1066日目・・・大雪でした・・・朝から晩まで雪投げ・・・右手首がおかしくなった・・・晩飯、バーグか、チキン・・・どっちにしても「チーン料理」だけれど・・・

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 前回は「膳部王の歌一首」としてブログ記事から抜粋したものを貼り付けたが・・・
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 朝(あした)には
 海辺に
 漁(あさ)りし
 夕されば
 大和へ
 越ゆる
 雁(カリ・がん・鴈)し
 羨(とも)しも
 (万6-954)
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 ・・・これに附随して「補記」と「参考歌」が記されてあったので添付する・・・
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 作者未詳の「万葉集・巻十」
 秋風に
 大和へ越ゆる
 雁がねは
 いや遠ざかる
 雲隠りつつ
 ・・・は、何を云いたいのだろう・・・
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 大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、饗宴における食事の調理と配膳を担当する大膳職と分かれて、天皇の日常における食事の調理と配膳および食料の調達を担当する官司として設立された。このように「外」と「内」が対になっている機関は他に典薬寮と内薬司などもある。時代は下って、
 寛平八年(896年)には、
 同じ宮内省被官の
 園池司を吸収した。

 別当
 内膳司の別当。定員1名。
 官位相当は三位。
 のちに設置され、
 大納言
 もしくは
 中納言が兼職
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 奉膳(ぶぜん)・正(かみ)
 四等官における内膳司の長官(かみ)に相当
 定員2名
 官位相当は
 正六位上
 内膳司を統括
 するとともに、
 試食(毒味)役
 内膳司が設置される前から
 高橋氏(のちの濱島家)
 安曇氏が
 天皇の食膳を担当していた
 両氏が「奉膳」として長官職を担当
 「正」を置かずにいたが、
 後に、他氏からも
 長官職が任命されるようになり、
 その場合、
 他の氏は「正」を名乗った
 以後、
 高橋・安曇
 両氏が
 長官職を担当した時は
 「奉膳」を名乗り、
 (安曇氏は
  高橋氏との衝突の末、
  桓武天皇の頃に断絶し、
  奉膳職は
  高橋氏の
  世襲職となった)
 高橋氏・安曇氏以外の者が
 長官職を担当したときは
 「正」を名乗った。
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 典膳(てんぜん)
 四等官における
 内膳司の次官(すけ)に相当
 定員6名
 官位相当は
 従七位下
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 令史
 四等官における内膳司の
 主典(さかん)に相当
 定員1名
 官位相当は大初位上
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 膳部
 内膳司の職員で伴部
 定員40名
 調理役
 また、
 膳部の中から
 五畿内諸国の
 江長(えのおさ)、
 網曳長(あびきのおさ)という
 魚を獲る役、および
 筑摩御厨長(ちくまのみくりやのおさ)という
 鮒鮨(ふなずし)などの
 食糧を貢納する役が任命
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 他の職員
 史生→使部→直丁→駈使丁
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 内膳司被官の官司
 進物所
 御厨子
 贄殿
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 高橋氏文(たかはしうじぶみ)
 日本の歴史書、古記録
 宮内省内膳司に仕えた高橋氏が安曇氏と勢力争いしたときに、
 古来の伝承を朝廷に
 奏上した
 789年(延暦八年)の家記が原本
 しかし完本は伝わっておらず、
 逸文が『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』その他に見えるのみである。
 伴信友
 1842年
 天保十三年
 に
 自序の
 『高橋氏文考註』にまとめた
 これに関する
 791年
 延暦十一年
 の
 太政官符が存在する
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 と、あった・・・「高橋景保」と関係があるのか?
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 以下はウイッキペデアからの抜粋だが・・
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 1854年2月13日
 嘉永七年一月十六日)
 ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここに彼の外交手腕を見て取ることもできる。

