2458日目・・・「ひとえ=一重=単」・・・ひとえに=偏に=一重 (ひとえ)+に」・・・「ただそのことだけを・いちずに・ひたすら」・・・「御贔屓 (ごひいき) のほどを偏(ひとへ)にお願い申し上げます」・・・「原因・理由・条件などが、それに尽きるさま・もっぱら」・・・「高麗屋」・・・歌舞伎の源流は「高麗」・・・「女形(おやま・ジョケイ)=おんながた・旦(タン)=恩(音)名臥多」・・・「京劇(キョウゲキ・Jīng jù=ジンジュウ)」の「旦(Dàn・ダン)=女性の役・4種類の老旦=老女、しわがれた声で台詞

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 「単語・單語」・・・word・vocabulary
 そのものだけであること
 重ならないであること
 花びらが重なっていないこと=単弁
 一片の椿 (つばき)
 一重瞼 (まぶた) の略
 単物 (ひとえもの)
 単(ひとえ・いち・ただ・タン・ゼン・セン)
 單(旧字体繁体字)、单(簡体字
 単衣
 春秋時代に存在した諸侯国
 単物(ひとえもの)
 裏地のつかない着物
 江戸時代には麻地の物を帷子 (かたびら)
 絹や木綿地の物を単と呼んだ
 短銃・瓢箪・炭住・・・?
 「単(ツ+甲+一・ツ+田+十)」は
 「單(口+口+甲+一・口+口+田+十)」の略字
 「先端が両又になっている弾(はじ)き弓」の象形
 「弾(はじ)く=弓+単(單)」
 「ひとつ・ただひとつ・ひとり(単体・単品・単語)」
 「ひとえ(そのものだけであること・単衣)=襌(ふんどし)」
 「尽きる・尽くす」
 「書きつけ(文書)・カード(伝単)」
 「まこと(本当)・まことに」
 「厚い・厚くする」
 「たんに(ただ)」
 「めぐる・めぐらす」
 「単于(ゼンウ)=匈奴(キョウド)の王の名前」
 「匈奴=中国の秦・漢時代にモンゴル高原
     いた遊牧騎馬民族
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 「後漢書楊彪伝」
 「楊彪」が
 「曹操」に対して
 「金日磾」の故事を念頭に置いて
 「私には金日磾のような先見の明も無い」と述べた
  ↓↑
  金 日 磾
 (キンジツテイ)・・・金の日の「磾=石+口+口+田+十」
 前漢の政治家
 匈奴族の人・・・匈(勹凶)の奴(女又)
 武帝に仕え
 金姓を賜った
 註釈に
 「二人の子供が居て武帝に可愛がられたが
  宮女をたぶらかす所を見て息子を自ら殺した」
 という故事が記録
 「楊彪」が
 「曹操」に対して
 「金日磾」の故事を念頭し
 「私には金日磾のような先見の明も無い」と云った・・・
  ↓↑
 金日磾
 紀元前134年〜紀元前86年9月
 字は翁叔
 前漢
 匈奴系の政治家
 匈奴
 休屠王の太子
  ↓↑
 漢の
 武帝により
 金姓を授けられた
 紀元前121年春
 驃騎将軍の
 霍去病は
 1万騎を率いて
 匈奴討伐に出征で
 連戦連勝
 河西地域にいた
 休屠王
 と
 渾邪王
 の部族と戦い
 休屠王が
 天を祭るために用いていた
 黄金の像を手に入れ
 同年秋
 休屠王と渾邪王は漢に投降することを画策
 漢は霍去病を彼らの迎えに派遣
 休屠王は後、投降をためらい
 渾邪王が休屠王を殺した
 渾邪王は
 4万人の匈奴
 休屠王の太子を率いて投降
 武帝
 渾邪王を列侯に封じ
 14歳の休屠王の
 太子(日磾)とその家族は官奴とされ
 太子(日磾)は馬番にされたが
 武帝
