2291日目・・・ダレにカタロウか・・・「武殱視語訳=むつみごと=陸奥見事(己事)=秘め事(言・語訳)」?・・・「無罪事」・・・「告白=コクハク=酷薄・刻薄」・・・「快感の代償」・・・「密告」・・・「告発」・・・???・・・

ーーーーー
  平仮名   真名仮名
 「たちつてと=太知川天止・・・知る川は太く天に止まる
  ↓↑    太洋・太平洋・太乙・天太・太陰・太陽・太極
  ↓↑    太安万侶
  たち=太刀・性格・性質
     ↓↑
     伊・起・縁・勃・気・御
  たち=達・立・起・発・性・経
     観・案・床・生・性・験
     ↓↑
     断・凾・再・総・決  
  たち=絶・舘・建・裁・断
     対・山・築・縫・絶
  ↓↑
  片仮名
  タチツテト
  ↓↑
  多→タ(多の上の部分)・・・夕方・夕暮・七夕
  千→チ・・・・・・・・・・・干(ひる=蛭)・干拓
  川→ツ・・・・・・・・・・・巛・氵・津
  天→テ・・・・・・・・・・・亍(一丁)・弖・氐
  止→ト(止の右上部分)・・・ト・・・朴
  ↓↑
  タチツテト=他知通弖(氐)訳」
ーーーーー
 ・・・問題は「何怒(なにぬ)ねの」だが・・・?
 ↓↑
 奈 → な
 仁 → に
 奴 → ぬ
 祢 → ね
 乃 → の
 ↓↑
 奈 → ナ(奈の左上部分)・・・名
 二 → ニ・・・・・・・・・・・爾・似・邇・耳
 奴 → ヌ(奴の右側部分)
 祢 → ネ(祢の左側部分)
 乃 → ノ(乃の左側部分)
 ↓↑
ーーーーー
 天乙(テンイツ)
 紀元前1600年頃)
 商朝の初代王
 名は履・・・履=くつ=沓・靴・堀・屈・掘・窟・九つ・九十
            舃・舄・倔・崛
            履歴=経歴
 殷墟出土の甲骨文占卜に
 大乙、
 名は唐、成
 湯王(湯)
 太乙・・・タイオツ=太い乙(乚)→Z?
 成湯・・・温泉?・・・沸騰は百度、湯気?
 成唐・・・唐=广+肀+口・・・庚+口?
         「肀=手の指の握(にぎる)・把握?
            熊手・hawk」?
           でたらめ・から・もろこし・だしぬけ
           トウ
     荒唐無稽・唐突・唐黍
     「聿」=筆・はじめ(肇・始・初)
     「肀」=「ヨ(∋)+I」
     「肀」=「申」-「1(申の左側の1を除いた字)
               尹or(丰+1)」
                  丰=すがた・フウ・ボウ
     後唐(923年〜936年)
     十国の1つ
     李昪(リベン)が建てた国
      昪=日+弁(ム廾)・・・・日を弁える・日の弁別
     南唐(937年〜975年)
     五代十国時代の「十国」の一つ
 とも呼ばれる
 ↓↑
 勢力を制圧し
 中原の覇権を得、
 「亳」に王都を築営・・・亳(高い丘に造った都・ハク)
 ↓↑          亳=亠+口+冖+乇(ノ七)
               乇=じっと定着
                 宅=家屋
                 托=手の平にじっと預ける
                 託=言葉で頼みじっと預ける
                   あずける・まかせる
                   チャク・タク
 ↓↑          毫(細い毛・わずか・ゴウ)
             毫=亠+口+冖+毛
               狼毫笔=イタチの毛の筆
               羊毫笔=羊毛の筆
               毛筆
       你敢动我一根毫毛!=指一本でも触れてみろ
               毫可以指=角(貨幣)
               角は粵語(エツゴ)=広東語
               の稱呼で
               貨幣の單位
 ↓↑            即、十分の一元
 殷の建国者
 ↓↑
 天乙は
 夏の最後の
 「桀」を追放し・・・桀(はりつけ)=磔刑
 ↓↑        磔=石+桀(舛木→夕ヰ十八)
           舛=違う・背く・錯乱する
             違える・間違える・悖る
             違背する・乱れる・交わる
             セン
           舛午(センゴ)=命令に背いて従わないこと
                   午=忤(さからう)
           舛錯・舛駁・舛令・舛訛・舛謬
           舛差(センサ)=食い違い
        性命無舛差=性命ニハ舛差無シ(梅尭臣の詩)?
