1050日目・・・「斑鳩(いかるが)」と「鵤(いかる)」は同じ「鳥(とり)」を意味するのか?・・・何故、同音で「いかるが」と訓じられているのか・・・「中国には斑鳩店鎮という地名」があるそうだが・・・ブログで調べると「東平県-中華人民共和国山東省「泰安」市に位置。その行政区に「斑鳩店鎮」がある。「北緯35度38分」である。「鳥取県・鳥取市」は「北緯35度30分」、 「水戸市」は「北緯36度22分」であるが・・・これに拘るのは単純な理由で「泰安」が「太安(太安万侶)」と同音だからである。そして、「対案」であ

 「ウイッキペデア」によれば、
 古代では「封禅の儀式が行われる山で五岳のひとつ、泰山が位置し、道教・仏教の中心」で、現在的には「漢族」以外に「回族」が居住している、らしい・・・主として「東岳大帝」(同「泰山府君」)と「碧霞元君」(同「泰山娘々」)と「眼光奶々」を祀っている。泰山府君は病気や寿命、死後の世界の事など、生死に関わること全般に、また碧霞元君は出産など、女性に関する願い事全般に、そして眼光奶奶は目に利益があると、それぞれ信じられている。
 中国語の「奶(嬭)」とは「乳牛奶=牛乳・羊奶=羊の乳・喂奶=乳をやる・乳房・子供に乳を飲ませる=奶孩子・奶茶(nǎichá)=乳茶・固形の砖茶を砕いて鍋で煮出してから塩を入れ、牛か羊の乳をまぜた茶でモンゴル族が好んで飲む」・・・「奶=女+乃→おんな+すなわち・の・ナイ」で、「音名・州名倭地・埜(野・之・廼・能)・名意(名異・名以)」で、「嬭=女+爾」は「音名の爾来(自来・由来)」である・・・
 そして・・・泰山では東岳大帝が最も重要な神位として祀られてきた。後漢代には「俗に岱宗(=泰山)上に金篋・玉策があり、人の年寿の脩短をよく知る」(『風俗通』巻2)と記されている。つまり、泰山の山頂には人間の寿命の定数を記録した原簿に相当する帳簿が置かれているという信仰が存在していた。下って魏晋南北朝より唐代頃になると、その帳簿を管理する、人間界同様の組織の存在が想定されるようになる。こうして、長官としての泰山府君が出現し、その配下の官僚としての泰山主簿、泰山録事、泰山伍伯等の存在が生み出されてくるのである・・・泰山とその周辺には普照寺や竹林寺霊巌寺といった由緒ある仏教寺院も多く、特に霊巌寺には日本からの曹洞宗の留学生が宋代に多く訪れている・・・
 と、説明されていた・・・

 興味深い「論文」があったので以下に貼り付けておく
 明治期における国語国字問題と日本人の漢学観
               方 光鋭
 キーワード 国語国字問題、漢字、明治、漢学観、日本
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/10/10-12.pdf

 で、あとは採りとめも無くランダムに添付していく・・・

 1713年に
 新井白石
 『西洋記聞』10の中で漢字と西洋文字を比較している。
 西洋文字について
 「その字母、僅かに二十余字、一切の音を貫けり。文省き、義広くして、その妙天下に遺音なし」(中略)
 「漢の文字万有余、強識の人にあらずしては、暗記すべからず。しかれども、猶声ありて、字なきあり。さらばまた多しといへども、尽かさざる所あり。徒に其心力を費すのみといふ」と述べた。

 また、「漢字御廃止之儀」の中で
 前島(密)は「西人某」の談話を引用し、
 日本人の「大和魂」(愛国心)に関する憂慮を次のように述べている。
 「従来漢学を以て学問教育の基本とするゆゑ、
  一種の支那魂ありて
  大和魂愛国心)に乏しい、晩近に至りて漸く西洋学を為す者増加せるゆゑ、早く学問の順叙を改正して之を制セざれば、他日は自ら一種の
  西洋魂を輸入して、不可謂の葛藤を起こし、其極大和魂を皆無にすべしと

