1489日目・・・サッカー(蹴球・蹴鞠)をTVで観戦した後、昼過ぎまで寝込んだ。3時過ぎ、自転車で町役場を訪ね、用事を済まし、その後、運動を兼ねて石狩川の流れを見学しようと思い立ち、河に架かる橋に向かった。途中に旧仙台藩「岩出山」領主であった「伊達邦直公上陸の碑」なるものが存在していた。「戊辰戦争」後に開拓調査に舟で石狩川を登ってやって来た場所らしいが、当時は原野だったので諦めて引き返したらしい。今現在は広大な水田に青々と稲の絨毯を敷き詰めている・・・

 ・・・眺めた石狩川(いしかりがわ)、流石(さすが)に雄大アイヌ語の意味が不明らしいが、
 「イシカリ(塞がる)」
 「イシカラペツ(美しく・作る・川)」
 「イシカラアペツ(回流川)」
 などの説があるらしい・・・
 石狩川は蛇行の多い河川で、
 アイヌ語の音節分解で
 「イ・シカラ・ペツ
 (i−sikar−a−pet)
 (それを・回流する・〈過去形語尾〉・川)」
 明治二年
 1868年
 石狩川の河川開発の開拓使設置
 ・・・アイヌ語源は置いといて、
 「石(いし・いわ・セキ)
  +
  狩(かる・かり・シュ)」
 の漢字がナゼ当てられたのか・・・松浦武四郎最上徳内、あるいは間宮林蔵・・・「石狩(セキシュ)→砂利の採掘」・・・「セキシュ=隻手・赤手・咳主」で、「咳の主は仙台岩出山領主」であった「伊達邦直」・・・ゴホン、ゴホン・・・
 1898年(明治三十一年)九月
 石狩川流域の大洪水が発生
 浸水で112名が死亡
 1899年(明治三十二年)
 「第一期北海道拓殖計画」
 石狩川治水事業に着手
 事業の中心的人物は
 岡崎文吉
 アメリカ方式の
 自然を生かした治水方法を採用
 大規模な人為的改変を加えず、
 水防林や堤防整備・護岸補強を行い
 自然を最大限残しながら治水事業
 洪水時の水位を下げるために
 放水路を建設し、
 洪水調節を図った
 1910年(明治四十三年)
 石狩川治水事務所設置
 「石狩川第一期治水工事事業」開始
 生振と篠路を結ぶ放水路事業
 泥炭地で・・・・泥炭地→黒い泥炭の地?
 難工事
 1917年(大正六年)
 内務技官の
 沖野忠雄
 を派遣
 河川工学分野の第一人者
 河川に対し大規模な改修を加える
 フランス流河川工学
 1918年(大正七年)
 岡崎は石狩川治水事務所長を退任
 沖野が所長職に就任
 石狩川の治水は
 「捷水路主義」の河川改修
 1922年(大正十一年)
 「夕張川新水路工事」
 1936年(昭和十一年)に完成
 河川蛇行の直線化
 1934年(昭和九年)
 「石狩川第二期治水工事事業」
 「幾春別川新水路工事」を開始
 1921年(大正十年)より実施していた
 「美唄川新水路工事」と共に
 三笠市岩見沢市の治水を図った
 石狩川本川の捷水路工事は
 江別から月形、さらに上流へ向けて
 堤防整備と共に実施
 太平洋戦争によって中断
ーー↓ーー
 ・・・水攻めの基本は「治水工事」・・・「備中高松城水攻め」は「黒田如水(孝高・官兵衛・シメオン天正十三年洗礼)」・・・「シメオン(Simeon)」は、「旧約聖書・創世記」の「ヤコブとレアの第二子」、古代ユダヤの男性名で、原義は「聞く、耳を傾ける」・・・標音(?→しめおん・閉め音・〆音→3、3、7拍子)・・・「シメオン」がギリシャ語化されたものが「シモン」・・・キリスト12使徒のリーダー、「ペトロ(岩)」の元の名が「漁師(魚獲り)のシモン」・・・「民族主義者、熱心党」の「シモン」・・・
 試問の諮問で、指紋・・・「1911年(明治四十四年)」に警視庁が「指紋制度」を採用・・・
  ↓
 黒い田圃の水の如・・・?
