1978日目・・・前回、書き込んだ「HK1(ヘキソキナーゼ-ワン)」、「細胞切断遺伝子酵素」・・・云いたいコトは「政治家権力の抑制、新陳代謝、自滅、自死、切腹のバランス(均衡→金工・金好・金武巧?)」であるが・・・「切る=七+刀」と言えば(ト-いえば→訳意重葉)、カタナである。なぜ、「七(匕=匙・ヒ=牝=めす)=漆(うるし)=ななつ」の「刀」なのか?・・・「七」は「カイン」が弟「アベル」を殺した「カミの復讐の回数宣言」で、「カインを殺す者」には「七倍の復讐(復讐という連鎖を断ち切る回数?)」で、「メトサ

 問題は「切(きる)」の「七の刀」の構成の意味であったが・・・同音異字漢字で「きる=伐・斬・着・鬋→記留」である・・・
 「刀=妖刀、村正(民間の村正の刀は隠され、銘を磨り潰して隠滅・村正の刀剣は徳川将軍家に仇なす」と云う伝説・・・
 草刈正雄氏(現在、「真田丸」の真田幸村の父「真田昌幸」役・朝鮮戦争従軍戦死の父親はアメリカ人・1974年に「卑弥呼」で映画デビュー・1985年(昭和60年)〜1986年(昭和61年)の大河ドラマ真田太平記」では幸村を演じた」)・・・
 彼は、先週のETV、「鑑賞マニュアル・美の壺で進行役」で鎌倉時代の名刀、正宗を紹介、「刀匠・河内國平さんの刀作りに密着、光の秘密。信州真田家にゆかりのある幕末の名工源清麿とその兄・真雄の物語や、刀の装飾に関わる杢目金(もくめがね)という江戸期の幻のスゴワザを紹介、何を語るのか?」・・・「刀」は「平和」をマモッてきたのか?・・・「刀」は「ヒトを殺傷する為の武器」である。そして状況によっての使い方は様々あろうが、使用目的としては「武器、兵器としての道具」である。「切る」と云うことでは、その使用方法は「銃器=鉄砲・拳銃」よりも幅が広い・・・今や「美術品」としての鑑賞用でもある・・・確かに「使用機能」は当然ながら「機能美」を兼ねる・・・そして、手にしたらナニかを切りたくなる・・・
 文字の音も形象の意味も調べてみたくなる、考えてみたくなるのも、ボク的には当然であるが・・・「くさかりまさお」=「句(ク=玖・矩・口・昏・功・苦・繅)+佐+掛+理+万+作+訖(嗚・乎・緒・尾)」・・・
 ここでは、「マサムネ(正宗)」ではなく、「ムラマサ(村正)」を調べてみたい・・・
 「ウイッキペデア」では・・・
  ↓↑
ーーーーー
 「妖刀、村正」は
  ↓↑
 「長崎奉行
  キリシタンの弾圧の
  竹中重義(外様大名)は
  徳川幕府が禁じていた
  二十四本の
  村正の所蔵が発覚し、
  徳川幕府(家光)に
  寛永十年(1633年)二月に
  奉行職を
  罷免、
  切腹を命じられ、
  寛永十一年(1634年)
  二月二十二日、
  嫡子、
  竹中源三郎と共に
  浅草の
  海禅寺で切腹
  一族は隠岐流罪
  検死役は
  大目付
  水野守信
  (寛明日記)」
 「竹中重義は
  府内藩(豊後国)の初代藩主、
  竹中重利の長男、
  竹中重利は
  慶長五年(1600年)の
  関ヶ原の戦いで、
  豊後高田領主
  はじめ
  西軍に与して
  田辺城の戦いに参加
  後、
  東軍に寝返り
  戦後に
  徳川家康から賞され
  高田一万石から
  府内二万石に加増移封され、
  府内藩(豊後国)の藩祖となった
   ↓
  竹中重義は
  羽柴秀吉の参謀で
  竹中重治(重虎=半兵衛)の
  従弟で、義弟。
  元キリシタン大名
  黒田官兵衛(如水→祐隆=孝隆=孝高)
  とともに
  双璧とされ、
  両兵衛、二兵衛と称された人物」
 ・・・であった・・・
ーーーーー
 「くさかり(草刈)」・・・草=艸+日+十
              刈=乂+リ(刀)
                乂(かる・おさめ・かしこし
                  カイ・ゲ)
                  治める=䢃
                  懲らしめる=㣻
                   声符「乂(カイ・ゲ)」
                  「凶・䖊・㣻・䢃・艾」
