1433日目・・・そもそも、「後漢書」とは「互換書」ではないのか。「范曄(ハンヨウ・398年〜445年)」

が記録した「事象・事件」は確かに「後漢時代のコト」だろう、が、である・・・そして、「漢字音・呉字音・唐字音」は「日本語の音」でのみ、「理解」できる「音」として遺されたのである。そう、多くの「同音異字漢字」として・・・「ゴカン」は「後漢・互換・語感・語幹」、「五感・五官・五巻・五間・五貫・五冠・五款・五館・五缶・五刊」、「後閑」の「ゴ」+「カン」である・・・「後閑(ゴカン)駅」は、「群馬県利根郡みなかみ町後閑」にあるらしく上越線の駅で、「みなかみ町月夜野」は、後閑駅利根川の対岸の群馬県道273号「後閑羽場」線が伸びているらしい・・・そもそも「閑(カン)」とは「ひま・しずか・むだ・のんびり」、熟語は「閑暇・閑日月・寸閑・繁閑・有閑・農閑期・閑事業・閑文字・閑散・閑寂・閑静・閑談・安閑」・・・「かんぬき」であり「規範・規則」で、「大紱不踰閑、小紱出入可也(論語・子張)」、 ひまで、やるべきことがなく、時間を持て余していることことである・・・「ノチのヒマ」な「人(ニン・ひと)間(ゲン・あいだ)」のコト・・・日本語の「人間(にんげん)=ヒト=people=」は「単数のヒト」である。漢字音での「人間(ジンカン)」では「この世・世間・ヒトの世」の意味である。敢えて意味を採るならば「人人=人々→人間(ジンカン)」だろう。「人間」に「人」の意味となったのは江戸時代以降であるらしい・・・ 「人間」を「ニンゲン」と読むのは呉音、漢音では「ジンカン」らしいが、呉音の「ニンゲン=にんげん=ひと」はいまや日本語での意味でしかない・・・そして、「ゴ」の同音異字って・・・ゴマンとある・・・「サイエンスゼロ」は、「超能力」である・・・「量子」が「伝達物質」・・・
 アメンホテップ(祖父)→アクエアテン(父)→ツタンカーメン(子)の「DNA」・・・アマルナ・・・ネフェルテイテイ・・・キィヤ・・・
 TED・・・スパープレゼンテーション・・・「アート・オブ・ディセプション(art of deception)=まやかしの術」・・・「奇術=マジック(magic)・コンジャリング(conjuring)・トリック(trick)」・・・「別なところへ注意をそらす」・・・「ミスディレクション(misdirection)」・・・
ーーーーー
 「後漢書(ゴカンジョ)」
 中国、後漢朝について書かれた歴史書
 二十四史の一
 本紀十巻
 列伝八十巻
 志三十巻
 の
 全百二十巻の
 紀伝体
 成立
 5世紀
 南北朝時代
 南朝
 編者
 は
 范曄(ハンヨウ)
 398年〜445年
 字は
 蔚宗
 宋の創始者
 劉裕に仕えて
 尚書吏部郎
 左遷で
 宣城太守
 432年(元嘉九年)
 「後漢書」著作
 范曄が執筆したのは
 「本紀」と「列伝」のみ
 「志」については、
 范曄が後に
 文帝の弟、
 劉義康擁立の事件で
 処刑されたので
 書かれていない
 南朝
 梁の
 「劉昭」が、
 范曄の「後漢書」に、
 西晋
 「司馬彪」が著した
 「続漢書・志」の部分を合わせ
 注を付けた。
 現在伝わるのは、
 「李賢・注」と
 「劉昭・注」の
 「続漢書・志」を
 合刻した
 北宋時代の
 「版本」に基づくもの
ーー
 范曄著「後漢書
 432年
 後漢滅亡から
 200年以上経過
 年代的には
 「後漢書」より
 後の時代の
 範囲を記述している
 「三国志」の方が、
 范曄の「後漢書」よりも
 約150年前に既に成立していた。
 「後漢」についての歴史書
 後漢の同時代史書である
 「東観漢記」
 東晋
 袁宏の
 「後漢紀」・・・その他の史書が存在・・・
 「八家後漢書(あるいは七家)」と呼ぶ
  ↓
 『後漢書』(呉の謝承)
 『後漢書』(呉の薛瑩)
