2084日目・・・ボクの現実上の立場は「プチブル生活の枠内」だが、「人間として許せる範囲」は「プチブル意識→ブルになりたい願望意識」ではない・・・?・・・いや、「プチブル(小商人=こあきんど・小役人)意識」の枠内だろう・・・「コロシアム(coliseum)」の「奴隷剣闘士」と「ローマ市民観客」の「立場」は「同時限」では異なるが、「意識」では「同次元」である・・・現実的、実際的には奴隷からの転落から這い上がろうとする者と、奈落への転落に落ちないように市民権に「しがみついて=シガミつく→(すがみつく・すがる

 「佐波遅比売命(サハジヒメ)=沙本毘売命(サホビメ命)=狹穗姬(サホヒメ)」とはダレか?・・・
ーーーーー
 垂仁天皇=伊久米伊理毘古伊佐知命
     (イクメイリビコイサチのミコト)
 が
 「彦坐王(ひこいますのみこ)=日子坐王
  開化天皇・・・・・・開化天皇の皇子の彦坐命
         「文明開化」は明治維新
  と
  丸邇臣(和珥臣)祖
  の
  日子国意祁都命
  の妹の
  意祁都比売命
 (おけつひめのみこと)
  との間に生まれた
  第三皇子」
 ↓↑
 の子
 「沙本毘古命・・・日下部連祖、甲斐国造の祖
 (サホビコのミコト)
 の妹の
 「佐波遅比売命
 (サハジヒメのミコト)
  沙本 毘売 命
 (サホ ビメの命)
  狹穗 姬
 (サホ ヒメ)」・・・同一人物名
 を娶って
 産んだ子が
 「唖(おし・ア)」
 の
 「品牟都和気 命
 (ホムツワケのミコト)・・・本通(椄)訳名
  譽津別命
 (ホムツワケノミコト)
  品津別皇子・・・・・・・尾張国風土記逸文
 (ホンムワケのミコ)
  本牟智和気 命
 (ホムチワケのミコト)」・・・同一人物名
 で、後に
 「安芸(アギ)」・・・・「安芸=蛙藝?」
             「芸(わざ・ゲイ)」か?、
             「藝(うえる・ウン)」か?
 と声を出して叫んだ・・・木戸の曙の立つ
             大和師木登美豊朝倉曙立王
             長州藩
             桂小五郎木戸孝允)?
 ↓↑
 垂仁天皇
 が
  旦 波 比古多々須美知 宇斯王
 (タニハのヒコタタスミチのウシオウ)
 の女(娘)、
  氷羽州比売 命
 (ヒバスヒメのミコト)
 を娶って
 産んだ子が
  印色   入 日子 命
 (イニシキのイリヒコのミコト)、
  大帯日子淤斯呂和気命
 (オホタラシヒコオシロワケ=景行天皇
  大 中 津日子 命
 (オホナカツヒコのミコト)
  倭  比売 命
 (ヤマトヒメのミコト)
  若 木入 日子 命
 (ワカキイリヒコのミコト)」
 ↓↑
 「佐波遅比売命=沙本毘売命=狹穗姬」
 である・・・
  ↓↑
  垂仁天皇
  伊久米伊理毘古伊佐知 命
 (イクメイリビコイサチのミコト)、
  師木の玉 垣  宮
 (シキのタマガキのミヤ)
 に坐して天下治らしめしき。
 この天皇
  沙本毘古 命
 (サホビコのミコト)
 の妹、
  佐波遅比売 命
 (サハヂヒメのミコト)
 を娶して生みましし御子、
  品牟都和気 命
 (ホムツワケのミコト)。一柱。
 また
  旦波  比古多々須 美知 宇斯 王
 (タニハのヒコタタス、ミチのウシのミコ)
 の女、
  氷羽州比売 命
 (ヒバスヒメのミコト)
 を娶して生みましし御子、
  印色   入 日子 命
 (イニシキのイリヒコのミコト)、
 次に
  大帯   日子淤斯呂和気 命
 (オホタラシヒコオシロワケのミコト)、
 次に
  大 中津 日子 命
 (オホナカツヒコのミコト)、
 次に
  倭  比売 命
 (ヤマトヒメのミコト)、
 次に
  若 木入 日子 命
 (ワカキイリヒコのミコト)。五柱。
 またその
  氷羽州比売 命
 (ヒバスヒメのミコト)
 の弟、
  沼羽田之入 毘売 命・・・ナゼ、「之(の・シ)」?