 魯迅
 「新文字について――質問に答える」で次のように述べている。
 四角い漢字は、
 本当に愚民政策の利器である。
 働く大衆が学習し、会得する可能性がないばかりでなく、
 金も勢力もある特権階級でさえ、
 十年、二十年かけて、
 結局、物にならない文字が大変多い。(中略)
 だから、
 漢字は
 中国の働く大衆の身体に巣くう結核でもある。
 病菌が内部に潜伏していて、
 まっさきにそれを取り除かないなら、
 結果は、自分が死ぬより仕方がない

 ・・・写本のうち
 「高山寺本」は、
 「国郡部」の後に
 古代律令制下の

 駅(うまや)を・・駅(エキ)=馬+尺→馬借→馬釈→訳
          厩→厩戸皇子
 記しており、・・・司馬遷史記→(蘇我)馬子
 他の・・・・・・・馬子→宇摩詞→午子(南北)
                 語視→南北(鶴谷南北)
      「可美真手命・日本書紀
      (うましまでのみこと)
       カビシンシュメイ=黴新種名 
      「宇摩志麻遅命古事記
      (うましまじのみこと)=馬史真字の見事
       馬島時(字・事・地)
      「味間見命・先代旧事本紀
      (うましまみのみこと)
       うまし=旨・甘・美味・上手・巧

 二十巻本には
 見られない独自の本文を持つほか、
 本文の異同も多く
 特に「国郡部」を見る際に
 「元和古活字本(ゲンナコカツジホン)」とともに
 参照される。

 日本人は近代以後、漢字と日本語、漢字と近代文明などの問題について様々に議論してきた。その中で、日本の近代化にとってもっとも重要な時期である明治期に、「国語国字問題」(漢字の存廃を中心とした国語改良に関する諸問題)をめぐって特に活発な議論があった。
 「国語国字問題」は日本人の漢字論における重要な一部分でもあれば、日本人の国家意識、漢学観、近代文明観などに深く関わった問題でもある。この問題に関する現代の研究は主に二種類に分けることが出来る。一つは言語学的視点から日本語における漢字、漢語について分析し、明治の「国語国字問題」に言及す

 斑鳩(いかるが)の用語解説
 アトリ科の鳥。
 全長23センチくらい。体は灰色で、頭・ 風切り羽・尾羽は紺色。
 くちばしは太く黄色。木の実を食べる。
 さえずりは
 「お菊二十四」などと聞きなされ、
 「月日星(つきひほし)」とも聞こえるところから
 三光鳥ともいう。

 斑鳩(いかるが)
 鳥の名。もずに似た渡り鳥。まめまわし。「いかる」とも

 斑鳩(いかるが)とは、
 奈良県
 生駒郡
 斑鳩町
 法隆寺を中心とした地域。
 古くは
 鵤とも表記された。

 斑鳩(いかるが)
 地名の由来や正確な範囲については不明とされているが、法隆寺を中心とした矢田丘陵の南部・富雄川右岸(西側)地域を指して呼ばれることが多い。

 用明天皇の皇子である
 厩戸皇子聖徳太子)は、父の遺命により
 法隆寺を建立するとともに、
 推古天皇九年(602年)には
 斑鳩宮を造営
 同十二年(605年)に
 聖徳太子斑鳩宮に移り住み、
 その
 二年後には法隆寺斑鳩寺)が完成
 この時に建てられた法隆寺
 今日
 「若草伽藍」と呼ばれる仏教遺跡で、
 現在の法隆寺
 七世紀後期から八世紀初頭に
 再建されたものとする説
 法隆寺の近くにある
 中宮寺も、元々は聖徳太子あるいはその母で用明天皇
 皇后であった

