743日目・・・「四柱推命学」を「体系的学問」として考察してみるかナッ・・・

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 前回は日本の「政治家、数人の命式」を例題と示し、「四柱推命学」の修得を目指す学習者、研究者と、「四柱推命学」に興味を抱き、その「専門的な手順と判断」が難解であると思っているヒトを対象に、速戦的に「絵のイメージ」で基本的な「五行思想」とこの「思想」をベーシックに「コトバの意味説明」が理解できるように、と言う思いで、その「リンク先」を貼り付けたのだが・・・

 「自然界の学問体系」とは「物質界の変化に対する人間の認識理論」である。
 人間はその「自然界の枠内」で「人間社会生活」を営んでいる「生物」である。だが「人間の社会生活」とは単なる「生き死に(衣・食・住・生殖)」で動いているわけではない。基本的には脳ミソ機能を司令塔として意識的にも、無意識(無医識)的にも「言語生活」をしている「生物」である・・・人間だけじゃないかもだけれど・・・
 「言語生活」とは「音声コトバの相互理解」だけではなく、「音声コトバ」の文字化であり、その文字化による内容規定とは、

 「文明=文の意味、認識対象の内容を明らかにするコト」
 であり、
 「文化=認識対象化された文の意味内容を現実化、物質化するコト」
 である。文字を「物質化」するとは人間が「考え、設計したモノ」を、材料、原料、技能、技術、道具、機械などを駆使して「あるモノ」を「つく(作・造・創)りだす」と言うコトである。
 もちろん、「ルール=規範・規律=法律文」を作り出したら「法律内容」の実行、執行である。
 そして「言語化、文字化」されなくても想像、空想、妄想など「イマジネーション」が何かの「表現物・創造物」に、そして、ある人間の状況によっては衝動的に「行動、実践」として、してしまうコトもあるけどねッ。「無意識に」って、のも・・・「精神異常」・・・
 「脳ミソ」が正常に機能しなくなるときには「精神科」か、「脳外科」のお医者さんにも厄介かけることになるカモ。最近は「医者」もアテにはならんから・・・
 兎に角、
 単なる「音声言語での相互理解」はさらに緻密化された「文字言語での相互理解」となった。単純にいえば人間対象の「発明・発見」、「知識の累積・堆積」は「文字(記号も含む)で言語化」されてきたのである。

 社会組織の中での人間諸関係は「言語生活」を媒介にして「生き死に」をしてきた、と言うわけである。
 そして「人間社会の法則」とは「人間諸個人間の生活上のルール」に於いてである。
 「人間社会のルール」は人間がつくったモノであるから状況に応じて護られることもあり、護られないことがある。
 「文字化」された「憲法」が、「法律」が、「倫理」が、「道徳」があろうとも、「・・・そうすべきモノ・そうであるべきモノ」の「べき(可き・可し)」で、「実行、実現の期待を込めているモノ」であるから、状況によっては、その時々の「価値判断」で「法律」を護らない人が出てくるのは必然で、当然である。
 当然、「法律・掟」は「社会秩序」を維持する約束ごとであるから護らない人間が少数であれば、その少数派は「制裁・村八分」を受け、護らない人間が多数ならば「無秩序→革命・改革→新たな秩序」となるだろう。
 人間歴史が始まってから「倫理、道徳、法律・掟」は「社会秩序」であるが、この「人間社会の意識」は「階級序列社会」で、コレを維持する約束ごとは、「秩序破壊」者の排除である。究極的には「暴力行使」での「拘束、隔離、監禁、排除、殺傷」である・・・「諸共同体」の諸関係の秩序維持も究極的には「暴力行使=戦争」である。
 ある「社会協同体として生命体の維持保存」の根源は、相互間の「殺すな・騙すな・奪うな・差別するな」である。付け加えるならば、個々人の体力、能力、知力を区別し、それを踏まえた個々人間の「公平」である。これは個々人の「平等」と「対等」ではなく、「社会的な公平」である。
 だが、現実の歴史的人間社会は「階級序列社会」であったし、今現在もソウである。これらの「秩序」は「支配階級意識の一般化」としての「秩序」なのだ。「支配階級意識」とは「衣・食・住・生命」の「所有権→私有権」の「共同体全体に対する一般化」である。 コトバを選べば「ソレが当然、当たり前」と云うコトを「共同体個々人」が「前提」にしている、と云うコトである。
 で、「軍隊蟻の社会生活」や、「蜜蜂の社会生活」を観察しているとその「組織を維持」する「協業体制」を担うモノの体型までが「適材、適所の体型」でとなっている・・・蜂も蟻も巣別れするが、「自由」を渇望しての「反乱」ではない・・・その適職のポジションを死守するコトには個的な不満は無いようである。「階級社会」とは違うようであるのだ。女王蟻も女王蜂も「専制権力」を有した存在ではないらしい・・・個々が「自由」を自覚したらどうなるのであろう?・・・全滅である・・・日本に上陸し、日本蟻を駆逐しつつあるアルゼンチン蟻は卵を産む「女王蟻」が何匹も存在するらしい。

