1451日目・・・昨日は従姉と彼女の息子がきてくれた・・・「2017年まで既済」・・・十八時半に区長会議・・・ネコ屋敷の住人・・・「猫一匹すら描けねえ」って「葛飾北斎」・・・「女性」って、すごい・・・花の生涯のご先祖、「イイ直虎」が女性、富嶽三十六景の三女、「カツシカ応為」も女性・・・

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 ウイッキペデアより
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 井伊 直虎(いい なおとら)=女性
 戦国時代の女性領主
 遠江井伊谷
 (静岡県浜松市・旧、引佐郡引佐町)の
 国人
 井伊氏の当主を務め、
 「女地頭」と呼ばれた
 井伊直親と婚約したが、生涯未婚
 井伊直政の「はとこ」であり養母
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 井伊 直虎
 戦国時代〜安土桃山時代
 生誕 不明
 死没
 天正十年八月二十六日(1582年9月12日)
 改名 祐圓尼、直虎
 別名 次郎法師、女地頭(渾名)
 戒名 妙雲院殿月泉祐圓大姉
 主君 今川氏真徳川家康
 氏族 井伊氏
 父は井伊直盛
 母は友椿尼
 子は養子の
 井伊直政
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 男子がいなかったため、
 次郎法師(次郎と法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)
 と名付けられ、
 直盛の従兄弟にあたる
 井伊直親
 婿養子に迎える予定であった。
 天文十三年(1544年)
 今川氏与力の小野道高(政直)の讒言により、
 直親の
 父・直満がその弟の直義と共に
 今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、
 直親は信濃に逃亡
 直親は
 弘治元年(1555年)に今川氏に復帰
 信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていたため、
 直虎は婚期を逸する
 ことになったとされる。
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 永禄三年(1560年)
 桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死
 その跡を継いだ直親は
 永禄五年(1562年)に
 小野道好(道高の子)の讒言によって
 今川氏真に殺害
 直虎ら一族に累が及び
 母・友椿尼の兄で叔父にあたる
 新野親矩の擁護により救われた
 永禄六年(1563年)
 曽祖父の
 井伊直平が天野氏の犬居城攻めの最中に急死(井伊直平公一代記)
 引間(曳馬)城(後の浜松城)主
 飯尾連竜の妻・田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされ死亡
 永禄七年(1564年)
 井伊氏は今川氏に従い、
 引間城を攻めて新野親矩重臣中野直由らが討死
 龍潭寺の住職であった叔父の
 南渓瑞聞により、幼年であった
 直親の子
 虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。
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 永禄八年(1565年)
 次郎法師
 直虎と名を変えて井伊氏の当主となった
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 小野道好の専横は続き、
 永禄十一年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆近藤康用鈴木重時菅沼忠久)に三河国徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。以降は徳川氏に従い、井伊氏に仇をなしてきた飯尾氏の籠る引間城は落城(田鶴の方は自害)、
 元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、直親を事実無根の罪で讒訴したことを咎め道好を処刑する。
 元亀三年(1572年)秋、
 信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦い野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため、
 元亀四年(1573年)四月、撤退。
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 直虎は直親の遺児
 虎松(直政)を養子として育て、
 天正三年(1575年)
 300石で徳川氏に出仕させる。
 天正十年(1582年)
 死去
 家督は直政が継ぐ。
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 葛飾 北斎(かつしか ほくさい)
 宝暦十年九月二十三日(1760年10月31日)?