 穴穂部間人皇女が建立した尼寺(鵤尼寺)であったらしい
 穴穂部間人皇女(あなほべまひとこうじょ)
 ケツホブカンジンコウジョ→欠補部漢人公序
 結 輔部官 人 公 序
 訣 捕部韓 人 工 女
 伊藤 博文
 (天保十二年九月二・1841年10月16日〜
  明治四十二年(1909年)10月26日)
 諱は博文(ひろぶみ・ハクブンと有職読)
 幼名は林利助(りすけ)・足軽
 俊輔(春輔、舜輔)とも称す
 号は春畝(しゅんぽ)
 滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」
 「春畝公」
ーー
 配偶者 伊藤すみ子・
     入江九一の妹
     文久三年に結婚
     慶応二年離婚
     伊藤梅子
     慶応二年結婚
     旧姓は木田梅子
     嘉永元年十一月八日生
     大正十三年死亡
 父・久兵衛の借金のかたに
 下関
 稲荷町置屋
 「いろは楼」に身売りされ
 小梅と名乗った。伊藤の子供を妊娠中
 本妻のすみ子と別れて再婚
 明治十七年
 宮中制服改め(洋装)で調度の命を受ける
 下田歌子に和歌
 津田梅子に英語を学んだ
 七十七歳で死亡
 明治十六年十一月二十八日
 鹿鳴館の最初の夜会
 1200名を招待
 参議伊藤夫人、梅子はダンスをまだ踊れず
 明治十七年
 毎日曜日「舞踏練習会」から活躍
 鹿鳴館
 1880年(明治十三年)に着工
 1883年(明治十六年)七月落成
 設計はジョサイア・コンドル
 1940年(昭和十五年)解体
 1884年(明治十七年)
 鹿鳴館に外国人との融和交際の為に
 会員制の
 「東京倶楽部」が設けられ、
 英語の使用に限られ
 日本語、他の外国語の
 使用が禁止

 斑鳩大和川に近く、また河内や飛鳥方面とも街道でつながった交通の要所
 聖徳太子の一族(上宮王家)は
 斑鳩周辺に拠点を構えた
 聖徳太子斑鳩宮で没し、
 その子
 山背大兄王
 皇極天皇二年(643年)に
 蘇我入鹿によって攻め滅ぼされるまで、
 斑鳩は上宮王家の拠点として栄えた
ーーー
 斑鳩イカル)
 スズメ目
 アトリ科の小鳥の呼称の一つ
 全長20センチメートル内外。
 体は灰褐色で、
 頭・顔・翼・尾は紺色
 日本各地の山林に一年中見られ、澄んだ美しい声でさえずる。
 アジア北東部に分布。
 マメマワシ

