1065日目・・・「まほろば(古事記)」・・・「まほら(万葉集)」が「三首」で、「まほらば」の文字は無い・・・「マホラ(≠or≒)マホラ-バ」・・・意味は?異味・・・「真秀良場(まほろば)?」、「摩保邏摩」、「摩倍邏摩」、「麻本呂婆」・・・「まほろば」の語源は、「まおらま?」・・・「この照らす 日月の下は 天雲(あまくも)の 向(むか)伏(ぶ)す 極(きは)み タニグク(ひき蛙・蟇蛙・蟾蜍)の さ渡る 極(きは)み 聞こし食(をす)国のまほらぞ」・・・「万葉集巻第五 800 山上憶良の歌」に「国のまほら

 ア倍・ア部、ア陪、「阿毎王朝」の「毎」は「バイ」であるから音の共通項は「倍(バイ→倍増・倍加・倍化)・陪(バイ→陪臣・陪審)」である。「阿毎(あまい)→甘い・天井→阿倍・阿部(安倍・安陪・安部)=布施(阿部の元名・日本書紀)・・・アベは「阿」が二(倍・部)、「安」が三(倍・陪・部)・・・陪審(陪臣)の部署(部分・全部・部将・部下・部曲・部隊・部局・部勒・部門・軍部・兵部・外部・内部・部族・部落)・・・漢字字典なら「部類」、「部首」・・・「部」の「音訓ヨミ」は「すべる・わける・きつ・もと・つかさ・ブ・ホ・ベ・ホウ」で、「とも」とも云う。「とも」とは集団の長(おさ)、頭(かしら・頭目)の「随伴者」の「お供・家来」だろう。
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 大修館漢和辞典には「雨=あめ・あま=天」が説明もなく「友(達)」とあるのは「日本語の隠された暗喩の示唆」であろう。天智天皇の息子、「大友皇子」は「壬申の乱(672)」で殺された人物で、「明治天皇」が「1870年(明治三年)7月23日」に「第三十九代弘文天皇」として追認、追号された人物である。他に追号されたのは
 ・・・廃帝3人・・・とは、
 淡海廃帝(第三十九代・弘文天皇壬申の乱
 淡路廃帝(第四十七代・淳仁天皇仲麻呂の乱
 名は大炊( おおい)
 父は舎人親王
 母は当麻山背皇后
 (たぎまのやましろ
 天平五年(733)〜
 天平神護元年(765)
 三十三歳死没
 在位
 天平宝字二年(758)〜
 天平宝字八年(764)
 九条廃帝(第八十五代・仲恭天皇承久の乱
 懐成(かねなり)
 建保六年(1218)〜
 天福二年(1234)
 十七歳死没
 在位
 承久三年(1221)四月二十日〜
 承久三年(1221)七月九日

