1164日目・・・風疹?・・・風聞・・・風文・・・風の便り・・・長い文章は・・・読むのも書くのも、厭(嫌)になる・・・「クラウドソーシング(crowdsourcing)」形式で「枕草子(まくらのそうし・マクラノソウシ・マクラのソウシ・マクラのクサのコ・ま-く-ら-の-そ-う-し・チンソウシ・チンのソウのシ・チンのグサのコ・)の文字」を「解釈」したらドウなる・・・?・・・のカナ・・・明治「文+明」、「文+化」・・・「木」+「冘(イン・イウ・ユ・おこたる・ためらふ・うたがふ)」・・・「枕」が「キ」を「疑う」

ーー↓まくらのそうし
 「幕等乃壮士=佐幕」
 「巻(捲)螺之創始=種子島=鉄砲」
 「蒔玖等之繰覗=王宮絵巻」
 「膜羅能藪視=藪睨・斜視・乜」、
 「真暗之相思=日食・真夜中の子刻」、
 「馬鞍埜宗氏=蘇我馬子蝦夷・入鹿=海豚」、
 「磨蔵之争死=播磨、赤穂、忠臣蔵、大石蔵之助」
        播磨国兵庫県
        播州・「針間国」・「幡麻国」
        加古郡自治体名「播磨町
 「麻倉廼荘子朝倉氏先祖、
        日下部氏嫡流を称する
        但馬の古代武士団
        越前土着豪族
        南北朝時代、越前守護の
        斯波氏の重臣

  朝倉孝景(越前朝倉氏の七代目当主)
  応永三十五年四月十九日(1428年6月2日)
    〜
  文明十三年七月二十六日(1481年8月21日)
  当初は
  教景と名乗り、次いで
  敏景→教景→孝景と改名
  同名の曾孫と区別し「朝倉敏景」と表記
  法名
  英林孝景
  分国法の「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」を制定
  応仁元年(1467年)
  応仁の乱
  孝景は主家の
  斯波義廉と協力して西軍
  御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦い
  主要合戦に参戦、
  伏見稲荷に籠もって
  西軍を苦しめた
  足軽大将
  骨皮道賢を討ち取った

  ・・・「骨皮道賢」?・・・これが「氏・姓名」?・・・嗚可思惟、いと、可笑しい、可変しい・・・以下に原文を添付・・・
ーー↓
朝倉孝景 (七代当主) - Wikipedia
ーー↓
   枕草子        枕
  \―――       枕草子
 枕|草子枕      枕草子枕草
 草|子枕草     枕草子枕草子
 子|枕草子    枕草子枕草子枕草子
          枕草子枕草子枕草子枕子
ーーーーー↓
 枕草子
 (五七段)・・・五拾七段・五十七段・伍足漆段
         5+7=12=十二=壱拾弐=拾弐=足弐
         5×7=35=三十五=参拾五=参足伍=

 職の・・・・・「初句
        食・織
        色・蝕・蜀
        飾・植・埴
        殖・識」
        之
 御・・・・・・禦・音・語
 曹・・・・・・操・騒・捜
 司の・・・・・詞・視・示
 西面の・・・・差異面
 立蔀の・・・・立=リツ・たつ→建
        蔀=ブ・ボウ・しとみ
         =丱(サ・廾)+部
建具の一つ
 格子を組み、間に板をはさんだ戸
        日光・風雨をさえぎるもの
        長押 ( なげし ) から釣り、
        水平にハネ上げて開き、
        L 字形の釣り金物で固定する(蝶番)
        平安時代
        寝殿造りや社寺建築などに用いられた
        蔀戸 ( しとみど )
        和船の舷側に立て
        波飛沫や日光などを防ぐ板
        能芸の
        半蔀(はじとみ・はしとみ)
        京都、北山の紫野雲林院の僧が、
        夏安居(げあんご・九十日間の座禅行)で
        立花供養を行っていた夕暮時に女が現れ、
        一本の白い花、「夕顔の花」をそえる。
        僧が女の名を尋ねると、その女は、
        この花の陰からきた者で、
        五条あたりに住んでいると言い、
        花の中に消えてしまう
        僧は、五条あたりを訪ねると
