2169日目・・・一日中、晴天・・・ブログ記事の検索三昧だけれど・・・知らないコトが多いナッ・・・チイサイコロにマンガで読んだ「真田十勇士」じゃぁなくて、「尼子(あまこ・ニシ)十勇士」・・・夜はTVで「映っちゃった映像・UFO・妖怪・心霊・妖精・小人・宇宙人今秋最新モノ公開」、「岡山恐怖の心霊城へ」・・・「鶴姫、常山城」を観たが・・・シンレイ現象・・・今現在は、「夏目漱石」・・・「ワタクシは黒猫モモである」・・・

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 で、
 常山城と鶴姫
  ↓↑
 上野肥前守隆徳
 備中上野氏最後の当主
 天正三年(1575年)
 毛利氏により攻撃を受け
 三村氏一族最後の居城
 常山城は
 毛利氏の軍勢に取り囲まれ
 上野隆徳は城内で自害
 妻である
 鶴姫
 は、城内の侍女三十余名を率い、
 城外の毛利軍に突撃
 毛利軍の武将である乃美宗勝
 一騎打ちを挑むが、
 乃美宗勝はそれを拒否し、
 鶴姫は城内に戻り自害
  ↓↑
 書写山・書寫山(ショシャザン)・・・書写山
 兵庫県姫路市の山
 圓教寺円教寺、エンギョウジ)・・・円を教えるジ
                   てら(弖等)?
 兵庫県姫路市
 書写山(しょしゃざん)
 に位置する寺院・・・・・・・・・・ジイン(字音)?
 天台宗の別格本山
 山号は書寫山(書写山
 西国三十三所・・・・・西の語句の纂を拾う纂?
 第二十七番・・・・・・宿曜経二十七宿?
  ↓↑
 天正六年(1578年)
 織田信長より
 中国地方征伐を命じられた
 豊臣秀吉が、
 播磨制圧のため乱入し
 摩尼殿の本尊である・・・・真爾(字)伝の本の存?
 如意輪観音像などを・・・・如意の
              林(錀=うさぎあみ
                  ウサギ編み
                  宇佐疑編み?)
              の観る音
 近江の長浜に持ち帰った
  ↓↑
 天正八年(1580年)
 長浜より
 如意輪観音像だけが戻された
 この摩尼殿の本尊は、
 性空如意輪観音像と
 同木同作の如意輪観音で・・・・「同目同作」?
                「同記同作」?
 性空の生木如意輪観音像は、
 延徳四年(1492年)
 真言堂からの火災により、
 蓮鏡院、如意輪堂とともに焼失
  ↓↑
 上月城の戦い
 天正六年(1578年)
 四月十八日〜同年七月三日
 播磨国
 上月城
 毛利輝元
 と
 尼子勝久
 との間での合戦
 羽柴軍・荒木軍は
 高倉山
 から
 書写山・・・・・書き写しのサン(纂)?
 へ陣を移し
 七月一日
 尼子軍は城兵の助命を条件に
 開城・降伏
  ↓↑
 山中幸盛=山中之鹿介
 尼子家家臣
 尼子十勇士の一人
  ↓↑
 山中幸盛=山中之鹿介
 尼子家家臣
 尼子十勇士の一人
  ↓↑
 「16歳、春の日、幸盛は
 「今日より30日以内に
  武勇の誉れ(戦功)を挙げたい」
  と三日月に祈った。
  主君の
  尼子義久
  山名氏の
  伯耆の尾高城を攻め、
  幸盛も随行
  戦いで
  因伯(鳥取県)の豪傑、
  菊池音八
  を討ち取り
  これより一生の間、
  三日月を信仰したという」
 ・・・「三日月信仰」って・・・?
 戦国美男子ですか・・・?
  ↓↑
 美男子=イケメン
  ↓↑
 山中之鹿介
 木村重成
 名古屋山三郎
  ↓↑
 問題なのは、
 名古屋山三郎で・・・?・・・名前からして「ナゴヤ?」である・・・で、調べてみた・・・
 「名古屋は、平安時代末期の荘園名として那古野荘で見えるものが最も古く、
  ↓↑
 名護屋
 那古野
 名児屋
 浪越
 名越
  ↓↑
 などとも表記
 江戸時代には、名古屋と名護屋が併用されていたが、時代とともに「名古屋」の使用例が増え、1869年(明治二年)に「名古屋藩」とした」・・・
  ↓↑
 名古屋(那古野)山三郎
 (なごや さんさぶろう)
 蒲生氏、
 森氏の家臣
 妻は
 出雲阿国
 歌舞伎の祖
 加賀藩
 名越家の出
 名越山三郎
 蒲生氏郷の奥州攻めに
 小姓・・・・・・・・・呼称・古称・誇称・湖沼・古匠
 として従い手柄を立てた
 慶長八(1603)年
 豊臣の家臣
 名古屋因幡守の子
 通称
 「名古屋山三」
 蒲生氏郷
 児小姓 (ちごこしょう)=稚小姓・・・稚=わか(和歌・若)
  ↓↑
 生誕 元亀三年(1572年)
   or天正四年(1576年)
    〜
    慶長八年五月三日(1603年6月12日)
 改名 九右衛門、宗圓(号)
 別名 織田九右衛門
 戒名 梅林院殿久嶽宗遠居士
 墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺
    大徳寺高桐院
 氏族 名越氏後裔
 父  名古屋高久の次男
 母  養雲院(中川重政妹)
 兄弟 女(津田織部室→金森可重室)、
    お千
    山三郎
    岩(羽柴小一郎室→森忠政室)・・・「お岩」さん?