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 嘉永二年四月十八日(1849年5月10日)
 浮世絵師
 化政文化を代表する一人
 代表作
 『富嶽三十六景
 『北斎漫画』
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 文化二年(1805年)
 「葛飾北斎」の号を用いる
 文化七年(1810年)
「戴斗(たいと)」の号を用いる
 文化九年(1812年)秋頃
 名古屋の
 牧墨僊邸に逗留
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 牧墨僊(まきぼくせん)
 安政四(1775)
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 文政七年四月八日(1824)
 愛知県名古屋市千種区に出生
 姓は牧、名は信盈
 通称新次郎
 寛政五年(1793年)
 登と改名
 文化七年(1810年)
 助左衛門を襲名
 号
 月斎、峨眉丸、歌政、月光亭主人、
 北亭、北僊、墨仙、百斎、酔墨山人、
 画狂人、斗岡楼、慶遊斎など
 狂歌
 竹風庵
 中京における銅版画の創始者
 五〇歳
 法名
 大寿院
 亀岩墨僊居士
 名古屋の出版屋は
 永楽家
 東四郎・・・「本居宣長」の居住地は
        伊勢国の松坂
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 その後、
 関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行
 文化十一年(1814年)
  『北斎漫画』の初編を発刊
 文化十四年(1817年)春頃
 名古屋に滞在
 十月五日
 名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて
 120畳大の
 達磨半身像を描く
 年末頃、
 大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行
 春好斎北洲が大坂にて門人になった
 文政三年(1820年)
 「為一(いいつ)」の号を用いる
 『富嶽三十六景』の初版は
  文政六年(1823年)に制作が始まり、
  天保二年(1831年)に開版
 同四年(1833年)に完結
 天保五年(1834年)
 「画狂老人(がきょうろうじん)」
 「卍(まんじ)」の号を用いる
 『富嶽百景』を手がける
 天保十三年(1842年)秋
 初めて、
 信濃国
 高井郡
 小布施の
 高井鴻山邸を訪ねた
 鴻山は、自宅に
 碧漪軒(へきいけん)を建てて、
 北斎を厚遇
 天保十五年(1844年)
 信濃国高井郡小布施に旅し、
 嘉永元年(1848年)まで滞在
 『怒涛図』などを描く
 嘉永二年四月十日(1849年5月10日)
 江戸・浅草聖天町にある
 遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没
 享年九十
 辞世の句
 「人魂で 行く気散じや 夏野原」であった。墓所は台
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 改号、
 30回
 使用した号
 「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」
 「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」
 「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」
 「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」
 「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」
 「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲
 などと、それらの組み合わせ
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 長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、
 北斎に日本人男女の一生を描いた絵、
 二巻を150金で依頼した。そして随行
 医師シーボルト
 同じ二巻を150金で依頼した。
 商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、
 シーボルトの方は
 「商館長と違って薄給であり、
  同じようには謝礼できない。
  半値75金でどうか」
 と渋った。
 北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた」と憤った。
 シーボルトは「それならば一巻を買う」というと、
 激貧にもかかわらず北斎は憤慨して二巻とも持ち帰った。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが
 「自分も困窮するのはわかっている。
  そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。
  しかし外国人に
  日本人は人をみて
  値段を変えると思われることになる。」
 と答えた。
 通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、二巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。
 シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、
 北斎にも追及が及びそうになった。
 (シーボルト事件)
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 葛飾 応為(かつしか おうい)
 贋作

 葛飾北斎
 三女
 名は
 栄(えい)、お栄(おえい)、
 阿栄(おえい)、應栄(おえい)、
 栄女(えいじょ)
 とも記す
 応為は号(画号)
 応為の号は、北斎が娘を「オーイ、オーイ」と呼んだので、
 画号としたとも、
 逆に
 お栄が北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と
 大津絵節から取って呼んだからという説や、
 或いは
 北斎の号の一つ「為一」にあやかり、
 「為一に応ずる」の意を込めて
 「応為」とした、とも・・・・
  ↓
 阿栄は、
 父北斎に似、多少慎みに欠いた
 男のような気質で任侠風を好み、
 衣食の貧しさを苦にすることはなかった
 絵の他にも、
 占いに凝ってみたり、
 茯苓を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、
 小さな豆人形を作り売りだして
 小金を儲けるなどしたという・・・
 ・・・タバコと酒を嗜んだ
 ある日北斎の描いていた絵の上に煙草の吸殻を落としたことがあり、大変後悔してタバコはやめたというが、しばらくしたらまた元に戻ってしまった。
 阿栄にも弟子がおり、たいてい商家、武士の娘であり、絵の家庭教師として訪問して教えた・・・
 露木が
 「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない・・・」と嘆いていると、娘阿栄が笑って
 「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、
  この前なんか腕組みしたかと思うと、
  猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。
  何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」
 と言うと、そばで聞いていた
 北斎は「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという
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 ・・・ウイッキペデアによれば・・・
 「地名字音転用例(ちめいじおんてんようれい)」
 本居宣長晩年の著作
 寛政十二年(1800年)
 名古屋
 本町通
 七丁目
 永楽家
 東四郎刊
 古代の日本の地名は特に
 漢字音と
 読みの不一致が著しいが、
 「古事記万葉集六国史・和名類聚抄」、
 国郡部
 「延喜式神名帳」から諸例を抜き出し、
 法則を見出して分類例示したもの
 和銅六年(713年)
 好字二字令周辺の
 政策によって
 諸国の地名が半ば強引に
 漢字二字で書き表された結果に由来
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