1063日目・・・浦島太郎は「日下(部)」にも関係するのだが、「現存古事記」は何を云いたいのか?・・・日下(くさか)、帯(たらし)、稗田阿礼(ひえだのあれ)、二十八歳、和銅五年・・・「浦島説話研究所」と言う面白いブログ記事を見つけたので、以下、勝手にこれを参照、参考として興味アル文字を文章の頭だしとして改行し、ランダムに添付引用させてもらい、ボクの妄想も若干付記しました、ゴメンなさい。「原文」は「浦島説話研究所」です・・・「水江浦嶼子」は「美頭能睿能 宇良志麻能古」と表記され、「ミズノエノ ウラシマノコ

生年月日西暦155年
死没西暦199年
兄弟袁紹
ーーー
 「宇良志麻能古」は
 宇(ウ・のき=軒・いえ=家)=宀+于
 良(リョウ・ロウ・よい・うまし)=白+ヒ
 志(シ・こころざす・こころざし)=士+心
 麻(マ・メ・あさ)=广+林
 能(ノウ・ドウ・あたう・よく)=ム+月+匕+匕
 古(コ・ク・ふるい・ふるす・いにしえ)=十+口
    ↓
 浦(裏・うら・鵜等・鸕等)
 ウラ=有-螺(にし)
     螺子=(螺旋・ねじ・捩子・捻子)
     爾志→邁志→爾志→西
 宇良(宇の良=鸕野讃良)
 志(心座視・ココロザシ)
 麻(朝・安佐・阿佐・痣・字)
 能(与う・好・善・よく→四区)
   ノウ→悩・納・能生
 古(拠・呼・故」
 ・・・ネジ(螺子・螺旋)の発明と使用は「種子島=鉄砲」の伝来以前にあったのか?・・・「釘(くぎ)」は当然あった。が、「螺旋状の溝」のある「釘」は「時計・鉄砲」にも使用されたと思われるのだが・・・以下の参照参考文献はウイッキペデアから・・・鉄砲伝来は慶長年間(1606年)の「鉄砲記(南浦文之)」には「天文十二年(1543年9月23日)癸卯・八月二十五日」と記されているらしい。「癸卯」年である。イエズス会の「日本教会史」には「1542年(天文十一年)壬寅年」の出来事とされているらしい。フェルナン・メンデス・ピントの「東洋遍歴記」には1545年(天文十四年・乙巳年)の出来事であると記されているらしい。「壬寅、癸卯、乙巳」である。もし「天文十三年」ならば「甲辰(キのエのタツ)年」だろう。「甲」は「亀の甲羅」であり、「甲虫(兜・冑)の外皮」であり、船舶、軍艦、潜水艦の「甲板」である。
 鉄砲、武田信玄は武器、武力として鉄砲の威力を軽視したらしいが、今現在の「八重の桜」の会津藩の年寄り連中も軽視した。「北条五代記」には、1510年(永正七年)に唐(中国)から渡来した、との記述があるらしい。
 伝来以後、鉄砲は「国内生産」となり、生産地は「和泉」、「根来」となった。だが、火薬となる「硝石」は「輸入」に頼らざるを得なかった・・・硝石(しょうせき、nitre、niter、saltpeter)は、硝酸塩鉱物の一種。化学組成は KNO3(硝酸カリウム)、結晶系は斜方晶系・・・nitre(ニトレ)。
ーー