 で、明治維新後、この3人に追号された・・・理由は・・・?・・・権力交代のトバッチリだった・・・
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 「友達」は名古屋、大坂では「つれ」と云っていたが、「チンを摘(抓)まんでのツレション」である・・・「行政区分、区画」だが「軍隊=軍部の構成、組織」のコトバである。「部曲(ぶきょく)」は「軍隊の組み分け部隊」だが、「曲」は「楽曲・音曲」である。「部」は「解剖」の「剖(ボウ・ホウ・フ・さく・わる・わける)」に通じ、「分ける」と説明されているが、その共通項は音読みの「部=ボウ=剖」であるが、漢和辞典の説明、通じるとは「音」からなのか、「字形の意味」からなのか?・・・
 違いは「阝(邑)」と「刂(刀)」である。「咅(ホウ・フ・トウ・ツ・唾を吐く・こばむ=拒む・透る)」とは「立+口」だが、漢和辞典では音符は「咅(トウ)→杏(ホウ)」と、ある。「咅」は元は「杏」に作り、「杏=木+口」は「否定」の「否=不+口」の「不→木」の変形としたモノとあるが、この説明は誤解か、曲解である。「杏=木+口」は「あんず・アン・キョウ」であるし、「咅」と「杏」と「否」の漢字は部首漢字が違う。間違いだとすると「立→木→不」+「口」は漢字研究者の「イロハ」が可笑しい、のだが、漢和辞典編集者の意図的、暗喩と考えよう・・・「現存古事記」では「宇受女=猨(猿)女君」による「海鼠(なまこ)の抵抗と災難」である・・・「安寿と厨子王」→「杏子と寿司追」→「案図・按図・安受」と「図示・図師・図誌・辻子・逗子」を「追う・負う・欧」である・・・「森鴎外」の「鴎=区+鳥」の旧字は「鷗=區+鳥」である。「品=メ」である・・・「品(漢和辞典171ページ)」は「ヒン・しな・ホン」とヨミ「品」は「物の分類、分別、区分」で、「経論の篇章」日本のみが使用する一品から四品まで親王に授与された「階級官位、位階の呼称」である。「別嬪」とは美人である。だが「品=ホン=本」の「タイトル」を有した「経論=ホンピン」の「篇章部」である。「ホンダワケの命(みこと)」・・・本を拿(拏・ダ・ナ・とる・つかむ・とらえる)せ、分(別・訳・和)けて、見る事・・・である・・・拿(合+手)=拏(奴+手)→挐(ジョウ・ニョ・ダ・ナ)=(女+口+手)=ひく・ひっぱる・みだれる・とる・つかむ・・・である・・・
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 「拿」・・・「破崙」はナポレオンの当て字の漢字である・・・仏蘭西革命→腐乱す革命・・・フランス革命1789〜1799)。絶対王政をたおし,アンシャン= レジーム(旧制度=封建階級制度)を廃止。絶対王政→立憲王政→革命→共和制→1794年のテルミドール反動→1799年11月9日ナポレオン・ボナパルト政権掌握→帝制樹立に至る(ブリュメール11月18日のクーデター)・・・
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 日本古代史では「かきべ(部曲)」で、「民部(ミンブ)」の前後入れ替え漢字の「べたみ(部民)」は律令国家以前の「大王家の大王・后妃・皇子」、「豪族」などに隷属し,「労役に駆り出され,また生産物を搾取された人々の集団」で、「豪族」の「私有民」ともされた。「部(べ・とも)」とは、大小領域の支配者の「私有民」である。その後、「朝廷(大王家)に従う豪族の支配民をも公地公民」とした後、特定の技術集団は「品部・雑戸(しなべ=ともべ・ざっこ」とされて中央権力の直属支配下の「民」とされた。「品(ヒン)」とは「ホン」とヨム。
 いわゆる「納税義務」を階級序列に組み込まれ、生産物を搾取され、労働を強制された人々である。
    ↓
  阿閉(あへ・アヘイ)・あるいは、阿陪
    ↓
    あえ=「和・合・会・遭・逢・遇」える
    アヘイ=蛙(鴉・亜)併(替える・併せる)
元明女帝・第四十三代天皇
    斉明天皇七年(661年)〜
    養老五年十二月七日(721年12月29日)
    享年六十歳
    在位は
    慶雲四年七月十七日(707年8月18日)〜
    和銅八年九月二日(715年10月3日)」
ーー
    崩御にさきだって、
    「朕崩ずるの後、
     大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、
     他処に改むるなかれ」、
    「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて
     竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、
     又其地は
     皆常葉の
     樹を植ゑ
     即ち
     刻字之碑を立てよ」
     崩御後十二月十三日、
     喪儀を用いず、
     椎山陵に葬る
ーー
    奈保山東陵(なほやまの ひがしのみささぎ)
         →ナホサン→名保纂等量
         →直さん当量(棟梁・頭領・→問う了=オワリ)
    御陵墓が東西約88m南北約104m
    草壁皇子の妃・同母姉に長屋王の母「御名部皇女」
    ↓
    娘
  氷高(ひだか・ヒョウコウ)
    ↓
    ひだか=日高・飛騨禍・肥田化・比鷹・比高・比拿化
    ヒョウコウ=標高
(元正女帝・第四十四代天皇・一品内親王→「品」は「ほん」
    天武天皇八年(680年)〜
天平二十年四月二十一日(748年5月二十二)
    在位は
    霊亀元年九月二日(715年10月3日)〜
    養老八年二月四日(724年3月3日)」
ーー
    あしひきの 山行きしかば 
    山ひとの 朕(われ)に得しめし
    山づとこそこれ
    元正女帝万葉集 20-4293
      ↑
      返歌
    あしひきの 山に行きけむ
    山ひとの 心も知らず 
    山びとや誰
    舎人親王万葉集 20-4294
 山(やま)は「サン→纂」と読むべし
ーー
    奈保山西陵(なほやまの にしのみささぎ)
         →ナホサン→名保纂声量
         →直さん清涼(星良→星霊=寿命)
    御陵墓東西約104m南北約120m 
    文武天皇の姉
    吉備内親王長屋王妃)の異母姉
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 文武天皇=第四十二代・珂瑠
 元明天皇=第四十三代・阿閉(阿倍)
 元正天皇=第四十四代・氷高
 聖武天皇=第四十五代・首
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 阿部皇女
 孝謙天皇=第四十六代・阿倍
 高野天皇
 阿倍(あべ)姫
 宝字称徳孝謙皇帝
 (ほうじしょうとくこうけん)
 養老二年(718年)〜
 神護景雲四年八月四日(770年8月28日)
 享年五十三歳
 在位は
 一度目
 天平勝宝元年七月二日(749年8月19日)〜
 天平宝字二年八月一日(758年9月7日)
 二度目は
 称徳天皇=第四十七代
 天平宝字八年十月(764年)十月〜
 宝亀一年(770年)八月
 父は聖武天皇の第二皇女
 母は光明皇后(藤原安宿媛
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 阿倍仲麻呂
 生没年698年(文武二)〜770(宝亀一)
 系譜など
 氏は「安倍」とも書く
 父は中務大輔をつとめた
 船守
 渡唐後は
 「仲満」と称し、
 のち
 朝衡(ちょうこう)、
 晁衡と改めた
 霊亀三年(717)三月、
 第八次遣唐使の留学生として入唐(二十歳)
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    ↓
 阿部正弘 (1819〜1857)
 備後福山藩
 第七代藩主
 幕府老中首座
 「安政の改革」を断行
 阿部家
 宗家
 十一代
 洋学所・海軍伝習所を創設

