612日目・・・ ・・・「経済学の数字」ってナニ?・・・世間のヨメさんが記入している「家計簿のお金の数字(?)」と同じものなのかな・・・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には「A・マーシャル=アルフレッド・マーシャル」の記述があるので抜粋して考えてみたいのだが・・・

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 A・マーシャル=アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall、1842年7月26日 - 1924年7月13日)は、イギリスの経済学者。新古典派の経済学を代表する研究者。ケンブリッジ大学教授をつとめ、ケンブリッジ学派と呼ばれる学派を形成した。
 同大学の経済学科の独立にも尽力した。主著は、『経済学原理』("Principles of Economics",1890年)。ジョン・メイナード・ケインズやアーサー・セシル・ピグーを育てたことでも知られる。
 マーシャルは、彼の時代において最も有力な経済学者の一人となった。
 彼の主著『経済学原理』では需要と供給の理論、すなわち限界効用と生産費用の首尾一貫した理論を束ね合わせた。この本は長い間、英国で最も良く使われる経済学の教科書となった。
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 なんか、カンジ(感じ・漢字)からして難しそう・・・小さいころに考えたことあるんだけれど、ボクがこっそりオバちゃんからもらった「10円」を「黒い色の炭川」に通じている下水道に落としてしまった。探したけれどね、どこに流れていってしまったのか、見つからなかった。
 それで、取り返すコトのデキナかったこの「10円」は一体全体、どのように考えればイイんだろう、ってさ・・・この「10円」はボクが街の駄菓子屋で買おうとしていた、「一粒で100メートル走れる(?)」って箱に書いてあり、ランニング姿のランナーの絵が描かれていた「グリコのオマケつきキャラメル」なんだけれど・・・最近は「一粒で二度おいしい」ってコピーも目にしなくなったけれど、「二度」って、得する感じだよねッ。とにかく「10円」もらったんだけれど、落としてしまって、ボクの目的とするモノが手に入らなくなった。「10円」くれたオバちゃんにも落としたことも言えずにさッ・・・
 あの「10円」、オバちゃんがくれる前はオジちゃんの稼いで来た「給料の一部」、その前はドコにあったんだろうって・・・会社の「金庫の中」・・・その前は・・・「銀行の金庫の中(?)」・・・当時は小学生低学年の坊主だったから「銀行」って知らなかったし、思いもつかなかったハズだけれど。でも、オジさんがどうして「給料」もらえたのかどうかは知っていた。炭鉱の会社で「仕事=労働」したからだって。炭鉱の会社で働いて得た「金」がオジさんの「給料」だってコトぐらいはねッ。でも働かなきゃ「給料」はもらえないんだ、ってことはわからなかったな。どおして働かなくちゃぁ「給料=お金」がもらえないんだろう?ってサッ・・・なんか働かなくても「お金」を持っているいるヒトがいたみたいだから。で、「お金」がないとキャラメルが手に入らないんだよね、ボクとしては・・・あの行方不明になった「10円」は炭川のドコかにあるはずで、いまだに「ボクのモノ」のハズなんだけれど・・・どういう事なんだか・・・ボクも困るけれども、この世の中から「10円」が無くなったらダレかも困るんだろうか、ってネッ。駄菓子屋さんのオバァちゃんが困るよな・・・鉄くずを拾って街の雑品屋さんで「10円」で交換してもらえるけれど・・・鉄くずを拾うことも「働いて稼ぐ」ってコトだろうに、「コドモ」が勝手に「お金を得るコト」はダメだったらしい。以前に友達のオカァさん連中に怒られたコトがあったけれど・・・その「お金」で買い食いしたコト(?)だったかも・・・それでも落とした「10円」はどうなるんだろう・・・