 身長が8尺2寸という日磾の風格と容貌を見初め
 馬監とし
 次に
 侍中駙馬都尉
 光禄大夫
 とし
 武帝の近侍臣になった
  ↓↑ 
 休屠王が
 天を祭るために用いていた
 黄金の
 像(金人)にちなんで・・・「子牛or子羊」だろう?・・・
 武帝から
 「金」という姓を賜った
 金日磾の母は人徳者で
 武帝は感心し、彼女が病没すると
 甘泉宮に
 休屠王の妻(金日磾の母)の絵を展示
 金日磾は毎日、母の肖像画に祈り、黙祷
 金日磾は武帝から宮女を賜ったが
 金日磾は彼女に近づこうとしなかった
 武帝
 彼の女を後宮に入れようとしたが
 金日磾は応じようとしなかった
 金日磾の2人の子供は
 武帝の寵童となったが
 成長するに従い
 武帝の頭を抱えるような狼藉を働くようになり
 長男は宮廷の女官をたぶらかすようになったので
 金日磾は彼を殺した
 当初武帝はそれを怒ったが
 金日磾と話し
 誠実で忠義な人柄を改めて知り
 罪に問うことはなく
 信頼するようになった
 紀元前91年
 江充・戻太子
 劉拠の事件が勃発
 後
 武帝
 前漢の第七代皇帝
 平陽公主ら3人の同母姉がいる
  ↓↑
ーーーーー
 武帝
 中国の皇帝の諡号の一つ
 武力を以て国土を広げた皇帝
 戦乱を平定した皇帝に送られる
 諡号
 武帝というと
  ↓↑
 前漢武帝
 西晋武帝
 三国時代
 魏の武帝
 梁の武帝
 南越の武帝(趙佗)
  ↓↑
 前漢武帝(孝武帝・劉徹・在位紀元前141年〜紀元前87年)
 三国時代
 魏 の武帝曹操曹丕(文帝)が追諡
 西晋武帝司馬炎・在位265年〜289年)
 五胡十六国時代
 成漢の武帝(李雄・在位304年〜334年)
 五胡十六国時代
 後趙武帝(石虎・在位334年〜349年)
 南朝
  宋の武帝劉裕・在位420年〜422年)
 南朝
  斉の武帝(蕭賾・在位482年〜493年)
 南朝
  梁の武帝(蕭衍・在位502年〜549年)
 南朝
  陳の武帝(陳霸先・在位557年〜559年)
 北周武帝(宇文邕・在位560年〜578年)
 後唐
  太祖武帝(李克用へ荘宗、光聖神閔帝(李存勗)が追諡
ーー↓↑ーー
 王朝 前漢
 在位期間
 前141年3月9日〜前87年3月29日
 姓
 諱 劉徹
 諡号 孝武皇帝
 廟号 世宗
 生年 前156年
 没年 後元二年二月十五日(前87年3月29日)
 父 景帝
 母 王氏
 皇后 陳皇后
    衛皇后
 陵墓 茂陵
 年号
 建元 : 前140年〜前135年
 元光 : 前134年〜前129年
 元朔 : 前128年〜前123年
 元狩 : 前122年〜前117年
 元鼎 : 前117年〜前111年
 元封 : 前110年〜前105年
 太初 : 前104年〜前101年
 天漢 : 前100年〜前 97年
 太始 : 前 96年〜前 93年
 征和 : 前 92年〜前 89年
 後元 : 前 88年〜前 87年
  ↓↑  ↓↑
 景帝の十男(九男とも)
 魔除けのために悪字
 「彘(テイ・ブタの意)」の幼名を与えられた
 四歳
 膠東王(山東省の王国)に封ぜられた
 先に皇太子に立っていた
 栗夫人が生んだ
 長兄の
 劉栄(栗太子・臨江閔王)を押しのけて
 十六歳で即位
 太皇太后
 竇氏が即位当初は実権を握っていた
 皇后は伯母の
 館陶公主
 劉嫖(景帝の同母姉)が産んだ
 陳皇后(元勲・陳嬰の孫の堂邑侯陳午の娘)
 である
 (このいとこ同士の夫婦の仲は険悪で
  祖母の竇太皇太后が亡くなると
  近侍の張湯の助言で離縁)

