2380日目・・・喧嘩と排除、粛清は近親の「兄弟、姉妹、従兄弟、従姉妹の血縁一族郎党」、「側近」から始まるが・・・いずれは「無差別」になっていく・・・
「橘奈良麻呂の乱」でダメージを受けたのは「多治比」氏、そして「大伴」氏・・・「多=おほ・おお=大=意冨」・・・「稲荷山古墳発掘の金錯銘鉄剣、乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意富比垝(意冨比垝)」・・・「意の富(冨)の比の垝(十一危)」、「土+危=土厃已・土厃㔾(卪・卩)・土勹厄」・・・「垝・姽・恑・洈・桅・祪・脆・蛫・跪・觤・詭・頠・䤥」・・・「冨=富」・・・混乱しないで整理出来る人間が存在するとは思えない・・・あるのは記録された「漢字文字」と「遺跡・意物」、そして伝承だが、確定できない「推論」、「推理・推究・推測・憶測・臆測」と「推量・推計・推定・推算・推察・推知・推断・予測・推度」・・・兎に角、記録された「歴史」、「人間諸関係」での「事実的出来ごと」は「不確かであるか、仮の根拠を設定して信じるか」である・・・いずれも「疑問・疑義」が残る・・・結論だけはハッキリしている・・・たとえ、「映像・録音」が残っていたとしても、生きている人間の認識に「確かなモノは存在しない」、と・・・
「物理学」でも確かなモノはない・・・「人間の認識」の限界である・・・「重力波」を云う前に「歪んだ空間」とはナニかの「意味概念」をハッキリさせろ・・・
だが・・・千葉県船橋市の「意富比神社(おおひじんじゃ)」?・・・「景行天皇四十年・日本武尊が東国平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀り祈願した場所」・・・意富比の古い読みは「おほひ」・・・中世から幕末までは一般に「船橋神明」と呼ばれたらしい・・・
「貞観五年(863)下総国意富比神・正五位下(日本三代実録)」
「明治十三年(1880)境内に政府公認の民間灯台建設」
「明治初期に新政府の政策として、
全国の神社の社格が決められ現市域唯一の県社となった」
ーー↓↑ーー
意富富杼王(おおほどのおおきみ)
意富本杼王(オホホドノミコ)
意富斗之地神(オオトノジのカミ)
意富斗能地神(オオトノジのカミ)
ーー↓↑ーー
意富富杼王・・・・イフフジョオウ?
(おおほどのおおきみ)
↓↑ ・・・・意=立+日+心
・・・・冨=富・・・冨は富の俗字
とむ・とみ・フ・フウ
「冖」、「宀」のワかウの相異
「丶無」、「丶有」の丶の有無
愛媛県に「冨士山(とみすやま)」
石川県の「冨樫氏(とがしし)」
↓↑ ・・・・杼=かい・ひ・シャトル(shuttle)
=十八予=織機の部品
緯(よこ)糸を通す用具
織物を織るときの
経糸(たていと)の間に
緯糸(よこいと)を通すのに
使われる道具
織機の筬(おさ)・筘・梭(ひ)
↓↑ かい・シャトル
古墳時代の王族
大郎子(おおいらつこ)
意富々杼王
意富富等王
大大迹王
とも記録
父は
稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)
母は
河派仲彦王の女
弟 日売真若 比売
(おとひめまわかひめ
百師木伊呂弁とも)
同母妹の
忍坂大中姫
衣通姫
は
允恭天皇に入内
意富々杼王は
息長坂君(息長君・坂田君)
酒人君
三国君
筑紫
米多君(めたのきみ)
などの祖(古事記)
中 斯知 命
(なかしちのみこと)を妃として
乎非 王
(おいのおおきみ)
を儲け
その孫が
男大迹王=袁本杼王=継体天皇
(「上宮記・逸文」)
「意富富等
(オオホド=大ホド)」
という名は
「継体天皇」の諱
「男大迹(オホド=小ホド)」
と対応・・・
本来は別人の名で実際は
「大郎子」と称されていた・・・?
ーーーーー
天平勝宝九年七月二日
757年7月22日
↓↑
「橘(たちばな)奈良麻呂」の乱だった
・・・また跳んでしまった・・・
↓↑
小野東人(をの の あずまひと)
↓↑ ?〜天平勝宝九年七月四日
(757年7月24日)
大徳冠、
小野妹子の後裔
造平城京司 次官、
小野広人の子
↓↑
天平十二年(740年)
「藤原広嗣の乱」に連座
十三年
伊豆三島に流刑
後、ゆるされて備前守・・・
↓↑ 「藤原広嗣の乱」を鎮圧したのは
聖武天皇が大将軍に任じた
「大 野 東 人・・・?