        半蔀に夕顔が咲く家があり、
        半蔀を上げて「夕顔の霊」が現れ
        光源氏との恋の思い出を語り、
        舞を舞う・・・
        と言う「僧の夢物語」
        地名
        熊本県
        球磨郡
        球磨村
        神瀬
        蔀
        一蔀(イチボウ・イチホウ)
        辛酉年の21倍の年
        辛酉年(60年に一度)×21倍=1260年=一蔀
        一元=60年で、二十一元=1260年
        推古天皇九年(601年)の
        辛酉の年より
        一蔀(二十一元)
        21×60年=1260年遡った、
        神武天皇即位元年(紀元前660年=辛酉年)
        「讖緯の説」
        「讖」と「緯」とは別
        「讖」は、「未来予言」書=「讖記」
        「緯」は、「儒教の経典」=「緯書」
         後に、この二者は「予言」と、その「書物」として、
        「讖緯」という予言を指す
        「隋書・経籍志」に
        「説者又た云う、孔子は既に六経を叙し、
         以って天人の道を明らかにするも、
         後世には、その意に稽同すること
         能わざるを知り、
         別に緯及び讖を立て、以って来世に遺す」
         と、ある・・・
         ↓
        三善清行
         「清」少納言?・・・の「行」?
        承和十四年(847年)
          〜
        延喜十八年十二月七日(919年1月16日)
             十二月六日    (1月15日)?
        別名 三耀(字名)・善相公
        官位 従四位上
           参議
           贈正二位
        氏族 三善氏
        父  三善氏吉
        母  佐伯氏・・・・弘法大師の血縁?
        生母 不明・・・・・?
        妻  不詳・・・・・?
        兄弟 清江・清行・清風
        子  文江・文明
           浄蔵・・・八男(891〜964)?
           日蔵

 巨勢文雄に師事
 大学寮で
 紀伝道を修め、
 二十七歳で
 文章生、
 二十八歳 
 文章得業生
 三十七歳
 方略式に合格
 一度官吏の登用試験落第
 試験官が菅原道真
 後に道真と対立
 紀長谷雄等代々の文章博士と論争
 仁和三年(887年)
 大内記に任官
 仁和四年(888年)
 阿衡事件(阿衡の紛議)
 藤原佐世紀長谷雄とともに
 橘広相の説を退けた
 寛平五年(893年)
 備中介
 昌泰三年(900年)
 文章博士
 昌泰四年(901年)
 大学頭
 藤原時平と対立
 菅原道真に書簡で引退勧告
 道真は拒否
 昌泰の変
 道真は大宰権帥に左遷
 清行は
 時平に対して、
 道真関係者全てを連座の対象とすると、
 道真の祖父
 清公以来の門人が全て処罰の対象となり
 朝廷が機能停止に陥る事を指摘し
 処分を
 道真の親族と
 宇多上皇の側近のみに留めた
 清行が
 道真の嫡男
 高視の失脚で
 後任の
 大学頭に就任
 昌泰四年(901年)
 讖緯説による辛酉革命の年と指摘
 「延喜」と改元することを提唱
 革命勘文・辛酉改元の端緒を開く
 「延喜格式」の編纂参加
 文章博士・大学頭・式部大輔
 三儒職を兼任
 延喜十四年(914年)
 「意見封事十二箇条」を上奏
 七十一歳で
 参議、宮内卿を兼ねた
 主著
 「円珍和尚伝」・「藤原保則伝」
 「意見封事十二ヶ条」・奇談「善家秘記」
ーー↓
 三善清行
 官歴・日付=旧暦
 貞観15年(873年)文章生
 貞観16年(874年)文章得業生
 元慶元年(877年)2月29日越前少目任官
 元慶4年(880年)1月21日播磨権少目遷任
 元慶8年(884年)1月11日大学少允転任
 仁和2年(886年)1月16日少内記遷任
 仁和3年(887年)1月7日従五位下叙位
         2月2日大内記任官