  ↓
 多可郡
 黒田城
 黒田氏初代・黒田重光
 「播磨国風土記」に「黒田里」の記載
 「土黒きをもって名となす=以土黒為名」
 類似の地名由来
 「出雲国風土記
 「意于(おう)郡
  黒田驛
  郡家の西北二里に
  黒田村あり、
  土體(つち)の色黒し、
  故に黒田=土體色黒、故云黒田」と記載
  ↓
 「播磨国風土記」の黒田里
  ↓
 ・・・袁布(をふ)山というのは、むかし、宗形(宗像)大神の奥津島比賣命が、伊和(いわ)大神の子を懐妊して、この山に到来していった、「わが産むべき時はおわった(我可産之時訖)」と。ゆえに「袁布山」という。支閉(きへ)丘というのは、宗形大神が「わが産むべき月は尽きた(我可産之月盡)」と。ゆえに「支閉丘」というのである・・・
 「訖(おわる・ついに・いたる・キツ・コチ)」は「袁布(ヲフ)→長い振袖(長袖)?→ロングスリーブス(long sleeves)→布(ハンカチ)を振るのは別れ?」・・・オワル?
 「盡(尽・つくす・つきる・ジン・シン)」は「支閉(キヘ)→支を閉じる→十二支の最後は亥(北西)」・・・キエ?・・・これは、「支閉(シヘイ・シヘ)」で、はないのか・・・十二支を閉じる→綴じる紙(史・詞)・・・
  ↓
 「盡=尽・ジン・シン・つくす・つきる」→尽力
 「儘=侭・ジン・シン・まま・ことごとく」→我侭
 「燼=ジン・シン」→燼滅
  ↓
 「意宇(おう・イウ)」
 国引き神話
 出雲国は小さく作ってしまったので、
 ミズオミツノ(水臣津野命)が
 島根半島朝鮮半島から引いてきた
 国引き神話
 国引きがおわると、
 ミズオミツノは
 「今は國引き訖へつ(今者國者引訖)」
 といって、
 「意宇(おう)の杜(もり)」に杖を衝き立てて、
 「意惠(おゑ)」と言った
 ゆえに
 「意宇(おう)」という「終(おわり)」の意味
 出雲の「意宇=訖」も、
 播磨の「袁布=訖」と同じく、
 「訖(おえる・終)=言+乞」という文字の読み・・・
 「播磨国風土記
 宍禾郡御方里条に、
 「伊和村
  本名
  神酒」
 「伊和(於和)村」の
 本名は
 「神酒(みき・シンシュ)村」の地名由来
 「於和(おわ)村」
  ↓
 伊和大神が
 国作りをおわって(国作訖)
 のちに
 「於和(おわ)」と
 「拝みき(於我美岐)」
  ↓
 「黒田里の神話」
  ↓
 我可産之時訖
 我可産之月尽
 は「今にも産まれそうだ」・・・?
 伊和大神の子を懐妊していた
 オキツシマヒメは、
 臨月のとき、
 「袁布山・支閉丘」=「播磨国黒田里」
 に出坐していた
 伊和大神
  ↓
 播磨一宮・伊和神社の祭神で、
 オホナムチ(大己貴神、大汝命)、
 アシハラシコヲ(葦原醜男)、
 大国主命
  ↓
 宗形大神・オキツシマヒメ
 宗像の三姉妹神の一人
 「天照大神」と「須佐之男命、素戔鳴尊」が、
 ウケヒ(誓約)をして
 「天照大神」が
 「須佐之男命、素戔鳴尊」の
 剣をとって産んだ
 宗像三姉妹神
 「オキツシマヒメ」は、
 「古事記」では
 「タギリヒメ(多紀理比賣)」とあり、
 大国主命
 妻
 多紀理比賣の産んだ子が、
 「賀茂大神」の
 「アヂスキタカヒコネ味耜高彦根神)」
  と
 「シタテルヒメ下照姫神)」
ーー
 前回、「中国大返し」で、「豊臣秀吉の生年月日の干支」を欠落させたが、その追加でオマケである。
 「尾張(おわり)−中村(なかむら)村」の「百姓」、「草履取り」の「足軽足軽)=徒歩(かち)」もチャンスに走りに、走った・・・ナゼ、「豊臣」の姓を「賜(たまわ)」ったのか・・・「豊国」とは九州の「豊後・豊前」、地理的には、現在の九州の北東部に位置し、「福岡県東部」、「大分県全域」・・・以前にも書き込んだが、「大分(おおいた)」の地名漢字は怪しい・・・「オオブ」は「大府(愛知県大府市)」・「大部(香川県小豆郡土庄町大部)」・・・「おぶ=みず・白湯(さゆ)」、「おぶ=背負う(おんぶ)」、「おぶ(尾部)」・・・「out of〜」・・・「あぅとぶ(?)」・・・「underwater dive(ダイブ)」・・・頭から飛び込んでサッカーボールを会わせ、ゴールに叩き込む・・・ヘッディング・・・?
  ↓
 大分(おおいた・ダイブ・ダイブン)
  ↓
 県名は、県庁所在地の郡名に由来
 古く
 「碩田(おほきだ)国」の名
 「豊後国風土記」に
 「大分郡」と見られることから、
 「おほきだ」が転じて
 「おほ(おお)いた」になった・・・?