(おほの あずまひと)」
と
「副将軍の紀飯麻呂」
勅使は
「佐伯常人」
↓↑ 「阿倍-虫麻呂」→同名の「高橋-虫麻呂」もいた?
は
七月四日
奈良麻呂の謀反を証言した後に
首をつって自殺・・・
↓↑
垂仁天皇に
追い返された
円野姫が首を吊った地
↓↑
八幡宮
「相楽」の地名
第十一代
垂仁天皇の時代
四人の姉妹が
垂仁天皇に輿入れ
「円野比売命」が
醜女だったので
実家に戻され
姫が帰途に首を吊った
その地が
「懸木(さがりき)」
と呼ばれ
これが
「相楽(さがら)」になった(古事記)
姫を祀る
「島懸神社(島縣神社)」
がある
↓↑
橘奈良麻呂の乱では
謀反に無関係であった
反仲麻呂派の者も数多く捕らえられ
拷問の後に死亡したり
官位を剥奪され
流刑にされた・・・
多くは「多治比」一族・・・
「多(おほの)-治(おさめ)-比(くらべる)」?
ーーーーー
黄文王(きぶみおう)
?〜天平宝字元年七月四日
(757年7月24日)
左大臣・長屋王の子
官位は従四位上・散位頭。
↓↑
天平元年(729年)
「長屋王の変」で
父・長屋王とともに
吉備内親王所生の
異母兄弟が死罪となったが
「藤原長娥子(藤原不比等の娘)」
所生の
黄文王らは
藤原不比等の外孫で
死は免れていた
↓↑
天平九年(737年)
「長屋王の変」の
黒幕であった
藤原四兄弟が疫病で没・・・
↓↑
黄文王(長屋王の子)
は
兄の
安宿王・・・天武天皇の孫、
↓↑ 長屋王の五男
臣籍降下後の氏姓は
「高階真人」
官位は正四位下・讃岐守
・・・あすか=安宿・飛鳥・明日香・朱鳥
光明子は「安宿=あすか・あすかべ」は
聖武天皇の夫人で
第一皇子として基皇子を産むが夭折
県犬養広刀自も聖武天皇の夫人で
聖武天皇の第二皇子として
安積(あさか)親王を産んだが
立太子は
光明子が産んだ
阿倍内親王となる
天平十六年(744年)閏一月十一日
難波宮に行幸の際、途中で脚気になり
恭仁京に引き返すが二日後の
閏一月十三日
十七歳で死去
↓↑ ・・・藤原仲麻呂に毒殺された・・・?
とともに
叙位を受け
十月
従五位下に叙爵
天平十一年(739年)
従四位下
天平十二年(740年)
従四位上
天平十三年(741年)
散位頭
↓↑
天平十七年(745年)
橘奈良麻呂
が謀反計画
同調者を集める際にしばしば
黄文王(長屋王の子)
を天皇に立てると発言
↓↑
天平二十年(748年)
元正上皇崩御
天平勝宝八年(756年)
聖武上皇崩御
で
装束司を務めた
↓↑
天平宝字元年(757年)
「橘奈良麻呂の乱」で
黄文王(長屋王の子・弟)
は
新帝候補の一人に擬せられ
橘奈良麻呂
の意を受けて
安宿王(長屋王の子・兄)
を欺し謀議に参加させ
七月四日
橘奈良麻呂
や
道祖(ふなど)王
↓↑ ・・・天武天皇の孫・一品
新田部親王の子
新田部親王は
天武天皇の第十皇子
孝徳天皇の皇太子となったが
廃太子
後
舎人親王の子
大炊王(おほひ)が立太子され
淳仁天皇として皇位に就いたが
廃帝(淡路)にされた
↓↑
↓↑ 「安倍内親王」???・・・同音異字漢字の「ア」
↓↑ 「阿倍内親王」は
↓↑ 「宝字称徳孝謙皇帝」で
↓↑ 「安」≠「阿」が異なる・・・?
伊勢斎宮
淳仁天皇の娘
母は不詳
元々は
「山於女王(やまのうえのじょおう)」
と呼ばれていたが
淳仁天皇即位後に
斎宮に卜定・・・占いで決定?と云うコト
内親王宣下により名を改めた
天平宝字八年十月九日(764年11月6日)
父の天皇廃位で退下
後
磯部王(長屋王の孫で高階氏の祖?)の妃
石見王(いわみおう)を産んだ・・・?