    女(小沢彦八室)
    女(各務正休室)・・・「各務」って「郭務(悰)」?
 妻 出雲阿国
 子 女(森可澄室)
 嗣子 蔵人
  ↓↑
 名古屋氏(那古野氏)
 名越流北条氏の子孫
 母方の縁で織田氏と縁戚
 織田九右衛門とも名乗った
 当初は母と共に京の
 建仁寺に在ったが、
 15歳の時に
 蒲生氏郷に見出され
 小姓として仕える・・・・小姓の英語は「page」?
                 漢字は「頁」
 織田信包に仕えていた・・・説・・・「信の包」?
 九州征伐
 小田原征伐に参加
 天正十八年(1590年)
 陸奥(むつ)
 名生(みょう)城攻略・・・・名が生れる?
 天正十九年(1591年)
 九戸政実の乱
 で一番槍の功
 文禄四年(1595年)
 氏郷が死去すると
 蒲生氏から退去
 京の四条付近で浪人
 出家して
 宗圓・・・・・・・・桑園・想円?
 と名乗り大徳寺に入った
 還俗し、妹の
 岩が嫁いでいる
 森忠政の家臣として仕えた
 茶道や和歌に関しても
 見識が深い事から
 饗応役として取り立て
 5000石の所領を与えた(後に5300石まで加増)
 山三郎の妹2人が
 森家重臣
 小沢彦八
 各務正休・・・?
 と婚姻を結んだ
 同僚の
 井戸宇右衛門・・・四谷怪談元禄時代に起きた事件?
          創作日本の怪談
          江戸の雑司ヶ谷四谷町
         (豊島区
          雑司が谷)が舞台
         「貞女・お岩が、
          夫・伊右衛門に惨殺され
          幽霊となって復讐」・・・?
 とは仲が悪く
 度々、口論など諍いを起こした
 慶長八年(1603年)
 森忠政関ヶ原の戦いにおける恩賞として
 美作国
 津山藩に移封された後に
 新しい城を院庄に立てる事を計画
 この時、
 山三郎は
 宇右衛門を殺すように
 森忠政より命令され、
 直々に刀を賜った
 工事現場において
 宇右衛門
 と居合わせた山三郎は喧嘩口論の末に
 抜刀して襲い掛かるが、
 逆に
 宇右衛門に切り伏せられ死亡
 宇右衛門も居合わせた
 森家の人間にその場で斬り殺された・・・森鴎外
 享年28、32とも・・・
 山三郎の遺体は現場の北側、
 宇右衛門の遺体は南側に埋められ、
 墓標の代わりに松が植えられた
 その場所には松があり、
 「白眼合松・・・・・・「白い眼」が睨み合い?
 (にらみあいのまつ)」
 と呼ばれている
 墓所は高桐院にも存在
 ↓↑
 嗣子の
 名古屋蔵人
 は森家を去り、
 前田利常に3000石で召し抱えられ、
 子孫は
 加賀藩士となって
 代々
 名越姓を称した・・・
 ↓↑
 歌舞伎成立伝説に付会され
 出雲の阿国とともに
 歌舞伎の創始者として諸書にみえるが
 山三郎伝説が
 阿国歌舞伎に趣向として
 摂取されたとしても
 直接の関係は認められない・・・
 ↓↑
 名古屋山三郎
 美男で遊芸に通じた
 かぶき者であったため
 歌舞伎の祖として伝説化された・・・
 ↓↑
 当時流行した
 かぶき者の典型
 お国が
 かぶき者の姿をして
 舞台に立った時期が
 山三郎の没したころに当たり
 そこから両者が結びついて
 お国の夫、愛人などという
 逸話が
 後世生まれた・・・
 ↓↑
 すべて伝説・・・
 阿国が男装して
 かぶき者を舞台に登場させたころ、
 山三郎の死が伝えられて
 巷(ちまた)の話題になったため、
 舞台上の
 かぶき者の1人を
 山三郎の亡霊に
 見立てることが行われ、
 そこから逆に
 生前の山三と阿国との関係が
 語り伝えられる結果を招いた・・・
  ↓↑
 「お国歌舞伎」
 当時の流行の先端を行く
 衣装や
 黄金造りの太刀
 黄金の十字架
 水晶の数珠などを身につけた
 お国の華麗なかぶき姿は
 当時の豪奢な好みを反映し
 これをまねる女芸人が続出
 初期のお国の歌舞伎
 この現代風俗のものまねに
 猿若(さるわか)と呼ばれた
 司会役もかねた
 道化役の
 滑稽芸をからませ
 あいだに
 狂言師による能狂言
 女たちの小歌踊をはさんだものであった
 後、
 かぶき者として名を売り
 喧嘩(私闘)で斬り死にした
 名古屋山三郎の亡霊を登場させるなどの