           磔=張り付けて「窒息死」させ、
             死の確認を槍で突き刺し確実にする
             ナゼ「石偏」なのか?
 ↓↑          張り付けて、石打ちで殺した?
 ↓↑  天草四郎(あまくさ しろう)
     益田四郎(ますだ しろう)時貞(ときさだ)
     元和七年(1621年)・元和九年(1623年)?
      〜
     寛永十五年二月二十八 日(1638年4月12日)
     キリシタン
     「島原の乱」における一揆軍の指導者
     本名は
     益田四郎(ますだしろう)・・・舛田四郎?
     諱は
     時貞(ときさだ・ジテイ)・・・字綴?
     洗礼名は当初「ジェロニモGeronimo)」
 ↓↑  島原の乱当時「フランシスコ(Francisco)」
 夏(なつ・カ)を滅ぼした
 ↓↑
 桀は暴虐な政治をし
 人心は
 夏から離れ
 夏の臣であった
 「天乙」は・・・・・天乙(天音)貴人
 「伊尹」・・・・・・「伊達の尹(おさ・ただす・イン・
               長官)」
 の補佐を受け
 桀を攻め、これを滅ぼした(鳴条の戦い)
 書経
 桀を滅ぼす時に諸侯に向けての演説
 『湯誓(トウセイ)』がある
 ・・・「トウセイ=統制・東征」?
 天乙は
 夏の禹(ウ)・・・・ナツのウサギ=捺-得詐偽(詐欺)
 周の文王、武王
 と並び聖王と崇められた
 ↓↑
 『荘子』記録
 ↓↑
 「太=は至高を、
    太一は唯一・・・太(ふとい・タイ)=一の人の全(ゝ)
    根元を表す語」      ゝ=チョン=全
                 ゝ=あるじ・灯火  
 ↓↑                壹の人、主(あるじ)
 『荘子』天下篇に
 戦国時代の諸子百家のうち
 「道家」が軽んじたもの
 『呂氏春秋』大楽篇では
 「道」のこととし、・・・・軌道・黄道白道・黒道
 「道」は形がなく、
 名づけることもできないが、
 強いて名づけるなら
 「太一」であるとし、
 太一から始まって
 太一、
 両儀
 陰陽、
 万物
 という宇宙生成論を唱えた
 1993年
 「郭店楚墓」から出土した竹簡
 『太一生水』に
 太一から始まる
 太一、
 水、
 天、
 地、
 神明、
 陰陽、
 四時、
 倉熱、
 湿燥、
 歳
 という「生成論」が見られる・・・
 ↓↑
 『淮南子
 『淮南子』天文訓
 「紫宮は太一の居」
 としたり、
 『史記』天官書において
 「中宮-天極星、
  其の一に明るきは
  太一の常居」
 とされ、天上世界における宮殿
 「紫微宮」に位置する星とされた
 『史記』封禅書で
 「謬忌」が
 漢の
 武帝
 太一を祀ることを進言
 太一を天神の尊きものとし、
 太一の補佐を五帝とした
 武帝
 太一壇を設け
 天一・地一・太一
 の
 三神を祀った
 以後、
 太一は天の中心に位置する
 「北極神」と解され、
 天皇大帝
 や
 昊天上帝
 といった
 至高神と
 同定されることもあった
 後漢
 「鄭玄」は・・・鄭玄=酋(八酉)大(一人)阝(邑)亠幺
         ユダ=湯田
         ユダ(猶大)・イスカリオテ(加略人)
         猶(なお)・猶子(ユウシ)・猶予(ユウヨ)
         猶太(ユダヤ)・・・イスラエル=以色列
 『易』の注釈において
 太一を
