1211日目・・・ ・・・「104段」・・・亦、長い文章だな・・・倦厭・・・「読む人妄誕に倦厭・〈逍遥・小説神髄〉」にして、か・・・「好煙」のニコチン中毒者で、嫌煙家じゃぁないけれど・・・目的のブログサイトが繋がらない時の苛立ちで待つ時間に吸うタバコの不味さ・・・そのうちに画面表示が固まって・・・応答がありません・・・「清少納言」は気紛れなオンナであるカナ・・・ノッてる時と、そうじゃない時・・・ダレでもがソウか・・・それとも別な意味があるんだろう・・・「慊焉(ケンエン)」・・・「犬猿(巻宛・謙猿・懸媛)

ーー「とうた・いろう」、「とう・たいろう」
 淘汰

 「淘」は水洗いして選り分けること

 「汰」は勢いよく水を流してすすぐこと

 水で洗って選り分ける意味

 不要なものを除き、良いものを残す

 自然淘汰

 水で洗ってより分別、捌(さばく)

 適者生存

 環境に適応した生物が子孫を残し、

 他は滅びる現象・選択

 選択=淘汰

 selection

 自然淘汰

 自然界で、生態的条件や環境などに

 長い間には劣悪なものは滅び、

 優良なものだけが自然に生き残ること

 選択,選抜

 人為淘汰(人為選択)の対語

 淘汰→陶磁器→応(應=雁+心)→答

 ↓  唐三彩→問う三才・三歳・山菜

 ↓      問う纂差異・纂差違・纂作意

 問う 問うの時期、字記 応(應)神の答

 謄(写版)

 ↓

 当・等・陶・橙・党・頭・藤・到・討・唐

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 「劉仁軌伝」

 「唐書・欧陽脩・奉勅撰」

 「唐書・巻一百八」の

 「列傳第三十三」

 「劉仁軌」

 「裴行儉」

 「婁師徳」の記録

 「唐書巻一百八・劉裴婁列傳第三十三」

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 ボクの「家頁」です・・・ヒマならドウゾ・・・

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/km1.htm

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 ・・・随分と時間がたったけれど・・・結構、ボクと「同類の人」が増えたようである・・・「江藤新平」が没収した書籍はどうなったんだろう?・・・

 江藤新平戊辰戦争で「東征大総督府軍監」に任命され、土佐藩士の「小笠原唯八」とともに江戸を偵察。薩摩藩西郷隆盛幕臣勝海舟の会談で江戸開城が決定するや、江藤は城内の「文書類」を接収する・・・「紅葉文庫」・・・。「紅葉山文庫」の名称は明治時代以降に用いられたもので(現存する蔵書印も明治以降に押印されたもの)・・・

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 「紅葉山文庫

  江戸時代,幕府が江戸城内紅葉山に設置

 「楓山文庫」とも書き

 「紅葉山秘閣」とも称した

 徳川家康

 1602年(慶長七)六 月に

 城内富士見亭に古書、古記録を収蔵

 富士見亭御文庫

 元和二年(1616年)家康の死去

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%BA%AB

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 江藤新平の没収した文庫本には・・・ヒミツの本があった?・・・名乗りは「朝臣・平胤雄(たいら の たねお)」・・・?・・・「平家」・・・
 ・・・「牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)」・・・それでも国家枠内での「ブルジョア急進民主主義者」の限界だった・・・「征韓論」に破れ、明治七年(1874年)一月十日に「愛国公党」を結成、一月十二日に「民撰議院設立建白書」に署名、帰郷・・・なんで、「征韓論」?・・・士族の失業対策は「国家軍隊への吸収」・・・現今の中国大陸、亜米利加・・・韓国はどうか?・・・北朝鮮は「先軍主義」だが、獲物はナニか?・・・

 二月十一日、佐賀へ入

 二月十二日、

 憂国党の

 島義勇と会談

 佐賀征韓党首領として擁立

 二月十六日、

 「佐賀の乱」勃発・・・

 江藤新平

 佐賀藩

 幼名は恒太郎・又蔵

 諱は胤雄・胤風

 号は南白

 朝臣としての正式な名のりは

 平胤雄(たいら の たねお・インユウ)・・・引結・引有・・・急進「地方分権主義(?)=国家主義者(?)」の理論家でもある「大阪市長」の忍耐、我慢の度合いはどうなるのか・・・?・・・

