1062日目・・・「コジキ次元」と「コジキ字源」を「時限」で「示現」として今現在のコトバで明らかにするには「暇な時間」で「モウソウ」するしかない・・・ないのだが・・・ヒマでも天変地異、人災、事故は間断もなく、「暇人」にも「多忙人」にも、「善人」にも「悪人」にも襲いかかる。「何億分の一の確率」とか、「何万人に一人の傾向統計%」とかのコトバは吉凶含め、遭遇するだろう結果としての可能性の事態は個々人には未知である。その時はその時、何とかなるだろう、何ともならないだろうカモ、も、呼吸して存在しているコトが前提で

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 「津田梅子」さんも「伊藤梅子」さんも「梅子」・・・名号を「梅里」としたのは「梅」が好きだった「徳川光圀」だったのかも・・・「大日本史」・・・徳川 光圀(水戸黄門)は、常陸国水戸藩の第二代藩主。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。ナゼ、「味」を「ウマシ」とヨマせているんだか・・・「日本語」って「ひら仮名・カタ仮名」で書いたら
 「た・か・ゆ・ず・る・う・ま・し・み・ち・ね・の・み・こ・と」
 だから、この15文字が1文字で意味がとれるし、2文字、3文字、4文字、5文字でもとれる・・・けれど・・・
 「多寡、喩(由・輸・愉・諭)、狡(姑息)い、旨(巧)し、未知(満・充)、音(子・値)、之(乃・野・廼・埜・能)、見事」
 である・・・
 TVがついて画面が出た・・・ニュースでは「ロシアの隕石、広島型原爆の30倍」・・・NHKワールドニュース・「イランのインフレ・お肉が30倍・商店街のデモ」・・・それを抑える「バシジ」と言う民兵組織・・・銃を構える「若い女性のバシジ姿」はカッコいいけれど「自由」からは程遠い。「国家、国民の名誉」とは何なんだか?・・・だが「国家主義民族主義・宗教主義」に走らせたのは「アメリカの国家的資本主義政策」と、それにドップリ浸かった「元バービレ国王」であろう・・・イランの地図上の国境線はネコにも見えるけれど・・・ネズミの天敵・・・ネコである・・・理由は勉強不足だがイランの国花は「薔薇」と「チューリップ」であるらしい。
 牡丹か梅か・・・中国は隋唐王朝時代から牡丹であったらしく「百花の王」とは「牡丹」だった。楊貴妃も牡丹に譬えられた。「百合(ユリ)の花」ではないらしい。「百(一+白)の花(サ+化→華)」とは「牡丹」とは「百獣の王」と同様なコトバ使いであろう。
 日本(?)では戦前まで「種からの栽培のみ」しかできなく「高嶺の花」で、戦後に「芍薬を使用した接ぎ木」が考案され、急速に普及したらしい。

 タカネ(高嶺・高値・高根・高音・鷹子・他兼・多兼)
 ハナ(花・華・鼻・塙・洟・端)
  ノ(之・乃・廼・能・野・埜)
 ツギキ(接木・次記・継偽紀・注義紀・通義記)
 シャクヤク芍薬・借訳・釈約・尺益・酌役・癪厄)
 ユリ(百合・由利・由里・由理・由梨・有里・有利・友里・夕里・結う理)
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 「牡丹の噺」→「ボタン(釦・簿探・母嘆・模譚・戊拿務=己)の(埜)はなし(葉名詞・話)」・・・ボタンの掛け違い、ってアルが、ニホンシ、「年代、年月日」の掛け違い・・・であるかな・・・
 牡丹、その別称は「富貴草」、「富貴花」、「百花王」、「花王」、「花神」、「花中の王」、「百花の王」「天香国色」、「名取草」、「深見草」、「二十日草(廿日草→念日草)」、「忘れ草→勿忘草(わすれなぐさ)」、「鎧草(よろいぐさ)」、「ぼうたん(謀反)」、「ぼうたんぐさ(望探具差)」などと呼ばれたらしい。
 「高嶺」の裾野は「山麓」の「麓(ふもと・ロク)」で「麗(うるわしい・レイ・ライ)」だろう・・・麓(林+鹿)と麗(向向+鹿→一冋一冋+鹿)はカンジが異なる。「向(むく・コウ・キョウ)」と「一(ひとつ・イツ・イチ)+冋(ケイ)」のチガイである。「ムク=剥く、無垢、椋(木+京)」で、「一の冋(ケイ)」である。
