2534日目・・・16世紀ころから・・・1500年代〜苗字の「大田」の漢字表記が「太田」に変化していった・・・ナゼ?「大(おほ・おお・ダイ)」が「太(ふとい・ぶとい・タイ)」に変化していったのか?・・・「大⇔太=タイ=他意・替・対・体・帯・台・鯛・tie(?)・・・」・・・「太閤=太閤下=摂政または関白の職を子弟に譲った人物・内覧(ナイラン⇔名意蘭=ないらん=内乱?)職に就き天皇に奉る文書などを先に見る役職」・・・タイコウ-ゲ(カ)?・・・

ーーーーー
 tie(?)
 …を(ひも=紐・綱などで)縛る・・・紐育=ニューヨーク
 …を(ひも=紐・綱などで)結ぶ
 …ゆわえる(with…)
 …をしっかりとくくる
 …人を縛りあげる
 …動物をつなぐ(up)
 …を縛りつける(down)
 …を(…に)つなぐ(to, onto…)
 tie up a package
 小包をしっかりくくる
 be tied hand and foot
 tie 【自動】
 ゲーム・試合で同点になる、引き分ける
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  帯=おび・たらし・タイ・・・帯方郡
                獸帯=黄道帯
                  =zodiac(ゾウディアック)
                       象 出入鴉通区
       古事記・序文
         ↓↑
 「亦、於姓・・・また、姓に於いて名
    日・・・ジツ・ニチ・・・字通・似知・仁智?
       日(にちへん・にち)・曰(ひらび)
       ニチ・ジツ
       か・ひ・ひる・あき・はる
    下・・・ゲ・カ・・・・・解-化・外-科・乂-卦?
       下=丅+丶=一+ト
       カ・ゲ
    した・しも・もと
    さげる・さがる
    くだる・くだす・くださる
    おろす・おりる
       位置・地位・価値
    年齢などが低い
    劣っている
    時間・順序・物事の流れの後の方
    高い所から低い所へ移動する
    ある者のした
    支配の範囲
    命令を出す
    手をくだす・物事を行う
    謂・・・・言う
    玖沙訶、・くさか
    於名・・・名に於いて
    帶・・・・タイ・おび
    字・・・・ジ・あざ 
    謂・・・・言う
    多羅斯、・たらし
    如此之類、・・・この類いのごとく
    隨本不改」・・・本に倭(したが)って・・・隨本=隨書?
              従(したが)って・・・臣従
              遵(したが)って・・・遵法
              隨(したが)って・・・隨本=隋書?
                もとづいて
 隨=阝(阜)+左+月+⻌
 隋=阝(阜)+左+月=したがう
   付き従う・寄り添う
   追う
   聞き入れる・言いなりになる
   成り行きにまかせる
   したがって・だから・それゆえ
   その都度
   部下・付き添い
   易の六十四卦の一
   物と自分との違いのかたちを表す
   隋道=随道=隨道
   随道=ズイドウ=瑞道=隋同⇔髄如何⇔真髄・心髄・神髄
   隧道=ズイドウ=地中に掘った墓室に通じる通路
      ズイドウ=瑞同
      ↓↑
      吉兆=瑞光・瑞祥・瑞兆・瑞鳥・嘉瑞・奇瑞・祥瑞
      瑞西(スイス)
      瑞典(スウェーデン)
      ↓↑
   久坂玄瑞(ゲンズイ)
   天保十一年(1840年)五月誕生日不明
   〜
   元治元年七月十九日(1864年8月20日
   幼名は秀三郎
   諱は通武
   字は「玄瑞」、「実甫」
   通称は誠、義助
     ↓↑
   高野 瑞皐(ズイコウ)=高野長英
   文化元年五月五日(1804年6月12日)
   〜
   嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)
    甲子(壬・ ・癸)⇔庚戌(辛・丁・戊)
   庚午(丙・ ・丁)⇔丁亥(戊・甲・壬)
   癸巳(戊・庚・丙)⇔戊子(壬・ ・癸)
     午未=空亡
   医者・蘭学者
   通称は悦三郎
   諱は譲(ゆずる)
   号は瑞皐(ズイコウ)
    皐=白+=+十+=
   コウ(カウ)
   さわ。岸辺
   「九皐」
   陰暦の五月
   さつき=皐月(コウゲツ)=早苗月・・・
       五月蝿(蠅)い=うるさい・煩い
   さつきつつじ=皐月躑躅・・・躑躅(テキチャク)?