 北辰(北極)の神とし
 八卦に配当された
 九つの宮殿(九宮)を
 順次めぐってゆく
 「太一九宮の法」を記した
 ↓↑
 唐・宋代
 太一・摂提
 軒轅・招揺
 天符・青竜
 咸池
 太陰
 天一
 の九神が支配する
 九つの宮殿とし(九宮貴神)、
 太一神が九宮を巡行し
 禍福を占ったり、
 九宮貴神壇を設けて祭祀を行った・・・
 ↓↑
 「太極」
 万物の根源
 ここから
 陰陽の二元が生ずる
 『易経』繋辞上伝にある言葉で
 「易有太極=易に太極あり
  是生兩儀=これ両儀を生じ
  兩儀生四象両儀四象を生じ
  四象八卦四象八卦を生ず
  八卦定吉凶=八卦は吉凶を定め
  吉凶生大業=吉凶は大業を生ず」
 ↓↑ ↓↑
 「朱熹(シュキ)」=「朱子(シュシ)」
 は
 「周敦頤が太極の前に冠した
  無極は太極に先行するものではなく、
  太極の性質を形容するものであるとして
  無極にして太極」
 と解釈した
 ↓↑
 朱熹(シュキ)
 1130年10月18日
 (建炎四年九月十五日)
  〜
 1200年4月23日
 (慶元六年三月九日)
 中国南宋儒学者
 字は
 元晦・仲晦
 号は
 晦庵・晦翁
 雲谷老人
 滄洲病叟
 遯翁
 など
 別号は
 考亭・紫陽・・・紫陽花(あじさい)
 謚は
 文公(ブンコウ)
 朱子(シュシ)
 と尊称され
 祖籍は
 徽州婺源県(江西省
 南剣州
 尤渓県(福建省)に生まれ
 建陽(福建省)の
 考停にて没
 儒教の精神・本質を明らかにし
 体系化を図った
 儒教
 中興者で、
 「新儒教」の
 「朱子学」の創始者
 ↓↑
 「朱熹」の祖先は
 五代十国時代
 呉に仕えた
 「朱瓌(シュカイ)
  瓌は懐の忄(りっしん偏・立身)を
  王偏に変えたもの
  婺源(ブゲン・江西省婺源県)の
  守備に当たったことから
  この地に籍を置くようになった
  その
  八世の子孫が
  朱熹の父
  ↓↑
  朱松(シュショウ)・・・・あかまつ=赤松・赤枩
 (1097年〜1143年)
  ↓↑
 「朱松」
 「周敦頤
  程邕
  程頤」
 らの流れを組む
 「道学」の学徒
 1123年(宣和五年)より任官し
 県尉(県の治安維持を司る)に任命
 1127年(建炎元年)・・・建炎(ケンエン)
            「十一・二十七」=壱千壱百弐拾七
             拾壱・念 漆
             タケルのホノオの願念
             能褒野神社(のぼのじんじゃ)
              褒める・たたえる
              褒姒
              褒詞・褒章・褒賞・褒美
              褒貶 (ホウヘン)・過褒
            (能煩野神社)
              煩=わずらう=患
              煩瑣 (ハンサ)・煩雑・煩多
              煩忙・煩累・煩労
              煩悶(ハンモン)
             三重県亀山市田村町
             祭神は三柱
             日本武尊(やまとたけるのみこと)
             建貝児王(たけかいこのみこ)
             弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと).
 「靖康の変」・・・・・「靖国・家康」の変?