 「高い、高値の姓」を有する歴史上の人物たち、興味があるなら「人物辞典」をみてくれ、「嫌(厭)」になるカンジだけれど・・・以下に掲げたコレラの人物の誕生年月日、履歴、死亡年月日が「統計学」上の類字合致はどんなモノなのか、「偶々学」上の問題とも思えないが・・・生没不明が「高橋虫麻呂(麿)」であるのだが、719年(養老三年)頃、藤原宇合が「常陸守」であった頃に宇合の下僚となり、以後宇合の庇護を受けたらしい・・・のだが・・・ウイッキペデアには「物部氏」の一族で「神別氏」族、とあった。
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 「浦島説話」の原作は「伊預部馬養連=藤原宇合?」であるらしく、『日本書紀』、『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」の三書に記され、「日本書紀」には「大亀」が「逸文」には「五色龜」が記されているが、「万葉集」には「亀」に関する記述はないらしい。「日本書紀」には「語は別巻」にあるとされている。「万葉集の浦島太郎の物語」の作者は「高橋虫麻呂」である。説話の舞台が「丹波」、「丹後」で、「万葉集」は「墨吉」。「逸文」は「姿容秀美、風流無類」と記し、「万葉集」では「愚人」・・・らしい・・・
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 ・・・高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ・生年不詳〜没年不詳・奈良後期時代の万葉歌人・姓(かばね)は連(むらじ)・藤原宇合(ふじわらうまかい)の下僚、部下?・高橋虫麻呂歌集・浦島太郎は彼の作?
 ・・・高橋 至時(たかはしよしとき・1764(明和元.十一)〜1804(享和四年一月五日5)・天文学者・名は至時・字は子春・通称は作左衛門・号は東岡(トウコウ)・梅軒・大坂生れ・大坂御定番同心元亮の子・景保の父・1795(寛政七年)幕府天文方に抜擢・1797(寛政九)間重富とともに「寛政暦」を完成・伊能忠敬の北陸・蝦夷地測量を指導・肺を患い死亡・著書は『ラランデ暦書管見』・墓は子の景保(玉岡)とともに東京都台東区の東上野6丁目の源空
 ・・・高橋景保(高教・口供・公共・広狭・交響・たかはし かげやす・天明五年(1785年)〜文政十二年二月十六日(1829年3月20日)・天文学者・通称、作左衛門・高橋至時の長男・渋川景佑の兄
 ・・・高橋 お伝(1852?、1850?年(嘉永五)〜1879(明治十二年)上州(群馬県)前橋生れ・夫を毒殺・1876(明治九)浅草で古着商を殺害・1879(明治十二)首切り浅右衛門により斬首・仮名垣魯文の「高橋阿伝夜叉譚」、河竹黙阿弥の歌舞伎「綴合於伝仮名書」のモデル
 ・・・高橋 是清(1854(嘉永七年七月二十七日)〜1936年(昭和11年)2月26日
 ・・・高野長英(高谷・考埜・1804(文化元年五月五日)〜1850(嘉永三年十月三十日)・蘭医・名は譲・長英・字は悦三郎・号は瑞皐(ズイコウ)・卿斎・暁夢楼主人・驚夢山人・陸中水沢生れ・後藤実仁の第三子、母は美代(高野氏)・叔父高野玄斎の養子
 ・・・高島秋帆(たかしま しゅうはん・1798(寛政十年八月十五日)〜1866(慶応二年一月十四日)・江戸後期の砲術家・幼名は糾之丞(タダノジョウ)・名は茂敦・通称は四郎太夫・字は子厚・舜臣(きみおみ)、号は秋帆・長崎生れ・長崎取締役(町年寄)四郎兵衛の子・1808(文化五年8月)フェートン号事件などの影響を受けた・長崎町年寄兼鉄砲方・オランダ人について兵学・砲術を学び、鉄砲・大砲の購入・鋳造に努めた・アヘン戦争に刺激され、洋式砲術採用を幕府に建議・江川英竜(ひでたつ・太郎左衛門)の支持を得て、1841(天保十二年五月5)松月院を本陣として武州徳丸原(高島平)で弟子約百人とともに洋式砲術の調練で大砲射撃を実演・一時、鳥居耀蔵の讒言で幽閉・1853(嘉永六年六月)ペリー来航を機に8月許されて召し出される・1856(安政三年)講武所砲術指南役のち武具奉行格・訳書『高島流砲術伝書』