 「豊後国風土記景行天皇」の記録に
 「広大なる哉、この郡は。よろしく
  碩田国(おおきた)と名づくべし」・・・?
 ・・・元々「景行天皇」自体が怪しいのである・・・
 「碩田(セキデン)」が「おおきた」と訓むのも怪しい・・・
 「碩(セキ)」は「堰(せき)」と同源・・・?
 「のどや気管が刺激を受けたとき、
  呼気が急激に吐き出される現象・・・?
 ならば「咳(せき)」だろう・・・
 「しわぶき」とは
 「わざと咳(せき)をすること・咳(せき)ばらい」で
 ゴホン、ゴホンである・・・「わざと」とは何かを知らせる合図である。
 「碩学者」とは「学問を広く深く身につけること・また、その人」
  「大家・権威・碩儒」で
 「碩学大儒(セキガクタイジュ)とは
 「学問の奥義を究めた大学者のこと・・・であるらしい。
 漢字分解では
 「碩」=「石+頁」である・・・
 「インテリ」が「石の頁」である・・・「碩田」は「セキデン=碩学田圃」か、「碩学の伝承」であろう・・・「大分」、大きく分けたモノは「領地」か「血縁・縁戚」者を分けたのだ。ナニを分けたのか?「豊国=豊後(ぶんご)・豊前(ぶぜん)」である。「豊臣=豊の臣」とは「黒田如水」で、黒田の領地は「豊国」であり、「ブンゴ(文語)・ブンゼン(文前)」であり、「文吾(ブンゴ)」は「ぶぜん(憮然)」なのだ・・・?
 いずれにしても「大分(おおいた・おほいた)」は「幕末、明治インテリの産物」である・・・「意富(イフ)」の漢字を「おほ」と読ませているのはナゼか?
 1968年
 金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)が後円部分から発掘
 1978年
 鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が判明
 鉄剣には
 「辛亥の年七月中記」という年紀
 「辛亥(シンガイ)年」は
 「471年」か、「531年」・・・
 干支年は60年サイクルであるから
 「411・351・291・
  231・171・111・51」年、そして、
 「−9」年でもある・・・
  ↓
 「稲荷山古墳鉄剣銘文」にある「意富比垝」の漢字を一般的には「おほひこ」と訓じているらしいが、
 「垝(キ・やぶれる・だい)」=「土(十一)+危(厃卩)」で、
 音読なら
 「イフヒキ」である。
 「垝」の類字は「垝、姽、恑、洈、桅、祪、脆、蛫(かみきりむし)、跪、觤、詭、頠」・・・ボクの緩和字典には無いモノが多い・・・「頠(ギ)」が「危+頁」ならば「危ない頁(ページ・大貝)」である。意味は基本的には「偏+旁」の合体の意味である。
  ↓
 詭(いつわる)・・・詭弁
 恑(キ)・・・・・・横心危
 陒(けわしい・嶮しい)・・・
 跪(ひざまつく・蟹の足)・・・跪伏・跪拝
 佹(さからう・怪しい・重なる・こじ付け)・・・佹弁=詭弁
  ↓
 「意富比垝」は「古事記」に記録されてイル「大毘古命」との説があるが、5世紀中葉期(?)らしい「埼玉県第2位の規模の稲荷山古墳出土の鉄剣」の漢字は「訓読の当て字の字義」ではなく、「音読の音と字義」であろう。「万葉仮名」を「漢字音」の借用だけと考えるのはナンセンスである。
 当時の「倭人帰化人・渡来人)である知識人」は漢字文字自体の意味知識を学んだ後に刻印した。ここでは「文字が前(さき)にありき」である。しかる後に文字(漢字)選択し、記録されたのだ・・・漢字自体の意味が重ねられているの当然だろう・・・
 幕末、明治のアイヌは「文字」を有していなかった。ここでは「音声(コトバ)が前(さき)にありき」である。聞き取って記録したのは「倭人」である。
 ・・・「ワッカナイ=稚内(わっかない)」は、北海道、宗谷総合振興局の所在地の市名で、アイヌ語の「ヤム・ワッカ・ナイ(冷たい水の沢)」である。「モンベツ=紋別」は、北海道北東部、オホーツク海に面する市名で、アイヌ語「モ‐ペッ(静かな川)」で、「ベツ」は川である。オマケに「宗谷」である・・・
  ↓↑
 「確かな文献に拠る限り、
  大分の方が古く、
  碩田は
  大分地名の意味付けに
  後から作られた説話」・・・?
  「大分」の漢字記録があったとしても
 「おほいた・おおいた」と訓じていたのか?