 寛平3年(891年)1月30日肥後介遷任
 寛平5年(893年)1月11日備中介遷任
 寛平8年(896年)1月2日従五位上昇叙
            備中介元の如し
 寛平9年(897年)備中介任期満了、帰洛
 昌泰3年(900年)2月20日刑部大輔任官
         5月15日文章博士遷任
         10月11日右大臣菅原道真
             対し
             辞職勧告
 昌泰4年(901年)1月伊勢権介兼任
         3月15日大学頭兼任
 延喜2年(902年)1月7日正五位下昇叙
            大学頭・文章博士
            伊勢権介元の如し
 延喜3年(903年)2月26日式部少輔兼任
             三職兼帯
       (式部少輔・大学頭・文章博士
 延喜4年(904年)1月7日従四位下昇叙
            三職・伊勢権介元の如し
         5月28日大学頭辞任
 延喜5年(905年)1月11日式部権大輔転任
            備中権守兼任
            文章博士如元
         8月延喜格式の編纂担当
 延喜6年(906年)閏12月17日備中守
 延喜10年(910年)1月以前文章博士辞任
 延喜14年(914年)4月22日式部大輔転任
 延喜15年(915年)1月7日従四位上昇叙
            式部大輔元の如し
 延喜17年(917年)1月29日参議補任
         5月20日宮内卿兼任
 延喜18年(918年)1月13日播磨権守兼任
         12月7日卒去、享年七十二
         (日本紀略所載・
          公卿補任では12月6日)
ーー↓
 「yahoo jyapan 知恵袋」に面白い「問答」があったので原文添付
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220958692
 若干改作して参考抜粋
ーー↓
 「一蔀」
 「東洋の七十六年周期の天文定数」
 「ハレー彗星の周期」を・・・箒星
ーーーーーーーーーーーーーーー↓
        「帚木(ははきぎ)」・・・葉葉記義?
        「源氏物語・五十四帖」・・五拾四・5+4=9
        「桐壺」に
        続く第二帖・・・・・・第二帖→代爾帖(巾+占)
        巻名は
        「光源氏」と「空蝉」が交わした和歌
        「帚木の心をしらで
         その原の道に
         あやなく
         まどひぬるかな」
        「数ならぬ
         伏屋に生ふる
         名の
         うさに
         あるにもあらず
         消ゆる帚木」
        に因む
         「帚木・空蝉・夕顔」の
        三帖を「帚木三帖」とも・・・
ーー↓ハレー彗星の周期
ハレー彗星 - Wikipedia
         989年
         己丑
         永延三年、永祚元年八月八日
        「日本紀略・後編九」
         永祚元年六月一日庚戌、
         其日
         彗星見東西天。
         七月中旬、通夜
         彗星見東西天(ユリウス暦7月6日)
         永延三年は
         永祚元年と改元
ーーーーーーーーー↓
         紫式部
         天禄四年・天延元年・癸酉年
         皇紀1633年・北宋=開宝六年
         (973年)?
           〜   
         長和三年(1014)?
or
         長元四年(1031)?
         など諸説?
         寛弘二年か三年(1006)頃
         一条天皇中宮彰子に出仕
         する。
        「源氏物語」文献初出は
         長保三年(1001年)
ーー
        清少納言
        康保三年頃(966年頃)
          〜
        万寿二年頃(1025年頃・1017年?)