 ・・・高島嘉右衛門(多寡等・多可等)=1832年12月24日(天保三年十一月三日)〜1914年(大正三年)十月十六日)・横浜の実業家で易断家・父は遠州屋嘉衛門(本姓は薬師寺)。母は「くに」。姉二人。弟に高島徳右衛門・幼名は清三郎・後に嘉衛門、嘉右衛門に改名・号は呑象(どんしょう)。吉田勘兵衛、苅部康則らとともに横浜三名士
 ・・・高城胤則(たかぎたねのり・元亀二年(1571年)〜慶長八年八月十七日(1603年9月22日)・戦国時代からに安土桃山時代にかけての武将・千葉氏・北条氏の家臣・下総国小金城(千葉県松戸市)主。父は高城胤辰、妻は柴田勝家の養女(実父は中村文荷斎)・幼名は龍千世・通称は源次郎・・・高城=タカジョウ=鷹匠・・・
 ・・・高崎 五六(たかさき ごろく(いつむ)・1836年四月四日(天保七年二月十九日)〜1896年(明治二十九年)五月六日)・薩摩藩士、明治時代の官僚・爵位は男爵。仮名を猪太郎、兵部・諱を友愛・高崎正風は従兄弟・高崎善兵衛友道の長男・安政末期、水戸藩有志とともに井伊直弼襲撃を策謀し、関鉄之助とともに入京。朝廷に奏聞しようとしたが失敗する。1862年(文久二年)、藩命により上京。藩士有馬新七らが島津久光の命に背いて伏見寺田屋に集会するのを察知し、久光に急告して騒擾を事前に食い止めた。元治元年、長州征伐が起こり、西郷隆盛と協議のうえ朝稲兵助と変名して長州に入り、藩要人と議論を交わし、さらには長州藩謝罪恭順のために周旋した。維新後、大久保利通に用いられて、元老院議官、東京府知事等を任じられた。1887年(明治二十年)、男爵位を授けられ、1896年(明治二十九年)、病没、享年61。亡くなった日を五月七日とする文献もある。子に、長男高崎安彦、三男弓彦がいる。安彦の跡は、弓彦、秀博と続く
 ・・・高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年明治26年)8月9日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の海軍軍人で最終階級は海軍少将
 ・・・高木仙右衛門(たかぎ せんえもん、文政7年2月12日(1824年3月12日) - 明治32年( 1899年)4月13日)は江戸時代末期〜明治時代における浦上キリシタンの中心人物
 ・・・高木乗(清水橘村(しみず きっそん)・1879年5月19日(明治12年)〜1965年10月2日(昭和四十)・詩人・本名は孝教本名は清水孝教、祖父は徳川慶喜に仕えた砲術師範という家柄・父が東茨郡橘村に開拓者・学歴は独学・ジャーナリズムの道に入り、詩を発表、刀剣研究家、後には四柱推命学を修める。三男の「清水康教(やすのり)=二代目高木乗」・1910年(明治四十三年)、東京朝日新聞に「家庭訓話 今日の歴史」連載、後に雪月花の三冊として弘道館より発刊、明治天皇、皇太子殿下に献上する
 ・・・高木 市之助(1888年2月5日(明治二十一)〜1974年12月23日(昭和49年)・国文学者・京城帝国大学の初代国文科教授
 ・・・高木卓(1907年1月18日(明治四十)〜1974年12月28日(昭和四十九年)・小説家・ドイツ文学者・本名は安藤煕(ひろし)・1930(昭和五年)東京大学独文科卒業、東京大学教養学部教授・母の幸(コウ)は幸田露伴(伯父)の実妹安藤幸(音楽家)
 ・・・高木貞治(1875年4月21日(明治八年)〜1960年2月28日(昭和三十五)・数学者・岐阜県生れ・東京大学卒業
