2263日目・・・4月7日(金)、19時00分〜爆報!THE フライデーで、オバァちゃんになった「黛ジュン」をみたけれど。「イタコ」のお告げで「婚約=コンヤク=艮訳」を解消ですか・・・「ふざける」の当て字が「巫山戯る=不山戯る=フサンギる→怖算木留?」だから・・・「恋のハレルヤ(1967年)・愛がほしいの・愛の奇蹟・乙女の祈り・風の大地の・子守り唄・悲しみよ今日は・キャント-バイ-ミー-ラヴ・霧のかなたに・雲にのりたい・真赤な太陽」・・・この「雲にのりたい」が一番印象的・・・歌詩はほとんどが「なかにし礼

 「チン=朕=チン=肉+关(笑)」の声符の漢字、「眹・𠗲・勝・塍・幐・滕・榺・縢・螣・賸・謄(肉誉・月誉)・騰(肉𠔉馬・月𠔉馬・月龹馬)」と「黱=肉+𠔉(龹)+里+灬」・・・
 「𢍏(𠔉=膝が曲がる意味)=ハ+二+人」、「ケン、カンの音声の形声説、𢍏+刀の会意説がある・音読みはケン、訓読みは、 わりふ(割符)」・・・
 「ワリフ」ならば、「魚拳」の問題だろう・・・逸文の「魏略」は逸聞の「魏略」か?、存在しないモノは「証明」できない「悪魔の証明物」である?、「カミの証明物」でも同じか・・・兎に角、隠滅・湮滅されたら「証明」は如何しょうもない・・・「『南スーダン陸自日報』『「ジュバで戦闘」明記』『「廃棄」一転開示 PKO停止危惧』8日付 東京新聞朝刊・防衛省が廃棄したと説明していた陸上自衛隊南スーダン PKOの日報が7日開示」・・・無いモノは無い、だがアッタ・・・物証=ブッショウ=物象=仏性か?・・・「倭人自ら太伯の後と謂う」、「呉の太伯の子孫」が「天つ神・皇孫」?・・・「《說文》, 解釋、部居、相關異體は豢、以穀圈養豕也。从豕,𢍏聲。〔胡慣切〕 (197 / 195), 豕 ... 字庫統計; 常用頻次序表; 隨機漢字 · 最近被搜索的漢字 · 使用凡例; 常見問題; 製作單位 · 私隱政策 · 免責聲明 · 意見簿. (管理員). 在線人數」、「攷慮到楷書部件的「龹」有另一來源(來自「𢍏」、「卷」、「券」、「拳」等字的上部,或參「𢍏」、「灷」之例),若是不做區分的話在隸定」・・・挙手・・・「挙(擧・キョ)=あげる・あがる・こぞる・高く持ち上げる・挙手・多くのものの中から取り上げる・挙用・科挙・推挙・選挙・枚挙・列挙」、「事を起こす・起こした事柄・挙行・挙式・挙兵・一挙」・・・「豢」≠「拳」≠「挙」・・・?・・・
 「𨤜=釆+豕」、「豢㹖(カン・ゲン)=穀物を餌とする家畜(ブタや イヌなど)の飼育・穀物を与えて飼育・𢍏+𧰨(豕)=𨤜・䝏=豕+𧲕=ロウ・ル=牝の豕(いのこ)」・・・
 「漢書」は初めての
 「断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)形式」をとった歴史書・・・?
 「断代史」は、一つの王朝に区切った歴史書の意味なのか?
 「班固が
  『史記』と
  未完の
  『後伝』を整理補充して
  『漢書』を制作。
  ただし、その
  八表と・・・・・・・「八表」ってナニ?
  天文志は
  未完であり、
  和帝の時、・・・・・「和帝」ってダレ?
  妹の
  班昭
  と
  馬続・・・・・・・・「馬」が「続」って、「司馬遷」か
            それとも
            「瑪拉基書=マラキ書」
            「馬太福音=マタイ伝」
            「馬可福音=マルコ伝」
            「羅馬書=ローマ人への書簡・手紙」
            「馬の続き」によって完成された、って?