        「枕草子
         長徳二年(996年)
           〜
         寛弘五年(1008年)頃に成立
ーーーーーーーーー↓ハレー彗星
        837年2月28日
        『続日本後紀』承和4年条観測記録
        『旧唐書』「文宗紀」開成二年条観測記録
        912年7月18日
        『日本紀略
        『扶桑略記』延喜十二年条観測記録
        『新五代史』「司天考」観測記録
        中国の記録
        四月「壬申」の観測としているが、
        計算から
        「閏五月壬申の誤」とされている
        アイルランド
        『アルスター年代記』観測記録
        989年(己丑年)9月5日
        『日本紀略』永祚元年条、
        『扶桑略記』永延三年条観測記録
        『扶桑略記』は
        八月に永延三年から永祚へ改元理由を
        「彗星の天変に依る」とする
        『宋史』「太宗紀」端拱二年条観測記録
        『増補文献備考』観測記録(朝鮮最古の記録)
        1066年3月20日
        『扶桑略記』治暦二年条観測記録
        『宋史』「英宗紀」治平三年条観測記録
        『高麗史』「文宗紀」二十年条観測記録
        『アングロサクソン年代記』に観測記録
         ↓        
        1835年11月16日
        1910年4月20日
        庚戌年・明治四十三年・皇紀2570年
        清
        宣統元年十一月二十日〜宣統二年十一月30日
        前回近日点通過
        1986年2月9日06:40(UTC)
        次回近日点通過
        2061年7月28日
ーー↓ハレー・・・「葉例重・葉例柄」?
 東洋では既に
 「十九年」を
 「定点とする堂宇の蔀戸の桟の数19本」で其れを観測し
  十九×四年目で「七十六年目」とに確認した・・・?
 「堂宇」=舎利(仏の骨欠片)を納めて置く御堂
      「宇(ウ・そら)」は軒(ケン・のき)
      「宇宙」は「軒轅=黄帝漢方医の始祖
      (少典の子、姫水の畔で誕生・姓は姫姓・帝鴻氏
      山海経に登場する怪神・帝鴻と同一・蚩尤を討)」?
      「軒(ケン)=轅(ながえ)が高くあがった車」
               ↑
      「轅(エン)=長柄・牛馬が車を引く2本の長い棒」
        「軒轅」は「猿田彦」か?←「宇受女=猿女君」
 方形、屋根は宝形造で中央に舎利塔を安置
 「堂宇の格式は一丈(十尺)四方」
 「蔀が四面」
 「蔀戸の桟が各々十九本」
 「四面を一周すれば「19×4=七十六本」
ーー↓
 その27倍が2000年間・・・?
 76×27=2052
 2052−76=1976
 1976+10
   ↓
 1986年2月9日06:40
 その12倍が太陽系の1年で約2.48万年
 2052+10=2062
 2062
   ↓
 2061年7月28日
ーー↓
 その12倍が太陽系の1年で約2.48万年
 西欧では「プラトン年」とする?→36000年
 古代ギリシアの数学者
 メトンは、
 19太陽年と
 235朔望月にほぼ合うことを発見
 太陰暦
 十九年に
 七度追加の月(閏月)を挿入する
 メトン周期を発案
 1年は
 平均して
 365.263日となる
 この周期はバビロニアや中国でも独自に発見され、
 太陽年と太陰暦を置閏法で調整し特定の年を
 13か月とする太陰太陽暦が発達
 プラトン大年
 春分点が歳差によって黄道
 一周するのに要する時間(約26000年)
 歳差の周期は約25,800年
 地球の形状が赤道部分の膨らんだ
 回転楕円体(扁球)で
 太陽や月の重力による潮汐力で
 赤道部分の膨らみを
 黄道面と一致させようとする方向に
 力矩(トルク)を受ける
 これを日月歳差
 日月歳差によって天の北極や赤道が動く
 トルク(torque)
 ある固定された回転軸を中心にはたらく、
 回転軸のまわりの力の
 「ねじりの強さ=力矩=ねじりモーメント」
 歳差のために、
 天の北極は天球上で
 黄道北極を中心とする円を描く
 現在の北極星こぐま座α星(ポラリス
 紀元前2000年頃は
 龍座α星(トゥバン)に位置
 西暦14000年頃には
 北極は
 琴(こと)座のベガ近くに移動
  ↓
 古代では地球をめぐる
 八天体(太陽と七惑星)が
 元の位置に戻るのに要する時間を
 36000年が宇宙の更新周期とした
ーー↓
 「讖緯説」
 「易緯」の「二十一元=一蔀=1320年」?は誤である
        ↓
 一元(60)×21=一蔀(1260)
 天体との関係で「1320/62.8/21の係数」が成り立つ根拠は?