 明治二十二年(1889)

 「我楽多文庫」を刊行していた

 吉岡書店が、叢書、「新著百種」シリーズの第一冊目として、

 尾崎紅葉

 「二人比丘尼 色懺悔」を刊行・・・そして、

 言文一致体小説

 「多情多恨」(1896)

 「金色夜叉」(1897〜1902)

 等を執筆・・・

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 枕草子

 (一〇四段)・・・百四・壱百四・壱佰肆

          1+0+4=5=五=伍

          1×0×4=0=零

 五月の・・・・・語解通

 御精進の・・・・音精神之

          焼尽・消尽・唱訊

 ほど、・・・・・保度

 職に・・・・・・しょくに→初句爾

         しきに→史記爾・死期似・殖爾

         つとめに→通途目爾     

 おはしますに、・於葉詞真諏爾

 塗籠の前、・・・ぬりごめの前

         寝所または納戸の前

         新書   名哉・名埜

              ノウト・ノート

              能生徒

         信書・親書

         審書・秦書・晋書・清書

          ↑

         塗籠(トロウ)

          ↓

         柱や軒などの

         木部の外壁まで

         土壁で覆う工法

          ↓

         とろう=徒労・採ろう

         塗りこめた加護の前(真得)

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       寝殿造・・・・神伝作の改変

         ↓

       内部間仕切のない大広間様式

       唯一、三方を

       壁で囲い一方を出入り口とした

       塗籠という部屋が

       寝室であり納戸でもあった

       この塗籠の中に

       本来は帳を置いて寝た

       帳=帳台という低い台の

       四隅に柱を立て周囲に帷を垂らし、

       几帳も据えた可動式の寝所

       組入(格子状の天井)のある寝殿

       母屋の西または東の二間、

       対では

       北の二間は土壁で囲んだ

       塗籠(ぬりごめ)という部屋

       出入口は元来は一か所

ーー

       帳台構えは元(本)は

       巾の長の代(第・弟=おと)の構え

       寝殿造に起源を持つ設備

       神伝作りに

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 二間・・・・・・ふたま・ニケン

         附他真・爾見(爾謙)

 なる・・・・・・鳴る・生る・成る・為る

 所を、

 殊に

 しつらひ

 した

 れば、

 例ざま・・・・・タトエざま・レイざま

        譬・喩・仮令 零 座間

        座間=戦中は陸軍士官学校及び

        高座海軍工廠の軍都

 ならぬ

 も

 をかし。

 朔日より雨がちにて曇りくらす。「つれづれなるを、杜鵑の聲たづねありかばや」といふを聞きて、われもわれもと出でたつ。「賀茂の奧になにがしとかや、七夕の渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞えし。そのわたりになん日ごとに鳴く」と人の言へば、「それは蜩なり」と答ふる人もあり。そこへとて、五日のあした、宮づかさ車の事いひて、北の陣より、「五月雨はとがめなきものぞ」とて、さしよせて四人ばかりぞ乘りて行く。うらやましがりて、「今一つして同じくば」などいへば、「いな」と仰せらるれば、聞きも入れず、なさけなきさまにて行くに、馬場といふ所にて人多くさわぐ。「何事するぞ」と問へば、「手結にて眞弓射るなり。しばし御覽じておはしませ」とて車止めたり。「右近の中將みな著き給へる」といへど、さる人も見えず。六位などの立ちさまよへば、「ゆかしからぬことぞ、はやく過ぎよ」とて行きもて行けば、道も祭のころ思ひ出でられてをかし。