らと共に捕らえられ
黄文王(長屋王の子)
は
久奈多夫礼(くなたぶれ=愚かな者)
多夫礼(たぶれ=誑かす者)
と改名させられた後
杖で打たれ
獄死・・・
ーー↓↑ーー
橘奈良麻呂の乱の結果・・・
↓↑
橘氏 橘奈良麻呂 正四位下・参議 獄死
↓↑
皇族 安宿王 正四位下・讃岐守 妻子とともに
↓↑ 佐渡国へ流罪
皇族 黄文王 従四位上・散位頭 久奈多夫礼
↓↑ と改名、獄死
久奈多夫礼=くなたぶれ=愚かな者
↓↑
皇族 道祖王 元皇太子 麻度比と改名
獄死
麻度比=まどひ
(惑・眩・間藤・魔道?)
ーー↓↑ーー
藤原南家 藤原豊成 正二位・右大臣 大宰員外帥に左遷
(ふじわら の とよなり)
大宝四年(704年)
〜
天平神護元年十一月二十七日
(766年1月12日)
左大臣・藤原武智麻呂の長男
従一位・右大臣
別名は
難波大臣
横佩大臣(よこはぎのおとど)
天平九年(737年)二月
正五位上
天然痘の猖獗・・・「猩(赤)獗」は
「猖(猛・甚・激)獗」の誤用
猩=オランウータン(orangutan)
葡萄牙語
オランゴタンゴ(orangotango)
希臘語
オラングタンゴス
(οραγκουταγκος)
オラングタン(oragkutan)
=濃い赤色
猩紅熱
猩猩(ショウジョウ)
によって
八月までに
父の左大臣・武智麻呂
藤原四兄弟が急死
藤原氏の氏上(藤氏長者の前身)
九月に従四位下
十二月に参議兼兵部卿
諸兄政権下の
天平十一年(739年)
正四位下
天平十五年(743年)
従三位・中納言
天平二十年(748年)
従二位
中衛大将
天平感宝元年(749年)四月
右大臣
橘諸兄とともに
左右の大臣として
太政官を主導
七月
↓↑
孝謙天皇即位
藤原豊成の
弟の
藤原仲麻呂が
参議から大納言に昇進し
紫微令と中衛大将を兼ね
権勢は
橘諸兄・藤原豊成を凌ぐ・・・
↓↑
天平勝宝八年(756年)
左大臣・橘諸兄が
讒言を理由に致仕し
藤原豊成(兄)
は太政官の首班
藤原仲麻呂(弟)
も大臣格の
紫微内相に就任
↓↑
天平勝宝九年(757年)三月
道祖王の皇太子が廃位
四月
皇嗣選定の協議
藤原豊成は
中納言・藤原永手
とともに
塩焼王・・・臣籍降下、氷上塩焼
↓↑ 天武天皇の孫
新田部親王の子
道祖(ふなど)王の兄
↓↑ 不破(ふわ)内親王の夫
を推す
藤原仲麻呂の私邸(田村第)に
居住していた
大炊王(淳仁天皇)が立太子され
五月に正二位に昇進するものの
七月の橘奈良麻呂の乱で
答本忠節・・・・・なぜ、「答の本の忠の節」?
から
謀反の企てに関する報告を
受けながら
孝謙天皇への奏上を行わず
謀反の露見後も
究明に努めなかった、とし
右大臣を罷免
大宰員外帥に落とされた
橘奈良麻呂と好を通じていた
「藤原豊成」の三男
「藤原乙縄」・・・・・・「乙の縄」?
も乱に与したとみなされ
日向掾に左遷
藤原豊成
は「病気」と称し
難波の別荘に籠った
大宰府行きは無期限延期状態
八年間の隠遁生活を送った
↓↑
天平宝字八年(764年)
仲麻呂が
道鏡
排斥に失敗して敗死すると
(藤原仲麻呂の乱)
橘奈良麻呂の乱
における罪状は
藤原仲麻呂による
偽りの中傷とみなされ
藤原豊成は罪を赦されて
従一位・右大臣として政権に復帰
天平神護元年(766年1月)
十一月二十七日薨去
享年62
最終官位は右大臣従一位
↓↑
藤原南家 藤原乙縄 正六位上 日向員外掾に左遷
(ふじわら の おとただ)
?〜天応元年六月六日(781年7月1日)
名は弟縄とも・・・「乙=弟=乎訳=音」の名和?