 「一元(60)」、「一蔀(1260)」の
 概念の混乱です、ナッ・・・
   ↓
 隋の煬帝により禁圧、散逸した
 「讖緯説の書(緯書)」の逸文である
 「易緯」の
 鄭玄の注に、
 干支が一周する
 60年を一元といい、
 21元を一蔀として算出され
 1260年(=60×21)=辛酉年(辛酉革命)
   ↓
 神武天皇即位元年
(紀元前660年)=「辛酉年」春正月「庚辰」朔
   ↑
 明治六年(1873年)→1+8+7+3=29
 を
 皇紀2533年・・・・→2+5+3+3=13
 と制定
 十一月二十五日・・・・→1+1+2+5=9
 を紀元節祭典
 と
 推古天皇九年(601年)→6+0+1=7
 推古天皇斑鳩に都を置いた
 西暦
 601年(辛酉年)
 〜
 1260年遡った・・・・→1+2+6+0=9
 紀元前660年(辛酉年)→6+6+0=12
 を
 神武天皇即位の年とした
ーー↓
 「宋史・四九一卷・列傳第二五〇・外國七・日本國」では
 「彥瀲
  第四子
  號神武天皇
  自
  築紫宮入居
  大和州
  橿原宮
  即位元年
  甲寅
  當
  周僖王時也」
  即位は周の僖王
 (紀元前681年
     〜
  紀元前677年)の時代の
 「甲寅」が即位元年
 と、記録されている・・・「木のエの虎」年である・・・「虎」はダレか?
 「宋史」
   ↓
 1345年完成
 元の「トクト(托克托・脱脱)」編纂
 十六本紀四十七巻
 十五志百六十二巻
 二表三十二巻
 百九十七列伝二百五十五巻
 計四百九十六巻
 「宋史紀事本末(そうしきじほんまつ)」
 明朝中国の「紀事本末体の歴史書
 宋代の事件を全「百九項目」
 編纂人物
 馮蒅・・・・・馮(よる・たのむ・ヒョウ・ビョウ)
        憑依?・・・トリ憑く=トリツク
        蒅(たま・キ・ギ)
      瑰意蒅行(カイイキコウ)→会意(異)紀行?
     隠元 ↓・・・・・隠元
       隆蒅     フジマメ(藤豆)?
    (リュウキ)
        万暦二十年
        文禄元年十一月四日
        (1592年12月7日)
          〜
        寛文十三年四月三日
        (1673年5月19日)
        明末清初の禅宗
        日本に於ける煎茶道の開祖
        承応三年(1654年)七月五日
        鄭成功が仕立てた船で
        長崎来港
        万治元年(1658年)
        将軍徳川家綱との会見
        万治三年(1660年)
        山城国宇治郡大和田に
        黄檗
        萬福寺を建立
        禅宗界一派の開祖となる
        「黄檗清規」
        後水尾法皇、皇族、幕府要人、
        各大名、商人が帰依
        住職の地位三年間
        寛文四年(1664年)九月
        後席を弟子の
        木庵に移譲
        松隠堂に退いた
        寛文十三年(1673年)
        四月二日
        後水尾法皇から
        「大光普照国師」号が特諡
        三日に死亡
        世寿八十二歳
        木庵性瑫、即非如一とともに
        黄檗
        三筆と称される
        1917年(大正六年)
        大正天皇から大師号
        真空大師を追贈
        俗姓は
        林
        別名
        大光普照国師
        仏慈広鑑国師
        径山首出国師
        覚性円明国師
        真空大師
        華光大師
       「蒅」→埼玉?・埼玉県?
