二日、
       沙門道久
      ・筑紫君薩野馬
      ・韓嶋勝娑婆
      ・布師首磐
       四人、
       從唐來曰
      『唐國使人
       郭務悰
       等六百人
      ・送使
       沙宅孫登
       等一千四百人、
       總合二千人乘船卌七隻、
       倶泊於
       比智嶋、相謂之曰、
       今吾輩人船數衆、忽然到彼、
       恐彼
       防人
       驚駭射戰。
       乃遣
       道久
       等
       預稍
       披陳
       來朝之意。』」
       丙辰(日)、
       大友皇子在於內裏西殿織佛像前、
       左大臣
       蘇我赤兄
      ・右大臣
       中臣金連
      ・蘇我果安臣
      ・巨勢人臣
      ・紀大人臣
       侍焉。
       大友皇子、手執香鑪、先起誓盟曰、
       六人同心奉天皇詔、
       若有違者必被天罰、云々。
       於是、
       左大臣蘇我赤兄臣等、
       手執香鑪、隨次而起、
       泣血誓盟曰、臣等五人
       隨於殿下奉天皇詔、
       若有違者
       四天王打、天藭地祇亦復誅罰、
       卅三天證知此事、
       子孫當絶家門必亡、云々。

       丁巳(日)、
       災近江宮、
       從大藏省
       第三倉出。
       壬戌(日)、
       五臣奉
       大友皇子
       盟天皇前。
       是日、
       賜
       新羅王、・・・ナゼ「新羅王」なのか?
       絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚。