藤原豊成の三男
官位は従四位上・参議
天平勝宝九年(757年)
橘奈良麻呂の乱
橘奈良麻呂と
親しかったことを理由に
乱に与したとして
日向員外掾に左遷(位階は正六位上)
父・豊成も右大臣を免職され
大宰員外帥に左遷
天平宝字八年(764年)十月
藤原仲麻呂の乱で
従五位下に叙爵して官界に復帰
称徳朝で
大蔵大輔・大判事を歴任し
神護景雲二年(768年)
従五位上
神護景雲四年(770年)
称徳天皇崩御後
三階昇進し従四位下
土佐守
美作守
と地方官に転じる
宝亀三年(772年)
弾正尹として京官に復し
宝亀九年(778年)
従四位上
宝亀十年(779年)
参議兼刑部卿と
光仁朝末に再び昇進
桓武天皇の即位後
天応元年(781年)六月六日
卒去
最終官位は
参議従四位上守刑部卿
ーー↓↑ーー
多治比氏 多治比広足 従三位・中納言 中納言を解任
(たじひ の ひろたり)
天武天皇十年(681年)
〜
天平宝字四年一月二十一日(760年2月12日)
左大臣・多治比嶋の六男
従三位・中納言
天平十一年(739年)
兄の中納言・多治比広成が没し
一族の長となる
天平十二年(740年)
正五位上
天平十五年(743年)
従四位下
天平十九年(747年)
従四位上
天平二十年(748年)
正四位下・参議
刑部卿・兵部卿など
天平勝宝元年(749年)
孝謙天皇の即位で
正四位上・中納言
天平勝宝二年(750年)
従三位
天平勝宝年間末
左大臣・藤原豊成
と
紫微内相・藤原仲麻呂
に次いで、
太政官の第三位の席次
天平宝字元年(757年)
橘奈良麻呂の乱で
多治比犢養・礼万呂・鷹主
と複数の処罰者を出し
中納言の任を解かれた
天平宝字四年(760年)正月二十一日
薨去・享年80
最終官位は
散位従三位
ーー↓↑ーー
多治比氏 多治比国人 従四位下・遠江守 伊豆国へ流罪
(たじひ の くにひと)
中納言・多治比縣守の子
官位は従四位下・遠江守
天平八年(736年)
従五位下
天平十年(738年)
民部少輔
天平十八年(746年)
正五位下
天平勝宝元年(749年)
正五位上
天平勝宝三年(751年)
従四位下
大宰少弐・右大弁
天平宝字元年(757年)
橘奈良麻呂の乱時は
遠江守
策謀露見後に平城京に召喚
伊豆国への流罪
「万葉集」に
和歌作品四首
(長歌一首と短歌三首)採録
ーー↓↑ーー
多治比氏 多治比犢養 従五位上 獄死
(たじひ の こうしかい)
?〜天平宝字元年七月四日
(757年7月24日)
大納言・多治比池守の子
官位は従五位上・遠江守
天平十三年(741年)
従五位下
天平十八年(746年)
左京亮
天平勝宝元年(749年)
孝謙天皇の即位後
式部少輔
天平勝宝四年(752年)
遠江守
天平勝宝六年(754年)
従五位上
天平宝字元年(757年)
兄弟の
多治比礼麻呂・鷹主
とともに
参議・橘奈良麻呂が主導する
策謀(紫微内相・藤原仲麻呂の殺害計画
天皇の廃立)
に参画
密告により策謀が露見
束縛され拷問で獄死
ーー↓↑ーー
多治比氏 多治比礼麻呂 獄死?
多治比氏 多治比鷹主 獄死?
