404日目・・・主体性の無い「フクちゃん」が「結構、今国会で多くの法案が通ってよかった」といっていた。この「法案の目玉」は「自衛隊海外派遣法」・・・「衆議院法案可決」→「参議院法案否決」→、「衆議院再可決」→「二院議員制度」ってナンなんだろう。特に「参議院」の存在は「議員屋」の食客を「税金」で無駄飯食わせているだけ?・・・それに、「自衛隊法」って「日本国憲法」を土台にした「法律」なんだろうかね・・・それとも逸脱した違反・・・中米の「コスタリカ国家憲法」には「軍隊・軍事力はコレを国家として有しない」とある

naie2008-01-15

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 以下、ウイッキペデア百科辞典から抜粋

 ペルシャ湾掃海派遣
 1991年(平成3年)6月5日〜9月11日。自衛隊法99条に基づき、海上自衛隊ペルシャ湾派遣掃海部隊を派遣する。
 ペルシャ湾(公海・イラク領海・イラン領海・クウェート領海・サウジアラビア領海)で機雷掃海を実施。

 インド洋派遣海上支援活動
 2001年(平成13年)11月〜2007年11月。テロ対策特別措置法に基づき、アメリカ海軍など各国艦艇への後方支援。
 海上自衛隊のインド洋後方支援派遣部隊が参加した。

 イラク人道復興支援活動
 2004年(平成16年)1月16日〜継続。
 イラク特措法に基づき、陸上自衛隊イラク復興支援群とイラク復興業務支援隊、航空自衛隊イラク復興支援派遣輸送航空隊が参加する。
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 これらの「条文」が「日本国憲法」に保証されているとは思えない。 「憲法に基づき」ではなく、「自衛隊法99条に基づき」から始まるのである・・・
 根っ子(日本国憲法)を腐らせ、その上に接木され立法される「法案」・・・接木と言うよりは、腐った老木に絡みついてその栄養分を吸い取っていく寄生植物の別種なツタが・・・主役・・・いずれ共倒れになるのに違いない。その場所で新たな芽が育って行くかどうかは「自然まかせ」であるのだが。

 今日も「世界の書物」から抜粋の続き・・・

 近代憲法の礎石・「法の精神」(モンテスキュー)・・・人間の本質を自由とし、その自由の社会的なあり方として”法”を追求した・・・ 日本の法の無力・・・
 ・・・一つの例として、過酷な法---刑罰の行きすぎが、専制政体をも腐敗させるということ、日本の場合について証明している。
 「この国ではほとんどすべての罪は詩をもって罰する。なぜなら日本の皇帝(徳川将軍)のように偉大な皇帝に対する不服従は大犯罪であるから、罪人を矯正するのが問題ではなくて、汚された君主の威光の復讐をすることが問題なのだ」
 ------生まれつき死を軽んじ、きわめてくだらない気紛れのためにハラキリをやるのが好きな人達を、処刑を絶えず見せつけることにより矯正しうるだろうか。懸命な立法者なら、日本人の性格に適した道徳、格律の適用により、人心教化に努力したであろう。刑罰によらねば抑制されぬよう人心が習慣づけられているなら、表立たない、気付かれぬやり方で刑罰を軽減するように努めるだろう(ケンプェル江戸参府紀行)。
 だが、専制主義はこのようなバネを知らない。いたるところで怯えさせられ、残酷になれた日本人の魂は、より大きな残酷によってのほか導かれえない----「法の残酷さがかえって法の執行をさまたげるのである。刑罰が途方もなくひどくなれば、しばしば刑罰よりも罰しないほうを選ぶ事を余儀なくさせられるのである(モンテスキュー)」
 ・・・人民集団ないしはその一部が主権をもつ「共和制」
 ・・・ただ一人のものが確立制定された法に従って統治する「君主制
 ・・・ただ一人が法もなく規範も無くして、万事を自己の意志と気紛れによって導く「専制政治体制」
 ・・・モンテスキューは権力の行使、法の適用の仕方の違いによって生体を分類している・・・
 ・・・法とは「事物の自然に由来する諸々の必然的関係」である・・・「それゆえ、初めてに一つの理性があって、法はこの理性と諸種の存在の間に存する関係と、これら諸種の存在相互の関係なのである」・・・
 ”三権分立”の表裏・・・
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 ボクのコトバ・・・「人間の本質を自由とし」の「自由」とは何か?・・・既に前に言ったが「自由」とは「選択の自由」でしかない。しかも脳みその中での信号機の赤、黄、青の「自由な選択判断」である。どれを選んでも勝手である。横断道路歩行の結果の保障は「運」である・・・当時の「日本のコト」を言えたがらかね、モンテスキュー君・・・「法の精神」・・・「事物の自然」に初めから「理性」があるはずは無いのであって、あるのは「自然存在の法則性」であって、「理性」はその「法則性=自然のあり方」の「表裏」を「法則」として人間が「コトバ」で捉え返したモノである。「自然の法則性」は人間を含めた生物の生命活動にとっては「寛容」であると同時に「過酷」で、「残酷」である。決して「優しい」ばかりではない。その枠内で「人間の社会生活」も築かれてきたのだ。そして、人類として、人間の社会生活としての「表裏の理性」を得たのだ。
 だから「理性」が「法則」であるならば「自然」に対する「歓喜、感謝=恐怖、畏怖」の表裏一体の表と裏の「事象の理解」である。
 その「人間社会」の「理性」とは「自然感情=個々の自我」を抑える共同体でのルール、「盗むな・騙すな・殺すな」であった。当然にもそれを犯したものは、自分自身はモチロン、その自らに属するモノを共同体から「盗まれ・騙され・殺される」のである。
 「法の精神」とは、「初めてに一つの理性があったモノ」ではなく、与えられたモノでもなく、人間が「そうあらねばならないモノ」として、考え、かち取ってきたモノなのである・・・人間の社会生活にとって「三権分立」が必要とされるモノではない。モンテスキューの時代、そして今現在、何故、その立法、司法、行政の「分立・分業」が「必要」とされるのか、その根拠が問題である、ナッ。