 呉楚七国の乱
 有力な封王が倒れ
 武帝は中央集権への移行を目指し
 諸侯王が
 自分の領地を
 子弟に分け与えて列侯に
 封建するのを許し(推恩の令)
 諸侯王の領土は細分化

 郷挙里選の法
 官吏任用法を採用
 各地方郷里の有力者とその地方の太守が話し合って
 当地の才能のある人物を推挙するもので
 武帝
 儒教の教養を身につけた人物を登用
 董仲舒の献策
 五経博士を設置
 儒教を官学とした
 
 外征
 「文景の治」による蓄積を背景に
 宿敵、匈奴への外征を開始
 高祖
 劉邦
 冒頓単于に敗れて以来
 漢はその孫の
 軍臣
 単于が君臨する匈奴に対して
 低姿勢で臨んでいた
 武帝は反攻作戦を画策
 匈奴に敗れて西へ落ちていった
 大月氏
 張騫を派遣
 大月氏との同盟で
 匈奴の挟撃を狙った
 同盟は失敗
 後の対匈奴戦に大きく影響
 武帝
 衛青とその甥の
 霍去病の
 両将軍を登用し
 匈奴に当たらせ
 匈奴を打ち破り
 西域を漢の影響下に入れた
 更に
 李広利に命じて
 大宛(中央アジアのフェルガナ地方)を征服
 汗血馬を獲得
 南越国に遠征し
 郡県に組み入れ
 衛氏朝鮮を滅ぼし
 楽浪郡
 漢四郡を朝鮮に設置
 前漢支配は最大版図
 匈奴打倒を達成し
 武帝は泰山に封禅の儀式で
 自らの功績を上天に報告
 
 外征中に『史記』の著者
 司馬遷
 李陵を弁護し
 死刑を命じられ
 減刑
 宮刑
 李陵の妻子を
 皆殺しにした事件
 
 財政面
 外征や不老長寿願望等から来る奢侈
 国庫は空っぽ
 塩鉄の専売
 増税
 貨幣改鋳
 で民衆が流民化、各地に反乱誘発

 後半期に
 各地で反徒や盗賊の横行
 武帝
 酷吏という法律至上の官僚を要職に就け
 父帝の代からの
 寧成、義縦、張湯、王温舒、杜周
 を重用し取り締まりに当たらせた
 酷吏の重用による厳罰主義

 太子の反乱
 江充は当時
 皇太子であった
 戻太子
 劉拠に恨みを買っていたため
 武帝死後に戻太子に誅殺される事を恐れ
 武帝を呪い殺そうとしているという疑惑を
 戻太子に被せて殺そうとした
 劉拠は江充を殺し囚人を武装させて挙兵
 武帝は丞相の
 澎侯・劉屈氂(武帝の甥で、中山王劉勝の子)
 に鎮圧させた
 劉拠は逃亡し後に自殺 or 殺害(巫蠱の獄)

 「巫蠱の術」
 人形に呪いたい相手の名前を書き込み
 土に埋める
 「巫蠱の罪で処刑された者の多くは冤罪」
 劉屈氂はその嗣子の妻が
 弐師将軍・李広利の娘だったため
 李広利の妹が産んだ
 昌邑王・劉髆を太子にすべく巫蠱を行った
 それが仇となり
 劉屈氂と李広利の一族は誅殺
 外征中だった李広利は
 匈奴に投降し政敵に殺害・・・

