1202日目・・・黄色い花の「菊芋もどき」のコトは書いたが、今現在は濃い橙色の「鬼百合・鬼由理」が咲き出している。ブログ記事で調べたら「ユリ」の花の命名由来は、大きな花が風に揺れるさまから「ゆする」・「ゆれる」→「ゆり」の説が有力であるらしい。「ゆする・たかり・恐喝」・・・「百合」は、麟茎の形(根が重なり合っている)から、麟茎が重なり合う「より」→「ユリ」の説もあるらしく、万葉集では、「由理」、「由利」、「佐由利」の表記があり、これは「ヤマユリ」、「ササユリ」のことであるらしい、とあった・・・そして、「

 鬼百合の花の匂いは嗅いだ事がないが、アルク姿と百合の球根は兎に角、見た目はシャンとして美麗な白百合の花だが、その匂いは気分が悪くなる。百合の花の匂いを好きなヒトは居るのだろうか・・・百合華・・・
 ブログ記事の説明では、山や草原に古来から自生しているコオニユリは花の形はほとんどオニユリと同じであるが、オニユリが「ムカゴ」をつけるのに対しコオニユリは「ムカゴ」は付けない。通常、ほとんどのユリが染色体が2倍体であるのに対し、オニユリは3倍体で、種子を付けず、その代わり、「葉の腋(脇・わき)」に「ムカゴ」を付け、これが地に落ちて増えるモノ、とあった・・・「種芋」なんだ・・・ボクの家の庭の「鬼百合」を観察すると確かに黒い艶のあるマメのようなモノがくっついている・・・なんか、理解する前は葉っぱや茎の「病気」なのかな、と思っていた・・・
 ムカゴ(むかご・零余子)・・・それにしてもボクとしては初めて聞く、見る「コトバ」で、「漢字」である。「未知なコトバ」はワンサカである、ナッ。兎に角、「百足(むかで)蟲のコっ子」ではないらしい・・・「むかご(零余子)」・・・「零(レイ)の余(あまり・ヨ)の子(こ・ね・シ)」とは植物の栄養繁殖器官のひとつ。主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる。 葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリなどである、と・・・それにしても、「楊貴妃」の「歩く姿の百合の花」の「ユリ」ではなさそうだ・・・「長恨歌」の「楊貴妃」のイメージでもないナッ・・・日本に逃げてきて「鬼百合」になったのだろうか?結局、ムカシから大陸、半島の争いの場からアマって逃げ出す場は「日本列島」である・・・「百足(むかで)・百合(ゆり)・百済(くだら)・百木(ももき)」・・・「百足」は「ももあし・むかあし」でなく、「むかで」・・・「百手(ももて)」は「四国・九州で、御弓(おゆみ)の神事」で、その意味は「 いろいろな手段・いろいろな技・弓術で、200本の矢を100回に分けて射ること・甲乙2本の矢を一手とする」・・・大分市横尾二目川地区で一月二十日、年に一度の「百手まつり」があり、室町時代、 天文年間(1532〜1554年)から伝わる・・・百手祭、文字の通り百手(1手2本)200本の弓矢を射る「御弓始の儀式」・現在は、的の裏面に甲・乙・ム(こう・おつ・なし)の三文字を謎字とした「鬼」という字が書いてあり、「天・地・左・右」を射た後、この的を射る・・・「百手」がナゼ「文字通り」なのか?・・・「百射手(ももて)」とも書くらしい・・・「百人の弓矢の射手者」か・・・