 「1510年(永正七年)」は「庚午年」で、世界史は「ポルトガル葡萄牙)人のジャワ(爪哇)・マラッカ(馬六甲・麻六甲・満剌加婆羅洲・蒲羅中)占領」である。マラッカ王国の滅亡は1511年・・・「パレメスワラ」が1402年、マラッカ王国を建国しシンガプラ(シンガポール新嘉坡・新加坡・星加坡・新嘉坡・略称は星・星港)も支配した。「シンガプラ(シンガポール)」はサンスクリット語で「ライオン(獅子)の町」であるらしいが、現地では「スマトラ」より来訪した「サン・ニラ・ウタマ」によって建設された町、とされている。「スマ・トラ」である。「マレーの虎」とは「山下奉文中将」であり、中将が率いる日本陸軍が1942年2月7日に攻撃陥落させ、2月15日に英国極東軍司令官の「アーサー・パーシバル中将」を無条件降伏させた場所である・・・別な説では「原地原産のネコの種類名シンガプーラの由来」であるらしい・・・63の島、嶋(山+鳥)、嶼(山+與・与→預)、赤道直下の北緯一度十七分、東経103度51分に位置。
ーーー
 このトラ(虎)に尾鰭を付けると・・・イタリア海軍がドイツ海軍と協同作戦基地をフランスのボルドー軍港に保持する目的で、1943年3月にドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ。このイタリア海軍が、日本占領下のシンガポールに潜水艦基地を作るとし、工作船海防艦を送り込んだ。だが、同年9月にイタリアが連合国に降伏し、シンガポールに派遣されたイタリア海軍の潜水艦「コマンダンテカッペリーニ」「ルイジ・トレッリ」がドイツ海軍に接収。さらに1945年5月にドイツが降伏。その後、「大日本帝国海軍」に接収され「伊号第五〇三潜水艦」、「伊号第五〇四潜水艦」として敗戦、終戦・・・「伊号」とは「伊-太−利-亜-潜水艦の号」に重ねた・・・「伊-預-部」の伊太利亜から預かった潜水艦とは「亀」デス・・・?・・・伊呂波・・・似保併渡・・・
ーーー
 1641年、オランダとジョホール王国が協力してポルトガル領マラッカを攻撃、オランダ領マラッカ(英語版)が成立。マラッカ海峡の香辛料貿易はオランダが独占。
 1819年2月6日、イギリスが当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可。名称をシンガポールと改名。1824年には植民地としてジョホール王国から割譲。
ーーー
 他の鉄砲の記録文書は「神器秘訣」、「菅流大蜂窼」、「鳥銃記」、「異艟舩法火攻泉之巻」といった「砲術書」があるらしい。
ーー
 天文十二年八月二十五日 (旧暦)
 1543年9月23日の出来事
 大隅国(鹿児島県)
 種子島
 西之浦湾に漂着した
 中国船(倭寇の統領・頭目)に乗っていた
 「五峰(王直)」と名乗る
 明の儒生が
 西村織部
 筆談で通訳を行う。
 同乗していたポルトガル
 「牟良叔舎(フランシスコ)」、
 「喜利志多佗孟太(キリシタダモッタ)」の二人が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である
ーー
 このポルトガル人の漢字の当て字だが
 フランシスコ
 牟良叔舎=ム+牛+上+小+又+∧+土(十一)+口
 牟(ム・ボウ・ほこ)・良(リョウ・ロウ・よい)
   叔(シュク・スク・を)・舎(シャ・やどる)
 「舎(∧吉)」は「舍(∧舌」の異字である
 村(邑・斑・武等)の宿舎(縮写)