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 ・・・高倉天皇(1161(永暦二年九月三日)〜1181(治承五年一月十四日)・第八十代天皇・名は憲仁(のりひと)・後白河天皇の第七皇子、母は平滋子(しげこ・建春門院)・守仁(もりひと)皇子(二条天皇)の異母弟・1166年、六条天皇(二条天皇の皇子)の皇太子となる。六条天皇元服しないまま譲位を受ける・1168(仁安三年)八歳で即位・1180(治承四年二月)退位し、四月安徳天皇が即位・父後白河法皇と外祖父平清盛の反目の間にあって、天皇は虚位に過ぎなかった・即位1168(仁安三年三月20日)、退位1180(治承四年二月二十一日)
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 ・・・高杉 晋作(1839(天保十0)〜1867(慶応三年四月十四日)・尊皇攘夷・討幕の志士・名は春風、通称は晋作、東一、和助・字は暢夫(チョウフ)、号は東行(トウギョウ)・変名は谷梅之助・谷潜蔵。長州藩士・十九歳で松下村塾に入り久坂玄瑞とともに吉田松陰門下の双璧・藩校明倫館都講・1862(文久二年)藩命で上海に渡り海外状況を視察し、帰国後尊攘運動に参加・1863(文久九年)長州藩の外国船の下関砲撃直後、武備強化のため奇兵隊を編制。翌年、英・仏・米・蘭の四国連合艦隊の攻撃(下関事件)では敗れて筑前に亡命・藩の正使として和議を結ぶ・同年、幕府の長州征伐に降伏謝罪した藩当局に対し挙兵して保守派(恭順党)を倒す。1865年、藩の主導権を握り藩内を改革し藩論を討幕に向かわせる・1866(慶応二年)第二次長州征伐で騎兵隊をひきいて九州小倉の幕府軍を撃退。しかし肺を病み、翌年下関で死去・・・
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 清王朝は「梅」としたらしいのだが・・・ナゼか?・・・前文も以下もブログ記事に記されていたものの抜粋参考だが、「中華民国になっても、法令により梅を国花として制定したときもあったらしい(1929年)。これは梅の花が冬の寒さに耐えて咲くことから、精神的な改革を狙ったものであった」・・・「中華人民共和国時代はとくに国花は法で決められていなかった。1994年の世論調査で、牡丹が国民全体の65%で一番多かったことから、「牡丹を国花」にして、蘭(春)・蓮(夏)・菊(秋)・梅(冬)をそれぞれ四季の名花としたが、公式に国花に指定されたものではないらしい。中国の国花といえば、ボタンとウメと一般にいわれている」と、あった。
 ・・・「牡丹」が中国の「国花」であるならば、「清王朝」以外は「中国歴代王朝の象徴の花」であった。「牡丹肉」とは「猪の肉(ジク)」である。すると中国の象徴は日本から視て「猪→亥→北西→乾」である。「現存古事記」で「日本建命(倭男具那)」が対峙した「白猪神→冬牡丹」とは「中国」・・・韓国の国花は「槿(むくげ)」、北鮮は「大山蓮華」であるらしいから・・・白猪=「冬牡丹=中国」→楊貴妃→牡丹肉(ジク→字句)・・・「牡(おす)=牛+十+一」・・・「牡丹」とは「ウシの土=十+一(ハジメを拾う位地・位置・亥知)、契丹(チャイナ・キャシィ)」・・・立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿が百合の花・・・「立てば芍薬、居(とゝ)すりや牡丹、歩行(あるく)姿は百合の花」は『譬喩尽(たとえづくし) 』(天明〜寛政年間(1781〜1801年)・寛政末成)」、「立てば芍薬(草)、座れば牡丹(木)」は『世俗俚諺集』(幕末〜明治初期成)」、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿がゆりの花」は『諺臍の宿替(ことわざへそのやどがえ)」・・・これは日本幕末の「日本のコトバ」が初発であるらしい・・・また芍薬の説明には「Paeonia(パエオニア、ペオニア)」と呼ばれギリシャ神話の「医神(Paeon)」の名に由来する。「Paeon」がオリンポス山から取ってきた「芍薬シャクヤク)の根」によって黄泉(よみ)の国王「プルートー」の傷を治した。芍薬は「死者国の王の病」も治す万能薬薬草。とあった。「はえおにあ」ならば「生え鬼蛙」であろう・・・?