ーー↓センチュリアン(オン)・ケントゥリア(百人隊)
 ローマ時代治安を受けもった「百人隊」
 117年の古代ローマ帝国
 第九軍団、
 北ブリテンに駐屯中に
 ピクト人の襲撃を受け、砦を守ったが全滅・・・?・・・映画のシナリオ・・・
 干支・丁巳年
 日本
 景行天皇
 四十七年
 皇紀七七七年
 中国
 後漢
 元初四年
 朝鮮
 高句麗
 太祖王六十五年
 新羅
 祇摩王六年
 百済
 己婁王四十一年
 仏滅紀元
 660年
 ユダヤ暦
 3877年〜3878年
 ローマ帝国
 トラヤヌス
 パルティアに遠征し、ローマ最大版図
 8月9日
 トラヤヌスローマ皇帝死亡
 8月10日
 ハドリアヌス即位
 ・・・117(壱百壱拾七)年振りに韓国を冊封体制支配に組み込む中国・・・?・・・
 711年・・・?・・・
 アフリカ大陸からジブラルタル海峡を渡って
 イスラム勢力が侵攻
 西ゴート王国滅亡
 710年(平城)京遷都
 711年銭の普及をねらい(蓄銭叙位)令が発布
 712年太安万侶稗田阿礼の暗誦を元に
     「古事記」編纂
 713年諸国に「風土記」編纂が命令
 718年スペイン北部に逃れた
     西ゴートの貴族ペラヨが
     アストゥリアス王国建設
 722年アストゥリアス王国ペラヨが
     コバドンガの戦いでイスラムに勝利
    (レコンキスタ=国土回復運動)
 ・・・大陸中国と韓国の「心情」、「信条」ですか・・・「カネで解決しよう」と言う「世界資本主義」の時代に・・・チッポけな「利権獲得」を煽って「国家規模」の「暴力沙汰」で、とはネッ・・・イズレは世界市場、国内市場で儲けた「電子機器」のバラ撒き、その「情報」で階級格差分離、大勢の犠牲者を出して「国内崩壊」するんだろ・・・後のマツリはいらないが、新たなマツリとは・・・ナンなのか・・・
ーー↓百手組→弓矢の射手の名人
 イテモノの名人は・・・息子の頭の上に載せられた林檎(リンゴ)を命中させたウィリアム・テルは「全4幕のオペラ・1829年8月3日王立音楽アカデミー劇場で初演・サン・カルロ劇場は1833年にこのオペラを上演して以降、二度目の上演は約50年後だった」・・・
ーー↓ 
 渾名が大股のロビン(Robin Longstride)、ロクスレイのロビン(Robin of Loxley or Locksley)、ロビンフッド(Robin Hood) は「吟遊詩人によって編集された物語・歌劇のロビン・フッド(1860)」・・・
ーー↓
 悪魔に魂を売ったマックスは「魔弾の射手(全3幕のオペラ・1821年6月18日ベルリン王立劇場で初演)」・・・
ーー↓
 那須与一は嘉応元年(1166年、1168年、1169年頃?〜1189年、1190年)?)で、那須氏二代当主・父は那須資隆(太郎)・妻は新田義重の娘・本名は宗隆・宗高は平家物語)・・・「与一」は「十あまる一」、「十一男」の通称・・・
 「日子坐王=彦坐王」の子供の数は「十一人」であったのだが「佐波遅比売命=狭穂姫命=沙本毘売命)」の「比売=姫=毘売=媛=ヒメ→(媛=女(おんな)+爰(ここに))」・・・「音名(おんな)の爰(ここに・エン・オン)」?・・・貞永元年(1232年)に中風のため摂津国で没した・・・?
 弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、
 「左右で腕の長さ」が変わってしまった・・・差有の得出(弟=おと)の名臥差・・・
ーー↓
 元暦二年(1185年)
 屋島の戦い
 平氏方の軍船に掲げられた
 扇の的を射落とす
 源頼朝より丹波信濃など五カ国に荘園を賜った
 (丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘
  信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)
 十郎為隆を除く
 九人の兄達が、
 皆、
 平氏に味方し、
 為隆ものちに罪を得たため、
 与一が
 十一男ながら
 那須氏の家督を継ぐ
 各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、
 下野国における那須氏発展の基礎を築いた
 某年、山城国伏見において死去
 法名は即成院殿禅海宗悟大居士
 (又は即成院殿月山洞明大居士)
 「寛政重修諸家譜」では
 文治五年(1189年)八月八日死去
 「続群書類従」では
 建久元年(1190年)十月死去
 家督は兄の
 五郎資之(之隆)が継承
 鎌倉幕府の有力御家人
 宇都宮朝綱の実子(異説もある)
 頼資が資之の養子となり家督を継承
 その頼資の子
 光資が、
 建久四年(1193年)に
 源頼朝
 那須巻狩の際に饗応役(吾妻鏡の記録)をした
ーー↓元は「赤・平家」、後に「白・源氏」・・・
  赤を変える白・・・無理・・・モモ=桃色に変化・・・「日本一の弓取り」は「征夷大将軍」・・・「弓形列島=日本列島」が地図上で知られたのは「伊能忠敬」・・・以後・・・
ーー↓
 「白澤(はくたく)=白沢」
 中国に伝わる「人語を解し万物に精通」するとされる聖獣・麒麟(キリン)や鳳凰(ホウオウ)と同じ・・・
 「怪獣(海獣・懐柔・晦渋・甲斐拾・蝦夷重)の百科事典」だな・・・
 「沢三伯の偽名」は文政十一年(1828年)、シーボルト事件で「高野長英仙台藩水沢留守家の家臣後藤実慶の三男・母方の叔父、高野玄斎の養子)」の逃亡時、嘉永三年(1850年)十月三十日、江戸の青山「百人町(東京南青山)」に潜伏、束縛され、殺害された時の別名であった。彼の関係者の名前も江戸滞在時期(文政三年・1820年)び師事した「杉田伯元(建部清庵の子・天明二年杉田玄白の養子)」、「吉田長淑(幕臣馬場兵右衛門の子・母方の吉田家に養子)」であった・・・「高野長英」は「聖獣の麒麟」だったのだ・・・「多に=さわに」は「多く、多い」の意味だし・・・
 「現存・古事記」は「蘭学者」の「所産」である・・・
ーー↓
 「佐波遅媛=沙本毘売命」は、
 「沙本毘古命(さほびこのみこと)」の妹で、
 この兄妹は
 「開化天皇」の子供の
 「日子坐王=ひこいますのきみ」の子供である
 妹の、
 「佐波遅比売命(さわじひめのみこと)」は
  ↓
 佐(サ・たすける=多素懸留→助=ジョ・序)
 波(ハ・なみ=名見→葉=コトバ)の
 遅(ヂ・おそい・おくれる=緒句例留→字=あざ)の
 比(ヒ・くらべる=句等部留→比較)
 売(バイ・め)=賣(読・讀)の読売
 命(メイ・いのち・みこと=見事・三言(名)
  ↓
 である・・・「現存・古事記」の「物語」である・・・挿入されたか、改竄した「文化文明−開化(天皇)」の所産だろう・・・別名が「沙毘売命」である。「日本書紀」では「狭穂姫命」・・・「落城で身を焼いた母」と「息子の救命の父」のハナシである・・・そして息子の名は・・・
ーー↓