 似ているようなのだが、「中国(古代も現代も?)の律令官僚社会」は取り敢えずは「帝王」を頂点にする「律令=法律」を有した「法治国家としての分業体制」になっている。日本国は明治になって「私有財産制」を根幹に据えた「立憲君主国」になった。取り敢えずは「君主」を頂く「私有財産制の法治国家」となったのである。
 「法治国家」の「憲法・法律」だが、「国家を治める」約束事のコトバを文字化したものが「法」である。「約束法文」によって「国家」の「秩序=人間諸関係」を「治める」と言うことだ。
 秩序維持・・・問題は人間社会が「階級社会=私有財産制=財産私有の多寡」になった時に「秩序」も「階級社会秩序」となってしまったコトである。「財産=富=余裕」とは「社会協同体」に「公平に管理分配されるモノ」だったのが個的な人間に「私有財産」として「蓄積」されたのである。
 その「蓄積の方法」は様々であった。共同体内での博打、詐欺、強盗、強奪、ほとんどが恫喝的、恐喝的、威嚇的、暴力的に。時には「交易・交換」的な場合もあるのだが。他の協同体との戦争では勝者は有無を言わせず略奪して「私有財産=個人が自由に処分できる富」を蓄積する・・・そして租庸調などの「国家の法」によって・・・「税」としての搾取で。

 階級社会の「主権者」とは暴力的な「生殺与奪の命令権」を握った者であり、「支配階級・階層」とはその「主権者」のおこぼれに預かるコトが出来る階層分化された追従者である。
 その「秩序」とは基本的には「暴力的執行」を基盤した「階級・階層秩序維持」の「収奪・搾取の法律」である。

 そして、この「階級社会の秩序」の中に組み込まれた「個々人」の誕生から死に至るまでの「履歴決定」、社会的な諸関係の中での「人生傾向」が「決定」されているのではないか、と言うのが「四柱推命学」である(?)。
 当然、「古代中国階級社会」から延々と続いてきた「律令制度」の中に組み込まれ、人間支配管理の「帝王学」としての「運命学=思想」である。

 「官僚律令制度」が要求したのは「階級支配国家」を担い維持する個々人の「適職能力・資質」である。しかも合理的な「科挙制度」によっての人事採用であった。
 「後宮の宦官(去勢された男)制度」は、徳川幕府の男子禁制の「大奥=世継生産、養育機関」である。去勢されても「男の腕力」は女性よりは勝っていたから・・・

 そして「官僚律令制度」の中に組み込まれた個々人の「出世能力=上昇能力=実力・要領・駆け引き=運気・運勢」である。そして、「官僚同士の相性」である。「人事考査」にはなくてはならないモノが「四柱推命学」であった。取り敢えずは「合理的」ではあったが、「皇帝自身」も、この学問の「考査」の対象となった。
 「後継皇帝」は日本流に言えば「官僚」にとっては「律令制度の皇帝機関(説)」であったかも・・・「皇帝の資質」よりも「官僚」が動かす「支配システム」の維持である。そして官僚派閥間の利害関係に於ける「人事考査」である。
 自己保身と出世を願望する「日本国家行政官僚」が巣食う「霞ヶ関のシステム」とドッコイ、どっこいカモ・・・親分子分関係の「任侠道派閥」も、「政党派閥」も、「司法派閥」も同類であるな・・・いかなる対人関係も「支配秩序」の体制を維持する「人物分析」が必要なのさ。
 一見、「自然弁証法」的な「弁証法」で組み立てられているのだが・・・その「根拠」である「唯物」とは「抽象概念」化された「実体存在の動的に結合変化」する
 五行=木・火・土・金・水
 と、それら個々の「五行」の「構成実体物」としての
 各十干=+-木←+甲-乙
     +-火←+丙-丁
     +-土←+戊-己
     +-金←+庚-辛
     +-水←+壬-癸
 などの「陽(+)陰(-)」に分別された「モノ自体」である。
 更に「史的唯物論」には、これらの関係性で決定される
 「変通」=比肩・劫財
      食神・傷官
      偏財・正財
      偏官・正官
      偏印・印綬
 などの人格傾向と
 「自然弁証法」な
 「十二運」=胎
       養・長生・沐浴
       冠帯・建禄・帝旺
       衰
       病・死・墓
       絶
 「発生、プロセス、完了」の
 「始〜終」の
 「変化、進行」である。

