2663日目・・・ローマって、「スッラ」と「ポンペイウス」がその岩盤をコンクリートで固めた・・・「本並・本併・本俾・本埤」失す・・・「翻経意佻」・・・「卑+α」もワンサカ・・・意味のヨメないカンジ・・・「卑=甶+丶+十」に「+α」だから意味も並列して推理・・・それにしても「卑賤・卑属・卑金属・尊卑・品性が劣る・下品・卑俗・卑劣・卑猥・野卑」・・・これはアマリにも酷い漢字の意味だけれど、「卑弥呼」は「鬼道の巫女」だから当然である・・・

 俾=ヒ・ヘイ・しもべ・にらむ・たすける・益する
   俾益
   裨(ヒ)=しもべ・めしつかい・ヘイ・にらむ・横目で見る
       俾倪(ヘイゲイ)・睥(ヘイ)
       俾=亻+卑
         したが-う・しむ・せし-む・ヒ・ヘイ
         かしずく
       異体字「𠈷・𢔌・裨・朇・禆・陴・𥚈・𩫫・𩫮」
 埤=土+卑
   異体字「𡌨・𡐕・壀・陴」
   ます・あたへる・たすける・ひくいひめがき・あたえる
   ヒ・ビ・ヘイ
   甶+α・・・甶=丿+田=フツ・鬼の頭・子供の頭
   卑+α
   捭・猈・萆・郫・𩔹・䫌
   𪐄・椑・粺・裨・鞞
   𠕩・𩫮・鼙・䠋
   㪏・㼰・䇑・𧌠・𩖓・庳
   𠕩=冎+卑=異体字「㗗」
   錍=短い斧・矢先・矢尻・鋤
   睥=睥睨(ヘイゲイ)
   髀=大腿骨=腿・股
   稗=稗粟=稗田(阿禮)
   婢=奴婢
   碑=石碑=𥓓
   脾=脾臓
   鵯=鵯鶋(ひよどり・ヒッキン)
   牌=位牌
   痺=麻痺
   萆=萆薢(ひかい)=ヤマイモ科の「ところ・おにどころ」
             蓑・箕
   蜱=真蜱(まだに)
   陴=郫(ひめがき)
   捭・萆・陴・郫・脾・椑
   鞞・篺・䡟・貏・颦・㽡
   睥・裨・粺・箄・薭・䫌
   鼙・朇・顰・聛・蠯・㼰
   㯅・猈・䚜・簰・䱝・諀
   崥・㗗・渒・螷・啤・㵺
   琕・䠋・簲・䴽・豍
   庳・㪏・焷・綼・䇑・䰦
ーー↓↑ーー
 別=𠮠+刂=冂+万+刂=口+勹+刂=冂+刀+刂
 異字体「别=口+力+刂」
 ↓↑
 「わかれる」と読む漢字
 ↓↑
 分(分離・分別)
 別(別離)
 别(別個)
 剖(解剖)
 沠(派閥)
 派(派遣)
 訣(決別)
 𠛰(削る・梳る・けずる)
 ↓↑
 冎+刂=𠛰=わかれる・ベツ・ベチ
 ↓↑
 髀=骨+卑=䠋=𧾷+卑
  =ふともも(太股・太腿)の大腿骨
   ヒ・ビ・ハイ・バ・ヘン・ベン
ーー↓↑ーー
 倭国大乱
 「其國
  本亦以男子爲王住七八十年
  ↓↑   ・・・780年=七百八十年?
          干支 庚申・・・庚(かのえ)の申(さる)
          日本
          宝亀十一年・・・宝の亀の拾の壱の念?
          皇紀1440年
          中国
          唐  建中元年・・・建の中元の年?
