1475日目・・・ィヤァ〜ッ、「ブラジル(伯剌西爾)VSチリ(智利)」のサッカーのまさに「死闘」、スゴカッた・・・あんなに大きな「ゴール(Goal)の駕籠(バスケット・Basket)の網(ネット)」なのに、チリには「カミの加護」がなかった・・・6月28日(日本時間29日未明)・・・一蹴り・・・訓練され、鍛えられた足は「条件反応」か、それとも天性的な「本能=才能」か・・・


ーーーーー
 「本能示(事・字)の変」・・・自律神経系(Autonomic nervous system)は、末梢神経系のうち「植物性機能」を担う神経系であり、「動物性機能」を担う体性神経系に対比される。
 一般的に「自律神経」は意識的に制御できない?・・・ 
 「自律神経系」は
 内臓諸臓器の機能を脳ミソから
 指令、調節する遠心性機序と、
 内臓からの情報を
 中枢神経系に伝える求心性の機序
 という2つの系からなる・・・
 脳ミソ→命令→末端臓器
 末端臓器→反応伝達→脳ミソ
 「交感神経系」と「副交感神経系」の2つの神経系で構成されている・・・
 「随意神経系(体性神経系)」ではない
 「不随意神経系(自律神経系)」で
  ↓
 循環、呼吸、消化、発汗
 体温調節、内分泌機能、生殖機能
 新陳代謝代謝などの
 「不随意」な機能を「制御」し、
 ホルモンによる調節機構である
 内分泌系と協調し、
 種々の生理的パラメータを調節
 ホメオスタシスの維持
  ↓
 恒常性・常態性=ホメオスタシス
  ↓
 homeo(ホメ)=等しい・同一
  +
 stasis=平衡状態・定常状態
  ↓
 ホメオスタシス 
 生物および鉱物において、
 その内部環境を
 一定の状態に保ちつづけようとする傾向
 「ホメオスタシスの三角形」とは
 自律神経系、
 内分泌系、
 免疫系
 の協働機能である
 「自律神経」は
 交感神経と副交感神経の2つの神経系からなり、
 双方がひとつの臓器を支配することも多く(二重支配)、 また
 ひとつの臓器に及ぼす両者の作用は
 一般に拮抗的に働く(相反支配)
 交感神経系の機能は、
 闘争か逃走か(fight or flight)
 と総称されるような、
 身体的活動や侵害刺激、
 恐怖といった
 広義のストレスの多い状況において重要となる
 「自律神経系」は
 各臓器の機能を統合的に調節することで、
 結果として個体の内部環境の
 安定、恒常性を維持する
 ↓↑
 「随意」の
 認識思惟の意識、理屈で
 動かすコトが出来ない
 「不随意=本能=自律(自立)」の仕業
 君←忠誠←臣
 ↑ 自立 ↓
 臣→不忠→君
   ↓
 「本能ジの変」をスガメで見詰める?
   ↓
 「ちやうすかめ」
 「チヤウスカメ」・・・
 「Chosugami(チョウスガミ)」
 「ちょうすがめ」・・・
 「長い眇」
  ↓
 すがめ(眇め)
 片方が小さい目
 ほそ目
 目を細めて、すかして見る
 はるか・遠くかすかな
 はるかかなたに及ぶ
 細く小さいさま
 かすかなさま
 眇(すがめ)
 片方しか目がないこと
 片方の目が不自由であること
 片目が細いこと
 斜視 (しゃし)
 やぶにらみ
ーー↓↑ーー
 本能寺の変
 天正十(1582)年六月二日
 長宗我部元親
 手紙発見
ーー↓↑ーー
 本能寺の変直前、信長に恭順の姿勢
 長宗我部元親が領有する
 四国をめぐり、
 織田信長が方針転換したことに
 明智光秀が納得しなかった・・・
ーー↓
 長宗我部氏
 本姓は
 秦氏
 家紋は
 「七つ酢漿草(かたばみ)」
 長曽我部・長曾我部とも記される
 土佐国
 長岡郡に拠った国人の一族
 土佐一条氏を滅ぼし土佐を統一
ーー↓↑
 長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)
 土佐国戦国大名
 長宗我部氏
 第二十一代当主
 天文八年
 (1539年)
  〜