 2月11日(嘉永七年一月十四日)に
 輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、
 2月13日(嘉永七年一月十六日)までに
 旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「ポーハタン」 以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)の六隻が到着した。
 なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。
 3月4日(嘉永七年二月六日)に
 「サラトガ」(帆走スループ)、
 3月19日(嘉永七年二月二十一日)に
 「サプライ」(帆走補給艦)が到着して
 計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥った。
 一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。
 (吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触したのは、1854年4月25日、下田沖に停泊していた折でありこの時ではない)
 まず、アメリカ側が船上で
 フランス料理を振舞った。
 日本人は
 鯛を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった。
 一方、日本側の招待された面々は、
 十手と孫の手をナイフとフォークに見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を懐紙に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいたことに驚いた、という(本膳料理には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法である)。
 その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、
 日本側がアメリカ側に
 本膳料理
 昼食を出した。
 料理は
 江戸
 浮世小路百川が
 2000両で請負い、
 300人分の膳を作った。
 2000両を
 現代の価値に計算すると
 約一億五千万円近く、
 一人
 五十万円になる。
 最上級の食材を使い、
 酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで
 百を超える料理が出された。
 しかし、肉料理が出ないのは未開だから、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品当たりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、
 ペリーは
 「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。
 ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。
 その後、
 日本側は何かにつけて
 アメリカ側に
 料理を食べに行ったとされる。
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 ・・・「マクドナルド・ハンバーグ」や、「ケンタッキー・フライドチキン」・・・は・・・?
 ・・・ニューヨーク州ハンバーグ村は、ドイツの都市ハンブルクではなく自身がハンバーガーの名称の由来であると主張している。 ハンバーガーは、1940年代にマクドナルド兄弟がカリフォルニア州に開いたドライブインでメニューに出され、評判になった・・・
 マクドナルドが1971年に生み出した、ハンバーガーのイメージキャラクター。名前の由来 はHamburger(ハンバーガー)とBurglar(夜盗)を足してHamburglar。
 アメリカ・ケンタッキー州の名前をいただきました。 カーネル・ サンダースは、ケンタッキー州のコービンで経営していたガソリンスタンドに併設して小さな食堂「サンダース・カフェ」を開業。
 ケンタッキーフライドチキンの各部位には名前
 手羽(ウイング=wing)
 あばら(リブ=rib)
 腰(サイ=thigh)
 脚(ドラム=drum)
 胸(キール=keel)
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 「かしわ」って、「鶏肉」だけれど・・・?
 「かしわ」って、「鶏肉」だけれど・・・?・・・
 ナゴヤは「コーチンベトナムの別称)」で、語源は「交趾」・・・無断でブログ記事から抜粋させてもらうと・・・ごめんなさい・・・以下
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 コーチン. インドの地域名。ケララ州の一部。 コーチ (インド) - コーチン地方の中心都市; コーチ州 - かつて存在した州。 コーチン王国 · 鶏の品種。日本では名古屋コーチンが有名。
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 「江戸尾張藩士、海部荘平、正秀の地鶏と清国(中国)のバフコーチンから誕生した「海部種」が広く全国で飼われ、「名古屋コーチン」と呼ばれるようになりました」
 とあり、
 「伊藤和四五郎は、
  文久三年(1863年)
  二月十三日
  津田藤兵衛の三男として
  尾張東春日井郡小牧村に誕生」、
  「三十七歳にて
  飼料業として
  伊藤和四五郎商店(現日本農産工業)を創業する」
 「養鶏の先覚である愛知の五味氏、海部氏と養鶏の実利化を唱え、一般養鶏業者に飼料の配合方法について指導」
 「明治三十三年(1900年)
  三十七歳で小牧をあとに
  三男一女一家六人で、
  名古屋市
  西区監町
  10丁目に、米穀及び飼料商としての
  伊藤和四五郎商店を開業」
 「その後、
 昭和八年
 愛知県
 知多郡
 大高町(現名古屋市緑区大高町)に
 四万坪の広大な敷地に
 三和農場を建設し、養鶏事業を開始」
 とあった。
 ナニ、コレッ・・・
 交趾・・・亠+ハ+乂+足+止
 海部種・・あま→海女・海人・海士・亜麻・尼・甘・天
 伊藤・・・伊=イ+尹+サ+月+八+夫(二人)+水
 和四五郎・倭の詞語弄(漏)
 文久・・・文句
 三年・・・纂撚
 二月・・・似字句
 十三日・・壱拾参比
 明治・・・日+月+氵+ム+口
 三十三年・纂拾算
 名古屋・・名護埜
 西区・・・爾志(邁志・似史)
 監町・・・間諜(官庁・艦長・管長)
 十丁目・・足(壱拾)長目
 米穀・・・米国
 及び・・・御呼備
 飼料商・・史料(資料・試料・思量)
 ・・・・・「?!」である・・・

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