          3月(旧暦2月)
          ヤマト王権
          蝦夷征討の城柵の
          覚鱉城(かくべつじょう)を陸奥国内に築く
          5月1日(宝亀十一年三月二十二日)
          宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)が勃発
          夷俘
          陸奥国伊治郡
          の大領を務める
          伊治呰麻呂
          伊治城でヤマト王権に反旗
          夷俘軍を率いて
          按察使・紀広純らを殺害
          伊治城は焼失
          唐で、両税法が施行
  ↓↑
  倭國亂 相攻伐歴年
  乃
  共立一女子爲王
  名曰
  卑彌呼
  事鬼道
  能惑衆
  年已長大
  無夫婿」
 『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人魏志倭人伝
 ↓↑
 桓帝霊帝の治世の間(146年〜189年)、倭国は大いに乱れた
 『後漢書』卷85 東夷列傳第75
 ↓↑
 永初元年(107年)、倭国王帥升後漢へ使者を出した
 『後漢書東夷伝
 ↓↑
 184年
 四月二日
 ・・・張角太平道の教祖、黄巾の乱の指導者
 黄巾の乱(コウキンのラン・黄巾之乱・黃巾之亂)
 後漢末期の
 西暦184年(中平一年)
 太平道の教祖
 張角を指導者とする
 太平道の信者が各地で起こした農民反乱
 黄色い頭巾を頭に巻いた
 ↓↑
 184年
 干支 甲子
 成務天皇五十四年
 皇紀844年
 ↓↑
 後漢 光和七年、中平元年
 張曼成 神上元年
 ↓↑
 朝鮮
 高句麗 故国川王六年
 新羅  阿達羅王三十一年、伐休王元年
 百済  肖古王十九年
 ↓↑
 「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」
 『新羅本記』
 ↓↑
 高地性集落
 弥生時代中・後期に
 平地と数十メートル以上の標高差がある
 標高100メートルを超える
 高地の山頂部や斜面に形成された集落
 ・・・津波や洪水・・・そして外来海賊の襲撃・・・?
 大乱発生時期「180〜190年頃」
 『後漢書
 『梁書』には
 「霊帝・光和年中」(178年〜184年)
  ・・・例綴・講和(乞う和)念重・・・
        サンフランシスコ?
        1951年9月8日午前11時55分
       (米太平洋時間・日本時間9日午前3時55分)
 ↓↑
 倭の記録
 後漢
 班固(32年・建武八年〜92年・永元四年)・・・建武の八年
 ↓↑    干支 壬辰
       垂仁天皇六十一年
       皇紀692年
       後漢 建武八年
       隗囂 漢復十年
       公孫述 龍興八年
       朝鮮
       高句麗 大武神王15年
       新羅  儒理王9年
 ↓↑    百済  多婁王5年
 &
 班昭(45年?〜117年?)・・・曹大姑
 が書いた『漢書』地理志
 班昭は
 曹世叔に嫁したが、夫の死後
 和帝の詔により
 兄の「漢書」編纂を引き継いで
 八表と天文志を完成
 他に
 「女誡」七編
 「東征賦」を著
 曹大姑 (ソウタイコ) とも・・・
 ↓↑
 王充(27年〜97年 or 101年?)・・・字は仲任・会稽郡上虞の出身
 が著した『論衡』
 ↓↑
 『晋書』、『梁書』に
 倭人の出自は
 「太伯之後」と・・・太伯=呉の祖
        ・・・太安萬侶・・・呉の末裔?
 記録
ーー↓↑ーー
 184年
 干支 甲子
 日本
 成務天皇五十四年
 皇紀844年
 中国
 後漢 光和七年、中平元年
 張曼成 神上元年
 朝鮮
 高句麗 故国川王六年
 新羅  阿達羅王三十一年、伐休王元年
 百済  肖古王十九年
ーーーーー
 ポンペイウス年表
 紀元前106年・ピケヌムで生まれる
 紀元前 88年・同盟市戦争で初陣を飾る
 紀元前 87年・父ストラボが死去
 紀元前 83年・スッラのローマ侵攻に
        軍を率いてスッラ派へ参加
 紀元前 82年・マリウス派(ポプラレス)が
        抵抗していた
        シキリア・北アフリカを制圧
