896日目・・・今現在、黄色の花びらで庭に咲き誇っているのは「ルドベキア(キク科)」と云う名前の花らしい・・・

http://sizukiyama.cocolog-nifty.com/photos/flower060723/img_3380.html

 「国の花」・・・「セイヨウオダマキ」はアメリカの「国花」らしく、前回、これを

 オダマキ属(オダマキぞく)は、
 キンポウゲ科の属の一つ。
 ラテン名の
 アキレギアや
 アクイレギア(Aquilegia)
 本属の
 植物の総称が
 オダマキ苧環
 苧環は元来は
 機織りの際に
 麻糸を巻いたモノ
 花の形からの連想である

 と、紹介したのだが・・・「オダマキ苧環)」=「機織りの際、麻糸を巻いたモノ」・・・である。多分、この示唆、暗示は「織田信長の巻=信長公記太田牛一著作)」であろう・・・
 興味のある方は
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/tenmon60/tenmon1.html
 のページに「ご渡来」ください。
 以下も
http://bochan.exblog.jp/1522627/
 から抜粋させてもらうと・・・勝手に申し訳ない・・・
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 ・・・「信長公記」は明治時代になって活字化されるまで、一般の人の目に触れることはまず無かった。
 それまで広く流布していたのは、小瀬甫庵(おぜほあん)が太田牛一の著作を踏まえてつくった「信長記」のほうであった。
 小瀬甫庵の「信長記」は太田牛一の「信長公記」の改悪版とも言える代物であったが早くから出回った為、未だに影響を及ぼしている。
 例えば桶狭間の戦いは上洛を目指す今川義元を信長が奇襲して討ち取ったものであるとか、長篠の戦で信長が3000挺の鉄砲を三段撃ちさせて、武田の騎馬隊を撃ち破ったとか言う怪しい「定説」はすべて小瀬甫庵の著作が元になっている。
 「太田牛一」の
 「信長公記」には
 そんなことは全く書いていないのである。
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 ・・・でした・・・
 ・・・「ムクゲ」は韓国の「国花」らしくブログ辞典には
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 ムクゲ木槿、別名:ハチス、Hibiscus syriacus; 英語: rose of Sharon)は
 アオイ科の落葉低木。
 木槿(もくきん)を音読みし、
 木槿(むくげ)、
 木槿花(もくきんか)と呼ばれるようになった。
 また、
 「類聚名義抄」には
 「木波知須(キハチス)」
 と記載されており、
 「木波知須(キハチス)」や、単に
 「波知須(ハチス)」とも呼ばれる。
 白楽天の詩の一節は「槿花一日自成栄」(槿花は一日で自から栄を成す; 仏法があっというまにひろがったことを指す)
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 とある。「尨毛(むくげ)」とは一般的には「花の名」よりも「動物の、長くふさふさと垂れた毛。むく。尨毛の犬」を連想させる・・・ボクが妄想をタケれば、

 「波知須(ハチス)」は
 「蜂須賀」家の名前である。
 「日吉丸=豊臣秀吉」の
 出世の糸口をつくった人物が
 「蜂須賀小六」で、
 「出会いは諸説あり、特に浪人時代の秀吉と矢矧川の橋(矢作橋)で会ったという逸話が有名であるが、当時の矢矧川はまだ架橋されておらず」

 とあり、家紋が「萬字紋=卍紋」である。「寺の地図の記号」として使用されている。他のブログ記事を抜粋すると・・・勝手に申し訳ないデス・・・
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 「原形は左マンジと右マンジがある。また先端の尖った鎌マンジもある。
 中国の
 則天武后がインドからきたこのシンボルを見て
 「なんのシルシか?」
 「総てが叶う、めでたい印です」
 「さらば以後、萬字(万字)と申せ」といった。
 こうして日本でも、万字の文字を用いるようになった。
 源氏系では、
 蜂須賀小六の蜂須賀氏をはじめ
 伊丹、
 小田切
 多田、
 朝日の諸氏。
 平家系では
 上坂、
 小野氏。
 藤原氏系では、
 津軽
 鳥居、
 朝比奈、
 万年の諸氏が使用している。
 他にも、小野氏系の
 岡部氏、
 服部氏系の
 服部氏などが用いている。 家紋の種類は