           武蔵国
       「埼玉」の地名の発祥
       「北埼玉郡埼玉村(行田市大字埼玉)」
       「万葉集」に
       「前玉」、「佐吉多万(さきたま)」
       「和名類聚抄」に
       「埼玉」、「佐伊太末(さいたま)」
       「さいたま」と呼ばれていた・・・
        1866年(慶応二年)六月十三日
        入間郡を中心に中山道以西地域に
        武州一揆
        渋沢 栄一
        埼玉県深谷市
        天保十一年二月十三日
       (1840年3月16日)
          〜
        昭和六年
       (1931年)十一月十一日)
        幕臣、官僚、実業家
        徳川慶喜が将軍の幕臣となり、
        パリ万国博覧会に将軍の
        名代として出席する慶喜の弟
        徳川昭武の随員として
        御勘定格陸軍付調役の肩書で渡仏蘭西
        第一国立銀行
        七十七国立銀行などの
        地方銀行設立を指導
        東京証券取引所など設立・経営
        その他、多種多様の企業の設立に関わり
       「日本資本主義の父」と称される
        理化学研究所の創設者
        正二位勲一等子爵
        雅号は
        青淵(せいえん)
 沈越・・・・・沈む越前・越中・越後
 沈朝陽・・・・沈む「朝陽丸」は箱館沖で沈没
        明治二年(1869年)の箱館戦争
        箱館湾海戦
        五月十一日箱館総攻撃
        旧幕府軍
        蟠竜丸の砲撃が
        維新政府
        朝陽丸の火薬庫に命中轟沈
        艦長
        中牟田倉之助は重傷
        副艦長
        夏秋又之助、乗組員
        80名戦死
        救助された
        6名も死亡
        己巳役(キシのエキ)と称す
 陳邦瞻・・・・陳列した邦(国)を瞻(見る)
        「瞻視(センシ)」
        見る・見守る・目つき
        「其臉(かお)、 其眸(まなじり)、
         其瞻視、其形相、
         一として情欲に非ざるもの莫く
       〈鴎外訳・即興詩人〉」
        韓国では
        天文台(瞻星台)のこと
 劉曰梧・・・・劉(ころす・リュウ・ル)
        曰(いう・いわく・エツ・オチ)
        梧(あおぎり=青桐・ゴ・グ)
 徐申・・・・・徐(おもむろ・ジョ・ショ)
        申(もうす・さる・シン)
 の
 六人
ーーー↓神武天皇即位の年としたから続く・・・
 の
 辛酉年は夢想、妄想・・・明治海軍・・・
 ・・・「非合理、不合理」、「虚偽」でも
 「コトバ」や「モジ」は「ヒトのココロ」を動かす
 為替市場、株式市場、一般的な商品市場の
 「需要供給」関係の「動向」は「合理」的には動かない
 動かしている奴の「思惑」、
 動かされている奴の「思惑」の根源は
 「儲かるカモしれない」と言う
 「非合理的な心理」・・・
ーー↓枕草子
 もと・・・・・本・元・下・基・素・許
 にて、・・・・爾出・似出・邇出
 頭辨の、・・・蔵人頭を兼務する弁官(役人)
        頭を弁(わき)える→辮髪
        トウベン=答弁・問う弁
      脳髄、頭蓋を分別する・・・
      対照を五感で認識し、
      思考し対照にコトバを与え区別し、弁える
 人と・・・・・比図・日都
       「訊・壬・陣・仁・神」途(賭)
 物を
 いと
 久しく
 いひ
 たち
 給へれば、