 (ヌバタのイリビメのミコト)
 を娶して生みましし御子、
  沼帯  別  命
 (ヌタラシワケのミコト)、
 次に
  伊賀帯  日子 命
 (イガタラシヒコのミコト)。二柱。
 ・・・「ミコト=みこと=見事=視語訳。似註」
 ・・・「二柱=ふたばしら=双葉史等(拉・覶)」
 ↓↑
 垂仁天皇
 即位二年の
 冬十月
 纒向(マキムク)に都=珠城宮(タマキノミヤ)
 任那人の
 蘇那曷叱智(ソナカシチ)
 が
 「国に帰りたい」・・・
 「赤絹(アカキヌ)一百匹(ヒトモモマキ)を持たせて
  任那(ミマナ)の王(コキシ)に派遣。
  新羅人が道中で掠奪。
  二つの国(倭と新羅)の恨みの初まり」
 ・・・「みまな(任那)→見眞名(観魚・味魚)=視漢字」・・・
ーーーーー
 ・・・アマリにも「倭と新羅の恨み執拗」であるが・・・「国家間の戦争」は「国家間の支配階級の怨恨」である・・・盗んだ、盗まれた、殺した、殺されたが原因・・・「殺す」とは命を盗むコトである・・・「支配階級の怨恨」の「卵(たまご・ラン)と鶏(にわとり・ケイ)」のトバッチリをダレが被ったのか・・・兎に角、生物の始まりは「単細胞」である・・・
 ・・・「征韓論の時代」は「明治」である・・・そして、「豊臣秀吉朝鮮出兵(文禄元年=1592年〜1593年・慶長=慶長二年(1597年〜1598年)」・・・「豊臣秀吉の死」と「西郷隆盛の死(西郷吉之助・1827年12月7日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で生まれ、1877年・明治十年九月二十四日に自刃、切腹)」・・・
 「滋賀・志賀・シガ」みつく
  ↓↑
 「縋(すが)る・取り縋る・寄り縋る」
 「縋(すが)り付く」・・・・・数臥留つく
  ↓↑
 「小子部蜾蠃(チイサコベのスガル)」
  ↓↑
 「雄略天皇
 (日本書紀雄略天皇条・日本霊異記
  の臣下・侍臣・家来」
 「蜾蠃=すがる」=ジガバチ(じが蜂の古名)=似我蜂
         =細腰蜂(日本ではコシボソバチ)
         =「泥壺(胡)蜂」
         =鹿の古名
         
 「蜾蠃は螟蛉(めいれい)で
  桑虫の子をみずからの子として養う(詩経
  蚕(こ・かいこ・サン)を集めよとの命をうけ
  誤って
  子(こ・ね・シ)を集め、養い
  小子部(ちいさこべ)の連(むらじ)の姓を賜う
  また、
  三諸岳(みもろのおか)の神を捕らえよとの命で
  大蛇を捕らえ、
  小子部(ちいさこべ)の雷(いかずち)と改名
  (雄略天皇条)
  ↓↑
  ハチ(蜂)より
  ヤドリバチの類は
  害虫防除に利用
  人工的に増殖され、放飼
  ↓↑ 
  民俗語彙
  ハチは
  腰部が細いのが特色
  古くはスガルと呼んで
  腰の細い容姿のよい女性を形容するコトバ
  東北地方各地の方言・・・
  九州地方の方言では「すがり」は「蜂(はち・ホウ)」・・・
  蜾蠃乙女(すがる-をとめ)=須軽娘子・・・津軽乙女・・・?
  ↓↑
 「掻(か)い付く」・・・・・・甲斐つく・歌意通句
          ・・・カキ通句・・・?
          掻く=イッチング(itching)
             痒い・掻く(scratch)
itch・itchy=痒い
             itch(名詞)=かゆみ
             かゆい(動詞)
             itchy(形容詞)
             疥癬(かいせん)=scabies=皮癬(ひぜん)
             疥癬虫の寄生によっておこる伝染性皮膚病
             肥前の虫?=疥癬虫(Sarcoptes scabiei)
             肥前佐賀県北部、唐津市西部、東松浦半島西部
             佐賀の乱=1874年(明治七年)2月
                 「江藤新平島義勇」等の叛乱
ーーーーー
 佐和山城から、マタ、飛んでしまった・・・
 ↓↑
 石田三成
 ↓↑
 近江国
 坂田郡
 石田村
 (滋賀県
  長浜市
  石田町)で誕生
 ↓↑
 生誕=永禄三年(1560年)
 死没=慶長五年十月一日(1600年11月6日)
 改名=佐吉(幼名)、三也、三成
 別名=石田治部少
 戒名=江東院正軸因公大禅定門
 墓所大徳寺三玄院、
    高野山奥の院
    滋賀県
    彦根市
    佐和山遊園内・・・・・佐和知比売・
 官位=従五位下・治部少輔
 主君=豊臣秀吉→秀頼
 氏族=石田氏
 父=石田正継
 母=岩田氏(瑞岳院)
 兄弟=正澄、三成、福原長堯正室、熊谷直盛正室
 妻=正室皎月院(宇多頼忠娘)
 子=重家、重成、
   山田隼人正室
   岡重政室、
   荘厳院(三女。
       津軽信枚室)
       ↓↑
 しがむ→すがる→つがる・・・・椄雅留→素臥留→史臥務
 ↓↑
 しがむ=噛む・噛み潰す・・・・ひがむ=僻む?