ーー↓↑ーー
大伴氏
大伴古麻呂 正四位下・左大弁 獄死
天平十八年(746年)
河内守在任時
同国古市郡にて
尾張王が
「白い亀」を捕獲した旨を上申
瑞祥とされ
従六位以下の諸官が一階の昇叙を受けた
正六位以上は田租の免除された
孝謙朝で出雲守に左遷
天平勝宝八年(756年)
紫微令・藤原仲麻呂の誣告を受け
臣下の礼を失したとの理由で
内堅(天皇の身近に仕える少年)の
淡海三船と共に衛士府に拘禁
三日後に赦免
土佐守に遷されて任地に赴き
天平宝字元年(757年)
橘奈良麻呂の乱に連座し
そのまま任国である土佐国への流罪
宝亀元年(770年)
光仁天皇の即位後
罪を赦され本位である従四位上に復位
大和守に任ぜられる
宝亀二年(771年)
大嘗祭で
左大弁・佐伯今毛人
と共に南門を開く役を務め
この功労により正四位下に昇叙
宝亀六年(775年)
昔の事柄に詳しい老臣として
従三位に叙せられ公卿
宝亀八年(777年)八月十九日
薨去・享年83
最終官位は大和守従三
ーー↓↑ーー
大伴氏
大伴古慈斐 従四位上・土佐守 土佐国へ流罪
おおとも の こしび
持統九年(695年)
〜
宝亀八年八月十九日(777年9月24日)
名は古慈備・祜信備・祜志備
とも
越前按察使・大伴祖父麻呂の子
官位は従三位・大和守
ーー↓↑ーー
大伴氏
大伴池主 式部少丞 獄死?
歌人
天平勝宝八年(756年)以降
式部少丞
三月の聖武上皇の河内国行幸に同行
馬国人邸で開かれたの家の宴に臨席
兵部大丞・大原今城作の和歌を伝読
十一月
大原今城を自邸に招いて酒宴
天平勝宝九年(757年)六月二十九日夕刻
太政官の建物の庭で行われた
反藤原仲麻呂派による反乱企ての
三度目の会合に
安宿王・黄文王・橘奈良麻呂
大伴古麻呂・多治比犢養・小野東人
多治比礼麻呂・多治比鷹主・大伴兄人
らと共に参加
七月二日夜に挙兵し
紫微内相・藤原仲麻呂を殺害し
孝謙天皇を廃位することを申し合わせたが
反乱計画が漏洩
小野東人により反乱の参加者が暴露
投獄され獄死
ーー↓↑ーー
大伴氏 大伴兄人 獄死?
ーー↓↑ーー
佐伯氏 佐伯全成 従五位上・陸奥守 自害
佐伯氏 佐伯大成 従五位下・信濃守 信濃国へ流罪
ーー↓↑ーー
賀茂氏 賀茂角足 正五位上・遠江守 乃呂志
と改名、獄死
氏は鴨とも
天平勝宝元年(749年)七月
孝謙天皇即位で正五位下に昇叙
八月に紫微中台が設置で
紫微令・藤原仲麻呂の側近とし
左兵衛率に加えて紫微大忠を兼ねる
天平勝宝九年(757年)五月
正五位上に昇叙
六月に遠江守として遷され
七月橘奈良麻呂の乱で
朝廷に召喚され尋問を受けた
佐伯古比奈が、
角足が軍事面での活動を
行っていたことを白状
勇武に優れた武人であった
高麗福信・奈貴王・坂上苅田麻呂
巨勢苗麻呂・牡鹿嶋足
について、反乱時に
敵側へ加勢することを抑止するため
額田部(大和郡山市額田部?)
自邸に招いて酒宴を開き
他の反乱者と協力して
田村宮の地図を作って指し示して
佐伯古比奈を反乱側に勧誘
七月四日
角足は反乱に加勢した人々ともに
捕縛され、反乱成功後の
皇嗣候補とされていた
黄文王(多夫礼と改名)
道祖王(麻度比と改名)
と並んで
乃呂志(のろま者)
と改姓させられた上
杖による拷問を受けて獄死
ーー↓↑ーー
小野氏 小野東人 従五位上・前備前守 獄死
ーー↓↑ーー
その他 答本忠節 外従五位下 獄死?
(とうほん ちゅうせつ)医師
忠節はこの計画について
右大臣・藤原豊成に報告
豊成からは謀反加担者に教戒を加え
仲麻呂を殺害したりしないよう
言い聞かせる旨の回答を得た
経緯を薬の処方を訪ねるために
忠節の元を訪れた
巨勢堺麻呂に話し
堺麻呂から
藤原仲麻呂に密告
謀反の動きを知りながら
通告しなかったとし
橘奈良麻呂らによる謀反の一味とされ
7月2日に仲麻呂の命令を受けた
高麗福信
に追われて
小野東人とともに追捕
左衛士府に拘禁
杖で打たれて獄死・・・
ーー↓↑ーー
その他 山田三井比売嶋 従五位下(故人)
山田三井宿禰
から
山田史・・・ヤマダのフミ・・・サンタのシ・・・
へ改姓
ーーーーー
・・・Santa Claus・・・纂多・簒多・散多・・・Santaの史実・・・?・・・