 斑鳩町(いかるがちょう)
 奈良県生駒郡にある町名
 法隆寺
 別名を斑鳩寺(いかるがでら)
 斑鳩宮(いかるがのみや)は、
 奈良県生駒郡斑鳩町
 聖徳太子が営んだ宮。
 「斑鳩寺(はんきゅうじ)」は、・・・「ハンキュウジ?阪急字」
 兵庫県
 揖保郡
 太子町
 鵤(いかるが)に
 ある寺院
ーー
 「鵤」、「斑鳩」は共に鳥の名称ですが、
 それぞれで指す種は異なるようです。
 「鵤」は「イカルガ」ですが、
 「斑鳩」は「ジュズカケバト(数珠かけハト)」
 けれど、この二種の鳥は
 囀(さえず)りが似ており、
 日本からの
 使者(遣隋使)は同じような
 囀(さえず)りの鳥に故郷の懐かしさを感じたようです。そして、帰国した際、「斑鳩」という中国字を持ちかえり、従来の「鵤」に代わり地名に使用した、らしい。
ーーーーー
    ↑
 「囀(テン)=口+車+専(もっぱら)」で、「轉(ころぶ・こける・まわる・テン)=転(車+云)」の熟語は「転位・転移・転運・転音・転化・転訛・転嫁・転回・転換・転丸・転記・転帰・転機・転義・転居・転勤・転筋・転句・転結・転語・転向・転載・転写・転借・転手・転出・転身・転進・転生・転成・転籍・転旋・転戦・転送・転対・転貸・転地・転注・転倒・転等・転読・転入・転任・転売・転覆・転変・転補・転落・転漏」等など。コレラの「テン」の同音漢字の「天・典・展・添・填・店・点」を転換して考えれば「古事記の神話・真話・深話」も見えてくるだろう。
 類字の「伝=傳」の熟語は「ご自分」で・・・
 類字の「輔」の熟語は「唇歯輔車・輔車相依・輔臣・輔道=輔導・輔佐・輔弼」などである。
ーー
 「鵤=角+鳥」は
 日本独自の漢字(国字)で、
 「斑鳩」は当時の先進国中国の文字です。
 中国の文化を取り入れての
 国づくりをしていた日本は、
 従来の文字から転換を果たしたとのことです。
   ↑
 歴史的時系列の「従来の文字=鵤」は何時の時代からからのモノ?
 「従来の文字」は「新来の文字=斑鳩」以前からあった、と言うコトか?
 「国字」は「従来の漢字を参考にした新作」であるハズ。
 漢字伝来の順序と新作国字の時系列は
 「斑鳩→いかるが→鵤」であり、「鵤→いかるが→斑鳩」ではない。
 「鵤→いかるが→斑鳩」の「文字転換」ならば
 「いかるが(音)→鵤(新字)→斑鳩(当て字)」であろう
ーー
 また、中国には「斑鳩店鎮」という地名があり、
 古代から
 交通の要所となっていたことも
 日本の「鵤」と似ていたようです。
 分かりにくい文章(概略)かもしれません。
 詳しくは上原先生の著書をお読みください。
 この本を読んだ上で
 斑鳩町散策・法隆寺見学をすると、
 より楽しむことができると思います。
ーー
 ちなみに、
 「斑鳩(いかるが)」は
 古くは
 「伊加流我」や
 「伊珂留我」とも表記されていたようです。
ーー
 「鵤荘(いかるがのしょう)」は
 播磨国揖保郡に存在した荘園。
 現在の
 兵庫県
 太子町・姫路市付近にあった。
 法隆寺創建時からの
 同寺の所領とされ、
 荘名も法隆寺があった
 大和国
 斑鳩に由来している。
ーー
 747年(天平十九年)に作成された
 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、
 598年(推古天皇六年)に
 聖徳太子
 岡本宮
 法華勝鬘経
 推古天皇に講義した際に、
 推古天皇から法隆寺建立の資として
 水田二百十九町余のほか、
 薗地十二町二段、
 山林五地、
 池一カ所、
 庄倉一棟、
 封戸五十戸として勅施入したのが由来とされる。
 元は法隆寺
 初期荘園であったとみられるが、
 記録上に登場するのは
 平安時代後期に入ってからで、
 『法隆寺別当次第』には
 1039年(長暦三年)に法隆寺
 別当になった
 親誉大徳の時代に
 官省符荘の手続が取られたことが記されており、この時期に
 立券荘号されたと推定されている。
 法隆寺はこの地に斑鳩寺を建立して政所の業務と布教の拠点とした。
 1186年(文治二年)、この荘の地頭に任命された
 金子十郎がこの荘の押領を企てたと法隆寺から訴えがあり、
 後白河法皇
 源頼朝院宣を下し、押領を止めさせた。
 鎌倉時代には周辺の低地帯を開墾して
 360町まで面積を広げたが、
 鎌倉幕府
 一時没収されて
 1319年(元応元年)に返還され、以後法隆寺の一円支配が続いた。
 1336年
 (南朝=延元元年・北朝建武三年)、
 新田義貞
 足利尊氏と結ぶ
 播磨国赤松則村(円心)を
 攻めるためにこの荘を占拠した。
 戦国時代に入った
 1497年(明応六年)にも法隆寺から
 段銭が賦課されるなど、比較的安定した支配が続いていたが、
 天文年間に入ると戦乱によってその支配に幕を閉じた。
ーー
 1329年(元徳元年
 1386年(南朝=元中三年、北朝=至徳三年)に作成された
 荘絵図や
 1398年(応永五年)〜1545年(天文十四年)までの
 政所による記録である
 『鵤荘引付』など、
 中世荘園に関する史料を多く遺している

