611日目・・・「自由」と言う「漢字文字」に関して・・・
・・・「自由」と言う「漢字文字」に関して・・・
「勝手(かって)」と言う「漢字」は、「国語辞典」では
「便利のいいこと」・・・勝手の悪い部屋
「自分に都合のいいようにふるまう事」・・・勝手次第・身勝手
・・・勝手な奴
・・・勝手な振る舞い
「台所」・・・勝手道具・勝手方面・勝手口
「生計・くらし向き」・・・勝手向き・勝手不如意
「様子・模様」・・・勝手がちがう
である。「勝手」・・・「自由」と「勝手」は同じ意味なのか?・・・「自・由」は漢和辞典では、
「自(おのずから・みずから・自然に)」で、「由(拠る・基づく・頼る・従う・のっとる(則る・法る)・手本とする・真似る・用いる・訳・理由・いわれ・原因・方法・何々と、同じである・ひこばえ」
とあり、「由来」は「元々・来歴・元来」であり、「自由」とは「自ずから由来するコト」であろう。「自(ジ)」とは「ある存在それ自体」と言うことである。「みずから」とは「己(キ・おのれ)」と言う漢字も当てられるが「占い」の五行思想の十干の一の「つちのと(土の弟)=己」である。
「それ自体=単体=素粒子」で「形」として「人間の感性」で感知できるモノ、存在するモノは「何も無い」。形のある「存在物」は単純いえば、少なくても「対(+ー)」から形成され、その「対」の「複数の結合体」での物理的、化学的、電磁気的な反応として「複雑な組成体」として存在している。あらゆる存在物は「動的なモノ」として存在している。宇宙には「静的なモノ」は存在していない。忙しいんだ。
「対」の「+ー」の電荷が分離して存在するモノは「プラズマ」である。「形」としては不安定な存在だが「プラズマ」の「+」と「ー」を帯びたモノも「物質」である。宇宙空間に蔓延しているモノである。
「プラズマ」は「勝手」で「自由」な「存在」であるだろうか?・・・人間が勝手に思うのは勝手だけれど・・・この「宇宙総体の次元の枠内」で「自由に存在するモノ」は何も無い。
「宇宙の総体」は「相対的な諸関係」で存在しているのだから。
人間の
感知→認知→認識→思考
が、「人間の頭脳」が「自由な存在」と考えているだけである。宇宙の総体としての存在は「総体としての諸関係」で「存在」しており、その「あらゆる存在のあり方」は「決定的」である。「存在」って「勝手」に存在していないんだよね。
「勝手」にできると思っている、考えている「妄想、空想する人間の認識・思惟構造」も「決定的」であることからは逃げるコトがデキナイ存在なのだ。その「思惟」での「妄想・空想」も「宇宙総体の諸関係」としての「産物」であるからだ。何も無いところからは何も出現しない。無から有は生じないのである。
そして「自由な存在」とは「宇宙総体の諸関係」での「決定=制約=法則性」、「自然・自然体でアル、アレ」と言うことである。
・・・「生きる」ということで「カワムラ・カオリ」さんは「自然体」で「自由な存在」だった・・・そして「亡くなって」も・・・TVのニュースでしか知らないんだけれど、「彼女」のように「自然=自由」でありたいと、今現在、生きている「ボクの心の中」で「残念」であるなぁ、と思うのも「自然」である。
「諸関係で存在する」あらゆるモノに「身勝手」は許されないのである。「自由」とは「自然に由来するモノ」だから。「自ずから由来する存在」とは「宇宙法則性の相互諸関係で制約された存在」である、コレが「自由」と言うことである。
「自由→不自由」・・・逆説ではない・・・「個々人」が肉体的にも精神的にも「自ずから存在」する「自由」とは「宇宙法則性、自然法則性に制約された諸関係の存在」と言う事である。そして「自由な人間」とは「自然存在の諸関係の法則性」を「人間認識の中に自覚」する存在、と言うことだから・・・
「自由」と「(身)勝手」が混同されて使用されるのは「(戦争に。喧嘩に)勝った奴の側」の「特殊な利害関係の行使を(暴力的に)強制できる」からだろう。当然、「負けた奴の側」は「強制の負手(おい手)」なのである。「利害関係」での「勝+手」の「思惑と行動(生殺与奪)」である。「負+手」の「(生死の)思惑と行動」である。
で、「人間間の利害関係」とは何か?・・・精神的な気分の感情、情緒の快楽、不快もあるだろうけれど、一般的には「生存期間の生活レベルの多寡の獲得(?)」でしかない。今現在、生きている者の問題である。自然界での如何なる「生物の誕生」も「死」も、まさに「自然」である。
「人間社会」での「殺人・自殺としての死」はどうか?・・・相手や自分自身が「意識的、意図的に死を被る」・・・「仏教的」には「個々人の108の煩悩(?)」に含まれるモノの実行結果だろうか?・・・「百八」もあるって・・・欲張り・・・だが「存在するモノ」だから「煩悩」も「自然」だろう。
・・・「煩悩」が「自然」であるのなら、「煩悩」を「自覚」するのも「自然」である。
この「人間の自覚」は「人間諸関係の制約の中」でしか「自覚」できない。独りぼっちで孤立しては「自覚」はあり得ないのである。その「自覚」を「是非」とし、実行、実践するかは「個的人間」を取り巻く時間的な流れの諸状況による。インターネットの時代には「自覚」させてくれる「情報」がワンサカだけれど、気がつかない段階の人々ももいる。これも人間の履歴プロセスに於いては「自然=自由」である。
「自由」が「存在の制約諸関係」であるとするならば、「不自由=不自然」な人間とは「身勝手な思考と行動の人間のコト」と言うことになるのだが・・・「不自由」とは「不自然」である。「不自然」とは「不自由」であるコトだ。
一般的な意味での「自由」と「不自由」のコトバは、「自ずからの存在理由=宇宙・自然の法則性」とするならば「逆転」してしまう。
「人間社会のある共同体の不自然」とは一般的に
1)ぬすむ・2)だます・3)ころす・4)差別する
である。そのような状況では「人間共同体」は「維持存続」できないからである。当然にもこれらを肯定する人間は拘束され、監禁されて「不自由」な人間となる。
「歴史的」に人間がやってきた「1)ぬすむ・2)だます・3)ころす・4)差別する」が現実的には「人間諸関係の社会的な約束事」だった。
だが人間同士の「約束事の法」はこれらを「禁忌」とした。この矛盾は何を意味するのか?