 キリシタダモッタ→切り史、只、盛った
 喜利志多佗孟太→
 喜びの利、志し多く、詫び、申した(はじめた)
 切 支多(丹)、
     佗(タ・ダ・ほか・わびる)
  孟(子皿・モウ・ボウ・かしら・はじめ)
  太(タイ・タ・ふとい・ふとる)

ーー
 種子島
 恵時
 時尭
 親子がそのうち
 二挺を購入して研究
 刀鍛冶の
 八板金兵衛に命じて複製を研究させる
 形状についてはうまく
 複製できたものの、
 発射の衝撃に耐えるには強度が足りず、
 異人たちに
 娘
 若狭を嫁がせることで、
 「銃床をネジでふさぐ」という
 方法を教えてもらうことができた・・・らしい。
ーーーーー
 「浦島伝説の始原の三書」とは「万葉集」と、「日本書紀」、「丹後國風土記逸文」の二書がこの伝説を「雄略朝の治世」としているらしい。「雄略天皇」は中国の記録の「武」とされる「倭の五王の一人」だと考えられているがその「確証」は無いし、日本の「旧辞」がどのようなモノなのか、その内容も推測である。「雄略朝」の物語も「天智天皇天武天皇」の時代の物語と重なっているとも思われる。「万葉集」そのものが整理されて記された年代は「大伴家持」の生きた時代の前後である。「万葉仮名」それ自体の使用年代前後の背景である。「雄略天皇御製」であるかどうかも推測であるだろう。「浦島説話」の原作者、「伊預部の馬養の連」は、「丹波の國の宰」として赴任していた時に、土地の伝承を説話としてまとめたらしいのだが・・・これも推測でしかない。で、「伊預の部」とは「伊を預(アズカル)の部」であるが、地名なら「伊預の国=四国の一部で瀬戸内海に面して備中、備後の地方と相対している処(愛媛県)・和名は「伊與」である。本州の明石(あかし)との間には指を差しているような「淡路島」が存在している。「伊邪那岐」、「伊邪那美」の「目合」で国産みをするが、「女神」の最初の掛け声で
 「あなにやし、えヲトコを伊邪那美命、先言、阿那邇夜志、愛上、袁登古袁)」
 と云って失敗(女人先言不良)し、再挑戦で「男神」が
 「あなにやし、えヲトメを伊邪那岐命、先言、阿那邇夜志-愛袁登賣袁、後、妹、伊邪那美命、言、阿那邇夜志-愛-袁登古袁)」
 と云って産んだ島である。
 「阿那(凹・久保→句保)
  邇(爾来・爾進→字順)
  夜志(埜史→記紀の壱拾壱の史)」、
 「(アナ→蛙名)・(に→丹・似・爾→字)・(ヤシ→椰子・香具師・野史→風土記・地方紙)」とは
 「おんな(女=ジョ→序・汝・如)」を前に、
 「をとこ(男=ダン→談・段・ナン→納・難)」を後に
 ヨンではダメ、なのだ・・・
 「アナ(穴・孔)」の
 倭音(声)→写す→漢字(音)の順序であるが、
 「文字を書く人間」は
 漢字音の知識→倭音(声)を訊く→万葉仮名(字)に記す、デアル。
 文字を埋めるのは紙(原稿用紙)の
 升目(ますメ→四角の空間)で、
 「ます=枡・舛・桝=鱒→魚(まな=眞名=漢字)を尊ぶ」の
 行間にである。
 「ヲトコ(音拠→音声)が先(前)」で、
 「オンナ(音名・音納→字)が後(尻・跡)」である。
 「杖と海」、「男と女」は「凸と凹」であり、「筆と紙の升目」であり、「塩汁は墨汁」であり、「島・嶋・縞」とは記された文字文章の「縦行」であり、「横行の文字」とは「西欧文化の横文字文章」であり、「経緯」とは「経書、緯書(預言書・未来書)」で「経度(子午線ロンドンをゼロ、零、0度とした地球の縦割り南北線の目盛度数)、緯度(卯酉線赤道をゼロ、零、0度とした地球の横割り東西線の目盛り度数)」の交わりである。いわば地球を縦横の罫線で網目をカケてその升目で地理的な位置範囲を示すモノである。地図上の升目とは等間隔に並んだドット(dot・点)の囲いの枠目で、ドットとは「水玉模様」とか「小鳥の目」にも使用される。日本語の「ドッとある、くる」は量的な沢山を意味する。
 で、「緯書」は、「経書」の注釈であるが、「緯書」は、天文占など未来予測としての讖記(シンキ)でもある。讖緯は天変地異、戦争の勝敗の占いである。そして個々人の未来履歴の予測の説であり、「干支占・四柱推命」・「南宋の徐居易(徐子平)占」・「徐大升の(淵海子平)占」・「1368年の、明の劉基(劉伯温)の(滴天髄)占」など、その基本知識では、地球を円とすれば縦割りは「支冲」であり、横割り「支合」の関係である。
 英語では「Pillars of Destiny・Four Pillars Astrology」で、「meridian(メリデアン)」は「正午」を意味するラテン語の「meridies(メリデス)」に由来する。「メリ・デ・アン」である。
 ウラシマタロウ・・・コジキ(かみよ・シンダイ)・・・物語は「生める子は、淡路の穂の狭別島、次に伊予の二名島を産みき。この島は身一つにして、面四つあり。面毎に名あり。故、伊予国は愛比賣(えひめ)と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宣都比賣(おおげつひめ)と謂ひ、土佐国は建依別(たけよりわけ)と謂ふ」である。明石は日本標準時間の基点にもなっている。だが「伊預部」は「部民管理地の長の職名」であろう。
 説話の原作が成立したのは西暦「697年」から「701年」頃の間らしい、とするなら「ムシ(蒸・蟲・虫・無視・無私・無死)殺し」と暗記した「大化の改新の645年乙亥(イッシ・キのトのイ)年」から「52年後〜56年」の間のコトなる。「暦」だが「690年(持統4)」、「元嘉暦」に加え、「儀鳳暦」を併用、兼用・・・「文武天皇が即位した697年8月1日の暦日」は、「続日本紀」によれば「儀鳳暦」に基づいているらしく、以後、以降は、「暦日表記」は全て「儀鳳暦」らしい。つまり、「浦島説話」の原作は「儀鳳暦が単独で用いられ始めた頃」に成立したの・・・ですか・・・?