 末子の劉弗陵(後の昭帝)を皇太子とし
 霍光・金日磾・上官桀
 の三人に後を託し直後に死去

 二十四節気の中気を用いて
 閏月を定める置閏法を採用し
 太初暦をつくり
 中国や日本の
 太陽太陰暦での
 月名基準となっている
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 陳皇后(後に廃される)
 衛皇后(後に廃される)
 夫人王氏
 姫李氏
 夫人李氏(皇后の位は死後追贈・反魂香、「傾国」出典)
 婕簱尹氏
 鉤弋夫人(趙婕簱・皇后の位は死後追贈)
 子女
 戻太子 劉拠
 斉懐王 劉閎
 燕剌王 劉旦
 広陵窅王 劉胥
 昌邑哀王 劉髆(海昏侯劉賀の父)
 昭帝 劉弗陵(または劉弗)
 富利公主(戻太子の姉)
 陽石公主(同上)
 諸邑公主(同上)
 蓋鄂邑公主(燕剌王・広陵窅王の姉)
ーーーーー
 紀元前八十八年六月
 金日磾は
 江充の親友だった
 馬何羅らが武帝を暗殺しようと企て
 馬何羅を格闘の末に捕らえた
  ↓↑
 金日磾は
 自分が漢人ではなく
 捕虜としての
 匈奴であったので・・・「匈奴」であるコトは
             二重国籍の「帰化人」・・・
 慎重だった
  ↓↑
 紀元前87年
 武帝崩御・・・「武帝はファラオ」
 武帝は病床に
 霍光、金日磾、上官桀
 の3人を呼び寄せ
 昭帝を補佐するよう後事を託した
 霍光は当初
 金日磾に
 昭帝補佐の地位を譲ろうとしたが
 金日磾は
 「私は外国人です。
  そんなことをすれば
  漢は匈奴に軽んじられます」
  ↓↑ ・・・外国人「移民」です
  ↓↑    アメリカの白人は
        ACJKRに
        侮られます
        土着「先住民」です
        アメリカの移民の白人は
        虐殺の連続で
        Iに
  ↓↑    怨まれています・・・
 といって拒否し
 霍光の補佐となった
 霍光は大司馬大将軍
 金日磾は車騎将軍・・・エジプト宰相のヨセフ?
 上官桀は左将軍
 となった・・・
 金日磾は
 昭帝が即位して1年後の
 紀元前86年9月
 死没
 死ぬ直前の病の床で
 列侯(秺侯)に封じられ
 死後に敬侯と諡
 武帝の墳墓である
 茂陵の近くに埋葬
 列侯は子の
 金賞が継承し
 金賞および弟の
 金建
 は昭帝と年が近く
 昭帝と寝起きを共にした
 金日磾の弟
 金倫は黄門郎となったが早死
 金倫の子である
 金安上
 以降になって栄えた
 後漢末の
 金旋
 金禕
 父子は
 金日磾の末裔
  ↓↑
 大唐故金氏夫人墓銘(韓国)
 文武王陵碑
 新羅
 各種
 金石文では
 金閼智
 以降の新羅王たちが
 「金日磾」の末裔と自称・・・「匈奴の末裔」・・・
 歴史事実として
 新羅王家が
 「金氏」を称したのは6世紀のこと
 それ以前の新羅王家の
 「金」という姓は
 「金日磾の子孫」だという系図詐称の付会説・・・?
ーーーーー
 「相意清掛句等」・・・日清製粉カップメン・知金等蛙女務・・・チキンラーメン・・・
  ↓↑
  愛 新 覚 羅 溥傑
 (あいしんかくら ふけつ
  アイシンギョロ・プギェ
  Ai sin-gioro- pu-giye)
 1907年4月16日〜1994年2月28日
 愛新覚羅溥儀実弟
 清朝
 地位は醇親王継嗣
 満洲国軍人
 陸軍中校(中佐)
 中華人民共和国では
 全国人民代表大会常務委員会委員
 全国人民代表大会民族委員会副主任
 立命館大学名誉法学博士
 書家
  ↓↑
  愛 新 覚 羅 溥儀
 (あいしんかくら ふぎ
  アイシンギョロ・プーイー
  aisin  gioro  pu i)
 1906年2月7日       〜1967年10月17日
 1906生年 丙午(丙・ ・丁)合火 丁未(丁・乙・己)
 0002生月 庚寅(己・丙・甲)合火 庚戌(辛・丁・戊)
 0007生日 辛巳(戊・庚・丙)害  甲寅(己・丙・甲)
      申酉=空亡
          59〜69・・正官 丙申(己・壬・庚)
      劫財⇔正官       刑沖
                  合刑破
 大清国第十二代、最後の皇帝
 (在位、1908年12月2日〜1912年2月12日)
 後に満州国執政
 (1932年3月9日〜1934年3月1日)
 皇帝
 (在位、1934年3月1日〜1945年8月18日)
 1964年から
 中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員
 清朝皇帝時代
 宣統帝
 辛亥革命
 遜清皇室小朝廷として
 大清皇帝の尊号で保護されるも
 張勲復辟事件で復位して
 12日間で再び退位
 北京政変で追われて
 天津の日本租界で日本政府の庇護を受けて
 満洲国の執政に就任
 帝政移行後の
 大満洲帝国で皇帝即位
 康徳帝と称し
 満州国大元帥
 満州国協和会名誉総裁
 などを兼任
 大満洲帝国の崩壊とともに退位
 赤軍の捕虜
 中華人民共和国に引き渡され
 撫順戦犯管理所からの釈放
 北京植物園に勤務
 晩年には満州族の代表として
 中国人民政治協商会議全国委員に選出
 字は耀之
 号は浩然
 辛亥革命後の呼称
 廃帝と国民党政府から呼ばれる一方
 旧清朝の立場からは
 遜帝(遜=ゆずる)とも
 末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある
 唯一火葬された皇帝のため
 「火龍(龍は皇帝を指す)」
 とも呼ばれる
  ↓↑ 
  婉 容
 (えんよう・Wǎn róng)
  1906年11月13日〜1946年6月20日
 満州国の皇后
 清朝最後の皇帝(宣統帝
 満州国皇帝康徳帝)の
 愛新覚羅溥儀の正妃
 実家の姓から
 ゴベイル(郭布爾)皇后・・・「郭布爾」?⇔「郭務悰」?
 とも呼ばれる・・・
ーーーーー
 ・・・「郭布爾」?⇔「郭務悰」?・・・