 以前読んだ「テラスで読む経済学物語(TG・バックホルツ著)・日本経済新聞社・1991年6月発行」には「マーシャルがマルクスの労働価値論を論駁するのに時間を割いている」とあり、その引用箇所があったのでカキだしてみる。
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 労働は常に労働の賃金と労働を補助するのに使用される資本の減耗分を上回る”剰余”を生み出し、労働に対してなされる不正とはこの剰余が他人によって搾取されることであると主張する。
 しかしこの剰余をすべて労働の所産とする仮定は、彼らが究極的に証明しようと公言していることをすでに当然のことと見なしている。彼らは証明しようともしていないし、この考えは正しくもない。
 機械の減耗分を控除すれば、工場での紡績が工場労働者の所産であるというのは正しくない。
 それは彼らの労働と同時に、雇用主や中間管理職の労働、さらには使用した資本の産物である。
 また資本自体が労働と待忍の産物である。
 したがって紡績はいろいろの種類の労働と待忍の産物である。
 もしもそれを労働と待忍の産物でなく、労働だけの産物であると認めてしまうならば、論理必然的に待忍の報酬である利子を肯定するものは何もないことを認めざるを得ないだろう。なぜならそういう結論が前提の中に含まれているからである。
 ・・・略・・・ロードベルトゥスやマルクスが世の苦難によせた同情心の強さは常に敬意を受けるに値するが、彼らが自分達の実践的提言の科学的基礎とみなしたものは、利子を経済的に正当化するものはないという一連の循環論法を出ないように思われる。・・・・
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 と記されている。「A・マーシャル」は「ヘーゲル哲学」を理解できなかったらしい。この最後文章に「マルクスが”媚を売った”神秘的なヘーゲル流の言葉遣いで隠されているが」と、この本の著者(TG・バックホルツ)が引用されているから・・・「神秘的」な「ヘーゲル流」だからネッ。「TG・バックホルツ」自身はどうだったんだろう?・・・「神秘」だったのかね。
 「利子」ってドコからくるんだろう・・・銀行に預けたら「利子」が付くと思っていたけれど、金庫を借りて「保管料」が取られるならばワカルけれど、「現金預け、出し入れ機械使用料」とかで、一時はカネを銀行に預けるにも不本意(?)な「手数料(?)」が取られたけれど・・・「利子」にも色々あるが「利子」の大本は「労働」である。そして「労働=総労働」と言うコトバは「特殊的・個別的・具体的」な「労働」が「抽象化・一般化」されたコトバである。そしてこの「労働」が「関係対象を変化」させて行くプロセスのコトバとして「資本」と言う「コトバ」になる。

 資本=キャピタル=A capital fund

だが、その「資本」にも色々なモノがある。
 で、英語の「capital」にも日本語訳では色々ある。
 「首位の・主要・重要・主力・首府・首都・優秀な・資本・元金」、そして「頭文字」である。類似アルファベットの「Capitol」は「神殿」であった。
 「make capital out of・・・」の日本語訳とは、「・・・につけ込む」とある。「つけ込む」である。

 「資本=労働」、「資本家=労働者」は「対」のコトバである。「労働=資本」、「労働者=資本家」と逆にしても「対」のコトバである。最近は「資本家」とは「投資家」のコトであるらしい。金持ちであろうが貧乏人、賃金労働者であろうがホームレスであろうが「投資家」にはなれるのだが・・・
 当然。「雇用主や中間管理職の労働」は「労働」である。
 そして「さらには使用した資本の産物」は「過去の労働=蓄積された資本」で「労働の産物」であるな。
 で、「待忍(タイニン?)」とはナンだろうか?不思議なコトバである。

 「待」の熟語には
 「待機・待遇・待詔・待制・待望・待命」
 があり、
 「応待・款待・期待・客待・虐待・招待・接待・特待・薄待・賓待・優待・蘭奢待
 があるが、「待忍(タイニン?)」は無い。

 専門的「経済用語」とも思われないが・・・「忍耐」して「待つ」、あるいは「忍び込んで待つ」のが「資本」であるとは「詭弁」であるな・・・「忍びの術」の「忍術・忍者用語」かもネッ。
 それに「利子」は
 →労働市場→雇用→生産労働→生産物製品
                 ↓
               流通市場(交換市場)
                 ↓
               商品販売(需要・供給)
                 ↓
               売れた価格(売れない時もアル)
                 ↓
               販売価格(生産原価の+ー)=損得
                 ↓
 得(利益)→結果としての蓄積された労働生産物の価値→労使の利益分配→預金(剰余労働の一部)→投資(蓄積された預金)→給料・賃金・地代・メンテナンス・設備費等など→労働→生産製品→流通→商品市場→売買価格→利益・利潤→配当利子→資本家(投資家)

 であるな。単なる「循環論」ではない。「スパイラル(螺旋状・ネジ状)」としての時間的な「溝の区分、期間の質」の異なる「循環」である。「利子」は「利子」でも同じ内容の利子ではない。もちろん、「労働」は「分析された一般化されたコトバとしての抽象概念」であるが「同じ労働」などと言うモノもない。異なる「労働」とは職種的にも状況環境的にも具体的で特殊、個別的なダレダレの「労働」と言うことだが、「マルクス」が「経済学的」に分析した「労働」とは「社会的総労働」のコトである・・・「利子」も「過去の労働の所産」であるな・・・「先払いの利子」みたいのもあるカモ・・・だが結果としての「元本」が戻るかどうかはヤッパ「結果」としての可能性だろう。
 「マルクス」の言っている「労働」とは「個人の労働」ではない。時間的、歴史的なプロセス、その「結果」としての「社会的総労働」と言うことである。
 そして時間的結果を踏まえた「社会的な総剰余労働」の「配分の一部」が「資本」と言うことである。再度投資されるべき「資本」は「社会的剰余労働」の全てではない。タンス預金になる場合もヘソクリになる場合もある。コレって「待忍(タイニン?)」・・・?
 で、ボクが真っ黒な石炭の沈粉した炭川に落とした「10円」は、「経済学上」でドウいう「意味」があるんだろう・・・使用されないモノとして意味が無いか・・・