 嘉永六年六月三日
 1853年7月8日
 アメリカのペリー提督率いる
 黒船四隻、浦賀に到着

 嘉永七年一月十六日
 1854年2月13日
 ペリーの再来
 ペリーとの間に
 「日米和親条約
 (日本國米利堅合衆國和親條約)」締結
 嘉永七年三月三日
 1854年3月31日
 神奈川条約とも
 下田、箱館を開港
 日本側全権は
 林復斎(大学頭)
 アメリカ側全権は
 東インド隊司令長官
 マシュー・ペリー
 ジョン・万次郎が通訳
 その後
 琉球王国那覇に寄港
 7月11日
 「琉米修好条約」を締結
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 ・・・奇数の倍化は偶数で、偶数の倍化も偶数である。「木偶(でく)・木偶(でく)の坊」と言うコトバもある。操られている坊主?→「賢喩」かも・・・「高橋虫麻呂山上憶良」なる人物は存在したのか?・・・「高橋の姓」の系譜は「膳部(かしわで)が祖」である。「景行天皇・日本建の記録には七拳脛(ななつかはぎ)や磐鹿六鴈(いわかむつかり)が膳夫として随行」・・・「かしわぎ=柏木・槲木→河岸惑義(可視和議)」、「日米和親条約時の饗宴(供宴)での料理番の混乱」である・・・この時の調理人、配膳係の長官とはダレだったのだろう?
 「世のなかは空しきものとあらむとぞ この照る月は満ち欠けしける(万葉集445)」
 は「長屋王の変神亀六年(729)二月二十二日、父長屋王の罪に連座して、母・同母弟三名と共に自縊せしめられる」で「膳部王の死」を詠ったモノ、とある・・・本人、「膳王の歌」は一首、
 朝(あした)には
 海辺に
 漁(あさ)りし
 夕されば
 大和へ越ゆる
 雁し羨(とも)しも
 (万葉集6−954)
 と、ある・・・
ーー
 「まほろば」・・・現存古事記原文?(真福寺写本)」では「夜麻登波 久爾能麻・本・呂・婆」で、「夜(ヤ・よ・埜=木木土→キキド)の的の葉」、「句字に納める、アサ(字・朝)の本の呂(賂)、婆(ナミのオンナ→ザブン、ザブン→座分、座文の天文、夜の星座)」である。類似のコトバは「まぼろし(幻)」だろう。「大法螺の太安万侶」だろう・・・「蜃気楼」・・・「重力レンズ」・・・重力レンズ(gravitational lens)、恒星や銀河などが発する光が、途中に「ある天体などの重力」によって曲げられたり、その結果として複数の経路を通過する光が集まるために明るく見えたりする現象・・・「時空の歪み」・・・「歪んだ時空」を通過することにより、「電磁波」の進む経路が変わる・・・物質存在そのものでないコトバとしての「時空」の「歪み」ではないだろう。「歪み」とは「ある天体を取り巻く物質の密度の歪み」である。「蜃気楼」と同じ現象である・・・「蜃気楼」現象は「大気の密度=歪み」で観えるのだ・・・大気とは「物質」である。
 「幻(vision)・幻覚・幻想」・・・実際にはないのに、あるように見えるもの・まもなく消えるはかないもの譬え(比喩)・幻影・・・「夢想」、「想像(imagine)」 はある状況や考えなどを心に思い浮かべる・状態、情景、形状を頭の中で映す・guess は suppose とだいたい同じ意味・・・論理思考的な推理、推測・「推想」の熟語は無いらしいが「水槽・吹奏・水草」がある。想像力(Imagination)は、「想像する能力」、心的な像、 感覚や概念を、それらが視力、聴力または他の感覚を通して認められないときに、 作り出す能力である。想像力は、「経験に意味を、知識に理解を提供する」・・・?・・・「知識」って「理解されたモノ」では無いらしい?これは「知識←既知=理解」では無く「記憶されたアルモノ」にであろう。あるいは「知識形成に」であろう・・・「空想」は「空海の思想」だろう。「無想」は難しいが「思考停止」である。アレコレ「考えるな」は無理である。眠る寸前の脳ミソ状態であるかな。「瞑想」も同じようなモンだろう。溺酔して千鳥足、寝ぼけても身体が危険を避けている状態がある。酔っ払っての拳法は「酔拳」である。「妄想(delusion)」とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみ・妄想自覚が無い確信・精神疾患統合失調症躁うつ病うつ病、痴呆、せん妄、あるタイプのてんかん、急性薬物中毒、覚醒剤乱用など)に伴って生じる・健常者も断眠や感覚遮断など特殊な状況で妄想が生じる・統合失調症に多いのは被害妄想、関係妄想、誇大妄想・鬱病罪業妄想、心気妄想、貧困妄想・・・と言う事は、「人間」って「・・・かも、イフ、IF」で生きている動物らしい・・・
 兎に角・・・無い物は「視えない」のである。「錯覚」の「錯」はナゼ「金+昔」なのか、ネッ?・・・
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 蜃気楼(mirage)は、密度の異なる「大気の中」で光が屈折し、地上や水上の物体が浮き上がって見えたり、逆さまに見えたりする現象。光は通常直進するが、「密度の異なる空気」があるとより「密度の高い冷たい空気」の方へ進む性質がある
 大気の密度は大気の温度によって粗密を生じるが、低空から上空へ温度が上がる場合、下がる場合、そして水平方向で温度が変わる場合の3パターンがある。それぞれによって蜃気楼の見え方が異なる為、以下のように分類される。
 上位蜃気楼
 温度の低い海面等によって下方の空気が冷やされ密度が高くなると、元となる物体の上方に蜃気楼が出現する。
 水平線(地平線)の下に隠れて見えない風景や船などが見える
 ヨーロッパを中心に、
 ファタ・モルガーナ(Fata Morgana)という俗称がある

