1614日目・・・「対幻想」も「ego幻想」だろう・・・「恋愛幻想」も「ego幻想」だろう・・・

 モチロン、各々の「国家幻想」も「国家ego」、諸々の「組織幻想」も「組織ego」である・・・
 そして、「対象認識の結果の幻想」は「等価」ではない。ましてや、「共同」、「組織」、「一族郎党」、「家族」、「親子・兄弟・姉妹」、「愛人・恋人」、「夫婦」などに、「幻想」を接着しても、対象を得た「個々人」の「相互幻想」は「不等価」である。「対幻想」も個々人の相手に対する「幻想・妄想」であるから「等価の幻想」ではない。「同じ想い」は無いのである。「幻想・妄想」とは個人、個々人の能ミソに巣食う「思い込み」であるから・・・「同じ想い」と「憶う」の勝手だけれどネッ・・・
 「共同幻想」は「階級社会」の「利害関係」の産物で、賜物である。「国家幻想」が「共同・公平・平等」と思うのは、コレも又、勝手だけれどね・・・「支配幻想」の固まったモノが「階級国家」の「意思・意志」となった「掟・法・法律」である・・・「現実一般社会」が「共同・公平・平等」であるならば、「幻想」と言うコトバは生まれなかっただろう。
 個々人が「階級社会」の現実に直面して「幻想」は、その枠内で、「願望・希望」、「志望・切望」、「絶望」と渦巻き、「諦観」と「達観」に枝分かれし、その状況の選択を「覚悟」するのさ・・・死んだ人間、仏には「幻想」は無用である・・・
 それらを「幻想」しているのは「個々の生きている実体的人間」である。
 いずれも、諸状況、諸環境に置かれた「個々人の諸関係」に於ける「個々人の意識規範の核」が生きているモノの「ego」である、と云う事だ・・・ 
 生きているモノの「幻想」は「現実の諸関係」でのみ「能ミソ機能」として起こる・・・
 個々人がボケになっても「吸収と排泄」、「睡眠」の「ego」からは解放されないだろう・・・
 「自己の生きている肉体」を「維持・保持」していく、と云う「本能的ego」である。
 ここでボクが云う「ego」とは「自我」で、「selfish(セルフッシュ)」の「我儘」とは異なる。「他者の不利益を求める悪、万人の利益を求める功利主義」とも異なる・・・「自我(英語=ego、ドイツ語=das Ich、Ich)とは、哲学および精神分析学における概念=自己意識」であるらしい・・・「自我の自由」・・・フロイトによれば、「自我(エゴ)」という概念(コトバ)は「意識と前意識」、それに「無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉であるらしい・・・
 それにしても「意識と前意識」とはナンなんだか・・・「対象・事象」⇔「五感⇒対象認識⇒脳ミソ機能⇒思考・思惟⇒コトバでの規定認識⇒記憶」⇒「思惟・思考⇔再認識」・・・
 「自覚的ego」と云うなら「利己・私利・私欲」で、「selfish(セルフッシュ)」と同言である。
 ボクが「ego」を別のコトバで言えば生きている個々の「生命体の生理的自己保身」と云うコトである。
 ・・・ 
 「命を懸ける覚悟がなかった人間」の「思想」には
 「大衆」と云う箕と笠を被った「selfish」な自己保身の核」があるだけだろう。「階級社会」での「大衆意識」・・・「プチブル意識の多寡の上昇性」である・・・今よりは、皆のように、皆よりも、アイツよりも・・・富も出世も・・・望むのも、妄想、幻想するのも「自由」である・・・
 どんな生き方をしても、どんなコトバを吐いても
 「自己表出」であろうが、「指示表出」であろうが
 個々人の「選択」と「判断」は脳ミソの枠内で「自由」であるがネッ・・・
 「プチブル意識の本質」はイウマデもないが・・・「私有」に対する「多寡の度合い」である。
 この「意識」は「ブルジョア」であろうが、「プロレタリア」であろうが、「コジキ」であろうが、「人間社会の本質」である・・・「無階級社会」、「幻想」である・・・
 「ダーウインが来た」を観ていれば、コイツの「妄想」なんかは粉々に崩れ去ってしまうに違いない。
 「市井の人間」に「思想」なんてものはナイ。
 「プチブル意識」・・・
 ドコに「職場」を持とうが、場所には関係ない・・・
 「市井の人間」が「コトバ」で「プチブル思想」をカタって生きては「オシマイ」である・・・
 「思想をカタって個人崇拝の対象」になってしまっているのを気がつかない「バカ」じゃぁなかった、とは思うが・・・
 ・・・「寫眞」を飾って拝んでいる人間もいるらしい・・・崇拝するのは自由で、勝手である・・・
 「皇帝の寫眞」と「仏の寫眞、キリストの絵」を一緒に飾って拝むのもね・・・「妄想対象」のプロマイドなら、まだ、救いはアルかも・・・大戦前のロシアでもドイツでも革命後に「労働者の家の中」には「皇帝・皇后」の写真が飾ってあったそうだが・・・戦後の日本もシバラクはそうであった・・・「刷り込まれた意識と、儀礼的慣習の払拭」には「時間的世代交代」が必要なのさ・・・
 だが、「ニッポン型プチブル意識の短時間でのファッションの変遷」は目まぐるしかった・・・ベトナムでナニがあろうが、アフガニスタンでナニがあろうが、アフリカでナニがあろうが、日本国家枠内では「餓えず」にソレまでには口にできないモノも「大衆」として喰えたのだったから・・・だが、公害の代償も甚大だったし、山谷生活者もコジキも存在した・・・
 この人間界、自然界の「生命の本質」は個々が「新陳代謝」を前提にして「生命体として生きている」と、云うことで、「妄想・幻想」はオマケである・・・
 「異論反核論」には「生きている人間」が、すっ飛んでしまっている・・・「原爆」で殺されるのも、「大砲・機関銃・ライフル銃・刀剣」、「素手」で殺されるのも、「個々人の人間」にとっては「死」は同じである・・・問題は「国家ego・国家selfish」である・・・「数の問題」ではない・・・「幻想」は相対立する「理想」と「虚妄」に分岐し、「法」として現実化される・・・
 「ニッポン国家枠」の「プチブル意識の大衆」に崇拝されて「成仏」したのならオメデタイ・・・
 「世界が、地球が、勝手に線引きされた他国家に住む人々」を吹っ飛ばしたオメデタさ・・・
 「糞実践するよりも、思考する方がモット重要なんだ」って、か・・・タシカに「プロ」の「思想家」である・・・本売、売文のセールスマンの「アマ」じゃぁ、「唯の市井の人間」じゃぁ、食っていけなかっただろ・・・
 ・・・それに、「二ッポン独自で特殊な思想家」だなんて、オメデタイヤツも多いらしい・・・
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 NHK・ETV23:00
 戦後史証言プロジェクト
 日本人は何をめざしてきたのか
 知の巨人たち
 第5回(字)
 戦後の言論界を走り続けた思想家
 吉本隆明
 個の自立を説き、大学紛争の時代、若者たちの支持を得た。
 独自の思想を
 上野千鶴子さん、
 高橋源一郎さん
 他の証言で見つめる
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 ・・・「個の自立」って・・・ドコにあるんだか・・・「個のプチブル意識としての自立」・・・?・・・「自由の選択」はあっても、「関係性」に「自由」は無い・・・
 ・・・妄想がスギました・・・恋する「タマミ」はボクの「対幻想」、「存在論」ではなく、ボクの内なる「ego幻想」で、「認識論」の「範疇妄想」だが・・・