 「牟都和気命=牟智和気命」・・・「尾張国風土記逸文」に「品津別皇子」、「日本書紀」では「誉津別命」で「垂仁天皇の第一皇子」で・・・「おシ」だった・・・歴史的用語である「 盲(めくら)・唖(おし)・聾(つんぼ)・跛(ちんば)・跛行(ハコウ)・跛足(びっこ)」の「不具(かたわ)」の一つ「唖(おし・ア)」であった。コトバの意味を知らなくちゃァ、その「歴史的な差別」も解らなくなるだろう・・・しかも「ホンダワケ」は「応神天皇」の
ーー↓
 日本書記
 譽田天皇(ほむたのすめらみこと)
 腕の肉が
 弓具の
 鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来
 母の神功皇后の胎内にあったので、
 「胎中天皇」とも称す
 古事記
 品陀和氣命(ほむだわけのみこと)
 大鞆和気命(おおともわけのみこと)
 播磨国風土記
 品太天皇(ほむだのすめらみこと)
 上宮記逸文
 凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)
 ・・・である、「タワケモノ」である・・・
ーー↓
 「牟都和気命=牟智和気命」の
 父親の垂仁天皇
 第十一代天皇
 (在位は垂仁天皇元年一月二日
    〜
  垂仁天皇九十九年七月十四日)で、
 活目入彦五十狭茅尊
 (いくめいりびこいさちのみこと)
 活目尊等
 伊久米伊理毘古伊佐知命古事記
 (いくめいりびこいさちのみこと)」
 伊久米天皇常陸国風土記
 生目天皇令集解所引「古記」)
 伊久牟尼利比古大王(上宮記逸文
 (いくむにりひこおおきみ)
ーー
 「逸文」は怪しいのだ・・・
 「逸文」の「魏略(魚豢)」もねッ・・・後に散逸?・・・「魏略(逸文五)・翰苑 卷三十」. 「三国志」の「裴松之・注」に引用・・・「魏書」の「王沈」の記述?・・・「裴」とは「隋書」と「日本書記」に登場する「煬帝の命令で俀國を訪れた使者の「裴世」の「姓(名)」で、彼は「推古天皇十六(608)年四月」に「小野妹子=蘇因高」らと「日本(熊本)?」辺りにやって来た人物である・・・
 「裴潜(ハイセン・?〜244年)・後漢末期から三国時代の政治家・字は文行・司隷河東郡聞喜県の人・父は裴茂(字は巨光)・弟は裴儁(字は奉先・蜀志「孟光伝」が引用は裴氏家記・裴徽(字は文秀)・子は裴秀・「三国志魏志」に伝記あり・・・兎に角「魏略(魚豢)」は、
 清代に
 王仁俊が
 逸文を集めて
 輯本を編した・・・輯(シュウ・シフ)
          ↓
          あつめる・材料を集めて纏める
          輯録(集録)=編輯(編集)
         「輯」と「集」も、別の文字で
         「正字と略字」ではなく
         「代用」である
         「輯」=車+口+耳→戢(おさめる)
         「集=雧=三の隹と木の会意文字」
         「輯」
          書籍全集の一部を数える助数詞
          和睦する・やわらげる・補修する
          収める・安定させる
          車の輿
         (緝と通じて)縫い合わせる
          まとめる・片付ける
          「輯柔(シュウジュウ)」
          顔色などを和らげ
          態度を穏やかにすること
 が、
 疎漏であったため
 張鵬一が
 民国
 十一年に再編
 した。著者は魚豢(ぎょかん)である。
 「魚豢」については殆んど事績が伝わっていない・・・そんな人物は「魚豢」自体の漢字を調べれば「存在」しないことを「示唆」しているだろう・・・「魚(まな・あさる)」を「豢(ケン・カン・やしなう」で「小屋に入れて飼う家畜」のコトである。類字には「拳法・挙手」の「拳=挙=ケン・ゲン・こぶし・つとむ」である・・・