 北海道
 別海町
 野付半島付近や
 紋別市などでは、この対応の蜃気楼の一種として、
 四角い太陽が観測されることがある。
 四角い太陽は、気温が
 氷点下20度以下になった早朝、日の出直後の時間帯に、
 通常は
 丸く見える太陽が
 四角く見える現象
 極地域では他にもこれが観測される場所がある
 16世紀末、ウィレム・バレンツらの
 北極海探検時に
 ノヴァヤゼムリャで発見されたので、
 ノヴァヤゼムリャ現象という別名もある。

 逃げ水現象
 下位蜃気楼
 アスファルトや砂地などの熱い地面や海面に接した空気が熱せられ、
 下方の空気の密度が低くなった場合に、
 物体の下方に蜃気楼が出現する
 ビルや島などが浮いて見える
 浮島現象や
 逃げ水現象もこのタイプ

 鏡映(側方)蜃気楼
 物体の側方に蜃気楼が出現
 極めてまれな現象
 スイスのジュネーブ湖で目撃されたという報告がある
 日本で
 不知火
 夜の海に多くの光がゆらめいて見える現象
 九州の八代海有明海などで見られる
 
 蜃気楼と見られる記述が初めて登場したのは、
 紀元前100年頃のインドの
 「大智度論」第六まで遡る
 この書物の中に
 蜃気楼を示す「乾闥婆城」という記述
 中国では「史記・天官書」の中に、
 蜃気楼の語源ともなる
 「蜃(あるいは蛟)の気(吐き出す息)によって楼(高い建物)が形づくられる」
 という記述
 日本語の「貝やぐら」は、
 蜃楼の蜃を「かい」、
 楼を「やぐら」と訓読みにしたことばである。
 また、
 「mirage」という単語は、
 ナポレオン遠征時に
 モンジュ(fr:Gaspard Monge)が命名した

 日本では近世に成立した
 『北越軍談』において
 上杉謙信が蜃気楼を見たとする逸話を記している
 『魚津古今記』(1700年頃)では、
 加賀藩当主である
 前田綱紀が魚津で蜃気楼を見て吉兆であると
 「喜見城」(帝釈天の居城)と名づけたと伝えられていたり、
 同じく
 加賀藩当主、
 前田治脩は、
 1797年4月に江戸から金沢への
 参勤交代帰城道中に
 魚津で蜃気楼を発見し、その絵を描かせたと伝えられている

 蜃気楼は、大気中の温度差(=密度差)によって光が屈折を起こし、遠方の風景などが伸びたり反転した虚像が現れる現象
 
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  ・・・「浮世絵」には「蜃気楼」が描かれた「四日市」があるらしい・・・
四日市市立博物館 泗水のイメージ 浮世絵に描かれた四日市
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