 慶長四年五月十九日
 (1599年7月11日)
 改名 弥三郎(幼名)→元親、雪蹊恕三(法名
 別名 通称:土佐侍従
 渾名:姫若子、鬼若子、
 土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠
 戒名 雪渓如三大居士
 雪蹊恕三大禅定門
 墓所 天甫寺山(高知県高知市
 官位 従五位下、宮内少輔
    土佐守、侍従、
    贈正五位、贈正三位
 主君 豊臣秀吉→秀頼
 氏族 秦姓長宗我部氏
 父
 長宗我部国親
 母
 斎藤氏の娘(祥鳳玄陽)
 兄弟
 長宗我部元親
 吉良親貞
 香宗我部親泰
 島親益
 女(本山茂辰室)
 女(池頼和室)
 女(波川清宗室)
 妻
 正室
 元親夫人
 (石谷頼辰・斎藤利三の異父妹)
 側室
 小少将
 子
 信親、香川親和、津野親忠、
 盛親、右近大夫、康豊、
 女(一条内政室)、女(吉良親実室)、
 女(佐竹親直室)、女(吉松十左衛門室)
ーー↓↑
 長宗我部 元親
ーー↓↑
 長宗我部国親の長男
 母は
 美濃
 斎藤氏の娘
 正室
 石谷光政の娘で
 斎藤利三の異父妹
 位階
 従五位下
 死後に
 正五位
 昭和三年(1928年)
 正三位が贈られた・・・・?
 土佐国守護職を兼ねる
 細川京兆家当主で管領
 細川晴元より、
 京兆家の通字である
 「元」の一字を受けたため、
 かつて同じく
 細川氏より
 「元」の字を受けた
 十五5代当主
 長宗我部元親南北朝時代)
 と同名を名乗った
 土佐の国人から戦国大名
 阿波・讃岐の三好氏
 伊予の西園寺氏河野氏
 らと戦い四国の覇者となった
 信長の後継となった
 豊臣秀吉に敗れ
 土佐一国に減知
ーー↓↑ーー
 織田信長
 天正八年(1580年)
 信長は元親の四国征服をよしとせず、
 土佐国
 阿波南半国のみの領有を認めて
 臣従するよう迫るが
 元親は信長の要求を拒絶
ーー↓↑
 天正九年(1581年)三月
 信長の助力を得た
 三好康長は息子の康俊を寝返らせ、
 十河存保は中国で
 毛利氏と交戦している
 羽柴秀吉と通じて
 元親に圧迫
 天正十年(1582年)五月
 神戸信孝を総大将とした
 四国攻撃軍が編成
 三好氏旧臣らは
 元親を見限って
 康長に寝返り
 阿波の
 一宮城と
 夷山城を落とされた
ーー↓↑ーー
 長宗我部元親
 斎藤利三明智光秀家臣)宛の書状で
 信長に対し恭順する意向
 四国攻撃軍は
 六月二日に渡海予定であったが、
 本能寺の変が起こって
 織田信長明智光秀に殺された
 信長の死で
 織田信孝軍は解体して撤退
 元親は危機を脱した
ーー
 元親は宿敵であった
 十河存保
 八月に
 中富川の戦いで破って、
 阿波の大半を支配下に置いた
 九月に
 勝端城に籠もった存保を破り、
 阿波を完全に平定
 十月に
 存保が逃れた
 虎丸城や
 十河城を攻めた
ーー
 天正十一年(1583年)
 賤ヶ岳の戦い
 柴田勝家と手を結び
 羽柴秀吉豊臣秀吉)と対抗
 四月
 柴田勝家は秀吉に敗れて滅亡
 天正十二年(1584年)
 小牧・長久手の戦い
 織田信雄
 徳川家康らと結んで秀吉に対抗
 秀吉が送り込んだ
 仙石秀久の軍勢を破った
 東伊予の
 金子元宅と同盟し、
 南伊予の
 西園寺公広の諸城を落とす
 伊予国でも勢力を拡大
 六月十一日
 十河城を落として讃岐を平定
 小牧の戦いは
 秀吉と信雄が和睦
 伊予の平定
ーー↓↑
 天正十二年三月
 毛利氏は
 宍戸元孝を
 河野氏救援のために派遣
 恵良で長宗我部軍と衝突
 四月
 高山で、
 五月〜六月にかけて
 恵良・菊間(菊万)で合戦
 八月
 小早川氏の将である
 杉就良によって
 新居浜市を落とされた
 九月
 渡海して遠征していた
 毛利軍は劣勢になり
 十二月
 河野氏は元親に降伏
 天正十三年(1585年)春
 西予の豪族なども降伏させた
