2285日目・・・朝、9:20のバスで隣の町の病院へ・・・診察が終わったのが13:00過ぎ・・・長い待ち時間だった・・・帰宅したのは16:00過ぎ・・・「遠山が目玉にうつるとんぼかな(小林一茶)」・・・本当はトンボはナニを観ていたんだろう。そのトンボの眼に映るモノを「一茶さん(1763年6月15日生まれ)」は観ていた?「遠山=とおやま=通山・東山・陶山・藤山」、「とうやま=問う山=当山・頭山・樋山」、「唐簒(纂)=トウサン=等算・倒産・父さん」・・・「簒=竹+目+一+人+ハ+ム=サン・うばう・うばいとる

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 小林 一茶
 宝暦十三年五月五日(1763年6月15日)生まれ
 ↓↑        ↓↑
 ↓↑        干支年=癸未(ひつじ=羊)
           皇紀2423年
           中国=清・乾隆二十八年
           朝鮮=李氏朝鮮・英祖三十九年
           イスラム暦=1176年〜1177年
           1763年
           2月10日英仏間でパリ条約の締結
 ↓↑            七年戦争終結
           2月15日プロイセンオーストリアなどが
 ↓↑            七年戦争講和条約
               フベルトゥスブルク条約締結
 ↓↑        本居宣長賀茂真淵に出会い
 ↓↑       「古事記」研究の決意
          (松阪の一夜)・・・???
           「古事記伝こじきでん
                 ふることふみのつたえ)の
            註釈書・本居宣長
            全四十四巻」?
            版本刊行は
            1790年(寛政二年)から・・・?
            宣長没後の
            1822年(文政五年)・・・?
           「青の洞門」が貫通
 ↓↑  青の洞門貫通
     1750年(寛延三年)に第1期工事完成
     1763年(宝暦十三年)最終的貫通
    「禅海」和尚が、
     断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で
     通行人が命を落とすのを見、
     トンネルを掘り安全な道を造ろうと、
     托鉢勧進によって掘削の資金を集め、
     石工たちを雇ってノミと槌だけで
     30年かけて掘り抜いた・・・
     当時
    「樋田の刳抜(ひだのくりぬき)」
     と呼ばれ、
     江戸時代末期〜大正時代にかけて、
    「樋田のトンネル」
    「青の洞門」
     と呼ばれるようになった・・・
     1906年(明治三十九年)
    『耶馬渓案内記・天下第一の名勝(観光案内書)』
     では
    「山陰鑿道(さんいんさくどう)
     又
     洞門と呼ぶ」と紹介
     青地区については
    「逭(あを)、又、逭生(あをふ)と云ふ」
    「頼翁、再遊の帰途即臘月十二日
     含公と共に一宿せし地
    (記文 阿保村(あほむら))
     なれども今其宿舎詳ならず」と
     頼山陽(頼翁)
     が訪問したときの故事を紹介
     1913年(大正二年)
     観光案内書
    『耶馬渓案内記』では
    「之より桟道を
     樋田の刳貫(ひだのくりぬき)と称し
     交通、
     頗=皮+頁=(すこぶ・よこしま・ハ)る
     る   =傾(かたむ)く・偏(かたよ)る
     ↓↑   公平でない・偏頗・頗側
     ↓↑   邪(よこしま)・不正な事
     便となった」
     と記し、
    「耶馬渓
     逭洞門 Aonodo-mon at Yabakei.」
     と書かれたトンネル入り口の写真を紹介
     1914年(大正三年)の
    『山水-随-縁記』・・・「簒出-隋-縁記」?
     には
    「進んて
     耶馬渓の入口たる
     逭の洞門に至れは、
     今尚ほ有名なる
     樋田の隧道・・・樋田(ヒダ=比拿)=木+通+十+囗
             の
             隧道(ズイドウ=隋同)=阝+遂+首+辶
     を見む」
     とある。
     「青の洞門」
     が用いられた他の初期の例としては、
     1923年(大正十二年)の
    『尋常小学国語読本 巻十二』
     や、
     1942年(昭和十七年)の
 ↓↑  大分県の史跡指定がある・・・
 ↓↑  1919年(大正八年)
 ↓↑  菊池寛の小説・・・「恩讐の彼方 に」
 ↓↑  規矩知換・・・・・・音拾之仮名他似・・・?