ーー↓本牟都和気命=本牟智和気命
 「ホムダワケ」の子の
 「ワカマタ」が
  母の妹
 「モモシキ=百師木伊呂辨=ももしきいろのべ」
  またの名
 「オトワカ=弟日賣眞若比賣=おとひめまわかひめ」
 を妻として
 「オオイラツコ=大郎子=おおいらつこ」
 またの名を
 「オオオド=意富富杼=おおおど」
  と
 「オサカメ=忍坂之大中津比賣
      =おさかのおおなかつひめ」
  と
 「タイヒメ=田井之中比賣=たいのなかつひめ」
  と
 「タミヤヒメ=田宮之中比賣=たみやのなかつひめ」
  と
 「フジヒメ=藤原之琴節郎女
      =ふじわらのことふしのいらつめ」
  と
 「トリメ=取賣=とりめ」
  と
 「サネ=沙禰=サネ」
  の
  七柱の子供を産んだ・・・
ーー↓さわ・澤・沢・佐波・佐和→茶話
 東望山(中国湖西省)の沢に棲む獣の
 ひとつを
 白澤と呼んでいた。
 白澤は能く言葉を操り万物に通暁しており、
 治めしめるものが有徳であれば姿をみせた
 中国三皇五帝の一人
 黄帝が東巡したおりに出会った
 白澤は
 一万一千五百二十種に及ぶ
 天下の妖異鬼神について語り、
 世の害を除くため忠言
 冬に陽気を受けて角を生じる(礼記
 中国の
 「三才図会」にその姿が記され、
 日本では
 「和漢三才図会」にも描かれている
 獅子に似た姿
 鳥山石燕
 「今昔百鬼拾遺」は
 姿が「一対の角」、下顎に「山羊髭」を蓄え、
 額にも「瞳を持つ三ツ目」、左右の胴体に「三つずつ目」、併せて「九つ目」として描写
 白澤が複数の眼を持つ姿は
 石燕以降と推測される・・・
 ・・・問題は「白澤」の「白」の漢字である・・・類字は「白(しろ)→百(もも)→曰(いわく)→日(ひ・にち)→臼(うす)→」と「澤(さわ)→沢(タク)→訳(ヤク・エキ)→譯(わけ・とく)」である・・・熟語は「訳載・訳者・訳出・訳文・意訳・完訳・誤訳・重訳・抄訳・対訳・直訳・通訳・点訳・翻訳・名訳・和訳・事訳・諸訳」等だが、「訳語田(おさだ→長田)」で、「訳語(ヤクゴ)の田(デン)」である・・・
ーー↓百
 ・・・「栢」は「柏」の「俗字」で「かしわ(槲)・柏のキ」・・「掛史話」で「化詞倭」・・・「百」に謎を隠したんだろう「桓武天皇」・・・
 「等々力(驫木・轟)・モモのキ・山椒のキ」・・・「むかご(ムカゴ・零余子→レイヨシ)」である。「霊」の「文字」でないところに「合理性」を感じる・・・がね、文明開化・・・
ーー↓歩く姿が「百合の花」
 755年、突厥出身の唐の軍人「安禄山」が反乱(安史の乱)・・・
 楊貴妃
 (開元七年・719年
   〜
  至徳元載六月十六日・756年7月15日)
 姓は楊、名は玉環
ーー↓
 玄宗皇帝(李隆基)
 (垂拱元年八月五日・685年9月8日
   〜
 上元二年四月五日・762年5月3日)
 唐の第六代皇帝・在位712年〜756年
ーー↓
 阿倍仲麻呂
 (文武二・698〜宝亀一・770)
 生年は大宝元年(701)? とも
 中務大輔船守の子
 渡唐後は「朝臣
 「仲満」→「朝衡 (ちょうこう)=晁衡」 と改めた。
 霊亀三年(717)、
 第八次遣唐使留学生。十九歳
 古今集と続後拾遺集に各一首。
 後者は万葉集の阿部「麻呂」の歌を誤って「仲麻呂」の歌としたもの?・・・らしい。さらに「阿部麻呂」と言う同時期の人物も存在した・・・
 皇太子(瑛王)の「図書管理係=左春坊司経局の校書」、
 皇帝の諫官、「左補闕」、「儀王友・衛尉少卿」、
 「七五三年→秘書監(衛尉卿・従三品)
 「衛尉卿・左散騎常侍」、
 「安南節度使」・・・「宝亀一・770」死亡・・・