 律令階級社会の各組織を担う人材=役職官僚の「適職」とは

 「比肩」=自己主張力

 「劫財」=我慢忍耐力

 「食神」=柔軟調和力

 「傷官」=鋭敏完璧力

 「偏財」=財貨融通力

 「正財」=財貨余裕力

 「偏官」=現実実践力

 「正官」=規範実践力

 「偏印」=専門知識・発想探求力

 「印綬」=教養知識・記憶力

 を有する「人物」である。これらは殆どの「人間」に備わっている「スベての資質」である。だが、これらの「十の変通」がバランスよく、機能的に、ポジテブにとれているヒトは存在しない。いずれかに「偏っている」のだ。しかも、それらの「機能性の発揮」はその時期と環境に左右される。

 他には「変通が偏った特別なモノ」や「変通変化」するモノもある。
 確かに個々人の「格式変通」はそれなりの「適職傾向」を暗示している。

 現内閣には「四柱推命学」上では「政治家」には向かない「変通格式」を有する人物が多い。だが・・・現実的には「適職」がその「地位」を保証するわけではない・・・
 ある時期の「成功」や「地位」を保証するのはの「天の時・地の利・人の和」の「弁証法的」な絡みとしての「運勢」だから・・・

 「偏財格」の人物は物資の融通分配、「正財格」は蓄積管理の「数字の計算」には長けているから財務、大蔵官僚だろう。

 「偏官格」は秩序維持のための行政的な現場での現実的な指揮を執る軍人、警察官僚である。

 「正官格」はオフィスで規範命令作成、指揮、伝達の能力を有する律令官僚政治の要に類する官僚だろう。

 「偏印格」は専門領域の研究、探求のアイデアに長け、組織的な活動には向かない思索的で空想的、個性的でユニークな官僚である。

 「印綬格」は記憶力のいいプライドの高い学問知識を有する学者、教養官僚だろう。

 「食神格」は「調理・配膳」官僚である。楽天的で器用であるから宴会、パーティ、イベントの演出にも長けている。

 「傷官」は表現、創造の絵画、彫刻、音楽、舞踏、建築の「芸術・技術」官僚である。築城設計や土木設計の細密にする。

 「比肩(建禄格)」は独立独歩、自己主張の強い星であるから、官僚組織からは外れた所でボスとなりやすい。一般的には「比肩建禄格」に隣接する生月天干の変通が適職となる。そこに位地する変通も比肩、劫財ならば生時天干の変通が適職である。

 「劫財(羊刃格)」は律令体制では官僚組織から外れた博打三昧のアウトローだろう。一般的には「劫財羊刃格」に隣接する生月天干の変通が適職となる。そこに位地する変通も比肩、劫財ならば生時天干の変通が適職である。
 そして「変通、格式変通の意味」はコインの「表裏・裏表」である。その意味のイイように働く事もあれば、その意味のワルイように働く事もある。その時々の個人を取り巻く環境、状況によって、
 善・善人・利・得・躁・快
  ↑
 変通・格式変通の出来事・事象
  ↓
 悪・悪人・害・損・鬱・不快
 で「喜怒哀楽」になるのはアタリマエである。だがこれらの「出来事(変通の表裏の意味での)」に対する「喜怒哀楽」の「心=感情」は現実的な社会生活諸関係での「結果としての吉凶」を保証しない。生きて、生活していくと言うことは何事も「塞翁が馬」の連続と繰り返しである。別な言葉もある「吉凶糾なえる縄の如し・禍福はアザナエル縄の如し」