   「羊躑躅(ヨウテキチャク)」
   「羊がその葉を食べると躑躅(テキチャク)して死ぬ
    それで羊躑躅という(陶弘景)」
   足+「鄭(酋大邑)=ねんごろ・かさなる・ていねい(丁寧)
             テイ・ジョウ」
   足+「蜀(罒勹虫)=いもむし・ショク・ゾク
            桑の葉などにつく昆虫の幼虫
            目を強調した毛虫・芋虫
   皐は
   白骨の頭の骨に
   四本足の獣のむくろ(骸)
   「白く輝く」
   転じて沢や岸、沼などの
   水辺を表す文字となった・・・「羊の白く輝く毛並み」?
                 五月は羊毛を刈り取る季節?
                 「皐」は毛を刈り取られた羊?
   揺れる水面の波形・・・?
  「呼ぶ、ゆっくりと呼ぶ」
  「ゆるやか・耕作・神に捧げる稲穂」
  ・・・「皐」はトンボの形象に見えたり
  「ヤゴ=水蠆⇔萬+虫」の形象にも見えるが・・・
  うるさい(五月蝿い・煩い)
  「はえ=蠅・蝿」?・・・
  「蠅伊呂泥(はえいろね)」は
  「倭迹々日-百襲姫」・・・百(百済)を
   ↓↑          襲(おそう
                 つぐ・受けつぐ・引きつぐ
                 あとをつぐ
                 かさねる)
               おそう=熊襲・襲撃・奇襲・強襲
                   逆襲・急襲
                つぐ=襲名・世襲・踏襲
              かさねる=重ね着・重ねた着物
                   襲衣
   ↓↑              因襲
   の母親で
  「意富-夜麻登-玖邇-阿礼-比売」
おほ-やまと-くに-あれ-ひめ・・・・大=おほ=太・多
  「皋=白+大+十=白+一+人」+十」は「皐」の異体字
   ヤゴ(水の蠆)=水(ミズ)の萬(ヨロズ)の
           中のム(私・己・邪=よこしま=横島)・・・
ーーーーー
 古事記・序文
     ↓↑
 ・・・於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、
 以
 和銅四年九月十八日、
 詔臣
 安萬侶、
 撰錄
 稗田阿禮
 所誦之勅語
 舊辭
 以
 獻上者、
 謹
 隨詔旨、子細採摭。
 然、上古之時、
 言意並朴、
 敷文構句、
 於
 字卽難。
 已
 因訓述者、
 詞不逮心、
 全
 以音連者、
 事趣更長。
 是以今、
 或一句之中、
 交用音訓、
 或一事之內、
 全以訓錄。
 卽、辭理叵見、
 以注明、
 意況易解、
 更非注。
 亦、
 於姓
 日
 下
 謂
 玖沙訶、
 於名
 帶
 字
 謂
 多羅斯、
 如此之類、
 隨本
 不改。
 ………
 和銅五年・・・和同(導)語撚?・・・銅=金+同=コンドウ=混同
 正月廿八日・・正解通念葉知字通?・・廿八日=念捌似曰(いわく)
 正五位・・・・正語彙
 上勳五等・・・状訓語等
 太・・・・・・おほの・ふとい・タイ
 朝臣
 安萬侶
ーーーーー
 『古事記』写本は32本
 最古の写本は
 『真福寺本-古事記
 建徳二年(1371年)〜翌、建徳三年(1372年⇔文中元年)にかけ
 真福寺の僧
 賢瑜・・・1344年〜?・・・1371−1344=37
 が
 師
 信瑜・・・1333年〜1382年 南北朝時代の僧
      正慶二年=元弘三年生まれ