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 古舘さん司会の「サイトウ」の「名字(みょうじ・苗字)」も面白かったけれど、「斎宮」=「いつきのみや」・・・「斉藤・斎藤・齊藤・齋藤・西藤」、判子屋は襤褸(ぼろ)儲け・・・
 「経済」の「済=氵(水・さんずい)
         +
         斉
        (斎=文丿示l
         齊=亠刀Yノレ乀丿二 |
         齋=亠刀Yノレ乀丿示 |)」
 「サイトウ=西塔・西東・賽等・歳等・祭等」の
 「差異トウ」だろうが、
 「判子(はんこ)」は
 「漢書(かんじょ?ナゼかカンショではない)」
 を編纂した
 後漢
 「章帝」の時の
 「班彪」の・・・史記武帝で中断未完成
 息子の
 「班固」、
 娘の
 「班昭」
 らのハンコ(印鑑・印章)が押印されたモノ?
 「漢書」は前漢の歴史書
 「二十四史」の一つ
 「本紀・十二巻」、
 「列伝・七十巻」、
 「表・八巻」、
 「志・十巻」
 の計
 「百巻」
 から成る
 「紀伝体」。
 前漢の成立から
 「王莽」政権までの記録・・・
 「王莽(オウモウ)」の
 「莽=サ+一+大+廾」は
 「𢍏(ケン・カン)=釆(とる・サイ)+廾=ノ+米+廾」に、
 観た目が、似ている漢字?だと思うが・・・
 「奔放=ホンポウ=奔流・本邦・本俸」・・・本邦=日本
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 ピアニストの「上原ひろみ(1979年3月26日〜)」さんもスゴイッ!のは既に記したが・・・ジャズに「音譜」があるなんてのも不思議だ・・・アレンジ(arrange)・・・「アラン字」だろう・・・
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 「則天武后」はもっとスゴイッ・・・
 則天大聖皇帝
 則天順聖皇后
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  王朝 武周
 在位期間 690年10月16日〜705年2月22日
 都城 長安
 姓・諱 媚娘→武照(武曌)
 諡号 則天大聖皇帝
 則天順聖皇后
 生年 武徳7年1月23日
    (624年2月17日)
 没年 神龍元年11月26日
     (705年12月16日)
 父 武士彠・・・武士を尋ね蒦(はかる・カク・獲得)
          蒦=ワク・クワク・キャク・カクヤク・カク・ヤク
            はかる・ものさし・のり・はかり
            〔方言・第五〕に「篗・榬なり」
            〔説文解字〕の本字は「籆」で、
            〔説文・巻五〕に「絲を收むる者なり」
            〔玉篇〕には
            「籆(竹隹又)=榬なり」
            「籆=糸を巻き取る道具・糸巻」
            「又州名・《篇海》漢宜春縣,隋置 袁州
             又姓・《通志·氏族略》袁氏・嬀姓・舜後
                 陳胡公之後裔
                 胡公生申公
                 申公生請」
「榬・獧・辕・媴・猿・袁」
             字形: 形声で声符は蒦
             音訓: 音読みは「ワク(漢音)」
          「蒦(わく)」の地名
         福島県伊達市月舘町布川 字 蒦ノ内(わくのうち)
         福島県伊達市月舘町布川 字 蒦ノ内山(わくのうちやま)
         熊本県阿蘇市黒川 字 蒦引川原(わくひきがわら)
 母 楊夫人
 陵墓 乾陵・・・乾(十日十ノ一乙)=いぬい=戌亥・・・北西
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 誕生           死亡
 624 甲申(己・壬・庚) 705 支合 乙巳(戊・庚・丙)偏財
    沖(己)
 002 丙寅(己・丙・甲) 012    戊子(壬・ ・癸)印綬
  干合(壬癸)・偏印-正官-正財
 017 辛卯(甲・ ・乙) 016 支合 戊戌(辛・丁・戊)印綬
     午未=空亡
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 705 乙巳(戊・庚・丙)
 012 戊子(壬・ ・癸)
 016 戊戌(辛・丁・戊)