                乄(しめ)→〆
                メ(め)
 「戦国時代、因幡・美作地方の勢力を振るった草刈氏は、藤原秀郷流小山氏の後裔・・・初代の基近は足利家氏に従って陸奥に下向し、斯波郡草刈郷の地頭職を得て、その地名をとって「草刈」氏を名乗ったのが始まり・・・」・・・
 ここでも、「斯波(しば)」、「草刈(くさかり)」・・・「地頭(じとう)」は、「字当」、「字問・字答」デス・・・
ーーーーー
草刈家
家紋
丸の内二つ引
「十曜」紋
 ↓
フランスでは、
七曜制・・・地球に近く、
 ↓    月・水星・金星・太陽・火星・木星土星
 ↓    の順に並んでいると考えた
      1曜が1日ではなく
      1時間ごとに地上を守護すると考えられ
      プラネタリーアワー
      順序は、地球から最も遠い土星に始まり、
      内側へと進む
      24時間後、翌日の第一時間目の守護星は、
      3つ前(あるいは4つ後)の太陽
      以下、順に
      土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星
      そしてまた土星
      各日の第一時間目の守護星になる
      第一時間目の守護星は、
      同時にその日一日の守護星ともされ、
      その日は守護星の名をもって
      呼ばれるようになった
      日本に入唐留学僧らが持ち帰った
      「宿曜経」等の密教教典によって、
      平安時代初頭に伝えられた
      宿曜経が伝えられて間もなく、
      朝廷が発行する具註暦にも
      曜日が記載されるようになり、
      現在の六曜のような、
      吉凶判断の道具として使われてきた
      藤原道長の日記
      『御堂関白記』には
      毎日の曜日が記載されている
      具註暦では、
      日曜日は「日曜」と書かれるほかに
      「密」とも書かれた
      中央アジア
      ソグド語で日曜日を意味する言葉
      ミール(Myr)を漢字で音写したもの
      当時、ゾロアスター教マニ教において
      太陽神とされていた
      ミスラ神の名に由来する
      江戸時代
      借金の返済や質草の質流れ等の
      日付の計算は
      その月の日にちが何日あるか
      (大抵は29日か30日)
      がわかればいいという理由で、
      七曜は煩わしくて不必要とされ、
      日常生活で使われることはなかった
      曜日を基準として日常生活
      明治時代初頭のグレゴリオ暦導入以降
      グレゴリオ暦では、
      400年周期で曜日が循環する
      400年間の閏年の配置が決まっており、
 ↓    その総日数が
 ↓    7で割り切れるため
を廃止し
独自の
「十曜制」が設けられた時期が存在
1793年11月24日〜1805年12月31日(グレゴリオ暦
七曜制を廃止し独自の
「十曜制」が設けられた
「-di」は英語の「day」に相当する。
フランス語の現在の曜日にもついている。
(月曜日…Lundi、等)
primidi - 一曜日(いちようび)毎月1,11,21日
duodi - 二曜日(にようび)毎月2,12,22日
tridi - 三曜日(さんようび)毎月3,13,23日
quartidi - 四曜日(よんようび)毎月4,14,24日
quintidi - 五曜日(ごようび)毎月5,15,25日
sextidi - 六曜日(ろくようび)毎月6,16,26日
septidi - 七曜日(しちようび)毎月7,17,27日
octidi - 八曜日(はちようび)毎月8,18,28日
nonidi - 九曜日(きゅうようび)毎月9,19,29日
décadi - 十曜日(じゅうようび)毎月10,20,30日