シュメール時代のムカシから「人間社会共同体内」で「1)ぬすむコト」が「禁忌」であることはズぅ〜ッと言われてきた。
殺人、強奪、詐欺での「1)ぬすむな」は歴史的にも人間共同体の厳格な「文字化されてきた規範」でもあった。例外は「他の共同体」とのトラブル、戦争では敵対者に対する「1)ぬすむ・2)だます・3)ころす・4)差別する」は当然であった。自らの共同体の維持、存続をするためである。外敵の侵入、侵略は共同体の絶滅を意味する。「運命共同体として勝つこと」が必要条件である。敵も同じ立場である。そして、今現在の「国家間のトラブル」でも「身勝手な戦争勝手」である。暴力的なトラブルはスポーツ競技以外のところでは一方的であろうが、双方的であろうが大概「身勝手な理由=利害関係」から起きやすい。
ちょっと前のNHK番組・「ヒストリア」で「サラリーマン宮沢賢治」をやっていた・・・「雨にも負けず・・・喧嘩があればつまらないからヤメロといい・・・木偶の坊と呼ばれる・・・そんなヒトにワタシはなりたい」
「Mさんのお兄ちゃん」、ガンバッテイルカナ・・・
・・・だが「格差(階級)社会」にあっては「大規模な共同体全体からの盗み=法律として合法化された盗み」は「税金」と言うコトバに置き換えられてはいないか?・・・そして、「共同体全員」は、この「盗み」に加担する「選択」も「法的」に「自由」だとされている。
公務員になるのも企業家になるのも、労働者になるのも、フリーターになるのも「法的」には「職業の自由選択」が明記されている。だが「職業の自由選択」があっても「失業者」はワンサカいる。「自由選択」は「不自由選択」だし、「自由な選択」以前の問題である。ご飯を食うか、パンを食うかの選択以前に米びつにコメがない、ブリキ缶にメリケン粉がない・・・インスタントラーメンも切れちまった・・・
「ぬすみの仕掛け」・・・この「証明」は「資本論(マルクス)」がしているのだが、結構小難しいがワカレば単純である・・・「仕組み・仕掛け」だから、この「ぬすみ」に関してはダレも悪いわけではない。
「ダマシの盗み」も「ダマサレての盗まれ」も「自然=自由」だと思っているところに問題がある。「現実社会」は「不自然」なのに、「オモイ、観念」は「共同体全員」が「不自然」だとは思っていないのだから・・・「マウリッツ・コルネリス・エッシャー(Maurits Cornelis Escher, 1898年6月17日 - 1972年3月27日)」のダマシ絵にはなんら「不思議=不自然」はないからね、単なる平面に描かれた絵だモノ。これを「共同体全体の普遍的幻想」と言う。ようは「集団催眠」に掛かっているのだが、かけた奴も掛かってしまっている・・・どうすりゃイイのこのワタシ・・・
「人間社会共同体」としての個々人の生命維持の、衣食住の「管理・分配」の「不自然」である・・・今現在も・・・「人間=自然」を「不自然」に疎外しているのだ。
最近の日本人ノーベル物理学者の「理論」では最小の物質は「6っ」であるらしい。だがそれ「自体の単体」では「存在し得ないモノ」である。「ある1つが存在」するには「他の1つの存在」が「相互に関係」しているコトが前提である。「存在物」と「存在物」の間を「空間」と呼ぶ。「存在物」と「存在物」の関係反応を「変化」と呼ぶ。「変化の度合い」を「時間」と言うのである。
「かって」の同音異字の漢字は「曾て・嘗て(かつて)」があり、「むかしから(いままで)・以前」の意味と、「(打消しを伴って)全く」→「かつても知らなかった・かつてもやったことはない」と言うことで使用されているらしい。
・・・「未曾有」の「曾」である。・・・・層が重なるの意味もある。オモイよ。
・・・「臥薪嘗胆」の「嘗」である。・・・嘗めるなよなッ・・・ドクかも。