 かういふ所には、明順朝臣の家あり。そこもやがて見んといひて車よせておりぬ。田舎だち事そぎて、馬の繪書きたる障子、網代屏風、三稜草簾など、殊更に昔の事を寫し出でたり。屋のさまもはかなだちて、端近くあさはかなれど、をかしきに、げにぞかしがましと思ふばかりに鳴きあひたる杜鵑の聲を、くちをしう御前に聞しめさず、さばかり慕ひつる人々にもなど思ふ。所につけては、かかる事をなん見るべきとて、稻といふもの多く取り出でて、わかき女どものきたなげならぬ、そのわたりの家のむすめ、女などひきゐて來て、五六人してこかせ、見も知らぬくるべきもの二人してひかせて、歌うたはせなどするを、珍しくて笑ふに、杜鵑の歌よまんなどしつる、忘れぬべし。

 唐繪にあるやうなる懸盤などして物くはせたるを、見いるる人なければ、家あるじ「いとわろくひなびたり。かかる所に來ぬる人は、ようせずばあるもなど責め出してこそ參るべけれ。無下にかくてはその人ならず」などいひてとりはやし、「この下蕨は手づから摘みつる」などいへば、「いかで女官などのやうに、つきなみてはあらん」などいへば、とりおろして、「例のはひぶしに習はせ給へる御前たちなれば」とて、とりおろしまかなひ騒ぐほどに、「雨ふりぬべし」といへば、急ぎて車に乘るに、「さてこの歌は、ここにてこそ詠まめ」といへば、「さばれ道にても」などいひて、

 卯の花いみじく咲きたるを折りつつ、車の簾傍などに長き枝を葺き指したれば、ただ卯花重をここに懸けたるやうにぞ見えける。供なる男どももいみじう笑ひつつ、網代をさへつきうがちつつ、「ここまだし、ここまだし」とさし集むなり。

 人もあはなんと思ふに、更にあやしき法師、あやしのいふがひなき者のみ、たまさかに見ゆる、いとくちをし。近う來ぬれば、「さりともいとかうて止まんやは。この車のさまをだに人に語らせてこそ止まめ」とて、一條殿の許にとどめて、「侍從殿やおはす、杜鵑の聲聞きて、今なんかへり侍る」といはせたる。使「只今まゐる。あが君あが君となんの給へる。さぶらひに間擴げて、指貫たてまつりつ」といふに、待つべきにもあらずとて、はしらせて、土御門ざまへやらするに、いつの間にか裝束しつらん、帶は道のままにゆひて、しばしばと追ひくる。供に侍、雜色、ものはかで走るめる。とくやれどいとど忙しくて、土御門にきつきぬるにぞ、喘ぎ惑ひておはして、まづこの車のさまをいみじく笑ひ給ふ。「うつつの人の乘りたるとなん更に見えぬ。猶おりて見よ」など笑ひ給へば、供なりつる人どもも興じ笑ふ。「歌はいかにか、それ聞かん」とのたまへば、「今御前に御覽ぜさせてこそは」などいふ程に、雨まことに降りぬ。「などか他御門のやうにあらで、この土御門しもうへもなく造りそめけんと、今日こそいとにくけれ」などいひて、「いかで歸らんずらん。こなたざまは唯後れじと思ひつるに、人目も知らず走られつるを、あう往かんこそいとすさまじけれ」とのたまへば、「いざ給へかし、うちへ」などいふ。「それも烏帽子にてはいかでか」「とりに遣り給へ」などいふに、まめやかにふれば、笠なき男ども、唯ひきにひき入れつ。一條より笠を持てきたるをささせて、うち見かへりうち見かへり、このたびはゆるゆると、物憂げにて、卯の花ばかりを取りおはするもをかし。

 さて參りたれば、ありさまなど問はせ給ふ。うらみつる人々、怨じ心うがりながら、藤侍從、一條の大路走りつるほど語るにぞ、皆笑ひぬる。「さていづら歌は」と問はせ給ふ。かうかうと啓すれば、「くちをしの事や。うへ人などの聞かんに、いかでかをかしき事なくてあらん。その聞きつらん所にて、ふとこそよまましか。あまり儀式ことざめつらんぞ怪しきや。ここにてもよめ。いふかひなし」などのたまはすれば、げにと思ふに、いとわびしきを、いひ合せなどする程に、藤侍從の、ありつる卯の花につけて、卯の花の薄樣に、