1871年
パリ・コミューンの際に
フランス革命暦」が用いられ、
この暦では、
合理性を追求するため、
従来の七曜を廃止して
10日ずつ
3つのデカード
(décade・週・旬
フランス革命暦では
1か月は
すべて30日であった)
に分けられた。
革命暦廃止を前に
1802年3月31日から
元の七曜制に戻された
↓↑
藤原氏秀郷流・・・家紋は「十曜紋」

草刈氏
戦国時代、因幡・美作地方の勢力
藤原秀郷
小山氏の後裔
小山政光の孫
氏家基秀の子
基近(公継)
初代の基近
足利家氏に従って
陸奥に下向
斯波郡
草刈郷
地頭職
地名をとって
草刈氏を名乗った

毛利家の記録(萩藩閥閲録)
草刈氏の祖
上野国の豪族
天慶三年(940)
平貞盛とともに
平将門を征伐した
藤原秀郷
草刈の姓
寛正年中(1243〜46)鎌倉将軍
頼経親王から
陸奥国
斯波郡
草刈郷の
地頭職を賜った
基近以後・・・
藤原秀郷の後裔・・・

草刈氏
基近の曾孫
貞継は、
延元元年(1336)
足利尊氏が京都から九州に敗退したとき、
その軍勢に加わったが、
備前国
和気郡
三石城に踏みとどまり
新田義貞
追討軍を防いだ・・・

陸奥国の地頭
貞継が、
備前国
三石に現れるのは奇異・・・
草刈氏は
武蔵守として
鎌倉にあった時、
またはそれ以前より
尊氏の配下となっていた・・・
元弘〜建武の動乱
尊氏に従って鎌倉から京都に入った
建武三年(1336)
北畠顕家らの軍勢に敗れた
尊氏に従って
備前まで逃れ、
尊氏が九州に去ったのち
三石城に拠って
殿軍の役目を果たした・・・

貞継の戦功により、
暦応元年(1338)
因幡国
智頭郡を賜わり、
同地に移り
淀山城を築いて、拠った・・・
南北朝の内乱
貞和年中(1345〜49)
美作国
苫東郡
青柳庄
三輪庄
加茂郷
などの地頭職を賜った・・・
貞継の子
氏継は将軍
義詮から
苫東・苫西郡の地頭職に補された・・・
氏継は
山名氏清の討伐の戦に参加
氏継は本領のほかに、
南接する
美作にも兵を出すなど所領の拡大

応仁の乱
盛継が
山名宗全方として戦った
その子
景継の代に
智頭郡の大半を押領
永正年中(1504〜)
播磨の
赤松氏、
出雲の
尼子氏とも戦った
永正五年(1508)
流浪の将軍
足利義稙を奉じて
大内義興が上洛の陣を起こすと
景継も従軍、
同八年、
京都
船岡山の合戦には先陣
草刈氏は
因幡の一方の雄に成長・・・

尼子氏との抗争
景継の子
衝継は、
天文元年(1532)
美作国
加茂郷に
高山城(矢筈城)を築き
本拠を
因幡
淀山城から移した・・・
衝継は
美作に移り住むと
高山城に拠って、
美作を侵し、
近隣諸豪、
尼子氏とも対抗