 さし
 出でて、
 「それは
  誰ぞ」と
 いへば、
 「辨の・・・・・弁之
  内侍・・・・・名意字
  なり」と・・・名理渡
 の給ふ。
 「何かは
  さも・・・・・作模・差摸
  かた・・・・・過多・加汰・掛他・片=扁
  らひ・・・・・等意
  給ふ。
  大辨・・・・・代弁・大便・題弁・第弁
  見えば、
  うち
  すて
  奉りて
  いなん・・・・意名務
  もの
  を」と
  いへば、
  いみじく
  笑ひて、・・・話等意出
 「誰か
  かかる
  事を・・・・・字嗚(於・緒・尾・牡)
  さへ・・・・・差重・作得
  いひ・・・・・意比
  聞かせ
  けん、・・・・兼
  それ
  さ
  なせ・・・・・名施
  そ
  と
  かたらふ
  なり」と
  の給(のたま)ふ。

 いみじく
 見えて、
 をかしき
 筋
 など
 たてたる
 事は
 なくて、
 ただ
 あり
 なる
 やう
 なるを、
 皆・・・・・視名
 人さ
 のみ
 知り
 たる
 に、
 なほ・・・・名補・名保
 奧・・・・・置・憶
 ふ
 か
 き
 御心
 ざまを
 見知り
 たれば、
 「おし・・・緒詞
  なべ・・・名部
  たら
  ず」
 など
 御前・・・・御膳・午前
 にも
 啓し、
 又
 さ
 しろしめ
 したるを、
 常に、・・・通音爾
 「女は・・・音名葉
  おのれを
  悦ぶ者の
  ために
  かほ・・・掛補・化保
  づくりす、
  士は
  おのれを
  知れる人の
  ために
  死ぬと
  いひたる」と
 いひ合せ
 つつ
 申し
 給ふ。
 「遠江の・・・円光・猿考・塩項
  濱・・・・・ヒン→品→本・はま→葉真
  や・・・・・埜=林+十一
  な・・・・・名
  ぎ」・・・・偽・義
 など
 いひ
 かはして
 あるに、
 わかき・・・・和歌紀
 人々は・・・・訊仁葉・比渡秘賭葉
 唯
 いひ
 にくみ、
 見ぐる
 しき
 事ども
 など
 つくろはず
 いふに、
 「この
  君・・・・・訓・薫・勲・釧
  こそ
  うたて
  見
  にくけれ。
  他人の
  やうに
  讀經し、
  歌
  うたひ
  などもせず、
  け
  すさまじ」など
  謗る。・・・・謗=言+旁(かたわら・ボウ・ホウ)
         そしる→措知る・素知る・蘇詞留

 更に
 これ
 かれに
 物いひなどもせず、
 「女は
  目は
  たてざま
  に
  つき、
  眉は
  額に
  おひ
  かかり、
  鼻は
  横ざま
  に
  ありとも、
  ただ
  口つき
  愛敬づき、
  頤の
  した、
  頸など
  を
  かしげにて、
  聲
  にく
  から
  ざらん人
  なん
  思は
  しかるべき。
  とは
  いひながら、
  なほ
  顏の
  いと
  にくげ
  なるは
  心憂し」と
 の給へば、
 まいて
 頤ほそく
 愛敬
 おくれたらん人は、
 あいなう
 かたきにして、
 御前にさへ
 あしう
 啓する。

 物など
 啓せ
 させん
 とても、
 その
 初
 いひ
 そめし
 人を
 たづね、
 下なる
 をも
 呼び
 のぼせ、
 局にも
 來て
 いひ、
 里なる
 には
 文書き
 ても、
 みづから
 も
 おはして、
 「遲く
  參らば、
  さなん
  申し
  たると
  申し
  に
  參らせよ」などの給ふ。
 「その人の
  侍ふ」
 など
 いひ
 出づれど、
 さし
 も
 うけ
 ひかず
 など
 ぞ
 おはする。

 「あるに
  隨ひ、
  定めず、
  何事も
  もて
  なし
  たる
  を
  こそ、
  よき
  事
  には
  すれ」と
 うしろみ
 聞ゆれど、
 「わが
  もとの
  心の
  本性」と
 のみ
 の
 給ひ
 つつ、
 「改らざる