 「清王朝女真満州)」の「国花」が「梅」なら「冬の寒さに耐えて咲く、精神的な改革」が求められていたのも納得である、のだが・・・
 台湾は「梅が国花」で、そのブログ説明には・・・梅の「五つの花弁」は五権(行政・立法・司法・考試・監察)の象徴であり、さらにそれぞれの花弁についた三つの雄しべは「三民主義(民族・民権・民生)」を象徴に譬えているらしい。また台湾を代表する歌は「梅花(メイファ)」とあった。「梅(うめ・バイ)」が「メイ」との発音である。
 「遣唐使が持ち帰った烏梅(ウバイ). 万葉時代に中国から、漢方薬として渡来。 日本には樹木より先に、生薬としての烏梅(中国語では「wu mei」ウ メイ)が漢方薬として渡来した。 このため、後から入ってきた樹木も「ウメ」 と呼ばれるようになったという説もある」らしい・・・他の説明にも、中国語の「梅」( マイあるいはメイ)の転という説で、伝来当時の日本人は、鼻音の前に軽い鼻音を重ねていた(現在も東北方言などにその名残りがある)ため、meを/mme/(ンメ)のように発音・・・「梅=mei=メイ=うめ」である。
 で、「梅」は寒さに耐えて咲く「冬の花の代表」と云う事である。
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 梅里の号名・・・コレって「梅=木毎の理屈」・・・?
 徳川光圀
 水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母(久子)は側室・谷氏。
 藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、
 快風丸建造による
 蝦夷地(後の石狩国)の探検
 後に『大日本史』と呼ばれる修史事業
 古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った
 生年月日
 1628年・・・壱千六百弐拾八→壱仟陸佰(陌)弐拾(足)捌
 7月・・・・・・七・・・・・・→漆
 11日・・・・・壱拾壱・・・・→壱拾(足)壱
 死没
 1701年・・・壱千七百壱・・→壱仟漆佰(陌)
 1月・・・・・・壱・・・・・・→壱
 14日・・・・・壱拾四・・・・→壱拾(足)肆

 ・・・あやしいジィジィである・・・
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 津田 梅子
 1864年12月31日
 (元治元年十二月三日)〜
 1929年
 (昭和四年八月十六日)
 初名はうめ(「 むめ」と書いた)
 1092年(明治三十五年)に
 漢字表記に改めて
 「梅子」とした
 1900年(明治三十三年)
 従来の家政学が中心だった
 官制の良妻賢母育成女子高等教育制度に
 疑問を抱いき
 女子英学塾を現在の
 千代田区に設立
 1933年
 津田英学塾に、
 1943年
 津田塾専門学校に改称
 1949年
 津田塾大学設立

 1905年(明治三十八年)
 女子の学校で
 初めての
 英語科教員
 無試験検定取り扱い
 許可を受ける
 1969年
 国際関係論という分野を、
 日本の大学として初めて
 国際関係学科として創設
 現在も少人数教育を重視
 入試の難易度等から
 「女東大」(日本私立大学協会発行「教育学術新聞」H21.8第2370号出典)の
 異名をとっていた
 学生の主体性を重んじて
 校歌、校章、校旗を敢えて
 持たない
 津田梅子以来の津田塾の伝統
 「自ら学び、考え、行動せよ」という
 建学の精神
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 ・・・問題にしたかったのは「梅(うめ・バイ)」の漢字であった。
 「ウメ=うめ=生め・産め・膿め・埋め・倦め・倦め・芋芽・菟芽・右眼・宇目・兔目・兎目・鵜目・烏目・胡目」