 が起き、
 北宋が滅んで南宋が成立
 1128年(建炎二年)
 南剣州-尤渓県
 (ナンケンシュウ-ユウケイ-ケン
 福建省三明市-尤渓県)
 の県尉に任命
 翌年、辞職
 1130年(建炎四年)
 尤渓県で
 「朱熹」が誕生・・・朱い熹・・・熹≠憙
 ↓↑        「憙」=喜+心=よろこぶ・よろこび
               うれしがる・楽しむ
               「はァ」の感嘆の息づかい
           「熹」=喜+灬(烈火)・キ
               たちのぼる熱気で煮炊きする
               光や、炎が盛んに立ち昇る様
               仄々(ほのぼの)と立ち昇る光
               光がさわやかに射すさま
      「仄=そばだつ(攲)・かたぶく(傾)
         ほのか・かすか(幽)
         かたはら・そば(旁)側に通ず
         いやし(陋)
         うらがへる=「反仄」
         四聲の中にて平聲を除き、
         上聲と去聲と入聲とに屬する字
 ↓↑
 「朱松」は
 南宋の朝廷に入り、
 国史編纂の仕事に就く
 宰相の
 「秦檜」の
 「金(族)」に対する講和策に反対し
 中央を追い出された
 1140年(紹興十年)
 州知事に任命されるが、
 辞退し、
 祠官の職を希望して認められ、
 以後は学問に専念
 1143年(紹興十三年)
 47歳で死去
 ↓↑
 「朱熹
 9歳にして『孟子』を読破
 病床の父から『論語』を学んだ
 父が病死の後は父の遺言により、
 「胡憲
  劉勉之
  劉子翬」
 の三者に師事
 ↓↑
 1148年(紹興十八年)
 19歳
 科挙に合格
 席次は
 合格者
 330人中278番
 高宗の信頼を受けた
 「秦檜」が権勢を振い
 「金(北方種属)」との講和に反対する者を弾圧
 科挙にもその影響が出
 講和に反対する者の
 答案提出は点が低くされ、これが
 「朱熹」の席次の低い原因の理由らしい・・・
 1151年(紹興二十一年)
 朱熹
 左迪功郎を与えられ
 泉州
 同安県(福建省同安県)の
 主簿(帳簿係)に任官
 任官途中で父の同門の
 「李侗(李延平)」と出会い、
 その教えを受けた
 「李延平」の禅宗批判を聞き
 その考えに同調し、
 以後は禅宗を捨てて
 儒学だけを志す・・・
 1156年(紹興二十六年)
 主簿の任期である3年を過ぎたが、
 後任がやって来ないのでもう一年勤め、
 それでも後任がやってこないために
 自ら辞した
 1160年(紹興三十年)
 朱熹は父親と同じように
 祠官に任命されることを希望し、
 認められ
 李延平の元で学問に励む
 李延平は朱熹
 「道学」の真髄を伝授し、
 朱熹も李延平の教えを吸収し
 李延平に
 後継者と認められた
 1162年(紹興三十二年)
 高宗、退位
 孝宗の治世
 孝宗により
 武学博士(兵法書や武芸の教授)
 への就任を命じられるが、辞退し
 祠官を続けられるように望み、
 地元の
 崇安県に戻った
 1170年(乾道六年)
 崇安県に
 社倉を設け、
 難民の救済に当たった
 「王安石」・・・宋(北宋)の
         神宗の時の宰相
         1070年に始まる
        「王安石の改革」を主導
 の
 「青苗法」・・・宋代の農民への低利資金貸付け法
         農民を高利から解放するためのもの
         北宋の第六代皇帝の神宗に信任された宰相、
         王安石宋朝の立て直しのために
         低利で中小の農民に金を貸し付け、
         中小の農民の保護を図った法律・・・
         王安石の新法の一つ
         煕寧二 (1069) 年施行
 を参考にした・・・
 「社倉=収穫物を一時そこに保存し
     端境期や凶作などで農民が窮乏した時に
     低利で貸し付けるもの」
 貸付は地主も行っていたが、
 利率が
 10割にも及ぶ過酷なもので、
 これが原因で農民は没落・・・