 で、これらの「十の変通」は前提的にすべての「生きている人間」が有する「星=変通」である。「四柱の命式」に有しなくても、命式表面に欠落している変通は潜在的に有して「不活発」である、と言うことである。
 「格式変通」は。その意味に於いて、ただその人物の適職の傾向資質の強さを示唆しているだけである。そして、その生き方を志向すると言うことだ。加えて、「格式変通」に隣接する「変通」がヨクもワルクも「格式変通」に影響する。だから人生の現実的なプロセスでは「適職」を望んでも、運勢のバランスによって「適職以外の職」に就いているのも自然である。
 世の中には食っていくためには「二束の草鞋(わらじ)」を履く人がゴマンといる。あるいは能力以下の給料に甘んじている人も。
 現実的には「就職難」ではない・・・レベルを下げたくない人間の就職難である。いわゆる「3K」と言われる仕事をやりたくないだけのコトである。「3K」仕事の経験は一時的でも世の中と言うモノが見えてくるのに違いない。
 「3K」とは労働環境・作業内容が「きつい (Kitsui)」「汚い(Kitanai)」「危険(Kiken)」と言う事である。
 放浪する冒険家には住む家も立派、そして配偶者も子供もい、「経済的な生活環境」に苦労も無いが、自分自身を「目的自体」を達成するために「3K環境」に身を置いて命を懸けている奴もいるらしい。きっと貴族か、皇族か、資産家か、高級官僚か、一山あてた山師か、事業家の裕福な家系に生れ落ちた奴なんだろう・・・「3K環境」に身を置いてイツモ「命を懸けている?人気タレント」、眉毛の濃い女性の「イモト」はエライッ!!・・・使い捨てにされるなョ、ナッ・・・
 が、余裕の無い貧乏人は日常が、日常性が「3K環境での生命活動」に置かれているのだ。その置かれた「3K環境の目的」とはナンだ・・・取り敢えずの「衣食住の確保・命の確保」である。そしてチャンスがあれば、「適職に転職」である。ベンチャァー企業設立である。「適職」でなくても「転職」が出来き、給料アップになった奴は結構、毛だらけかも・・・ネコ、灰だらけ・・・で、携帯を手にし、「PC」を前にしている奴の「生活の余裕」ってなんだろう?
 そんな状況をみて、そんな「3K仕事」はしたくないのが当たり前だろう。今現在、「3K」を出来る人は「エライ」のである。ダレにでも出来る仕事ではない。だが、ムカシは殆どの人間が「ダレでも3K環境」に存在したのだ・・・時代が違う、って・・・確かに親の脛を齧っていられる人間も多いしな・・・親に余裕があるのか・・・すべてではないが、あるらしいなッ、振り込め詐欺に寄付しているらしいから。とにかく、戦後、ガンバッた世代と、その子供の団塊世代が親らしいから・・・「赤字国債」だって「日本国民からの借金」だし・・・物質不滅の法則から言えば国全体はカネガネが潤っている「黄金のジパング」である。
 ボクの経験では、「高給」でも、そんな仕事はアルバイトでも一ヶ月が精々の肉体的限度だった。カラダが持つハズがない。生きているうちは「身体が資本」だから、今現在のボクも「3K環境」では働きたくないと、思う人間であるし、ある。
 だが、文句も言わず、一日8時間労働で「3K環境」で、一生涯の仕事とし、ムカシも今現在も「寿命を終える奴」もいたし、いるだろう。
 だが、人生は、生きてる限り、映画以上に「面白いコト」がいっぱいである。

 「四柱推命学の科学的合理性」とは「十干と十二支の組み合わせの関係数理」のことである。単純な円盤状の「数理学=幾何学」である。円盤とは天空円盤で、その360度を区分し、組み合わせたモノである。だが、地球を取り囲む実体のエネルギー区分、配分を合理的に認識しようとしたモノなのだ。
 ここでは、「五行十干思想」、基本的には「六十干支(五行思想)理論」を天文、物理学的な太陽と惑星、衛星などのエネルギーと地球のエネルギーの相互諸関係(物理的・化学的・電磁気的)、
 その
 相互諸反応(物理的・化学的・電磁的)の
 「事象・現象」と捉え返し、
 その影響下に
 動植物、生物、
 あるいは
 人間家族諸関係、
 社会生活の中で
 特殊個別的な
 人間個々人の履歴決定、すなわち生命、生活現象があるのではないかな、と追求、探求したモノである。

 小学生時代に学校で学ぶ、「自然科学」を基礎に思考しても、基本的に地球に対する
 「太陽エネルギーおよそ365日の循環周期」
 と
 「月の重力エネルギーおよそ30日の循環周期」
 そして
 「諸惑星の位置エネルギー
 が地球の環境に及ぼす影響は当然にも甚大であることは簡単に理解されるだろう。モチロン、自然界の天候、気候が個々人の人体に及ぼすシミ、そばかす、腰痛、体調変化などの経験も知識として理解させるモノであるに違いない。