        (〜紀元前81年)
 紀元前 81年・1度目の凱旋式
 紀元前 76年・セルトリウスの反乱を鎮圧するべく
        ヒスパニアへ遠征(〜紀元前71年)
 紀元前 71年・2度目の凱旋式
 紀元前 70年・コンスルに就任
     (同僚はマルクス・リキニウス・クラッスス
 紀元前 67年・海賊征討戦(3ヶ月弱で完了)
 紀元前 66年・小アジア黒海遠征
        ミトリダテス6世を破る
        (〜紀元前63年)
 紀元前 64年・シリア・ユダヤフェニキア等を
        ローマの勢力圏に加える
 紀元前 61年・3度目の凱旋式
 紀元前 59年・第一回三頭政治
       (クラッスス及び
        ガイウス・ユリウス・カエサル
        ポンペイウス
        カエサルの娘・ユリアと結婚
 紀元前 58年・ヒスパニア属州総督に就任
       (〜紀元前55年)
        ポンペイウス劇場が完成
 紀元前 56年・ルッカ会談
 紀元前 55年・コンスルに就任(同僚はクラッスス
 紀元前 54年・ユリア死去
 紀元前 53年・クラッスス戦死、三頭政治が事実上崩壊
 紀元前 52年・コンスルに就任
       (同僚はメテッルス・スキピオ
 紀元前 51年・カエサルガリア総督任期終了
        コンスルへの立候補を表明
 紀元前 49年・カエサル派との内戦が開始
 紀元前 48年・ファルサルスの戦いで敗北
        アレキサンドリアへ逃れ
        同地で殺害
ーーーーー
 紀元前83年2月5日
 戊戌
 甲寅
 丙申
 ↓↑
 紀元前200年2月5日
 辛丑
 庚寅
 壬午
 ↓↑
 日本
 孝元天皇十五年
 皇紀四六一年
 中国
 前漢 高祖七年
 ↓↑
 誕生
 公孫弘=前漢の人物
    (〜紀元前121年)
 賈誼=前漢時代の政治思想家・文筆家
    (〜紀元前168年)
 劉章=前漢前期の皇族
    (〜紀元前177年)
ーー↓↑ーー
 第2次マケドニア戦争
 マケドニア王国
 アカイア同盟
 アッタロス朝ペルガモン王国
 アエトリア同盟
 共和政ローマ
 セレウコス朝
 ガリア・キサルピナにて
 「クレモナの戦い(ケノマニの戦い)」
 現地ガリア人に
 共和政ローマ軍が勝利
 ロドス島が
 マケドニア王国に勝利し
 クレタ島北部を領有、クレタ島戦争が集結
 共和政ローマとアッタロス朝
 ペルガモン王国と
 ロドス島が連合し
 アンティゴノス朝
 マケドニア王国の
 ピリッポス5世との間で
 第2次マケドニア戦争
 (紀元前197年〜)
 ↓↑
 紀元前200年頃
 グレコバクトリア王国の
 第3代国王
 エウテュデモス1世が死去
 デメトリオス1世が即位
 ↓↑
 前漢丞相
 蕭何の主導
 少府
 陽城延の指揮の下で
 都・長安の南西部に
 未央宮が建設着工
 匈奴
 前漢の西側国境付近に出現
 「白登山の戦い」
 匈奴軍が
 前漢
 劉邦軍を白登山で包囲
 ↓↑
 紀元前201年
 干支 庚子
 日本
 皇紀四六〇年
 孝元天皇十四年
 前漢 高祖六年
 ↓↑
 ペルガモンの
 アッタロス1世、ローマに遣使
 「韓王信」が匈奴に投降・・・
 ↓↑
 甲子の年 ・・・ 1864年
 甲子の月 ・・・ 1863年11月
 甲子の日 ・・・ 1873年 1月12日
 ↓↑
 1/1/1    1/1/1・・⇒1/1/3
 ユリウス曆 グレゴリオ
 庚申    庚申(己・壬・庚)
 戊子    戊子(壬・ ・癸)
 丁丑⇒戊寅⇒己卯(甲・ ・乙)
 申酉=空亡
 土曜日
 ↓↑
 1/2/6 立春・・・ユリウス曆(古世見)
 辛酉
 庚寅
 癸丑
 ↓↑
   ユリウス曆⇒グレゴリオ
 1582年10月5日=1582年10月15日
        =天正十年九月十九日
 壬午(丙・ ・丁)
 庚戌(辛・丁・戊)
 甲戌(辛・丁・戊)
 申酉=空亡
 ↓↑
 グレゴリオ
 1582年10月5日
 壬午(丙・ ・丁)
 己酉(庚・ ・辛)
 甲子(壬・ ・癸)・・・甲子〜甲戌=数えて11日
 戌亥=空亡              満で10日
 ↓↑
 満年齢の使用(生まれた次の歳から一歳)
 1902年12月22日施行・・・1+9+0+1+2+2+2+2=11+8
 「年齢計算ニ関スル法律