 1175年(淳熙二年)
 「呂祖謙」の誘いで
 「陸象山」と
 会談(鵝湖の会)
 互いの学説の違いを再認識
 「陸象山」の死に際し
 朱熹
 「惜しいことに告子を死なせた」
 と孟子の論敵になぞらえてその死を悼んだ・・・
 「告子」=戦国時代の斉の思想家
     告は姓、名は不害
     人間の本性は
     善でも不善でもなく
     人間の善悪は
     環境によって
     規定されるという説で
     性善説
     孟子と論争した
 1179年(淳熙六年)
 南康軍(江西省。軍は州の下、県の上の行政単位)
 の
 知事
 朱熹は自ら教鞭を取って
 民衆の中の
 向学心のある者に教育を授け、
 太宗によって作られた
 廬山の・・・廬(いおり・ロ)の山(サン)
 白鹿洞
 書院を復興
 税制の実態を見直し
 減税を行うように朝廷に言上
 1180年(淳熙七年)
 凶作
 主戸(地主層)に食料の供出を命じ、
 貧民にこれを分け与えた
 もし供出を拒んで食料の余剰を
 隠した場合には厳罰に処すると明言し、
 受け取った側が
 後に供出分を返還できない場合は
 役所から返還すると約束
 この施策により、
 凶作にもかかわらず
 他地域へ逃げる農民はいなかった・・・
 1181年(淳熙八年)
 南康軍での手腕を認められ
 提挙両浙東路常平茶塩公事に任命
 朱熹は積極的に
 官僚に対する弾劾を行った
 1182年(淳熙九年)七月から始まる
 知台州台州の知事・浙江省臨海県)の
 「唐仲友」に対する弾劾は激しく、
 六回に及ぶ上奏を行ったが
 朝廷の反応は冷たかった・・・
  ↓↑
 ・・・まるで、現在的日本の政府と議会だが・・・
ーー↓↑ーー
 「唐仲友」は
 孝宗によって軽い罪に問われただけ
 偽学の禁
 1189年(淳熙十六年)
 孝宗退位
 その子の
 光宗が即位
 1194年(紹熙五年)
 孝宗の死後、
 趙汝愚
 韓侂冑
 らが
 光宗を退位させ
 後に
 寧宗が即位
 ↓↑
 「趙汝愚」の与党だった朱熹
 「長沙の知事」から
 政治顧問(喚章閣待制兼侍講)に抜擢
 しかし功労者の
 韓侂冑
 と
 趙汝愚
 が対立し、
 趙汝愚が失脚し
 朱熹も罷免され
 40日あまり
 中央に出仕して終わった
 ↓↑
 その後
 「韓侂冑」が独裁的な権限を握る
 1196年(慶元二年)
 「韓侂冑」らは
 朱熹
 「朱子学」に反対する一派を抱き込んで
 「偽学の禁(慶元の党禁)」
 で弾圧を始め
 朱熹は官職を全て剥奪され
 著書も全て発禁
 1200年(慶元六年)
 71歳で死没
 ↓↑
 朱子経書の整理
 『論語孟子・大学』
 と
 『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)
 の
 「四書」に注釈
 後に科挙の科目となった
 「四書」の教科書とされ
 権威的な書物となった
 以降、
 科挙の科目は
 「四書一経」となり、
 四書が五経よりも重視された・・・
 ↓↑
 「朱子学
 朱熹はばらばらに
 学説や書物が出され
 矛盾を含んでいた
 儒教を、
 「程伊川」による
 性即理説
 (性=人間の持って生まれた本性が
 すなわち
 「理」であるとする)、
 仏教思想の論理体系性、
 道教の無極
 及び
 禅宗の座禅への批判と
 それと異なる
 静座(静坐)という行法を持ち込み、
 道徳を含んだ壮大な思想にまとめた
 そこでは
 自己と社会、
 自己と宇宙は、
 「理」という普遍的原理を通して結ばれ、
 「理」への回復を通して
 社会秩序は保たれる、とした・・・
 ↓↑
 「朱熹」の「理」
 「理とは形而上のもの、・・・形而上・・・観念?
  気は形而下のもの・・・・・形而下・・・物質?
  であって、
  まったく別の二物であるが、・・・新井白石
                 「形而下」とは?
  たがいに
  単独で存在することができず、
  両者は
  「不離不雑」・・・・・・・弁証法
  の関係である」
 とする。
 また、
 「気が運動性をもち、・・・・・・気=変動物質?