 『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
 『続漢書』(西晋の司馬彪)
 『後漢書』(東晋の謝沈)
 『後漢書』(東晋の袁山松)
 『後漢書』(著者不明)
 『漢紀』 (東晋の張璠)
  ↓
 などの書物を参照しながら、范曄は『後漢書』を著す
 八家後漢書
 ほとんど現存しておらず、
 汪文臺の
 『七家後漢書』、
 裴松之
 『三国志・注』
 などからの
 「引用した書物」から集めた一部分のみ
 『東観漢記』は
 『永楽大典』からの
 輯本
 (引用された文章を集める事で
  散逸した書物を復活させること)
 「司馬彪」の
 『続漢書』は、
 「志」の部分が現存
 袁宏の
 『後漢紀』は
 「志」は完全な形で現存
ーー
 注釈
 「後漢書」に最初に
 注釈を付けたのが
 「劉昭」による
 「集注後漢
 「本紀・列伝」部分の注釈は散逸
 「志」に付けた注釈部分が現存
 「本紀・列伝」に付けられた
 「注釈」として
 唐の
 「章懐太子」
 「李賢」の手によるもの
 ・・・「章の懐(ふところ)の太の子」が「李(木子)の賢(臣又目ハ)」である・・・「李賢」の生きた時代は「654年〜685年」の「31年間」だが、この時代に「日本国」ではナニが起こっていたのか・・・「李賢」が死ぬまでの
 「685−654=31」・・・31歳の生涯
 「672−654=18」・・・18歳
 「685−672=13」、
 「十三年間」・・・最大のイベントは「壬申の乱(672年)」である・・・「13年間」

ーー↓
 李賢
 永徽5年(654年)
  〜
 文明元年(684年)
 高宗の六男
 高宗と
 則天武后の実子
 字は明允
 諡号は章懐太子(ショウカイタイシ)
 中宗(栄王顕)と
 睿宗の
 同母(則天武后)の兄
  ↓
 李賢は
 5歳で
 潞王に封じられ、
 6歳で
 雍州牧・岐州刺史を兼ねる
 11歳で
 沛王・揚州都督・左武衛大将軍に任じられた
 上元二年(675年)
 同母兄の
 李弘の死で
 皇太子に就く
 儀鳳元年(676年)
 「後漢書」の注釈を完成
ーー↓
 正諫大夫の
 明崇儼が
 武后に対して
 李賢の
 弟の
 栄王顕(中宗)を推挙し
 武后は
 賢に対して皇太子を
 弟(中宗)に譲るように迫った
 調露元年(679年)
 明崇儼が
 強盗に襲われて死亡
 武后は
 賢の仕業であると疑い、
 賢の屋敷内の捜査から
 甲(かぶと)、数百が発見
 武后は謀反の準備とし
 高宗に迫って
 皇太子を廃して庶人とし
 永淳二年(683年)
 賢は巴州に流された・・・
 文明元年(684年)
 武后は、
 左金吾将軍
 丘神勣を巴州に派遣して
 賢を幽閉し、迫って自殺させた
 丘神勣が帰還すると、
 武后はこれを罪に陥れて
 疊州刺史とし、
 改めて
 賢を雍王に封じた・・・
 ↓
 睿宗が復位
 皇太子の地位に復して
 「章懐」の諡号を贈り、
 唯一生き残っていた息子である
 三男・守礼を
 汾王に封じた
 長男は光順は既に誅殺
 次男の守義も病死
 ↓
 実の母親(則天武后)に殺害された
 「李賢」
  ↓
 「李賢の注」は
 文の解釈と共に
 足りない事実の補填を
 その他の書物から取ったもので
 范曄の「後漢書」が存続したは
 「李賢の注」による・・・
ーー
 他の「後漢書」の注釈
 清の
 恵棟の
 「後漢書補注」
 王先謙の
 「後漢書集解」
 李慈銘の
 「後漢書集注」
ーー
 ・・・結局、「後漢書(范曄)」の内容の「真偽」は「儀鳳元年(676年)」の唐時代の「李賢の注」による?・・・
 で、「注」とは「注釈・注意・注視・注目・傾注」、本文のわかりにくい箇所に説明の言葉を入れる・・・
 「注解・注記」・・・
 「注」には、
 引用・参照した文献を明示する