ーー↓879年−770=109・壱百九・壱伯玖
 干支年=己亥
 日本
 元慶三年
 中国・唐
 乾符六年
 三月出羽国より援軍撤退
 旧暦三月十六日
 肥後国熊本県山鹿市・旧鹿本郡菊鹿町
 鞠智城の兵舎の戸が自ら鳴る
 「日本三代実録・元慶三年三月十六日条」
 この記事以降、文献上に
 「鞠智(くくち)城」に関する記録は無い
 鞠
 蹴鞠=鹿皮製の鞠(まり・キク)を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技。日本語でサッカーのことを「蹴球(シュウキュウ)」と呼ぶのは、明治時代に居留地での西欧人の蹴る球技を見て「異人さんの蹴鞠(けまり・シュウキク)」と云ったらしいが、「鞠(まり)=キク」で、「キック(kick)」の音を「鞠(キク)」で採ったのだろう・・・
ーー↓
 鞠(キク・まり)」
 鞠躬(キッキュウ)=お辞儀・最敬礼
 鞠躬如(キッキュウジョ)=身を丸くかがめる
 鞠躬侭瘁(キッキュウジンスイ)
     任務を全力で遂行する
     使命達成に全力を尽くす
 鞠子宿(まりこジュク)
    東海道五十三次の二十番目の宿場
    丸子宿(静岡県静岡市駿河区丸子)

 鞠育(キクイク)=大事に育てる
 鞠訊(キクジン)=鞫訊=罪過の訊問
 鞠問(キクモン)=鞫問=罪を問いただすこと
 鞠躬
ーー
 十一月「日本文徳天皇実録」が完成
 十二月京畿内に斑田・畿内に官田四千町を公用
 (元慶官田)
 元慶の乱の終焉
 誕生
 9月17日 - シャルル3世、
 カロリング朝西フランク王国の国王
 死去
 2月1日(元慶3年1月3日)
 真雅、平安時代真言宗の僧
 3月25日(元慶3年2月25日)
 都良香、平安時代の貴族、漢詩人、文人
 4月10日ルイ2世、カロリング朝
 西フランク王国の国王
 4月18日(元慶3年3月23日)
 正子内親王嵯峨天皇の皇女、淳和天皇皇后
 7月17日(元慶3年6月24日)
 輔世王平安時代の皇族
 11月22日(元慶3年閏10月5日)
 儀子内親王平安時代の皇族、賀茂斎院
 12月26日(元慶3年11月10日)
 良岑良松、平安時代の官人、遣唐使
ーー↓879年−770=109=壱百九
  位置(位地)の「飛躍」の「玖」
  ↓
 「淳欽述律皇后(じゅんきんじゅつりつこうごう)、879年〜953年)は、「遼(契丹)」の「太祖・耶律阿保機の皇后」、諱は「平」。小字は「月理朶」・・・月の理の「朶(ダ)」・・・「月(ゲツ)」の「理(リ)=ことわり」の「朶(ダ)=乃+木」→「塊(かたまり)=「十+一+甶(フツ)+儿+ム」、あるいは「囟(シン・ひよめき)+儿+ム」・・・「月経(メンス)」・・・述律→旋律を述べる淳(きよい・ジュン)の「欽(つつしむ・ひとし・かしこむ・キン)」・・・「律」は「音律の音階、陽音の調子」、「七十二侯、干支占いの月律の分野蔵干」、「律令の刑法」である・・・「欽=金+欠」は金欠、ゲルピンであるなッ・・・
 文 欽(ブンキン・?〜258年)
 中国三国時代の武将・字は仲若・父は文稷・子は文鴦・文虎・譙国譙県出身・・・「三国志魏志」の「毋丘倹伝」、「魏志・呉志」の「邪馬台国」、「卑弥呼」に関係する人物、「毋丘倹」と共に揚州で反乱し敗れて呉に亡命。後に「諸葛誕」が反乱を起こすとその援軍に送られたが、魏の追討軍に包囲され、諸葛誕と仲違いを起こして殺害された人物であった・・・
ーー↓月理朶の「朶」
 「朶(ダ)」
 枝についている花ぶさを数えるのに用いる
 「万朶の桜」
 雲や山など、塊になっているものを数えるのに用いる
 「一朶(イチダ)」
  ひと枝の花・一輪の花
  ひと群れ・ひとかたまり
 「万朶」
 「朶」は垂れ下がった枝の意