 (明治35年12月2日 法律第50号)」
 ↓↑
 甲乙丙丁戊
 己庚辛壬癸
 干合の「年月・日時」決定
ーー↓↑ーー
 十干年日 01 甲  02乙 03丙 04丁 05戊
 十干年日  06 己  07庚 08辛 09壬 10癸
        ↓   ↓  ↓  ↓  ↓ 
  二月寅時 02丙寅 戊寅 庚寅 壬寅 甲寅
  三月卯時 03丁卯 己卯 辛卯 癸卯 乙卯
  四月辰時 04戊辰 庚辰 壬辰 甲辰 丙辰
  五月巳時 05己巳 辛巳 癸巳 乙巳 丁巳
  六月午時 06庚午 壬午 甲午 丙午 戊午
  七月未時 07辛未 癸未 乙未 丁未 己未
  八月申時 08壬申 甲申 丙申 戊申 庚申
  九月酉時 09癸酉 乙酉 丁酉 己酉 辛酉
  十月戌時 10甲戌 丙戌 戊戌 庚戌 壬戌
 十一月亥時 11乙亥 丁亥 己亥 辛亥 癸亥
 十二月子時 12丙子 戊子 庚子 壬子 甲子
  一月丑時 01丁丑 己丑 辛丑 癸丑 乙丑

        • ↓↑----

 太初暦
 前漢
 武帝は・・・・・・・・武帝=武の綴(テイ)=糸+双+双
 太初元年(BC104)
「太初暦」を制定・・・太初=太の鉢(ハツ)=金+本
 前漢も終わりの頃に
 劉歆(リュウキン)が
     ・・・歆=音(立日)+欠
          うける・キン・コン
          like, admire
          willingly, gladly, to quicken
 「三統暦」を作り・・・三の統(糸を充てる)暦(歴)
 「月朔」に関しては
 太初暦と同一
 ↓↑
 後漢四分暦
 一年の長さを
 365+1/4日
 端数が一日の四分の一
 章帝の・・・・・・・章の綴
 元和元年(84)・・・元の和
 以降に行用
 ↓↑
 乾象暦・・・乾(十日十乞・いぬい・乾燥)の象の暦(歴)
            乞=𠂉(かみさし・櫛)の乙
 『晋書』・『宋書
 の律暦志により
 後漢末には
 天文観測に基づいて
 年の端数を
 1/4から
 145/589=0.24618
 に改めた新しい暦が
 劉洪
 によって創始
 呉の
 孫氏は
 滅亡(天紀四年・280年)
 ↓↑   ・・・280年
         干支 庚子
         応神天皇十一年
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
         応神十一年十月条
        「剣池(つるぎのいけ)
         軽池(かるのいけ)
         鹿垣池(ししかきのいけ)
         厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」
        「命を受けて貢上れる人
         名は
         和邇吉師(わにきし)
         すなわち
         論語十巻、千字文一巻、
         併せて
         十一巻をこの人に付けて
         すなわち貢進りき。
         この
         和爾吉師は
         文首等の祖。
         また
         手人韓鍛(てひとからかぬち)
         名は
         卓素(たくそ)
         また
         呉服(くれはとり)の
         西素(さいそ)
         二人を貢上りき」
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
 ↓↑      誉田別尊(ほむたわけのみこと)
         誉田別命(ほんだわけのみこと)
         大鞆和気命(おおともわけのみこと)
         誉田天皇(ほんだのすめらみこと)
         胎中天皇(はらのうちにまします)
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
         皇紀940年
         中国
         西晋 咸寧六年、太康元年
         呉  天紀四年
         朝鮮
         高句麗 西川王十一年
         新羅  味鄒王十九年
         百済  古尓王四十七年
         西晋が呉を滅ぼし、中国を統一