享禄二年(1529)
因幡国
気多郡、
高草郡、
岩井郡で
尼子氏と戦い、
天文元年
美作に進出してきた
備前の宗浦上村・宗景父子を撃退
美作のうち
苫北・苫西を支配下
その後も
尼子氏との間で抗争
天文九年
尼子晴久
毛利元就を除こうとして
安芸郡
山城に攻め寄せた
翌十年
元就の反撃にあった
尼子勢は敗走
衝継は元就に誼を通じ、
天文十一年、
大内義隆
尼子攻めには
毛利元就に呼応して
唐櫃に出陣
義隆の尼子攻めは
国人の離反などによって失敗
尼子氏が勢力を吹き返す

以後、
尼子氏の美作侵攻が繰り返され、
天文二十二年、
尼子氏に
高山城を包囲攻撃されたが
衝継は奮戦してついに
尼子勢を退けた
天文二十二年、
晴久は元就の謀略にのせられて
一族の新宮党を討滅、
勢力を失墜
弘治元年(1555)、
元就は
厳島合戦
陶晴賢を討ち取り
永禄九年(1566)
尼子氏を降した
元就は中国地方から九州北部までを支配

草刈氏では
衝継が隠居
嫡男
景継が
毛利氏に従って
尼子攻めに活躍

因幡では
武田高信がに勢力を拡大
高信は毛利元就に通じ
永禄六年(1563)
守護
山名氏を毒殺
因幡を牛耳る
毛利氏に従って
但馬・美作に進攻
因幡への進出を目論む
景継は
高信と対立
衝突

乱世の変転

永禄九年
毛利氏に降った
尼子氏の残党は
山中鹿介幸盛、
立原源太兵衛尉久綱
らが中心となって
尼子氏再興を図り、
京都
東福寺にいた
新宮党の遺子を還俗させ
尼子孫四郎勝久と名乗らせて主君とした
永禄十二年(1569)
出雲に入ると
因幡
山名豊国と結んで
毛利方の
武田高信を攻め、
豊国を
鳥取城主とし、
尼子党は
若桜鬼ケ城に
入って
毛利氏と対峙
毛利氏は、
草刈景継

武田高信
の仲裁に乗り出し、
元亀三年(1572)
内海兵庫助らを使者に遣わし
和議
和議の条件が父の代から
毛利氏に尽くしてきた
草刈氏より新参者というべき
武田氏に厚かった
尼子党を支援する
織田氏からの調略の手が
景継に伸び、
天正二年(1574)
織田方の密使として
山中鹿之助
矢筈城を訪ね
鹿之助を迎えた
草刈氏家中は
景継をはじめ
毛利氏の処置に
反感を持つ者が多かったことから、
動揺
景継は
織田氏に転じることに決し、
信長からの
お墨付きを待った
尼子党が暗躍する
因幡・美作方面を注視していた
小早川隆景は、
さきの和議に対する
景継の不満を察し、
その動きに目を光らせていた・・・

鹿之助から
景継内応の報告を聞いた
信長は、
朱印を捺した誓文書を作成し
蜂須賀正勝に命じて
景継のもとへ送らせたが、
この使者が
智頭郡の北方にある
毛利方の関所で捕えられ、
懐中にあった
景継宛の信長朱印状も押さえられ
報告を聞いた
隆景は、
景継の家来を呼び寄せると
朱印状を見せ、
事態を収拾するように厳命
景継は、切腹
矢筈城の山麓に葬られた

景継と
武田高信の和議に際して
毛利氏が
景継の納得する条件で臨んでいれば、
景継の事件は起こらなかった・・・

景継が自害後
弟の重継が家督を継ぎ
小早川隆景に属した
草刈氏の支城である
因幡
淀山城に攻め寄せた
尼子勢を撃退、
若桜鬼ケ城に攻め寄せ
以後、
重継は兄
景継の汚名を雪がんとして
毛利氏に誠忠を尽くし
西の防衛線を死守

『萩藩閥閲録』の由緒書

天正五年
「輝元公御代信長公と御取相」
同十年
信長が
本能寺の変
明智光秀に殺され、
備中高松城を攻めていた
羽柴秀吉
毛利輝元と和睦
その間、
草刈氏は
毛利氏のために
因州の
忠櫃城を固守していた