 ↓↑
 「小林一茶」だった・・・
 宝暦十三年 五月 五日(1763年6月15日)
    〜
 文政 十年十一月十九日(1828年1月5日)
 ↓↑
 俳諧師
 本名は小林弥太郎、信之
 別号は圯橋・菊明・亜堂・雲外・一茶坊・二六庵・俳諧
 信濃国柏原生まれ
 安永六年(1777年)
 14歳の時、江戸へ奉公に出
 俳諧葛飾派の
 二六庵竹阿
 に学び
 夏目成美
 の庇護を受ける
 俳号「一茶」の由来
 「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。
  旦には上総に喰ひ、
  夕にハ武蔵にやどりて、
  白(しら)波のよるべをしらず、
  たつ泡(あわ・あは)の
  きえやすき物から、
  名を一茶房といふ
 (寛政三年紀行の巻頭)」
 と一茶自身が記している・・・?・・・「イッサ」はインドで
 ↓↑                「イエス・キリスト」?
 ↓↑
 夏目成美(なつめ-せいび)
 寛延二年一月十日(1749年2月26日)
  〜
 文化十三年十一月十九日(1817年1月6日)
 ↓↑   ↓↑ ↓↑
 文政十 年十一月十九日(1828年1月5日)=小林一茶の死亡?
 ↓↑
 夏目成美
 俳人
 幼名は泉太郎
 諱は包嘉
 初号は八郎治
 別号に修行庵、随斎、不随斎、法林庵、贅亭、無辺法界排士、
    卍齢坊、大必山人、四三山道人、風雲社
 通称、井筒屋-八郎右衛門
 字は万齢
 号は修業庵、四山道人
 本業は札差
    札差(ふださし)=江戸時代に幕府から旗本・御家人
             支給される米の仲介を業とした者
             浅草の蔵前に店を出し、
             米の受け取り
             運搬、売却による
             手数料を取り、
             蔵米を担保に
             高利貸しで利益を得た業者
             札差の「札=米の支給手形のこと」
    蔵米取 (蔵米)の旗本や御家人の代理として
    幕府の米蔵から扶持米 (扶持)を受取り
    換金を請負った商人
    札差料は100俵につき「金二分」
    蔵元=藩から蔵物(商品)を問屋に売るのが「蔵元」
       その代金を藩に渡すのが「掛屋」
       その二つは蔵屋敷に属し
       大坂・江戸両方に存在
       札差は江戸だけにあり
       天領農村から幕府から旗本・御家人
       渡った蔵米を問屋に売るのが「札差」
 ↓↑    
 夏目八郎右衛門-宗成の五男
 江戸浅草生
 父に俳諧を学ぶ
 江戸四大家の一人
 俳風は清雅
 本業は札差業
 六代目
 井筒屋八郎右衛門
 隠居後、
 儀右衛門
 寛政十年(1798年)に
 江戸に出て
 本所
 相生町
 五丁目の
 裏長屋に住んでいた
 小林一茶の朝食を賄う一方、
 留守番や仏画の手入れを手伝わせた・・・
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 マグロ・・・「古事記万葉集」に「しび=シビ=志毘=鮪」の名で記録され、「大魚(おふを)よし」は、「鮪」の枕詞・・・「トロ」は「腐敗しやすいことから猫もまたいで通る「猫またぎ」とも云われた・・・マグロの幼魚には体側に10〜20条ほどの「淡色の横帯」があるので「ヨコワ」ともいい,若魚を「メジ」,老成は「シビ」と云う・・・
 「平群真鳥」の大臣は武烈朝で国政をもっぱらにし天皇の位を奪おう企て、真鳥の子の「鮪(しび)」は海柘榴市(つばいち)の歌垣で「物部影媛」をめぐり武烈と争い、「真鳥と鮪」は武烈天皇の配下の「大伴金村」によって滅亡・・・
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 「影媛」は「物部麤鹿火(あらかひ)」の娘
  ↓↑
 仁賢天皇十一年
 小泊瀬稚鷦鷯尊=第25代武烈天皇=小長谷若雀
            大和の泊瀬列城
              (はつせのみなき) 宮に都した
 (おはつせの わかさざきのみこと)
 は影媛に求婚し
 海柘榴市(つばきいち・奈良県桜井市金屋)
 であう約束をするが
 影媛が
 平群鮪(へぐりの-しび)と
 既に愛人関係と知り
 武烈天皇
 鮪(志毘)を
 乃楽(なら)山で
 大伴金村に(焼き)殺させた
 影媛は悲しんで歌った
  ↓↑
 「あをによし、
  乃楽(なら)の谷(はさま)に
  鹿(しし)じもの
  水漬(みづ)く
  辺隠(へごも)り
  水灌(みなそそ)く
  鮪の若子を
  漁(あさ)り
  出(づ)な猪(い)の子
 (「日本書紀」)
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 歌垣・・・・簗の罠から魚(志毘・鮪)の跳びはねる様?・・・「跳梁(簗・やな)跋扈」・・・