  理はその規範・法則であり、・・理=変化の法則性?
  気の運動に秩序を与える」
 とする。
 この「理」を究明することを
 「窮理」とよんだ・・・
 ↓↑
 朱熹の学風は
 「できるだけ多くの知識を仕入れ、
  取捨選択して体系化する」
 というものであり、
 極めて理論的であったため、
 後に
 「非実践的」
 「非独創的」
 と批判された・・・
 が、
 儒教を初めて体系化した功績は大きく、
 タイム誌の
 「2000年の偉人」では数少ない
 東洋偉人の一人と評価されている・・・
 ↓↑
 朱子学
 身分制度の尊重
 君主権の重要性
 「明王朝」によって
 行法を除く学問部分が
 国教と定められた
 「元王朝」代に編纂された
 「宋史」には、
 朱子学者の伝を
 「道学伝」とし
 それ以外の儒学者
 「儒林伝」とは別に立てている
 13世紀に
 朝鮮に伝わり、
 朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられ
 朝鮮はそれまでの
 「高麗の国教」であった
 仏教を排し、
 「朱子学」を
 唯一の学問(官学)とした
 ↓↑
 日本
 江戸期
 社会の支配における
 「道徳」の規範として
 「朱子学」に重きがおかれた
 ↓↑ ↓↑
 「少年易老学難成
  一寸光陰不可軽
  未覺池塘春草夢・・・未だ覺めず、池塘(土手)春草の夢
  階前梧葉已秋聲」・・階前の梧葉は已(すで)に秋聲
 ↓↑ 階前=カイゼン=改善・海前・改前・甲斐喘・歌意前?
 ↓↑ 梧葉(ゴヨウ)=青桐(あおきり・セイドウ)の葉?
 ↓↑          桐(豊臣)?「青銅のキリスト」?
 ↓↑      秋聲=安芸(長州)の声?
 ↓↑    上田秋成(うえだ あきなり)
       享保十九年六月二十五日(1734年7月25日)
         〜
       文化六年六月二十七日(1809年8月8日)
       読本作者、歌人、茶人、国学者俳人
       怪異小説
       『雨月物語』の作者
       日の神論争(ひのかみろんそう)
       1786年(天明六年)
          〜
       1787年天明七年)
       本居宣長
       と
       上田秋成
       のあいだで書簡を通して交わされた
       国学上の論争
       具体的には「日の神」、すなわち
 ↓↑   「天照大御神」をめぐる論争
 ウイッキペデアの「日の神論争」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%AB%96%E4%BA%89
 ↓↑
 という    
 「偶成」詩・・・たまたまできた、
 ↓↑      偶然に思い及んだ詩
         春草夢=春草の萌える頃、
 ↓↑          まどろみの中に夢を見、
 は、「(明治の)日本人?」には
 「朱熹の作」として知られていたが、
 「朱熹の詩文集」にこの詩は無い
 ・・・彼(朱熹)の作ではないらしい・・・?
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
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 ・・・随分と廻り道をしたカナ・・・
 「太乙・太陰・太陽・太極」・・・
 「太安万侶」・・・
 ↓↑ ↓↑
 天地・万物の出現・成立の根元となる気
 宇宙の本体
 道教での
 天を主宰する神の名
 「太一星」の略・・・対極、太極の北極星
 ↓↑
 「太一(タイイツ・tàiyī)=太乙」
 古代中国における宇宙の根元を表す哲学的概念
 天の中心に位置する星官(星座)
 その神格
 「大一=泰一=太乙」
 とも書く・・・
 ↓↑
 殷の初代の帝王、「天乙」
 「太一(タイイツ・tàiyī)」
 「太乙神数(タイイツシンスウ)」
 中国の伝説上の皇帝である
 「黄帝コウテイ)」
 と
 「蚩尤(シュウユ)」
 との戦いの際に生まれた
 「国家の大事」を占う占術・・・
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 ・・・???・・・デブのショウタイ・・・の漢字・・・語源?