  ものは
  心
  なり」と
 の給へば、
 「さて
  憚り
  なし
  とは
  いかなる
  事を
  いふ
  に
  か」と
 怪し
 がれば、
 笑ひ
 つつ、
 「中
  よし
  など
  人々
  にも
  いはるる。
  かう
  かたらふと
  ならば
  何か
  恥づる、
  見え
  など
  も
  せよ
  かし」と
 の給ふを、
 「いみじく
  にくげ
  なれば、
  さ
  あらん
  はえ
  思はじと
  の給ひ
  し
  に
  よりて、
  え
  見え
  奉らぬ」と
 いへば、
 「實に
  にく
  く
  も
  ぞ
  なる。
  さらば
  な
  見え
  そ」とて、
 おのづから
 見つ
 べき
 をりも
 顏を
 ふたぎ
 など
 して、
 まことに
 見
 給はぬも、
 眞心に
 そら
 ごと
 し給は
 ざり
 けりと
 思ふ
 に、
 三月
 晦日
 頃、
 冬の
 直衣の
 著
 にくき
 にや
 あらん、
 うへの
 衣がち
 にて、
 殿上の
 宿直
 すがた
 も
 あり。

 翌朝
 日さし
 出づる
 まで、
 式部の
 おもと
 と
 廂に
 寢
 たる
 に、
 奧の
 遣戸を
 あけさせ
 給ひて、
 うへの
 御前、
 宮の
 御前
 出で
 させ
 給へ
 れば、
 起きも
 あへず
 まどふを、
 いみじく
 笑はせ
 給ふ。
 唐衣を
 髮の
 うへに
 うち
 著て、
 宿直物も
 何も
 うづもれ
 ながら
 ある
 上に
 おはし
 まして、
 陣より
 出で
 入る
 もの
 など
 御覽ず。
 殿上人の
 つゆ
 知らで、
 より
 來て
 物
 いふ
 なども
 あるを、
 「けしき
  な
  見せ
  そ」
 と
 笑はせ給ふ。
 さて
 たたせ
 給ふ
 に、
 「二人
  ながら
  いざ」と
 仰せ
 らるれど、
 今顏
 など
 つくろひ
 て
 こそ
 とて
 まゐ
 らず。

 入らせ給ひて、
 なほ
 めでたき
 事ども
 いひ
 あはせて
 ゐたる
 に、
 南の
 遣戸の
 そばに、
 儿帳の
 手の
 さし
 出で
 たる
 に
 さはりて、
 簾の
 少し
 あき
 たる
 より、
 黒み
 たる
 もの
 の
 見
 ゆれば、
 のり
 たか
 が
 居
 たる
 な
 めりと
 思ひて、
 見も
 入れ
 で、
 なほ
 事ども
 を
 いふ
 に、
 いと
 よく
 笑み
 たる
 顏の
 さし
 出で
 たる
 を、
 「のり
  たか
  な
  め
  り、
  そは」
 とて
 見
 やり
 たれば、
 あらぬ
 顏なり。
 あさましと
 笑ひ
 さわぎて
 几帳
 ひき
 直し
 かくるれど、
 頭辨に
 こそ
 おはし
 けれ。
 見え
 奉らじと
 しつる
 もの
 を
 と、
 いと
 くちをし。
 もろともに
 居
 たる
 人は、
 こなたに
 向きて
 ゐたれば、
 顏も
 見えず。

 立ち
 出でて、
 「いみじく
  名
  殘なく
  見つる
  かな」と
 の給へば、
 「のり
  たか
  と
  思ひ
  侍れば、
  あな
  づりて
  ぞ
  かし。
  など
  かは
  見じ
  との
  給ひ
  しに、
  さ
  つく
  づく
  とは」と
 いふに、
 「女は
  寢
  おき
  たる
  顏
  なん
  いと
  よき
  と
  いへば、
  ある
  人の
  局に
  行きて
 かいば
 みして、
 又
 も
 し
 見え
 や
 する
 とて
 來り
 つる
 なり。
 まだ
 うへの
 おはし
 つる
 折
 から
 あるを、
 え
 知ら
 ざり
 ける
 よ」とて、
 それより
 後は、
 局の
 すだれ
 うち
 かづき
 など
 し給ふ
 めり。
ーーーーー
 ・・・いと、ながし・・・