 「引用文献注」と
 本文を補うために自分が書く
 「補注」がある・・・
 「注釈(旧表記は註釈)」
 既述の文章や専門用語についての
 補足・説明・解説のこと
 補注とも、単に注(旧表記:註)ともいう・・・
 ・・・主観的な解釈、曲解、歪曲、あるいは誤解も「注」の範疇ではないのか・・・当然、妄想解釈も・・・
ーー↓
 676年
 干支年は「丙子」
 日本
 天武天皇五年
 皇紀1336年
 中国
 唐王朝
 上元三年
 儀鳳元年
  ↓
 新羅朝鮮半島統一
  ↓
 誕生人
 1月28日(天武天皇七年一月五日)
 「舎人親王」の誕生・735年死亡
  ↓
 死去人
 6月17日
 アデオダトゥス2世
 第77代ローマ教皇
  ↓
 6月
 朴井雄君(物部氏の舎人)
 朴井 雄君(えのい の おきみ)
 榎井小君とも
 朴井氏は物部氏の同族
 物部雄君ともいう
 姓は連
 物部尾輿の孫の
 朴井真古、
 または
 物部守屋の子
 子に
 忍勝・金弓・有利媛・・・
 冠位は贈大紫。
 美濃の物部一族
 672年の壬申の乱
 大海人皇子天武天皇)に従った
  ↓
 王 勃(おう ぼつ)
 650年(永徽元年)
  〜
 676年(上元三年)
 唐代初期の詩人
 字は子安
 「初唐の四傑」
 楊烱(ようけい)
 盧照鄰(ろしょうりん)
 駱賓王(らくひんのう)
 と並んで四傑の一人
 「王勃」が誕生した年
  ↓ 
 650年・・・?
 干支年は「庚戌」
 日本
 大化六年、白雉元年?・・・大ばけ・白記事
 皇紀1310年
 中国
 唐国
 永徽元年
 朝鮮
 新羅
 太和四年・・・太の和の四の年
 ↓      大 和←やまと
 「王勃」は        
 664年
 朝散郎
 高宗の子の
 沛王・李賢の侍読になる
 諸王の
 闘鶏を難じた
 「檄英王鷄文」を書いて
 出仕を差し止められ、
 剣南(四川省)に左遷
 虢州(河南省霊宝市)の
 参軍となったときに
 罪を犯した官奴を匿いきれなくて殺し、
 除名処分
 事件に連座して
 交趾(ベトナム)の令に左遷された父の
 王福時を訪ねる途中、
 南海を航行する船から転落して
 溺死
 著に「王子安集・十六巻」
 民国の
 羅振玉が編集した
 「王子安集佚文・一巻」と、
 日本に伝わる佚文として、
 正倉院
 「王勃集残・二巻」がある・・・
  ↓
 6月
 栗隈王
 敏達天皇の孫(曾孫か?)
 「大俣王(おおまたのおおきみ)親?」
 難波皇子の子(孫か?)
 美努王の父
 橘氏の祖
 筑紫率(筑紫大宰)として唐と新羅の使者を送迎
 672年の
 「壬申の乱」では中立・・・?天武側
 675年に兵政官長・贈従二位
  ↓
 7月
 村国男依
 名は雄依、小依とも書く
 姓は連
 子に
 村国志我麻呂
 冠位は贈外小紫
 壬申の乱大海人皇子天武天皇)に属す
 近江方面の諸将の筆頭
  ↓
 8月
 三輪子首
 壬申の乱(672)で
 伊勢介(いせのすけ)として
 大海人皇子(天武天皇)を奉じて参戦
 死後、天皇
 内小紫の位を贈り、
 大三輪真上田迎君と諡した
 「迎」とは、
 大海人皇子鈴鹿で迎えたことによる
  ↓
 9月
 坂田雷(さかた の いかづち)
 姓は公
 冠位は贈大紫
 壬申の乱の功臣・・・?
 坂田公は継体天皇の子である
 中皇子を祖する・・・?
 壬申の乱の「功績不明」、
 大紫は高位
  ↓
 李元暁
 唐の高祖、李淵の二十一男
 母は魯才人
 631年
 密王に封じられ
 635年
 虢州刺史に任じられた
 640年
 実封800戸
 649年
 実封千戸
 沢州刺史に転じた
 653年
 宣州刺史に任じられ
 徐州刺史に転じた
 676年
 司徒・揚州都督の位を追贈
 献陵に陪葬
 諡は貞
 子の
 南安王
 李穎が後を継いだ・・・
ーーーーー
 ・・・