当時、
備前では
天神山城主
浦上宗景の被官であった
宇喜多直家が、
沼城を拠点に勢力を蓄え、
天正年間には
岡山城を築き、
備前・美作に勢力を拡大
直家の台頭を危惧する
備中の
三村元親

主君の
浦上宗景によって、
直家は挟撃され
三村氏の後楯であった
毛利氏と結ぶことに成功し、
滅亡を回避
以後、
直家は
三村元親を
備中松山城に滅ぼし、
美作西部の
高田城主
三浦貞弘を滅ぼした
直家は播磨に進出していた
羽柴秀吉の軍勢と
播磨で戦って敗れ、
羽柴勢の強大さを認識

その後、
尼子勝久を支援する
羽柴勢

毛利勢

播磨国
上月城で戦った
毛利方の敗戦を予想した
直家は病と称して動かず
結果は
毛利方の勝利に帰し、
毛利・宇喜多氏の同盟は崩れた
直家は
天正六年(1578)
織田信長羽柴秀吉と結ぶに至った・・・

そのころ
直家は備前、美作地方にも勢力を伸ばし、
国衆たちを着々と服属させ
天正五年八月
主君
浦上宗景
天神山城に攻め
播磨に走らせ
美作の国衆たちの間に動揺
「宗景の家臣どもを己が家僕の如く取扱」
ったことに不満で
かれらは
美作東部の雄、
三星城主
後藤勝基を盟主に結束した
後藤氏は
毛利氏に使者を送ってこれと同盟し、
天正六年から
宇喜多勢

後藤勢は
随所で合戦を展開

勝田郡
英田郡
を舞台に
宇喜多勢

毛利氏を後楯とする
後藤勢が戦っていた時、
吉野郡では
宇喜多氏と結んだ
新免宗貫と、
毛利氏の旗下である
草刈重継が合戦を繰り返していた
新免と草刈の両氏は、
宇喜多・毛利の代理戦争を
吉野郡で展開していた・・・

新免氏との抗争

草刈・新免両氏の攻防戦
『美作太平記
『美作古城記』などに記述
『東作誌』所収の史料などからみて
事実に反しているような記述も多い
天正十五年
あるいは
同十六年
佐淵の合戦があった・・・
天正十一年
草刈重継は
毛利氏の勧告を受けて
備後に退去しており、
天正十五・六年のころに
草刈・新免の両氏が
吉野郡で合戦したとは考えにくい・・・

『東作誌』

粟倉庄が戦国動乱に巻き込まれる端緒
草刈与次郎重久
が同庄の
長尾村に
佐淵城を築いたことにあった・・・
重久は重継の弟で、
因幡の淀山城にあったが、
天正六年(1578)
淀山城を発し、
長尾村に入り佐淵城を築いた
宇喜多氏に属する
新免伊賀守
粟井京進らの所領である
吉野郡の村々に放火・狼藉
これに対し、
新免・粟井側は
宗貫はみずから手勢を率いて出陣し
草刈勢の鎮圧に向かった
草刈勢に
新免・粟井勢は敗れつづけた・・・

翌年七月
新免勢

草刈勢

筏津村の
姥ヶ原において戦闘
草刈与次郎は孤軍奮闘したが
新免勢の追手に迫られて
佐淵城に楯籠ろうとして引き返したが、
新免備後守家貞に討たれた
享年、十七歳の若武者であった

草刈勢の主力
高山城の
草刈重継の軍勢

竹山城の
新免宗貫の軍勢が戦闘したのは
琴戸崎合戦

塀高合戦
琴戸崎合戦が起こったのは
天正七年六月
先の
佐淵城落城の寸前であった
高山城の
重継は異母兄の
景継に軍勢を授け、
新免勢の追討に発向
この
草刈勢を迎え撃つ
新免宗貫は、
嫡子
三郎長春
一族・家臣たち、
横野・春名・船曳