  多くの花の枝・多くの花
 花のついた枝・しだれる・たれる・枝や花・実などがたれさがる。また、たれさがっているもの
 「朶雲」・「耳朶」
 花や雲のかたまりを数える言葉
 たらせる・下へ垂らすように動かす
 「朶」
 花・雲またはそれらに似たものを数える数詞
 花のひと枝・一輪の花
 「粗朶・麁朶」=ソダ
 切り取った木の枝
 薪(まき)に用いる
 海苔篊(のりひび)などに使う
 「粗朶巻(そだまき)」
 魚を捕るために水中に沈める、
 竹や木の枝の束ねたもの
 また、 魚や海老・蝦(エビ)などが入るのを待ち、
 周囲を網でおおって引き上げるその漁法
 ・・・「朶(ダ)=乃+木」・・・「乃木希典」将軍の軍律は・・・?・・・203高地の攻防・・・「旅順(大連市旅順口区)」にある丘陵・・・タビ(足袋)のシタガウ(随う)・・・物事の次第・順位・順順・順序・順番・逆順・席順・打順・・・軍則、軍促・・・ゲートル(半脚絆・gaiters・脚絆・脛の部分に巻く布や革でできた被服)・・・第一次世界大戦をピークに、第二次世界大戦頃には長靴とともに各国の陸軍に広く用いられた。大日本帝国陸軍日露戦争中、1904年の日露戦後に歩兵を中心とする徒歩本分の兵科・兵種の将兵に普及した。
 大日本帝国海軍 - 陸戦隊を中心に使用され、また艦隊勤務等の一般の将兵においても儀式の軍装時や戦時においては広く普及・・・「軍人」、ゲートルを両足に巻く・・・
ーーーーー
 枕草子
 (九五段)・・・九十五段・九拾五段・玖足伍段
         9+5=14=壱拾四=足肆
         9×5=45=四拾五=肆足伍
 細
 太刀の
 平緒・・・・・束帯着装のとき、袍(ほう)の上から
        胴に巻き、
        結び余りを前に垂らす幅広の帯
        横刀(たち)之緒
        左腰に剣を吊るすためのもの
        貞観十六年(874)の制度
        五位以上は唐組(組物)
        六位以下は新羅組(組物)
        もしくは
        綺(かんばた)、
        織物等を用いる
        平緒は、奈良時代
        絛帯(くみおび)
        (多くは新羅組)が発展したもの
    ・・・?唐組、新羅組があって
       「百済組」が無いのはナゼ?
        貞観十六年(874)
ーーーーーーー↓
   干支年=甲午(キのエのウマ)
   日本=貞観十六年・・・定めて観る拾陸の年
   中国=唐=咸通十五年、
        乾符元年
   三月四日
   薩摩国
   開聞岳噴火・付近の集落に降灰等被害
   六月
   唐の商人、
   肥前国に来着
   十二月
   在京諸司の
   交替の厳格化
   聖宝が醍醐寺を創建
   空海の孫弟子にあたる
   理源大師聖宝が
   准胝観音(じゅんていかんのん)
   並びに
   如意輪観音
   笠取山頂上に迎えて開山
   唐で、黄巣の乱(〜884年)
   孟知祥が生まれる
   五代十国時代
   後蜀の初代皇帝(〜934年)
   劉隠
   五代十国時代南漢創始者(〜911年)
   876年清和天皇が譲位し、
   第五十七代
   陽成天皇が即位
   878年
   藤原保則
   陸奥
   蝦夷平定に出発
ーー↓        
 つけて、
 清げなる
 男の
 もて
 わたるも、
 いと
 なまめかし。
 紫の
 紙を
 包みて
 封じて、
 房
 長き
 藤に
 つけ
 たる
 も、
 いと
 をかし。
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