 「1872年(明治5)11月9日」
 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦」に切り替える勅
 それ以前は、「太陰暦太陰太陽暦」を使用
 埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘
 「辛亥年」(西暦471年)干支紀年
 「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)=雄略天皇
 当時行用されていた暦は「元嘉暦」
 「日本書紀・雄略紀」の
 「浦島説話」は
 「雄略二十二年七月条」に記録
 「西暦478年」
 690年11月11日
 持統天皇
 元嘉暦と
 儀鳳暦とを併用する勅
 文武天皇即位の
 697年8月1日
 暦は儀鳳暦に単独使用、行用
 伊預部馬養連が
 説話を創作したのは
 700年前後、つまり
 儀鳳暦単独行用時期と時を同じくする
 
 「浦島説話」の原作が成立
 文武朝治世初頭の700年前後
 「丹後國風土記逸文」によれば、
 「長谷朝倉宮御宇天皇御世」のことと記している
 「日本書紀・雄略紀」
 「22年7月条」
 西暦換算すれば
 「478年」
 この説話の端緒を
 雄略朝の御世に求めている
 原作が誕生した時代から
 さらに
 220年以上も遡ることになる
 原作者
 「伊預部馬養連」は
 丹後國
 分置以前の
 丹波國の時代に国宰として赴任
 その時に土地に伝承されていた話として採録したといわれている
 「原作」それ自体は無い
 「風水」
 「水を得るを上とし、
  風を蔵するはそれに次ぐ」
 「浦島説話」を伝える
 「万葉集」では、
 死の描写に
 「氣左倍絶而」
 「息が絶える意」
 「感じ取ることはできるが不可視」
 「氣」と「風」はいずれも目に見えない霊的なもの
 「逸文」後段に万葉仮名
 「加是布企阿義天、久母婆奈禮」
 「突風が巻き起こり、雲が切れ切れに離れる様子」
 この箇所を暗喩や寓意といった
 象徴表現とみるなら、
 「風(加是)」→「加えるを是」と
 「雲(久母)」→「くぼ=凹=女」
 
 竜宮城
 明治時代の童話作家
 巖谷小波の作品が大きく影響
 「鯛や平目の舞い踊り」という
 小学唱歌にもある
 主人公を出迎えるのは
 多くの魚→漢字=眞名仮名
 