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 則天武后は「戊子(鼠)」ではなく、「甲申(猿)」の誕生?なら「サル年生まれ」となるが・・・「猿女=宇受女(渦目・臼目・有珠目)」と「猿田彦(提督)」が重なる、が・・・
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 「上皇・上后」・・・「天皇・皇后」の初出の「皇后」の意味は「皇の后=あと=後」・・・「后=厂+石」喜咲=キサキ・きさき=記作(詐)紀・・・「启=戶口・户口」=ひらく・はじめる・ケイ=open, begin, commence, explain.」・・・
 「短い手紙=谢启礼状」、「開く、開ける=开启=開く」、「指導する、教える=启发」、「始める、開始する=启行=出発する」、「申し述べる=敬启者拝啓」・・・
 年号 光宅:684年
 垂拱:685年 - 688年
 永昌:689年
 載初:689年 - 690年
 天授:690年 - 692年
 如意:692年
 長寿:692年 - 694年
 延載:694年
 証聖:695年
 天冊万歳:695年
 万歳登封:695年 - 696年
 万歳通天:696年 - 697年
 神功:697年
 聖暦:698年 - 700年
 久視:700年 - 701年
 大足:701年
 長安:701年 - 704年
 「曌」は「照」の則天文字。
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 利州
 都督
 武士彠
 と
 楊夫人の間に
 次女として生まれた
 諱を
 照
 幼名を
 媚娘
 12歳
 父が死去
 14歳
 太宗の後宮に入り
 才人(妃の地位。正五品)
 当初は
 太宗の寵愛を受けていたが
 宮廷に
 「唐三代にして、女王昌」
 「李に代わり武が栄える」
 との流言が蔓延し
 「武照の聡明さが
  唐朝に災禍をもたらす」
 と疑い
 太宗は、
 武照を疎遠にした
 李君羨という武将が
 「武が栄える」の
 「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑
 太宗は李君羨の処刑後もなお
 武照と距離を置き続けた
 太宗の子である
 李治(高宗)が
 武照を見出し、
 太宗に殺害されることを恐れた
 武照は李治を籠絡し、
 李治は妄信的に
 武照を寵愛した・・・
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 太宗の崩御
 出家
 だが、
 額に焼印を付け
 仏尼になることを避け、
 女性の
 道士(坤道)となり
 道教寺院(道観)で修行
 太宗の後継者である
 高宗の皇后だった
 王皇后と、
 高宗が寵愛していた
 蕭淑妃が対立
 王皇后は高宗の寵愛を
 蕭淑妃から逸らす為、
 高宗に
 武照の入宮を推薦
 武照が
 昭儀(後宮における上から5番目の地位)
 として後宮に入宮
 高宗の寵愛は王皇后の狙い通り
 蕭淑妃から逸れ
 同時に
 王皇后自身も
 高宗から疎遠となった・・・
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 立后
 永徽六年(655年)六月
 昭儀(後宮の位の一つ)だった武照を
 新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、
 宰相の
 韓瑗と
 来済の反対で実現はしなかった
 中書舍人
 李義府などの側近が
 皇后廃立と
 武照擁立の意図を揣摩し、
 許敬宗、
 崔義玄、
 袁公瑜
 等の大臣が結託し
 高宗に
 武照立后の上奏文を送った。
 高宗は
 王皇后を廃して
 武照を皇后に立てる事の是非を
 重臣に下問
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 長孫無忌
 朝廷の主な人間
 太宗の皇后の兄
 ↓↑
 褚遂良
 高祖
 李淵と同じ
 北周八柱国出身の
 于志寧
 ↓↑
 太宗の下で
 突厥討伐などに戦功を挙げた
 李勣
 ↓↑
 の四人
 ↓↑
 長孫無忌と褚遂良は反対
 于志寧は賛成も反対もせず
 李勣は
 皇后の廃立を容認
 ↓↑
 10月13日(11月16日)
 高宗は詔書を以て、
 「陰謀下毒」の罪
 により
 王皇后と蕭淑妃の二名を
 庶民に落として罪人として投獄
 同二名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪
 7日後、
 高宗は再び詔書を発布
 武照を立后
 諫言した
 褚遂良を潭州都督へ左遷
 11月初旬
 皇后になった武照は
 王氏(前皇后)と
 蕭氏(前淑妃)
 棍杖で百叩きにし
 処刑
ーーーーー
 ・・・「嫉妬」って、オッソロシイ・・・