 ・・・「梅のカンジ」を分解したら「木+毎=モク(き)のマイ(ごと)・モク(き)のバイ」で、大修館蛙漢和辞典490ページ「毎」の造りの「毋」は「母」旧字体である、と記載されている。発音は「毎(マイ・バイ・メ)」で、「母が頭に簪(かんざし)つけた形。一説に形声。母が音符」と、ある。が、訓読みは
 「つねに(常に)・ごとに・そのつど・しばしば・あたる(当る)・しきりに(仕切りに)・いえども(雖も)・しげる(茂る)・むさぼる(貪る)・おかす(犯す)・くらい(暗い)・おろか(愚か)」とあり、例文に
 「毎事問」、「毎懐靡及」、「毎与臣論此(些?)事」とある。
 更に「木」を分解したら「十+八」で
 「毎」は「阿毎王朝」の「毎」である。「毎(バイ)」の同音は「陪臣(バイシン)・陪審(バイシン)」の「弐倍(ニバイ)、参倍(サンバイ)、倍数(バイスウ)」の「倍」である。氏姓の「アベ」は「阿部・阿倍・安倍・安部・安陪」で、「部(ベ・ブ)」は「一部、二部、部数、部分、部民(べたみ)」の「部」である。
 「ノ一+毋」、「ノ一+毌=貫」、「ノ一+母」。
 「梅」=「木+毎」→「十八(おはこ)」の「毎(ごと・マイ・バイ)」・・・「ノ一(かみさし)」の「毋(ない・なかれ・ブ・ム)」・「毌(つらぬく・カン)=貫」・「母(はは・ボ・ム)」である。
 スナワチ、「隋書の阿毎王朝」の「毎」とは、「現存古事記」に記されている「髪(櫛)挿しの母=櫛那田姫」であり、「神(上)を指し貫く=神代上巻」であり、「加味(アジを加える・カミ=紙・守・噛・咬・香美・可美→華美→化尾=尾張→化備=吉備)、注視、名臥例」である。
 で、「十八番=おはこ」だが・・・

 「江戸中期の歌舞伎から出た言葉で、本来の読みは「じゅうはちばん」。 七代目市川団十郎が、市川家代々の芸である十八種類を選定した『歌舞伎十八番(歌舞妓狂言組十八番)』を
 天保三年(1832年)の三月に発表したことによる」
 ・・・上の説明は「台本」を「箱の中に大切にしまった(保管した)」、「箱の上書きが鑑定済みと記されたモノ(箱書きのある箱)にしまった(保管した)」から「おはこ」になった。
 「箱の中に入れられたモノは本物の芸(芸術作品)であると認定された」という意味で、「おはこ」と言うようになった。
 ・・・ナルホド・・・
 「阿弥陀如来が仏になる修行をしている時に立てられた48種類の誓い(弥陀の48願)の十八番目が「念仏をする人達を必ず救済する」というものであり、これが他の諸仏の立てられた誓いより突出している(すべての生けとし生けるものすべてを救う)ことから」
 ・・・ナルホド、だが「48の中の18番目」は「おはこ」そのものの説明ではない。
  「武士の嗜む武芸の種類(刀、弓、組みなど)なが全部で十八種類(武芸十八般)から来ており、とっておきの一つではなく、十八種類全てにの「多才」の意味」
 ・・・なるほど、これもだが「18種類」は「おはこ」そのものの説明ではない。
 「十八番」と書いて「おはこ」と読ませた
 初出は、
 柳亭種彦
 文化十二年(1815年)〜天保二年(1831年)にかけて書いた
 『正本製』(しょうほんじたて)であるらしい・・・
 「おはこ」は・・・龍宮城に行って、帰ってきた浦島太郎の「玉手箱」だろうが、すると「十八番」は玉手箱の中にある。中から出てきたものは「白いケムリ・白煙→気体」が・・「白煙」でなければ「透明な匂い(香・薫・馨・カオリ)」だけだったカモ・・・コレが「十八番目→壱拾捌のツガイ」・・・十八=二×九=三×六・・・
 ・・・イヤァ〜ッ・・・「学問」には時間とカネがかかるが・・・
 今現在は「コンピュータ」の「情報のスゴサ」である・・・
 「知識・記憶、暗記」だけなら「学び方の問題」であるな・・・
 夜間の自習に「蛍雪の灯り」はいらないだろうが・・・
 だが「知識」が即、「日常生活」に役立つモノではない・・・
 「人間の生き方を学ぶ人」には
 「デンキ」は必要だ・・・
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