 與謝郡・日置里・筒川
 「丹後國風土記逸文」によれば、主人公は
 丹後國
 「與謝郡・日置里・筒川村」に住む人物
 「日本書紀・雄略紀22年7月条」には
 丹波
 「餘社郡・管川」
 の人とある
 
 地名と行政区画名
 「丹後國風土記逸文」は
 主人公の出身地について
 「丹後國風土記曰、
  與謝郡。日置里。此里有筒川村」
 「丹後國風土記」に
 収載された期間を、
 行政区画名という観点
 から絞り込むことができる
 「風土記」撰進の詔勅
 713年
 和銅六年五月二日(「続日本紀」)
 国・郡・里という呼称は
 おそくとも
 702年
 大宝二年の
 「大宝令」施行時には使われていた
 「出雲國風土記」は、
 715年(霊亀元)に
 行政区画名が改定されたことを記録
 それまでの
 「里」は「郷」に、
 「郷」の下に「里」が置かれた
 国・郡・里と
 呼称されたのは、
 715年(霊亀元)まで
 とすると、
 「丹後國風土記」に
 「浦島説話」が盛り込まれたのは
 713年
 (和銅6)〜
 715年(霊亀元)までの
 2年間の間ということになる
 元明朝、元正朝にかけての治世である
 馬養が丹波國宰として赴任していた当時、すでに
 「與謝郡日置里」と呼称されていた
 可能性は高い。この説話誕生の端緒について、「逸文」と「紀」は
 いずれも
 「雄略朝」の治世としているが、
 地名の呼称は
 8世紀初頭の言い回しが
 用いられていることになる。

 「日置里」
 「丹後國風土記逸文
 主人公の出身地を
 「與謝郡日置里筒川村」としている
 「和名抄」に
 「日置郷」の郷名がある
 古代の部民に
 日置部(ひおきべ・へぎべ)がある。
 「日本書紀・垂仁紀」の伝承によれば、
 大刀の製作に関係した
 品部(しなべ)の一つ
 『日本史広辞典』(山川出版社
 日置部の「職掌」は
 「神霊を迎える聖火と
 その材料を調達したとする説と、
 武器鍛造の際の
 炭焼に従事したとする説が有力」
 律令時代には
 「日置部」姓の人々が
 出雲国に多数実在し、
 日置郷も西日本を中心に広く分布
 伴造としての
 日置氏の役割は、令制下では
 灯燭・炭燎などをつかさどる
 主殿(とのも)寮の
 殿部(とのもりべ)に継承された」

 「日下部・首等・先祖」
 「人夫」
 「姿容秀美、風流無類」
 丹後の國與謝郡日置里筒川村に住む
 主人公は
 「人夫」であると「風土記逸文」は伝える。つまり市井の人物であると。
 そして、彼は
 「日下部首等先祖」であり
 「姿容秀美、風流無類」と
 表現されている。
 男前で粋な人物と
 「逸文」は記す
 
 「日下部首等先祖」
 「丹後國風土記逸文
 「水江浦嶼子」(=「筒川嶼子」)は
 「日下部首等先祖」であるとされている
 「日下部首」は
 『新撰姓氏録』によれば、
 和泉国皇別で、
 第九代
 開化天皇の子
 彦坐命の子孫
 日下部宿禰と同祖
 「長谷朝倉宮御宇天皇雄略天皇)」の
 治世に生きた主人公と、
 七世紀末に
 丹波筒川あたりを支配した
 地方豪族
 「日下部首等」とは血脈を有するという設定が成されている

 「浦島太郎」
 「浦島説話」
 この名前は
 室町時代に成立した
 御伽草子によって初めて登場した名前
 始原の三書では、主人公の名前は
 「筒川嶼子」
 「水江浦嶼子」
 「水江浦嶋子
 「水江浦島子」などと
 呼ばれていた
 「逸文」は
 筒川村に住む
 「筒川嶼子」=「水江浦嶼子」
 両者を同一人物としている