 「自然科学」には発見と言う認識に「偶然」と言う言葉はあるが、その「自然界存在の変化」には「偶然」と言う言葉は無い。あるのは「自然の必然」である。
 そして社会生活の中で個々人の「衣食住」に及ぼす「自然環境」は「健康、体調」の「生命現象・生理現象」に「決定的」である。そして今回のオーストラリア、ブラジル、スリランカの豪雨が「世界経済」に影響を及ぼすことも必須である。
 これを踏まえ、個々人の人間の「宿命・運命=生命・生活」の歴史性(履歴性)=時間性をその「運命学=個人と、その取り巻く環境の相関関係の変遷、変化」とし、「唯物弁証法」に則って追求した。

 「宿命(持って生まれた生命の傾向性)」、
 「運命(生命がプロセスとして遭遇する諸環境との関係)」
 「宿命」は
 生物学的な「遺伝子学」に重なる「決定論」である。

 「自然界」が「プログラム」した、なるべくものになる「必然の本質」である。

 「運命」は
 「必然の本質」に「活動、形態変化」の契機を与え続ける「環境」である。
 すべての「存在」は、ある契機を境にして、
 「必然の法則性」を以って
 「なるべくモノにしてなる」と言うことだ。

 個々人の人間は、「あなた自身」にしかなれない、と言うコトである。

 そして「人間」としての「肉体」を有し、「生物界の一部」となったのは
 「自然」で「必然」だった。

 その「人間」が「社会的生活」を創めたのも「自然」で「必然」であった。
 その延長線上に
 「人間の文明・文化」が存在することも「自然」で「必然」であった。
 だが、「家族生活、社会生活」の中で生きていく個々人の生き方も、「自然」で「必然」である、と言うことだが、特殊、個別的な個々人の「人生の履歴」は「必然」なのか?・・・結果論的にはそうであるかも知れない。
 だが、未だ生きている人間の「結果」は先のことである・・・人間の「意志」が皆無とは面白くない「学問」ではあるな。
 「決定論的」な「法則性の範疇」で「人間」は拘束されているなんて、信じたくも無い・・・のだが・・・
 ココが「社会的人間」はその存在関係(階級関係)を認識、自覚したならば「主体的な自分の意思と意志」でその「不合理、理不尽な人間社会」を変えていくのだ、と云う「史的唯物論」とは決定的に異なっているのだ・・・「弁証法」を「学問」として理解しても、寝ていては「自分自身」も「世の中」も「階級秩序」は変わらないのである。
 ・・・「四柱推命論」は、その「己の存在」と「己を取り巻く環境」をイイ意味でも、ワルイ意味でも「自覚」させてくれる切っ掛けにはなるだろう。
 「宿命」とか「運命」に興味を持った人間の切っ掛けは、その時、「自分自身」が「危機的状況」に陥っていると感じたか、考えたからであるに違いない。そして打開策を「模索」している時である。あるいは、生きて危機的状況を「経験」した人である。何れも「先行き」を知って、その生き方を「主体的」に対処していこうと云うヒトに違いない・・・その「先行き情報」が「プラス」であれ、「マイナス」であれ・・・そう、簡単には「人間」は「合理的」には生きられない。「社会的人間」として、個々人相互の諸関係の中で「プロセスを認識、思考、判断」していく「弁証法」的な生き物であるから・・・

 「自然存在の決定論」は「自然界、全存在の法則性」である。
 一般論的に言えば「あらゆるモノは、諸存在の諸関係で変化」する、と言うことだ。
 「進化」でも「退化」でもなく、「変化」である。
 でも「人間」は
 この「決定論=自然界の法則性」を
 知識として「認識」し、更に「認識しつつある存在」である。

 「人間」は
 「自分自身の存在」を「他との関係」で認識し、
 「意識的に知ろう」とし、「意識的」に生きていく存在である。

 この「学問体系」から得れる「認識論的」な「人間」としての「結論」は単純である。
 「人間の生命活動の終始が必然」であるならば、
 「人間」は自然に対しても、社会に対しても
 「人生」はいかなる時も、
 「主体的、自覚的、意識的な覚悟」が必要、
 と言うことにつきる。
 「覚悟」の問題である。
 そして、「生きていく」のサッ・・・どのように「生きていく」のか、「人間としての立場」が問われるのだ。

 時と場所、環境に於いて
 個々人の「認識・思考、思弁・判断・決定・決断・実行」は様々である。
 個々人の過去的経験と技能、技術、知識、教養、能力に於いて
 「意識的」な生き方は様々であるが、「人間社会協同体」の「原理」は初めからあったわけではなく、人間自身が人間存在の在り処として試行錯誤し、その「理屈・理論」をこうアルベキモノとして構築し、実現してきたものである・・・その実現とは「勝ち取ってきた」という事である。
 ・・・駄文かも・・・