 演出も工夫したものと思われる・・・
 1612〜13年(慶長十七〜十八)ごろまで行われていた・・・
  ↓↑
 「昔話稲妻表紙」
 1806年(文化三年)刊
 歌舞伎狂言浮世草子
 「契情阿国歌舞伎(けいせいおくにかぶき)・(1730)」
 で著名な
 不破伴左衛門
 と
 名古屋山三郎の抗争を
 大和国
 佐々木家のお家騒動のなかに持ち込んだ伝奇小説
 山三郎と
 遊女
 葛城(実は不破の妹)の恋愛や
 白拍子
 藤波
 を殺した忠臣
 佐々良三八一家
 が長く怨霊に苦しめられる因果譚などが
 蟹満寺(かにまんじ)縁起その他本邦の
 昔話、民話を豊富に織りこんだ趣向によって語られ
 複雑な筋立ての
 京伝独自の幻怪華麗な物語的迷宮世界を形成・・・
  ↓↑
 江戸時代後期の読本
 山東京伝
 5巻5冊
 文化三 (1806) 年刊
 近松門左衛門
 「傾城反魂香 (ケイセイハンゴンコウ)」
 の世界を借り
 奸臣
 不破伴左衛門
 と忠臣
 名護屋山三との対決を描いた・・・
 「稲妻表紙(イナズマビョウシ)」
 読本。5巻6冊
 山東京伝
 歌川豊国画
 文化三年(1806)刊
 近松門左衛門
 「傾城反魂香(ケイセイハンゴンコウ)」
 などの
 不破伴左衛門
 と
 名古屋山三郎の物語をからませ、
 敵討ちを中心にしたお家騒動の物語・・・
 ↓↑
 名古屋山三郎
 世に
 さんざ、山三、山左、山左衛門、三左衛門
 と呼ばれた
 父
 因幡守高久(敦順とも)は
 織田信長に仕え
 母は信長の縁につながる
 織田刑部大輔の娘
 妹は
 豊臣秀長の嫡子
 小一郎に嫁し
 死別後
 森忠政に嫁した
 「氏郷(うじさと)記」には
 美男子、遊芸にも通じた
 伊達男(かぶき者)であった・・・
 ↓↑
 加賀(金沢)藩士
 因幡守敦順
 と
 織田信長の姪の
 養雲院の子
 ↓↑ 
 当時の尼子家当主は義久で、
 鹿介は彼に従い数々の戦功を挙げた
 しかし、
 義久は尼子の
 名君・祖父経久とは比ぶべくもない人物で、
 家中もまとまりに欠け、
 毛利家との一大決戦が起こり、
 月山富田城もついに落城
 義久は毛利元就に降伏
 毛利方の
 益田越中守藤包の家臣に
 品川大膳が
 鹿介と一騎打ちを望み、
 名を
 「(たら)木狼之助」と改名し
 鹿はの木の若芽を食い、角を落し
 狼は鹿を獲物とする
 ところからこの名を付けた
 月山富田城攻防戦において、
 両者の一騎打ちで
 鹿介は相手を仕留めた
 鹿介が狼之助に勝ったが
 大勢は覆らずに
 義久は開城降伏
 鹿介は京へ逃れて
 織田信長の力を借り、
 尼子一族の勝久を奉じ
 月山富田城の奪回したが
 すぐに奪われたが
 秀吉の麾下に属し、
 上月城に籠もって
 毛利軍がと対峙したが
 秀吉は信長の援軍を求めた
 信長は上月城を見捨てよと命令
 秀吉は上月城から撤退
 上月城落城、勝久は切腹
 天正六年七月十七日
 鹿介は
 吉川元春の捕虜となり
 備中
 高梁川・阿井(合)の渡しで
 護送中に謀殺
  ↓↑
 ナゼ、「三日月」に祈ったのか?
 「観音経」
 「七難」=火難、水難、羅刹難、王難、鬼難、枷鎖難、怨賊難
 「八苦」=生、老、病、死
      愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦
 「四苦」=生・老・病・死
 「八苦」=「四苦」+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦
      「四苦+四苦」の「八苦」
  ↓↑
 「4×9(四苦)」+「8×9(八苦)」=36+72
           「36+72」=「108(煩悩の数)」
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 ・・・「寅次郎・紅の花」・・・
 ドサ廻りの歌手「リリー」・・・です。寅さんにとって運命のヒロイン「リリー」にボクも惚れた・・・
 シリーズ第11作目「寅次郎 忘れな草
 寅さんとリリーの出会いは、網走に向かう汽車の中
 制作された年(1995年)の
 1月17日は
 「阪神・淡路大震災
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