 「水」との深い縁
 「水江浦嶼子」なる人物が実在したか否かという議論は別として、主人公の名前は字義に沿って解釈すると非常に興味深い意味を含んでいることがわかる。
 「水」は五行を構成する要素の一つで、「江」は海や湖などが陸地に入り込んでいる場所である。
 「浦」には海辺や波の静かな入り江といった意味がある。
 「嶼」は島嶼の嶼で、
 大きな島に対する
 小さな嶼、二つの文字は対を成す語である。
 「浦」も「嶼」(「嶋」「島」)もいずれも海、つまり水と密接に関係している。
 また、十二支の第一である
 「子」は、
 五行思想では
 「水」にあたる。
 さらに、「水江」は、「逸文」後段に万葉仮名で「美頭能睿」と読み方が記されているが、十干で「壬」は水の兄(え)である。「子」と十二支との相関のように、水江=ミズノエ=壬という十干との照応すら想定できるのである。それだけではない。「浦」は表に対する裏、陰陽思想に照らせば「陰」とも照応すると推論することもできる。つまり、主人公の名前には、
 陰陽五行、十干十二支を意識した原作者の意図を感じさせるのである。
 穿った解釈をさせるほど、説話の主人公の名前からは深い含意が汲み取れるのである。

 「浦島説話」の原作者
 この説話の原作者は
 伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)である。
 彼は、持統、文武両朝の治世に活躍した官人で、
 皇太子学士や
 書物編纂官である
 撰善言司などを務めたほか、
 天武帝の皇子である
 刑部親王
 藤原不比等
 薩弘恪らと
 「大宝律令」の撰定にも参画
 漢籍に通暁した
 当時第一級の文人でもあった

 伊預部馬養連
 「彼は、天平勝宝3年(751)の成立といわれる日本最古の漢詩集『懐風藻』に
 「皇太子学士、詩一首、年四十五」とあり、
 『釈日本紀』という書物によれば、丹後守の任にあった時、浦島太郎物語の原型である「水江浦島子」の説話を記録したと伝わる。『丹後国風土記』の編修に深く関与

 丹後國宰
 持統、文武朝に活躍した官人である。説話は、彼が丹波國宰として現地に赴任していた時に土地に伝承されていたものを採録したということになっている。

 皇太子学士
 彼は皇太子学士として、
 草壁皇子の遺児
 軽皇子(後の文武天皇)の教育係を務めた
 692年(持統六年)
 父、草壁皇子薨去されてから
 三年を経た
 冬、軽皇子
 阿騎野の地で父の御霊を慰霊
 『万葉集』巻1の45〜49番歌は、
 柿本人麻呂がこの時に詠んだ歌である。「東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて、かへり見すれば月かたぶきぬ」
 48番歌
 
 撰善言司
 689年(持統3)
 撰善言司に任命
 「善言」を編纂するための官司
 「善言」とは為政者の
 倫理の指針となるような
 教訓を集めた書物
 で、幼い皇太子軽皇子文武天皇)をはじめ、皇族・貴族の 教育に資すべきものであった。
 施基皇子以下、古今の典籍に通じた官人が任命されたが、
 「善言」の完成をみることなく解散
 編纂の途中で集められた史料は
 「日本書紀」撰述の材料になったと考えられる」

 神仙思想について
 主人公の名前
 始原の三書には
 神仙思想の影響が色濃く反映されているが、「浦嶼子」という名前にも留意したい。『抱朴子』は自ら山中に籠って仙術を修めたという
 葛洪が著した神仙を得るための書である。彼が活躍したのは西晋から東晋の時代にかけてであるが、遡ること、中国漢代には
 「韓湘子(かんしょうし)」や
 「赤松子(せきしょうし)」といった
 代表的な仙人がいる。説話と神仙思想という観点からみると、「浦嶼子」という名からは、やはり原作者の深い含意を感じるのである。