      真言宗尾張(愛知県)宝生院(真福寺)二世
      元弘の乱(元弘元年・1331年)
      後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府倒幕運動
      元弘三年・正慶二年(1333年)
      元弘三年(1333年)五月二十二日
      鎌倉幕府滅亡
      元弘三年=正慶二年(1333年)六月
      建武の中興
      元弘四年=建武元年(1334年)⇔「建武」の元号
 の命を受けて書写した・・・
 ↓↑
 干支辛亥
 日本
 南朝 建徳二年(1371年)・・・1372年は「壬子・文中元年」
 北朝 応安四年
    皇紀弐千参拾壱(2031)年
 ↓↑
 中国
 明王朝 洪武四年(1371年)
 鄭和(テイワ・1371年〜1434年)
 イスラム教徒
 馬哈只の子として誕生
 中国明代の武将
 12歳の時に
 永楽帝に宦官として仕え
 軍功をあげ重用
 1405年〜1433年
 南海への7度の大航海の指揮
 鄭和の船団は
 東南アジア、インド
 アラビア半島
 アフリカ東海岸
 マリンディ(ケニアのマリンディ)
 まで到達
 本姓は馬
 初名は三保
 宦官の最高位、太監
 三保太監あるいは
 三宝太監の通称で知られる
 ↓↑
 夏   開熙五年(旧六月まで)
ーーーーー
 タイ
 大・太・歹・台・代 
 忕・旲・忲・豸・兌
 呆・汰・対・体・邰
 隶・抬・苔・岱・㤗
 祋・珆・迨・玳・殆
 帝・怠・胎・耐・退
 待・軑・泰・帯・菭
 陮・釱・帶・紿・梯
 堆・袋・逮・脱・跆
 鈦・躰・蒂・詒・棣
 替・貸・隊・搥・搋
 ?・瑇・碓・滞・㦅
 䃍・蓷・箉・䲦・臺
 滯・態・腿・颱・蔕
 對・憞・慸・磓・蝳
 䈚・隤・褪・駘・曃
 憝・跎・頺・頹・鮐  
 頽・黛・諦・㿉・薱
 艜・駾・薹・擡・戴
 懟・蹛・魋・鎚・譈
 蹪・蠆・穨・斄・鐜
 鐟・軆・鐓・㿗・體
 襶・靆
ーーーーー
 太田 道灌(おおた どうかん)
 生誕 永享四年(1432年)
 死没 文明十八年七月二十六日・・・文の明の拾捌年漆月弐拾陸日?
    (1486年8月25日)
 改名 鶴千代(幼名)→資長→道灌(法名
 諱名 持資
ーーーーー
 16世紀ころから・・・1500年代〜
 「大田」が
 「太田」に変化していった・・・ナゼ?
             草書での漢字「大」の「乀」が次の字へ
             「ゝ」と引き摺った?
             ・・・点(天)が膨張?・太陽・太陰
 「太田牛一」・・・「信長公記」の著者
    ・・・「牛一」=うしイチ・ゴイチ=「丑一・語位置」?
                      紐市
 池田家文庫本に
 慶長十五年(1610年)の
 太田牛一
 自身の記録
 織田信長の一代記
 戦国時代〜安土桃山時代
 織田信長の旧臣
 太田牛一
 原本は
 江戸時代初期に成立
 信長の幼少時代から
 信長が
 足利義昭を奉じて
 上洛する前までを
 首巻とし
 上洛(永禄十一年(1568年)
 から
 本能寺の変天正十年・1582年)・・・本の能の字の変
                   能事=ノウジ=農事
                   しなければならないこと
                   なすべきこと
 まで
 十五年の記録を
 一年一巻とし
 全十六巻(16冊)にまとめている
 ↓↑
 読み「信長記=しんちやうき」
    ・・・「新調・伸長・伸張・慎重・新潮」の記?