吉野郡の国衆たちを率いて立ち上がった
寄手の
草刈勢は新免勢に猛攻を加え、
新免勢は浮き足立って
一時は総崩れ
そこに、
宮本・平尾・小野
らの別働隊が
横槍を入れ
草刈勢は混乱し、敗北を喫した
草刈側の大将
草刈景継、
重臣
白岩阿波守
らは、
乱戦のなかで
琴戸崎から逃走し、
筏津で討ち取られた
佐淵城の
草刈与次郎も、
城から出て
筏津の
姥ヶ原で
新免勢と戦った・・・
与次郎は討死し、
佐淵城も落城した

天正八年四月
大野庄で
塀高合戦
新免家の内部で対立が起こり、
新免伊賀守に遺恨を抱いた
井口長兵衛
新免総兵衛
らが
草刈重継に内通
その軍勢を
塀高城に引入れ、
一緒になって
新免宗貫の軍勢と戦闘
宗貫は
宇喜多直家に援軍を要請
直家みずからが軍勢を引き連れて
塀高合戦に参加
宗貫は直家とともに
草刈重継の軍勢を撃退

高山城主
草刈重継は、
天正六年〜同八年まで、
勝田郡北部の国衆をともなって
吉野郡に侵入し、
竹山城主の
新免宗貫の軍勢と戦ったが、
新免側の守りは堅く、
ついにこれを抜くことはできなかった
毛利氏を後楯とする
草刈氏と、
宇喜多氏を後楯とする
新免氏との攻防戦も
天正十年に至って終焉

景継は
天正三年に自害
しており出陣は不可能
『美作太平記
には
草刈景綱が大将として出陣、
宮本武蔵に討たれた・・・

その後の草刈氏

天正九年
宇喜多直家の死去
毛利勢の東上を懸念した
織田信長は、
羽柴秀吉を中国経営に向かわせ
羽柴と同盟関係にあった
宇喜多家の諸将はこれに従軍
翌年の
本能寺の変
による
信長の死と
備中高松城の落城によって、
毛利・羽柴の間に和睦が成立
両氏は
高梁川をもって境となし、
以西は毛利氏、
以東は宇喜多氏の所領となった
毛利・宇喜多両氏の間でも講和が成立
美作国宇喜多秀家の所領
その結果、
草刈重継の居城である
高山城

先祖伝来の所領も
宇喜多領となった。

草刈重継はこれを不満とし、
天正十一年八月
高山城下において、
佐良山城

米山城

宇喜多氏に加担する
美作の国衆たちと激戦
同年十二月
毛利輝元から
退城勧告の書状が届いたため、
重継は諸城を開くに至った

草刈重継
中村宗継
らは、恨みを呑んで
備後に退去し
毛利氏に仕えた
南北朝以来
因幡・美作の両国に勢力を
扶植した
草刈氏も、
時流の変化のなかで
父祖の地を去っていった・・・

以後、
毛利氏に仕えて、
天正十三年
小早川隆景に従って
伊予
白実城を預かり、
同十四年
筑前国
宝満城を預かった
後、
豊臣秀吉の命により、
宗像氏貞の娘を娶って
宗像氏を継ぎ
宗像を称した
筑前国
中野郡
福岡荘を領して
福岡氏を称した
のちに
草刈に復した

文禄・慶長の役
朝鮮に渡海
関ヶ原の合戦後は
小早川家に属した
のちに
小早川家を去って
毛利輝元の麾下に復した
草刈氏の系譜は
『萩藩諸家系譜』
『近世防長諸家系図総覧』
などにあり、
その一族には
白石
黒岩
中村
川端
の諸氏が出ている・・・
ーーーーー
 ・・・?・・・くさかり・・・「青人草(あおひとくさ・古事記上・葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆるうつしき青人草の」・・・カルのか、カラレられのか・・・