「神仙の堺」

「浦島説話」始原の三書
 神仙思想と結びつきをもっている
 「丹後國風土記逸文」には、
 「天上仙家之人」「蓬山」「等許餘(常世)」「仙都」、「神仙の堺」と「神仙」の文字を用いている。
 「日本書紀」では「蓬莱山」「仙衆」、  「万葉集」でも「不老不死」「常代」「永世」といった記述
 
 「蓬山」と「蓬莱山」

「浦島説話」を伝える始原の三書に神仙思想の影響
 三神山とは、「蓬莱」「方丈」「瀛洲」の霊山である。
 「浦島説話」は丹波の地に伝承されていたという設定が成されているが、主人公が神女と赴く異界が古代中国の伝説の地であることを含め、始原の三書を読む限り、丹波・「與謝郡日置里筒川村」という特定の地域に限定する確かな手掛かりを得ることはできないのである。説話の内容自体からは、土地の匂いを嗅ぎ取ることは全くできない
 蓬莱山
 水江浦嶋子が訪れた世界は
 蓬莱山(『紀』
 不老不死の仙人が住む
 蓬莱山は、
 方丈、瀛洲と合わせて三神山と称される
 
 「五色龜」と「大龜」
 「丹後國風土記逸文
 主人公「水江浦嶼子」は一人「小船」に乗って漁に出たものの
 「三日三夜」
 「一魚」の収穫もなかったが、そのとき、
 「五色龜」を得たと記す
 「日本書紀」には、「水江浦嶋子」が「舟」に乗って釣りをしていると、遂に
 「大龜」を得た
 五色、一般には青・赤・白・黒・黄の五種の色を指す
 鶴は千年、
 龜は万年という寿ぎの言葉
 龜(亀)は不老長寿の神仙道教
 「万葉集・巻九」に収載された
 「浦島説話」に
 「龜」は登場しない。

 美しい女性に変身する「亀」

「始原の三書のうち、日本書紀丹後国風土記逸文にはそれぞれ「亀」が登場する。
 「日本書紀」では、
 浦嶋子が釣り上げた
 「大亀」は女性に変身、変化
 「逸文」では、
 浦嶼子は
 「五色亀」を釣り上げ、
 寝ている間に
 亀は女性に変身
 女性=亀・・・・→「玄武」=蛇+亀
    亀=女性・蛇=男性

 「天上仙家之人」
 「丹後國風土記逸文
 主人公は釣り上げた
 「五色龜」を手に奇異な感じを持ちつつ船の中に置いてしばらく寝ている間に、
 「五色龜」は「婦人」に変身
 婦人(女娘)の間で言葉が交わされ、
 「女娘」が「天上仙家之人」であることがわかる
 「万葉集」には「亀」は登場しない
  瑞祥と災異の讖緯思想

 「緯書」は、前漢末から後漢の頃にかけて形成され流行
 「緯」と「讖」とに大別することができる。儒教の根本経典に『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経がある。
 経と緯の関係は
 一枚の織物にたとえられる
 「たて糸」を意味する「経」に対し、
 「よこ糸」を意味する「緯」は、
 相互に補完し合う関係
 両者を
 より合わせることで初めて一枚の布ができあがる
 経の内容を
 補足するものが
 緯書とされる。
 「経書の内容に沿った解釈書が緯」、
 「天文占などの未来予言書が讖」であり、 両者を合わせて
 「緯書」、
 あるいは一般的には
 「讖緯」といわれる
 緯書と讖緯は同義
 
 仙界での出来事について
 異界は光り輝く美しい世界
 「丹後國風土記逸文」によれば、眠りに落ちた主人公は、たちまち「海中」の広大な嶋に到着した。
 そこは
 「其地如敷玉。闕臺晻映。
  樓堂玲瓏。目所不見。
  耳所不聞」
 在り様だった。
 「闕臺」とは
 「宮城の門の両傍に、
  二つの台(うてな)を築き、
  楼観(ものみ)をその上に設け、
  中央がくりぬかれた形に作られ、
  通りぬけることができるようにしたもの。
 昔、法令をこの上に掲げ、人々に示した。宮闕とか城闕ともいう」
 「樓堂」は
 「二階建ての建物」
 