 写本を含め
 20種類以上が残され
 表題も
 『安土日記・安土記・信長記信長公記
 など様々で
 大名や公家などに
 写本で伝わり
 明治時代になって初めて刊行された
 太田自筆のものは3つ
 自筆本にはいずれも首巻がなく
 首巻は巻一〜巻十五より
 後に書かれた・・・
 ↓↑
 『永禄十一年記』(1巻)
  永禄十一年(1568年)の部分のみ
 尊経閣文庫所蔵
 (尊経閣文庫は他にも
 『信長記』15巻などを所蔵する)
 ↓↑
 池田本『信長記』(十五巻)
 岡山大学付属図書館池田家文庫所蔵
 姫路城主・池田輝政に献上されたもの
 首巻なし。重要文化財。第十二巻のみ古写本
 ↓↑
 建勲神社本『信長公記』(十五巻)
 京都・建勲神社所蔵。首巻なし
 ↓↑
 町田本
 町田久成旧蔵本(所在不明)
 『我自刊我書』
 明治十三年(1880年)〜十七年(1884年
 甫喜山景雄が刊行
 後に『史籍集覧』に収められた
 近代デジタルライブラリーで閲覧可能
 ↓↑
 陽明本
 近衛家所蔵本。角川文庫版の底本
 ↓↑
 天理本
 天理大学附属天理図書館所蔵の写本
 ↓↑
 太安萬(万)侶
ーーーーー
 信長公記
 太田牛一
 時代 安土桃山時代、江戸時代
 生誕 大永七年(1527年)
 死没 慶長十八年(1613年)
 改名 天正九年(1581年)まで
    「信定」を名乗る
 別名 通称又助(又介)あるいは「和泉」
 墓所 仏日寺(大阪府池田市
 官位 和泉守
 幕府 織豊政権
 主君 斯波義統、柴田勝家織田信長
    丹羽長秀丹羽長重豊臣秀吉
    豊臣秀頼
 子 大田小又助・・・・・太田⇔大田
    大田又七郎牛次・・・太田⇔大田
   (子孫の加賀大田家では
        「大田」を名乗る)
 諱
 天正九年(1581年)までの文書では
 「信定」と署名
 その後の書状
 天正十七年(1589年)から
 「牛一」と署名し、晩年まで続けた
 信長の死んだ
 天正十年(1582年)前後に
 諱を変えた・・・
 平家語り
 一方流琵琶法師が名乗りの
 一文字の末尾に「一」を付けるので
 それに倣った・・・?
 ↓↑
 大永七年(1527年)
 尾張国春日井郡
 山田荘
 安食村(名古屋市北区
 土豪の家に生まれ
 成願寺で僧侶
 還俗し
 斯波義統
 の家臣となる
 天文二十三年(1554年)七月十二日
 義統殺害の後
 那古野城
 織田信長の保護を求めた遺児の
 斯波義銀に付いて
 織田家に行った・・・
 天文二十三年(1554年)
 信長の家臣
 柴田勝家に仕え
 足軽衆となる
 同年七月十八日
 「安食の戦い」に参加
 義統弔い合戦
 弓の腕を認められ
 信長の直臣となり
 弓3人
 鑓3人の「六人衆」の
 一員となり近侍衆
 永禄七年(1564年)
 美濃-斎藤氏の
 堂洞城攻略で
 二の丸の門近くの建物の屋根から
 弓を射て活躍
 信長に褒められ知行増
 後は
 近習の書記
 後
 安土城下で屋敷を持ち
 信長に近侍する官僚(吏僚)とし
 永禄十二年(1569年)〜天正十年(1582年)
 丹羽長秀の与力
 京の寺社との間の行政担当
 同時代の
 『賀茂別雷神社文書』に
 同社から
 牛一に筆がしばしば贈られた記録
 他に筆を贈られているのは
 長束正家やその弟
 直吉
 ↓↑
 本能寺の変
 長秀に2,000石で仕え
 柴田勝家との戦いのため
 坂本城に長秀に従い参陣
 後
 天正十三年(1585年)
 長秀没後は
 丹羽長重加賀国松任で仕える
 公務は息子に譲り
 同地で一時隠居
 ↓↑
 豊臣秀吉に召し出され
 天正十七年(1587年)
 洛南の行政官僚
 寺社行政と検地なども担当
 山城国加茂六郷を検地
 天正十八年(1588年)
 淀城を拠点にし
 南山城と
 近江国
 浅井郡の代官も兼任
 ↓↑