 鵤荘の「ぼう(旁)示石」
 地元の太子町内の
 六ヶ所の地点には
 「太子のはじき石」・「太子の投げ石」と称する、
 聖徳太子
 鵤荘に下向してこの荘園の境界を示すために置かせた
 「旁示石」と伝承される大きな石が存在し、
 このうち
 四ヶ所のものは
 兵庫県の指定文化財に指定されている
 (なお、ぼうじ石の「ぼう」は「傍」のにんべんを片へんにした漢字である)
ーーーー
 ・・・「抜粋記事添付」のレンチャンです・・・
   「原文本文」は以下
 第四章 律令制下の何鹿郡『上巻80p-95p』
    第一節 律令国家と丹波(80p-85p)
http://www.obs.ayabe.kyoto.jp/~a-museum/sisi/genshikodai4.htm
 「何鹿」に関する抜粋記事・・・
    ↓
ーーーーー
  「何鹿」
 『倭名抄』に
 伊加留我と訓註
 イカルカと読んでいた
 イカルカの郡名
 『丹波志』総国
 何鹿郡の条に、
 「按スルニ此郡
  鵤(イカルカ)
  多ク産栖ス 因テ号シ文字ヲ転セラレタルカ」

 木簡
 何鹿
 郡名の
 最も古い記録
 平城宮跡出土の木簡
 昭和四十七年まで
 約二万点の木簡が出土
 丹波国に関するものが数点
 何鹿郡から出したものが一点

 A 丹波国「何鹿」郡高津郷交易小麦五斗
 B 丹波国船井郡「出鹿」郷曾尼里秦人吾□米
 C 表 丹波国氷上郡「石□(負か)」里笠取直子万呂一俵納
   裏 白米五斗 和銅□年四月廿三日
 D 表 丹波□(国か)□□□□□(負か)□里□(干か)□□(部か)□牟一俵
   裏 納白米五斗 和銅三年(七一〇)四月廿三日
 E 表 氷上郡井原郷上里赤搗米五斗
   裏 上五戸語マ身

 Aの
 何鹿郡の文字のある木簡は、
 昭和三十九年十二月十九日に
 平城宮東大溝から、
 和銅開珎ほか銅銭・土器・木器などとともに出土
 寸法は長さ二四一、幅二八、厚さ五(単位ミリメートル)の
 板で、材質はわからない。

 この木簡は伴出したものからみて、
 天平末年から天平宝字へかけてのころ、
 七五〇〜七六〇年ころのものと考えられている。
 この木簡から考えて、
 八世紀の中ごろには
 何鹿郡があり、また高津郷の名があるところから、
 おそらく
 『倭名抄』に記された十六郷は、このころにはできていたものと思われる。

 「何鹿」
 『倭名抄』に
 伊加留我と訓註
 イカルカと読んでいた
 イカルカの郡名のおこりについては、
 『丹波志』総国
 何鹿郡の条に、
 「按スルニ此郡
  鵤(イカルカ)多ク産栖ス 
  因テ号シ
  文字ヲ転セラレタルカ」
 『丹波誌』
  何鹿郡の条に、
 「郡名の起因詳ナラズ
  斑鳩(イカルカ)ノ産地ナルヲ以テ
  古人ガ
  儞(シカ)名ヅケタリト言フ」
 「イカル(まめまわし)」が
 群棲していたので
 郡名になったのではないかとしている。
 「イカルガ」という郡名をどうして
 「何鹿」と書き表したかについても
 定説がない。
 『丹波誌』に、
 「万葉仮名ニテ
  如何流鹿卜
  書キ、或ハ
  如何留我
  ナド書キタルヲ、
  国名・郡名ヲ
  二字ニ定メラレタル時、
  コレヲ省キ、今、
  二字ニシタルナリトカヤ。」と
 記しているのは注目すべき意見である。