       天智天皇
       十年(672年)
       十二月(1月)
       癸亥
      (三日)(7日)
       朔乙丑、
       天皇崩于近江宮・・・宝算46歳崩御
       癸酉(日)、殯于新宮。
       于時、童謠曰、
       ↓
       美曳之弩能・・・ビエイシドノウ
       曳之弩能阿喩・・エイシドノウアユ
       阿喩舉曾播・・・アユキョソバン
               アユコソハン
       施麻倍母曳岐・・シマバイボエイキ
               セマバイボエイギ
       愛倶流之衞・・・アイグリュウシエイ
               アイクリュシエイ
       奈疑能母騰・・・ナギノウボトウ
               ナギノウボドウ
       制利能母騰・・・セイリノウボトウ
               セイリノウボドウ
       阿例播倶流之衞・アレイハンクリュウシエイ
       其一・・・・・・キイチ
       於彌能古能・・・オビノウコノウ
       野陛能比母騰倶・ヤヘイノウヒボトウグ
               ヤバイノウヒボドウク
       比騰陛多爾・・・ヒトウヘイタニ
               ヒドウバイタジ
       伊麻拕藤柯泥波・イマタトウカデイハ
       美古能比母騰矩・ビコノウヒボトウク
       其二・・・・・・キジ
       阿箇悟馬能・・・アコゴバノウ
       以喩企波々箇屢・イユキハハコル
       麻矩儒播羅・・・マクジュハンラ
       奈爾能都底舉騰・ナジノウトテイコトウ
               ナニノウトテイキョドウ
       多拕尼之曳鶏武・タタニシエイケイブ
       其三・・・・・・キサン
       ↓
       己卯(日)、・・西暦元年
               辛酉年
               戊寅月
               己卯日
       新羅
       進調使・・・・・シンチョウシ・新調史?
       沙飡・・・・・・沙飡(八等官)
       金萬物・・・・・今瞞物(者・ブツ・勿)
       等
       罷・・・・・・・ヒ・ビ
               やめる・・・?
               まかる・・・?
       歸。・・・・・・キ・ケ・・・帰
               かえる・かえす
       是歳、
       讚岐國・・・さぬき・佐貫
       山田郡・・・やまだ・サンデン・纂伝
       人家・・・・ジンカ・訊掛
       有
       雞(雞=奚+隹)子・・・鶏(にわとり)
        ・・・・「雞」の漢字は
            「隋書・俀人伝」の字
       四足者。・・猟師・マタギ山窩
       又・・・・・コウ・ウ
             また・・・叉・ヌ・右手
       大炊・・・・炊=スイ
               たく→焚く・他句
       有
       八鼎鳴、・・・八鼎(三足)なる
              8+3=11・8×3=24
       或
       一鼎鳴、・・・一鼎(三足)
              一「かなえ=敵・叶・適」
       或二・・・・・あるジ・・・主
                字・事・時・辞
              あるニ
                爾・邇・似・尼・丹・荷
       或三・・・・・あるサン
       倶鳴、・・・・ともに、なる(なく)・名句
              グキュウ→愚救
              クキュウ→句究
       或八・・・・・あるハチ
       倶鳴。・・・・ともに、なる(なく)
              グキュウ
              クキュウ
        ↓
      「旧唐書・巻六十五 列伝第十五・長孫無忌伝」
       中国「二十四史の第十三番目」
      「新唐書・巻一百五 列伝第三十・長孫无忌伝」
        ↓
       旧唐書・・・・長孫無忌(无忌)
       志第十二 暦一
       志第十三 暦二
       志第十四 暦三
       志第十五 天文上
       志第十六 天文下
        ↓
       列伝第十三・封倫・蕭瑀・裴矩・宇文士及
       列伝第十五・高士廉・長孫無忌
ーーーーーーー↓
       郎
       郎中令の属官
       ↓
       東中郎将、・・・趙韙(是韋)=漢征東中郎将
                     巴西郡安漢の人
               董越=漢東中郎将・董卓の将
               蒋済=曹丕(文帝)の時代に
                  相国長史
                  魏の建国時に東中郎将
                  魏の武将
                  字は子通
                  諡号は景侯
                  徐州彭城郡平阿県の人
                 「万機論・三州論」著者
       左中郎将・・・・火畏=中郎将段
               張奐=使匈奴中郎将
       中央軍を動かす
       比ニ千石の大官
       右中郎将、虎賁中朗将、平難中朗将
       比ニ千石の大官
       鎮軍中朗将、騎都尉
       羽林の兵権を持ち独立軍を動かす
       ↓
       門下省=職務は詔勅の吟味、出納
 「秦・前漢」「後漢・魏 晋」「隋(煬帝)・唐(玄宗)・宋」
   ↓       ↓       ↓
  黄門侍郎  給事黄門侍郎    黄門侍郎
 「黄門」=「宦官」は「阿諛追従」・・・「水戸黄門」・・・
ーーーーーーー↓
       中書省詔勅の記録、伝達
 「魏 晋」   「隋(煬帝)」「唐(玄宗)」
   ↓      ↓      ↓
  中書侍郎    内史侍郎   中書侍郎
ーーーーーーーー↓
        郎
      「女郎」は「いらつめ」である・・・
       近世になると、女郎(ジョロウ・めロウ)、
       遊君(ユウクン)、娼妓(ショウギ)
       太夫は最高位の遊女。花魁( おいらん)
       湯屋で働く湯女(ゆな)や、
       旅籠で働く飯盛女(めしもりおんな)
       売春婦・・・
       遊郭の遊女
       若い女・一般に女性。婦人
      「上臈」は大名の女房や局(つぼね)
       ↓
       おみなえし
       緒視名得詞→尾(尾張)皆名重詞
       ジョロウカ
       助 賂得華・序賂得化
       如 賂羽化・所賂雨下
       ↓
       除・叙・徐・汝・鋤・恕
ーー↓       
 などの・・・等之
 うへ・・・・上・得重
 に、・・・・爾
 よろぼひ・・・よろよろと歩く・よろめく
        蹌踉ひ・・・「蹣跚ひ」
        蹌=足+倉
         そうそう・ふらふらと動く・よろめく
        踉=足+良
         千鳥足で歩く
       「蹌=足の倉」や「踉=足の良」が
        ナゼ、フラツクの意味なのか・・・?
       「よろこぼふ」は
       「しきりに喜ぶ・うれしがる」
        ↓
       能の「弱法師(よろぼし)」は、
       高安長者の伝説を基にし
       難波の四天王寺を舞台にした、
       盲目の
       乞食
       俊徳丸と、
       俊徳丸を捨てた父親との、
       再会と和解のモノガタリ
       ↓
       継母の呪いによって失明し落魄するが、
       恋仲にあった
       娘・乙姫の助けで
       四天王寺の観音に
       祈願することによって病が癒える・・・
       ↓
       観世元雅作
       他の俊徳丸伝説より悲劇性が高く
       俊徳丸は祈っても
       視力が回復せず、
       回復したような錯覚に陥るだけである
       ↓
       題名は普通
      「よろぼおし」と読むが、謡曲の本文中では
      「よろぼし」と読む・・・
       ↓
       雄略天皇に殺された
      「目弱(眉輪王)皇子、
       都夫良臣(円大臣)」と
       関係しする・・・か?
ーー↓
 這ひ・・・
 伏せる、・・・
 いと・・・
 おもはず・・・
 なり。・・・
 格子の・・・
 つぼ・・・
 など・・・
 に、・・・
 颯と・・・「かける・そう・そら・つばさ
       はや・はやた・はやて・はやと
       りゅう・りょう・わたる
       サツ・ソウ」と
       颯爽→楓→「かえで」と・・・?
 際を・・・
 殊更に・・・
 したらん・・・
 やうに、・・・
 こまごまと・・・
 吹き・・・
 入り・・・
 たる・・・
 こそ、・・・
 あらかり・・・
 つる・・・
 風の・・・
 しわざ・・・
 とも・・・
 おぼえ・・・
 ね。・・・・音