   ほととぎすなく音たづねに君ゆくときかば心をそへもしてまし

かへしまつらんなど、局へ硯とりに遣れば、「ただこれして疾くいへ」とて、御硯の蓋に紙など入れて賜はせたれば、「宰相の君かきたまへ」といふを、「なほそこに」などいふほどに、かきくらし雨降りて、雷もおどろおどろしう鳴りたれば、物も覺えず、唯おろしにおろす。職の御曹子は、蔀をぞ御格子にまゐり渡し惑ひしほどに、歌のかへりごとも忘れぬ。

 いと久しく鳴りて、少し止むほどはくらくなりぬ。只今なほその御返事たてまつらんとて、取りかかるほどに、人々上達部など、雷の事申しにまゐり給ひつれば、西面に出でて物など聞ゆるほどにまぎれぬ。人はた、「さしてえたらん人こそ知らめ」とてやみぬ。「大かたこの事に宿世なき日なり、どうじて、今はいかでさなん往きたりしとだに人に聞かせじ」などぞ笑ふを、「今もなどそれ往きたりし人どものいはざらん。されどもさせじと思ふにこそあらめ」と物しげに思しめしたるもいとをかし。「されど今はすさまじくなりにて侍るなり」と申す。「すさまじかるべき事かは」などのたまはせしかば、やみにき。

 二日ばかりありて、その日の事などいひ出づるに、宰相の君、「いかにぞ手づから折りたるといひし下蕨は」とのたまふを聞かせ給うて、「思ひ出づることのさまよ」と笑はせ給ひて、紙のちりたるに、

   したわらびこそこひしかりけれ

とかかせ給ひて、「もといへ」と仰せらるるもをかし。

   ほととぎすたづねてききし聲よりも

と書きて參らせたれば、「いみじううけばりたりや。かうまでだに、いかで杜鵑の事をかけつらん」と笑はせ給ふも恥しながら、「何か、この歌すべて詠み侍らじとなん思ひ侍るものを、物のをりなど人のよみ侍るにも、よめなど仰せらるれば、えさぶらふまじき心地なんし侍る。いかでかは、文字の數知らず、春は冬の歌をよみ、秋は春のをよみ、梅のをりは菊などをよむ事は侍らん。されど歌よむといはれ侍りしすゑずゑは、少し人にまさりて、そのをりの歌はこれこそありけれ、さはいへどそれが子なればなどいはれたらんこそ、かひある心地し侍らめ。露とり分きたるかたもなくて、さすがに歌がましく、われはと思へるさまに最初に詠みいで侍らんなん、なき人のためいとほしく侍る」などまめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらばただ心にまかす。われは詠めともいはじ」とのたまはすれば、「いと心やすくなり侍りぬ。今は歌のこと思ひかけ侍らじ」などいひてあるころ、庚申せさせ給ひて、内大臣殿、いみじう心まうけせさせ給へり。

 夜うち更くるほどに題出して、女房に歌よませ給へば、皆けしきだちゆるがし出すに、宮の御前に近くさぶらひて、物啓しなど他事をのみいふを、大臣御覽じて、「などか歌はよまで離れゐたる、題とれ」とのたまふを、「さる事承りて、歌よむまじくなりて侍れば、思ひかけ侍らず」「異樣なる事、まことにさる事やは侍る。などかは許させ給ふ。いとあるまじき事なり。よし異時は知らず、今宵はよめ」など責めさせ給へど、けぎよう聞きも入れで侍ふに、こと人ども詠み出して、よしあしなど定めらるるほどに、いささかなる御文をかきて賜はせたり。あけて見れば、

   もとすけが後といはるる君しもやこよひの歌にはづれてはをる

とあるを見るに、をかしき事ぞ類なきや。いみじく笑へば、「何事ぞ何事ぞ」と大臣ものたまふ。

   その人の後といはれぬ身なりせばこよひの歌はまづぞよままし。

「つつむ事さふらはずば、千歌なりとも、これよりぞ出でまうで來まし」と啓しつ。
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