 イカルカの表記は、
 伊柯屢餓(日本書紀)
 以可留我(上宮聖徳法王帝説)
 伊可瑠賀(上宮厩戸豊聡耳皇太子伝)
 伊加流我(万葉集十三)などの使用例がある。
 『万葉集』には
 何を「カ・イカ」、
 鹿を「カ」とよんで用いている例もある。
 もと
 「如何留鹿」、あるいは
 「以何留鹿」、など表記していたものを、
  何と鹿を結んで
  イカルカと読ませたものと考えられる。

 和銅六年、国・郡・郷名を二字に制定し、つとめて佳(よ)い字を用いさせ、風土記を編さんさせたが、何鹿の文字もこの時に定めたものであろう。
ーーー
 郡と郡司 郡は郡内の郷数によって、大・上・中・下の四等級に分け、級に応じて 大領(長官(かみ))
 少領(次官(すけ))主政(判官(じょう))
 主帳(主典(さかん))の役人の定員をさだめた。
 平安初期に
 何鹿郡は一六郷であったから、大郡として役人は大領・少領各一名と主政・主帳各三名の組織がおかれたものと思われる。
 丹波の他の郡の郷数は、
 氷上一七、
 多紀八、
 桑田一二、
 船井一一、
 天田一〇で、
 何鹿郡は面積は小さいけれども
 氷上についでの大郡である。
 このことは何鹿郡が古代において早く開発され、人口が密になっていたことをしめしている。

 「才用同じくは先ず国造をとれ」と
 「選叙令」にあるように、
 郡司には、土着の国造や地方豪族であった者が選ばれ任命された。

 郡司の政庁の所在地と郡家(ぐうけ)、政庁を郡衙という。郡衙国衙と同じように方二町の域内に、郡庁・館舎・厨家・正倉などがあり、あわせて四〇棟位の建物があったといわれるから、貧しい掘立の、ほとんどが床をもたない竪穴の小屋である農民の家に比して、一きわめだった壮大なものであったろう。郡衙においても国衙と同様に租の稲をたくわえ、農民に貸して利稲をとる公出挙を行っていたから、そのための正倉や多くの建物が必要であったのである。

 何鹿郡の郡家
 何鹿郡の郡家がどこにあったかをきめることはむずかしい問題である。しかし郡家は必ずあったわけであるから、推論するならば、赤国神社を中心とする館附近ではなかろうか。郡家研究によると、郡家の地域内には必ずといってよいほど古い神社・寺院が存在しているという。これは律令政府が国分寺をつくり式内社を指定したように、神社・寺院を領内統治の中心にすえた政策によるものと思われる。
 赤国神社はもと
 丹国社とよんでいたという伝承があり、現在も氏子の村の範囲は広く、昔は本郡の一の宮的な古社であったとも考えられる。その東には奈良時代に創建されたという由緒をもつ
 楞厳寺がある。
 館町付近は弥生時代以来の集落地であり、
 以久田野古墳群があり、殿山の前方後円墳や多くの副葬品をもった
 荒神塚古墳などがあって、古代で最も栄えた地域である。このあたりに国造か、あるいはそれに次ぐような豪族が居住しており、のちに郡司となったものと推論することができる。
 時代は下るが
 天保七年、赤国神社の神主弘川大隅守の書状に、
「当地は神代より鎮座の地なり 
 故にいにしヘ
 ヤカタの号あり
 後に字訓により
 館村(たちむら)というなるか」とあって、
 館の地名をヤカタと結びつけて説明している。
ーーーーー
 deer 読みは di'ər
 ディア→出意亜→詞化→ロク=録→六・6・陸←賂句
 ・・・?
ーーー

日本における漢字 - Wikipedia
ーーー