 ↓↑      占田課田法を制定
 まで用いた
 ↓↑
 景初暦
 楊偉
 により作られ
 曹魏
 晋・宋と使われ続け
 年の端数は
 455/1843=0.24688
 ↓↑
 元嘉暦・・・元の嘉(十豆加)の暦(歴)
            豆=一+口+䒑(丷一)
 宋の文帝・・・・・・・・文の綴
 元嘉二十二年(445)・・・元の嘉の弐拾弐(念似・念字)
 何承天・・・何の承(うけたまわる・うける・つぐ)の天
         承=継承(ケイショウ)・承継(ショウケイ)
              形 象       象  形 
 が作り
 南朝斉・梁でも使われた
 倭国
 『日本書紀』の
 雄略紀以降
 日の干支が
 元嘉暦で書かれている
 ↓↑
 大明暦・・・・大(一人)の明(日月)の暦(歴)
 宋の祖沖之が始めた
 閏月の置き方に工夫・・・
 梁の           
 武帝
 天監九年(510)に採用
 陳の滅亡まで南朝で使われた
 ↓↑
 大業暦・・・・大(一人)の
        業(ゴウ)の=业+𦍎(羊八)
               わざ・ギョウ・ゴウ
        異体字・㸣・𤎸・𤑽・业
        暦(歴)  
 隋の煬帝
 大業四年(608)
 劉焯・・・焯=火+卓=異体字「𤎙・㷹」
      あきらか・シャク・トク・タク・ショウ
 が生前作成していた暦を公布
 唐の
 高祖
 武徳元年(618)
 まで使用
 ↓↑
 戌寅暦(平朔)
 はじめ定朔法を採用
 唐の
 太宗
 貞観十九年(645)から平朔
 高宗の
 麟徳二年(665)まで使用
 ↓↑
 麟徳暦・・・麟(麒麟)の徳(トク)の暦(暦)
 唐の
 李淳風
 作
 持統四年(691)頃・・・「字等・字統」の歴の史の念
 「儀鳳暦」
 の名でわが国へ伝来
 本来は定朔法で
 『続日本紀』はこれによる
 平朔として
 『日本書紀』の
 神武紀〜允恭紀・・・允(ム儿)恭(共灬)・・・「灬=火」
 ↓↑        允=まこと・ゆるす・イン
     ・・・木戸孝允天保4年6月26日〜明治十年
        1833年8月11日〜       1877年5月26日
        癸巳(戊 庚 丙)偏印正財沐浴⇔丁丑
        庚申(戊 壬 庚)正官正財 胎⇔乙巳
        乙丑(癸 辛 己)  偏印 衰⇔己亥
         戌亥=空亡
 ↓↑
 まで
 月朔干支に使用されている
ーー↓↑ーー
 「太安万侶墓誌」の「干支」・・・?
 ↓↑
 左京四条四坊従四位下勲五等
 太-朝臣-安萬侶
 以
 癸亥年七月六日卒之
 養老七年十二月十五日乙巳
ーーーーー
  癸亥年 七月 六日
 養老七年十二月十五日乙巳
 ↓↑
 『続日本紀
 元正天皇
 養老七年(723)は
 癸亥の年
 その記事に、
 「秋七月庚午、
  民部卿従四位下
  太朝臣安麻呂卒」
ーーーーー
 墓誌
 養老七年十二月十五日の干支
 カッコ内の数字の
 小数部分は
 時刻(午前六時は、0.25、正午は0.50)
ーーーーー
 養老七年 十二月
 養老七年十二月十五日=西暦724年1月15日Y・ユリウス
           =西暦724年1月19日G・グレゴリオ
 ↓↑
 暦 名  十二月朔の干支  十五日の干支
         朔=一日
 太 初  乙未(31.2099)  己酉
 後漢四分 甲午(30.3255)  戊申
 ↓↑
 乾象   辛卯(27.9163)  乙巳・・・
 ↓↑
 景初   壬辰(28.1860)  丙午
 元嘉   壬辰(28.1343)  丙午
 大明   壬辰(28.1505)  丙午
 大業   壬辰(28.1997)  丙午
 戊寅平朔 壬辰(28.1695)  丙午
 麟徳平朔 壬辰(28.1513)  丙午
 麟徳定朔 壬辰(28.5679)  丙午
 ↓↑
 乾象暦のみ
 墓誌
 十五日の干支「乙巳」に一致
     干支「丙午」に・・・1日のズレ
ーーーーー 
 続紀に載る
 太安万侶の官人としての経歴
 慶運元年(704)従五位下
 霊亀元年(715)従四位下
 氏上
 民部卿
 彼の葬儀に際し
 墓誌の干支にあえて
 呉の暦を用いた
 太氏一族は
 呉国
 滅亡で
 わが国への亡命者・・・???
 (by …other)…
ーーーーー
 ・・・???・・・