 天正二十年(1590年)
 肥前国
 名護屋
 へ秀吉に従軍
 道中の
 人足や馬を
 配分する奉行に就く
 名護屋城
 建築工事の差配
 ↓↑
 文禄元年(1592年)
 文禄の役
 城の留守番衆
 文禄三年(1594年)
 大阪に戻る
 文禄五年(1596年)五月九日
 豊臣秀頼の初の上洛に供奉
 後陽成天皇
 『太閤御代度々御進発之記』を献上
 慶長三年(1598年)三月十五日
 醍醐の花見では
 秀吉の側室
 三の丸殿の警護を務めた
 同年三月十七日
 醍醐寺三宝院で
 門跡・義演から
 信長から秀頼までの
 記録を書いたと紹介され一部暗誦もした
 同年九月十八日
 秀吉の没後は
 豊臣秀頼に仕えた
 慶長六年(1601年)までに
 『関ヶ原合戦双紙』を
 徳川家康に献上し
 十一月七日
 中井宗茂にも進上
 慶長十一年(1606年)
 南禅寺
 金地院の河内
 真観寺領の代官になる
 慶長十二年(1607年)頃
 『関ヶ原合戦双紙』奥書で
 自分の著作をまとめ
 「五代之軍記」と名付ける
 慶長十六年(1611年)三月二十八日
 秀頼の家康との京都
 二条城での会見への上洛に供奉
 慶長十五年(1610年)
 84歳時の書もある
 大阪城東南の重臣の屋敷地区の
 大坂玉造で
 慶長十八年(1613年)
 病死
 大阪府池田市
 佛日寺に
 子孫が立てた墓がある
 ↓↑
 信長・秀吉・秀次、秀頼、家康
 などの軍記・伝記を著述
 長篠の戦いを描いた
 屏風『長篠合戦屏風』は
 概ね、『信長公記』通り
 安土城についても
 細部まで正確に記録していたことが、
 加賀藩伝来の
 天守指図の発見で裏付けられた・・・
 ↓↑
 子孫
 嫡男の
 又七郎牛次は
 秀頼家臣の
 青木一重
 に仕え
 大坂夏の陣
 豊臣氏滅亡後
 津藩の
 藤堂高虎
 に仕えるが
 摂津麻田藩の青木家に戻り
 麻田藩士として続いた
 子息の
 小又助は
 丹羽家、織田信雄豊臣秀吉に仕え
 その孫の宗古が浪人後
 寛永十八年(1641年)より
 前田利常に仕え
 以来
 加賀藩
 ↓↑
 著作
 『信長公記
 (「信長記・安土記・安土日記」)
 『大かうさまくんきのうち』
 (「太田牛一雑記」)
 『関ヶ原合戦双紙』
 (「太田和泉守記」、「内府公軍記」)
 『高麗陣日記』
 『関東軍記』
 『別本御代々軍記』
 (「太田牛一旧記」)
 『太閤御代度々御進発之記』
 『豊国大明神臨時御祭礼記録』
 『今度之公家草紙』
 (「猪熊物語」慶長十五年)
 『新門跡大坂退散之次第』
 ↓↑
 太安万(萬)侶・太
 田       田
 牛       和
 一       泉
 ↓↑
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_1.pdf
 ↓↑
 信長公記 巻 首・天文三年〜永禄十一年
           (1534年〜1568年)
 信長公記 巻 一・永禄十一年(1568年)
 信長公記 巻 二・永禄十二年(1569年)
 信長公記 巻 三・元亀元年(1570年)
 信長公記 巻 四・元亀二年(1571年)
 信長公記 巻 五・元亀三年(1572年)
 信長公記 巻 六・天正元年(1573年)
 信長公記 巻 七・天正二年(1574年)
 信長公記 巻 八・天正三年(1575年)
 信長公記 巻 九・天正四年(1576年)
 信長公記 巻 十・天正五年(1577年)
 信長公記 巻十一・天正六年(1578年)
 信長公記 巻十二・天正七年(1579年)
 信長公記 巻十三・天正八年(1580年)
 信長公記 巻十四・天正九年(1581年)
 信長公記 巻十五・天正十年(1582年)
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 ・・・???・・・