 ↓↑
 天正二年(1574年・天正五年、1577年?)頃
 羽柴秀吉織田信長に仕え、
 近江長浜城主となった頃
 父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官
 自身は小姓
 天正十年(1582年)六月
 本能寺の変
 天正十一年(1583年)
 賤ヶ岳の戦い
 先駈衆として一番槍の功名
 天正十二年(1584年)
 小牧・長久手の戦いに従軍
 近江国
 蒲生郡
 検地奉行
 天正十三年(1585年)七月十一日
 秀吉の関白就任
 従五位下治部少輔に叙任
 秀吉から
 近江国
 水口四万石の城主・・・?
 天正十四年(1586年)一月
 島清興(左近)を知行半分を与えて召し抱えた
 越後国上杉景勝が秀吉に臣従を誓う斡旋
 堺奉行
 天正十五年(1587年)
 九州平定
 後方の兵糧・武具などの輜重を担当
 九州平定後、
 博多奉行
 軍監の
 黒田孝高らと共に
 博多町割り、復興に従事
 天正十六年(1588年)
 薩摩国島津義久の秀吉への謁見を斡旋
 天正十七年(1589年)
 美濃国検地
 天正十八年(1590年)
 小田原征伐に参陣
 後北条氏の支城の
 館林城忍城攻撃
 忍城攻めでは元荒川の引き込む水攻め
 忍城では小田原開城後の七月初旬まで戦闘
 常陸国佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋
 奥州仕置後の
 奥州における
 検地奉行を務めた
 文禄元年(1592年)
 文禄の役
 朝鮮へ渡海
 増田長盛
 大谷吉継
 と共に漢城に駐留
 朝鮮出兵の総奉行
 文禄二年(1593年)
 碧蹄館の戦い
 幸州山城の戦い
 参戦
 明軍の講和使、
 謝用梓、
 徐一貫を伴って
 肥前名護屋に帰還
 明との講和交渉
 福島正則黒田長政
 武断派の反発を招く
 文禄三年(1594年)
 島津氏・佐竹氏の領国を奉行検地
 文禄四年(1595年)
 秀吉の甥
 豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問
 秀次の旧領のうち、
 近江7万石が三成の代官地になる
 近江
 佐和山19万4,000石の所領を与えられた
 慶長元年(1596年)
 佐和山領内に
 十三ヶ条掟書、
 九ヶ条掟書
 明の講和使節を接待
 京都奉行
 キリシタン弾圧
 慶長二年(1597年)
 慶長の役
 国内で後方支援
 蔚山城の戦いの際に
 在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案
 提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収処分
 現地から状況を報告した
 軍目付は三成の縁戚である
 福原長堯で、
 加藤清正黒田長政蜂須賀家政らは処分
 慶長三年(1598年)
 筑後国筑前国の蔵入地の代官に任命されて
 名島城を与えられた
 慶長四年(1599年)
 朝鮮攻勢で、
 福島正則増田長盛
 と共に出征軍の大将となることが決定していたが
 慶長三年(1598年)八月
 秀吉が死没
 戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力
 ↓↑ 
 豊臣氏家督
 豊臣秀頼が継ぐ
 慶長三年(1598年)
 八月十九日
 家康暗殺を計画
 八月二十八日
 五大老
 毛利輝元浅野長政
 三成を含む四奉行が起請文
 徒党を組むことを禁じる遺命に反した行為
 慶長四年(1599年)一月
 三成は家康の無断婚姻を
 「文禄四年(1595年)に制定した
  無許可縁組禁止の法に違反する」
 として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣
 家康は、
 二月二日に
 利家・三成らと誓紙を交わして和睦
 閏三月三日
 大老前田利家が病死
 直後に
 武断派
 加藤清正福島正則黒田長政
 細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明
 の七将が、
 三成の大坂屋敷を襲撃(石田三成襲撃事件)
 三成は事前に
 佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出
 伏見城内に逃避
 七将と三成は伏見で睨みあい状況
 家康により和談が成立
 三成は五奉行からの退隠を承諾
 閏三月十日
 三成は家康の次男
 結城秀康に守られて、
 佐和山城に帰城
 ↓↑ 
 関ヶ原
 ↓↑
 慶長五年(1600年)七月
 家康は諸大名を従えて会津征伐
 七月十二日
 兄・正澄を奉行として
 近江国愛知川に関所を設置
 家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、
 鍋島勝茂
 前田茂勝