 右萬(万)字
 丸に隅立て萬(万)字
 三つ萬(万)字菱
 細六角に豆萬(万)字
 左萬(万)字
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 があるらしい。・・・太安「萬」侶・・・「現存・古事記・字源」は「萬字」ではあるな、ッ・・・辞典を調べだしたら、ヤスマロう暇もナイ・・・
 ・・・「撫子の花」は日本の「国花」ではないが「撫子(なでしこ)」は「源氏物語」にも登場する花らしいのだ・・・「高山右近」を研究しているブログがあったから、
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/topic1.html
 そこから抜粋させてもらうと・・・勝手に申し訳ない・・・
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 ・・・もう少し調べてみようと思って「新編国歌大観」(全20冊・角川書店)をあたることにしました。第一巻の「勅撰集編・索引」で「おろかなる」を調べてみますと、23もあります。そして、「おろかなるおいのなみたの」と続いている歌が、 一つだ け示されているではありませんか! もしかして!! 「続千載和歌集」の1700番目の歌だとあります。
 「新編国歌大観」第一巻の「勅撰集編・歌集」を取り出して、「続千載和歌集」の所を開けました。 巻一から始まって、どんどん進んで「巻第十六」〝雑歌上〟の1700番と番号が記されている歌。
 さあ、どうでしょう? 作者は、権大納言経継。

 おろかなる
 老の涙の
 露けきは
 夕日の影の山と
 なでしこ

 ありました! 夢のようです!! 「老の涙のうすければ」ではありませんが、この歌が「本歌」であることは、まちがいないことでしょう。
 郄山右近と親戚関係にあった越前屋・片岡家(片岡休庵の妻が、郄山南坊の姪)の文書の中に記録されている、郄山南坊が色紙に書き残した二首の「なでしこの歌」は、ずっと〝右近が詠んだ二首の和歌〟(オリジナルの)と思っていましたが、ほぼそのままの本歌があったのでした。

● おろかなる老の涙の露けきは
夕日のかげの山となでしこ
権大納言経継・続千載和歌集

● 今も見てなかなか袖を朽(くた)すかな
垣ほ荒れにし大和なでしこ
(葵の上の母・大宮の返歌・源氏物語「葵」)

● おろかなる老の涙のうすければ
夕日のかげの大和なでしこ

○ 草枯れの籬に残るなでしこを
わかれし秋のかたみとぞ見る
光源氏源氏物語「葵」)

○ 草枯れの籬に残るなでしこを
わかれし秋のかたみとも見よ

 右近が、「太平記」などの戦記物だけではなくて、「源氏物語」や「続千載和歌集」などの王朝物語や和歌の本も、よく読んでいたことがわかります。(現代のように容易に手にすることはできませんでしたよ。)
 それらの中から、「なでしこの歌」を二首選んで、自らの心境をこめてうたい直し、色紙に書き残したわけですが、右近は
 「唐(から)なでしこ」(石竹)
 ではなく、
 「大和なでしこ ・ かわらなでしこ」
 をこよなく愛していたようですよネ。
 その「なでしこ」を詠った歌を本歌として、一部を自らの心境に合わせて変えて、片岡家の人たちへの別れの歌として、色紙に書き残していったのではないでしょうか。
 右近が、この色紙を残したのは、金沢を追われた年・1614年(慶長19)だと思われますが、片岡休庵(越前屋二代孫兵衛)は、2年前の1612年(慶長17)に亡くなっており、三代目の休嘉(妻は、内藤如安の娘)の代になっています。
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 このブログ記事は、調べていく人のプロセスが、気持の「高揚(昂揚)感」、「躍動(ヤクドウ)感」として、表現されている・・・「ミステリー (mystery) の謎」が自分自身の「推理・推測・仮定・憶測」の「仮説の答」と重なり、ワカった時の興奮である・・・
 「なでしこ(撫子)の花(華)」・「ナデシコ(名出史拠)のカ(化)」、「ブシ(武士)、之、家」・・・
 ・・・歴史上で知られている「人物の名前」・・・疑問と妄想が湧いてくる・・・「高い山」の「右の近く」って・・・「コウサン(公算・興産・鉱産・恒産・鉱産・高三)」、「公纂」の「ウコン(有今・得根・胡混)」・・・
 山上憶良・・・「纂の常」の「御蔵」か「小倉」か・・・
 柿本人麻呂・・・「書き本(化基本)」の「尽(認)の眞慮」か・・・
 大伴家持・・・「萬(万)葉集」の「大判の加治(加地・加字・可知)」か・・・
 太安萬侶・・・「代案」の「萬の慮」か・・・
 紀貫之・・・・「日本書紀」を「貫く歴史」か・・・
 虎関師錬(練)・・・「五山文学」の「虎の関」か・・・
 興亡は常にある・・・攻防も、記からオチル・・・名選手(て・テ→「氐・弖・出」・しゅ・シュ→「主・種・首・諏」)もキ(伎→金を)からオチル(おとす→音素)・・・
 モウソウでした・・・