 「龜比賣之夫」
 「丹後國風土記逸文」によれば、仙界に赴いた主人公と神女は、
 「昴星(七竪子)」と
 「畢星(八竪子)」の出迎えを受ける。
 その際、彼等は互いに
 「龜比賣之夫」だと呼びかける。
 「神女」は「龜比賣」であり、
 主人公はその「夫」
 その後、「神女(女娘)の「父母」も出迎える。

 「夫婦の理」
 『丹後國風土記』「逸文」によれば、仙界で「兄弟姉妹等」の歓待を受けた主人公は、歌や舞に夢見心地の時を過ごす。やがて日も暮れ、艶やかな宴を終えて、参加者たちは三々五々席を立ち、「女娘」と主人公は二人きりになる。肩を寄せ合い、袖を交えた二人は「夫婦の理」を成す。
 「日本書紀」では、女性と化した大龜を、浦嶋子は感じて婦となす(感以爲婦)という記述で表現
 「万葉集」では、「海界」で偶然に「神之女」と出会った「浦島子」は意気投合し、互いに求め合い、常世に至った(相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代)とある。

 「天地」と「日月」

『丹後國風土記』「逸文
 「神女」は「嶼子」と共に「天地と畢(を)え、日月と極まらむ(共天地畢、倶日月極)」ことを欲する

 「三歳」と「三百餘歳」
 「丹後國風土記逸文」によれば
 主人公は、夢心地の中で故郷への思いもすっかり忘れ
 「三歳」の歳月を過ごした
 二人は別れの時を迎える。こうして、故郷に戻った主人公であったが、周りの景色は一変し、すっかり様子が変わってしまっている。「郷人」(村人)に尋ねてもわからない。「古老等」に聞いてみると、「先世」(はるか以前)、「水江浦嶼子」という人物がいたが、一人で海に出たまま帰ることなく、すでに「三百餘歳」が過ぎてしまっている、という。主人公は、事実を受け入れられず、茫然自失の状態に陥ってしまうのである。異界での三年は、現世での三百年余りに相当することになる。

 「日本書紀
 雄略二十二年(478年)
 秋七月
 丹波國餘社郡筒川に水江浦嶋子という人物がいた。
(ある日)舟に乗って釣りをしていると、遂に大龜を得たが、龜は女性に化してしまった。
女性の放つ妖艶な魅力に引き込まれた浦嶋子は、女性を妻とした。
 海に入った二人は、
 蓬莱山に至る
 出来事を
 雄略二十二年
 478年七月と年月を具体的に明記
 
 「万葉集」の作品は作者が
 高橋虫麻呂で、
 他の二書と比べて内容に
 相違があるが、
 馬養の原作内容を意識して書かれていることは明らかである

 『風土記』「逸文
 「浦島説話」始原の三書のうち、「丹後國風土記曰」で始まる「逸文」は、「咽涙徘徊。」までの漢文で書かれた前段と、「于斯拭涙哥曰、等許餘弊爾」以下の万葉仮名を中心として書かれた後段の二段構成となっている。前段は、「丹後國與謝郡日置里」の地に住む主人公「浦嶼子」が、神仙境という異界を訪問する内容である。ところが、後段では、唐突に舞台が丹後の地から「夜麻等弊」(飛鳥浄御原宮、藤原宮などが位置した大和周辺の地)に移り、主人公「宇良志麻能古」の死を暗示する表現「等許餘弊爾 久母多知和多留」(常世辺に 雲立ち渡る)が二度繰り返される。異界としての常世は死後の魂のおもむく世界でもある。
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・・・「高嶺」、「高木の神を加味する」を勉強していたのに・・・「ハナ、シ」がウラへ飛んでしまった・・・以下前日、前回と関連する原文添付・・・でした
高島嘉右衛門 - Wikipedia
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高城胤則 - Wikipedia
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高木惣吉 - Wikipedia
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