 らの東下を阻止し、自陣営(西軍)に与させた
 七月十三日
 三成は諸大名の妻子を人質として
 大坂城内に入れるため軍勢を送り込む
 加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出
 細川忠興正室
 玉子には人質となることを拒絶
 屋敷に火を放って死
 人質作戦は中止
 七月十七日
 毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城
 前田玄以増田長盛長束正家
 の三奉行連署からなる
 家康の罪状十三か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布
 七月十八日
 西軍は
 鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めた
 (伏見城の戦い)
 鳥居の配下の
 甲賀衆の家族を人質にとって脅迫
 八月一日
 甲賀衆は城門を内側から開け、伏見城陥落
 八月二日
 伏見城陥落を
 毛利輝元
 宇喜多秀家
 自と連署し全国公布
 14日夕刻
 大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、
 関ヶ原で野戦を挑む
 9月15日
 東軍と西軍による
 関ヶ原の戦い開始
 石田隊は6,900人であったが、
 黒田長政加藤嘉明細川忠興田中吉政
 ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、
 高所という地の利と
 島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦
 小早川秀秋
 脇坂安治
 らの裏切りにより
 西軍は総崩れ
 三成は戦場から伊吹山に逃れ
 伊吹山の東にある
 相川山を越えて
 春日村に逃れ
 その後、
 春日村から新穂峠を迂回して
 姉川に出、
 曲谷を出て
 七廻り峠から草野谷に入った
 小谷山の谷口から高時川の上流に出、
 古橋に逃れた
 九月二十一日
 田中吉政の追捕隊に捕縛
 九月十八日
 東軍の攻撃で
 三成の居城・佐和山城は落城
 三成の父・正継を初めとする石田一族は討死
 九月二十二日
 大津城に護送
 城の門前で生き曝しにされ
 その後家康と会見
 九月二十七日
 大坂に護送
 九月二十八日
 小西行長安国寺恵瓊
 らと共に大坂・堺を引き回され
 9月29日
 京都に護送
 奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた
 十月一日
 六条河原で斬首
 享年四十一
 辞世
 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
  ともに消えゆく 我が身なりけり」
 首は三条河原に晒された後、
 生前親交のあった
 春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ
 京都大徳寺
 三玄院に葬られた・・・
 ↓↑
 家紋は定かではなく、
 「大一大万大吉
 「大吉大一大万」
 石田氏としては
 九曜紋や桔梗紋の使用
 「大一大万大吉」というのは
 「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば
  太平の世が訪れる」
 という意味・・・
 ↓↑
 ・・・近江国にシガミツク、ユメのマタゆめ・・・カキくわぬ、「従五位下・治部少輔」・・・「重語彙化・字部証補」・・・
 砂山に埋もれた日本刀の「錆」の「ラスト(last)」の「ラスト(rust)」・・・
 「身から出た錆」って、「サンカ=酸化・惨禍・讃歌」、「産科・参加・山河」・・・
 Having made one's bed, one must lie on it.
 You'll just have to stew in your own juice.
 You've only yourself to thank for this mess.
 ・・・?・・・
 錆色=reddish brown
 錆止め=rust prevention
 錆止め剤=rust preventive,
      anti-rust paint
 ・・・ペンキ塗り、漆塗り・・・ペイン-ト・・・シンナー(thinner)で目眩がするし、ウルシ()で皮膚がカブレル・・・
  lacquer=japan
  Japanese lacquer
  Japanese sumac [lacquer] tree
 漆でかぶれる
  be poisoned by lacquer
  get lacquer poisoning
 ・・・「マス(桝・枡・鱒・鮅)」にウルシ汁を塗るって・・・?・・・国会議員。都議会議員のダレかもであろう・・・骨董、絵画もメイワクなハナシではある・・・