 いと・・・
 濃き・・・・こき・・・ウソこき=嘘つき
       扱き・古稀・呼気・古記・子機・子規
 衣の・・・・意之
 うは・・・・得葉
 ぐもり・・・具摸理・愚漏り
 たるに、・・・
 朽葉の・・・「くちば」の・・・口葉
       平安文学では黄赤系統の色
       江戸時代以降は褐色系統の色
 織物、・・・
 羅などの・・・
 小袿・・・こうちぎ・うちきはかま・ケイ
      うちかけ・うちぎ
      貴族の女性が、唐衣に代えて
      裳(も)とともに着用した広袖の上着
      袿(うちき)より裾(すそ)短かにし、
      近世には中陪(なかべ)をつけた
      日常着
 著て、・・・
 まこと・・・
 しく・・・
 清げなる・・・
 人の、・・・
 夜は・・・
 風の・・・
 さわぎに・・・
 ねざめ・・・
 つれば、・・・
 久しう・・・
 寐・・・
 おきたる・・・
 ままに、・・・
 鏡・・・
 うち・・・
 見て、・・・
 母屋・・・
 より・・・
 すこし・・・
 ゐざり・・・
 出でたる、・・・
 髮は・・・
 風に・・・
 吹き・・・
 まよはされて・・・、
 少し・・・
 うちふく・・・
 だみ・・・・彩
       金泥、銀泥で彩色すること
      「彩漆」・「彩潰(だみつぶ)し」の略
      ダミ=替え玉・身代わり・人体模型・布袋

 たるが、・・・
 肩に・・・・・
 かかりたる・・・
 ほど、・・・
 實に・・・
 めでたし。・・・

 物・・・
 あはれなる・・・
 氣色・・・
 見る・・・
 ほどに、・・・
 十七八・・・拾(足)漆捌
 ばかり・・・葉借り・場借り
       秤
 にや・・・
 あらん、・・・
 ちひさくは・・・
 あらねど、・・・
 わざと・・・
 大人などは・・・
 見えぬが、・・・
 生絹の・・・
 單衣の・・・
 いみじう・・・
 ほころび・・・
 たる、・・・
 花も・・・
 かへり、・・・
 濡れ・・・
 など・・・
 したる、・・・
 薄色の・・・
 宿直物を・・・宿直(とのい)の着物
        律令法で
        宮中・官司、貴人の警備を行うこと
        宿直(シュクチョク)=夜警
 著て、・・・
 髮は・・・
 尾花の・・・
 やうなる・・・
 そぎ・・・
 すゑも、・・・
 長・・・
 ばかりは・・・
 衣の・・・
 裾・・・
 には・・・
 づれて、・・・
 袴の・・・
 み・・・
 あざやか・・・
 にて、・・・
 そば・・・
 より・・・
 見ゆる。・・・
 わらはべの、・・・
 若き・・・
 人の・・・
 根籠に・・・ねかご・コンロウ
       近世、円く細長く粗く編んだ
       籠の中に栗石や砕石などを詰めたもの
 吹き・・・
 折られたる・・・
 前栽などを・・・
 取り・・・
 集め・・・
 起し・・・
 立て・・・
 などするを・・・、
 羨しげに・・・
 推し・・・
 量りて、・・・
 つき・・・
 添ひ・・・
 たる・・・
 うしろも・・・
 をかし。・・・
ーーーーー
 ・・・