 秀吉が紀州征伐に出てこれを平定
 秀吉は元親に対して
 伊予・讃岐の返納命令
 元親は伊予を割譲することで
 和平を講じようとしたが
 秀吉は許さず
 弟・羽柴秀長を総大将とする
 10万超の軍を派遣
 元親は
 阿波白地城を本拠に
 阿・讃・予の海岸線沿いに
 防備を固め抗戦する
 秀吉は
 宇喜多秀家らを讃岐へ、
 小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、
 羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時派遣
 長宗我部方の城を相次いで攻略
 元親は
 反戦派の家臣
 谷忠澄の言を容れて
 七月二十五日に降伏
 土佐一国のみを安堵された
ーー
 天正十四年(1586年)
 秀吉の九州征伐
 嫡男の信親とともに従軍
 大友氏の救援
 十二月
 戸次川の戦い
 四国勢の
 軍監・仙石秀久により、
 島津軍の策にはまって敗走
 信親は討死
 元親は落ち延び、
 伊予の
 日振島に落ちた
ーー
 天正十六年(1588年)
 本拠地を
 大高坂城へ移転
 家督継承問題で
 次男の香川親和
 三男の津野親忠
 ではなく、
 四男の盛親に家督を譲る
 天正十七年(1589年)
 羽柴の名字を与えられた
 天正十八年(1590年)
 小田原征伐
 長宗我部水軍を率いて参加
 後北条氏の下田城を攻め、
 小田原城包囲に参加
ーー
 天正十九年(1591年)一月
 浦戸湾に迷い込んだ
 体長九尋の
 鯨を数十隻の船団と100人余の人夫で
 大坂城内へ丸ごと持ち込み、
 秀吉や大坂の町人を大いに驚かせる
 文禄元年(1592年)
 朝鮮出兵文禄・慶長の役にも従軍
 慶長元年(1596年)
 サン=フェリペ号事件
 秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った
 領内では検地を行い、
 慶長二年(1597年)三月
 盛親と共に分国法
 「長宗我部元親百箇条」を制定
 慶長三年(1598年)八月十八日
 秀吉が死去
 十一月二十六日
 徳川家康の訪問を受ける
 後、土佐に帰国
 慶長四年(1599年)三月
 三男の津野親忠を幽閉
 四月二十三日
 豊臣秀頼に謁見
 五月十九日死去
 享年六十一
 ↓↑
 子・長宗我部盛親の代で
 関ヶ原の戦い
 西軍に
 参戦・敗北し改易
 後、
 盛親が
 大坂の陣に大坂方に味方、敗死
 嫡流は断絶
 ーーーーー
 ・・・トンだ・・・「ちょうそかべ」・・・安土桃山時代の文献、
 「御湯殿上日記」では
 「ちやうすかめ」、
 「多聞院日記」では
 「チヤウスカメ」・・・
 ルイス・フロイス
 「日本史」では
 「Chosugami(チョウスガミ)」
 からは
 「か」は濁音の「が」・・・
 現代仮名遣いで表せば
 「ちょうすがめ」・・・
 「長い眇目」・・・?・・・蘇我氏・・・飛鳥時代秦氏・・・「秦河勝」の後裔が「長宗我部」氏・・・?
 ・・・以上も以下もすべて出所は「ウイッキペデア」である・・・怪しい「史料」である・・・
  ↓
 秦河勝聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(587年)にて聖徳太子蘇我馬子物部守屋を倒した際に功をたて信濃国に領地を与えられたので、子・秦広国を派遣した。これにより信濃秦氏が始まる[3]。後年、信濃更級郡に居住していた秦能俊(初代 長宗我部能俊)が土佐に入ったのが、長宗我部氏の始まりとされる
  ↓
 由井正雪の片腕といわれた丸橋忠弥(長宗我部盛澄)は、長宗我部盛親の子孫と称していた。また、幕末の尊皇志士として徳島藩士の長宗我部太七郎がおり、生野の変に参加するも、文久3年(1863年)10月14日、但馬国山口村妙見堂にて自刃するという。没後、靖国神社に合祀される
ーーーーー
 ・・・