 「おほわけ・ダイブン」・・・
 明治四年
 廃藩置県時、
 「県の中心部に位置した大分郡からとったもの」
 であるらしいが、
 「大分」の字義は「大」を「分けた」のであり、
 「おほいた」の訓義は
 「おほ(大・多・緒補・尾保)」の
 「いた(板・入た・居た・伊田・易拿)」・・・
 「豊国=豊前+豊後」
  ↓↑
 天正十五年(1587年)七月三日
 「豊前」は
 「黒田如水(孝高・官兵衛・シメオン天正十三年洗礼)」
 の領地である
 本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする
 豊前国の中の六郡(宇佐郡半郡は大友吉統領)、
 およそ十二万石(太閤検地後十七万石以上)を与えられ、
 中津城の築城を開始した
 「黒田如水(孝高・官兵衛・シメオン)」は
 「豊国(豊前+豊後)」の半分の「豊前」のアルジになったのだ。
 ウイッキペデアによれば
 「備中高松城水攻めと中国大返しは孝高の献策などといった話は、黒田家の命において寛文十一年(1671年)に編纂を開始された『黒田家譜』(貝原益軒著、1688年)以降の逸話」であるらしい・・・
 「おもひおく、
  言の葉なくて、
  つひにゆく、
  みちはまよわじ、
  なるにまかせて」
 ・・・ナニを言いたいのか?、「黒田官兵衛、孝高」は・・・
ーーーーー
 豊臣秀吉
 生誕 天文六年二月六日
    (1537年3月17日)?
    丁 酉(庚・ ・辛)
      沖
    癸 卯(甲・ ・乙)
      破
    丙 午(丙・ ・丁)寅卯=空亡
    ↓
    劫財−偏財・正財
    正官−偏印・印綬
    比肩−比肩・劫財
    ↓↑
 死没 慶長三年八月十八日
    (1598年9月18日)
    戊 戌(辛・丁・戊)
    辛 酉(庚・ ・辛)
    辛 未(丁・乙・己)
    ↓
    食神−害
    偏財−沖
    偏財官−支合(丁)
ーーーーor
    天文五年一月一日
    (1536年2月2日)?
    乙 未(丁・乙・己)
      沖(己)
    己 丑(癸・辛・己)
      害
    戊 午(丙・ ・丁)子丑=空亡
    ↓
    正官−印綬・正官・劫財
    劫財−正財・傷官・劫財
    比肩−偏印・印綬
     ↓↑
 死没 慶長三年八月十八日
    (1598年9月18日)
    戊 戌(辛・丁・戊)
    辛 酉(庚・ ・辛)    
    辛 未(丁・乙・己)
    ↓
    比肩−破
    傷官−三合(辛)
    傷官−支合(丁)
     ↓↑
 改名 木下藤吉郎・木下秀吉
    羽柴秀吉
    藤原秀吉
    豊臣秀吉
 別名 元吉・日吉丸
 渾名 木綿藤吉
    猿・禿鼠
    豊太閤
 神号 豊国大明神
    ↓
    豊臣→とよとみ→豊聡耳(とよとみみ・とよさとみみ)
            厩戸皇子聖徳太子・上宮王
            用明天皇第二皇子
            上宮之厩戸豊聡耳命
            法主
            豊聡耳聖徳豊聡耳法大王
            上宮太子聖徳皇
            厩戸豊聰耳聖徳法王
            上宮厩戸
            厩戸皇太子
            厩戸王
ーーーーー
 本能寺の変
 天文十年六月二日
 1582年6月21日
 壬午年
 丙午月
 戊寅日
 (三合丙−比肩)
 ↓ 
 偏官
 比肩
 食神
 ↑
 丙午生日
ーーー
 壬午年
 丙午月
 戊寅日
 (三合丙−偏印)
 ↓
 偏財
 偏印
 比肩 
 ↑
 戊午生日  
ーーーーー
 以下はウイッキペデアの原文より参照、参考、抜粋し、少々改作添付したモノ・・・
  ↓
 天正十四年
 1586年9月9日
 賜、
 豊臣氏(『押小路文書』)・・・??
 ↓
 秀吉は
 大陸侵攻(唐入り)の準備
 周辺諸国
 スペイン・ポルトガル
 植民地に対し服属入貢を要求
 海外進出の構想
 天正十五年(1587年)
 5月9日
 秀吉夫妻に仕える
 「こほ」という女性への書状で
 「かうらい(高麗)国へ御人しゆつか(はし)
  かのくに(国)も、
  せひはい(成敗)申つけ候まま」
 との記録・・・?
 九州平定の延長として
 高麗(朝鮮)平定の計画
 明国への出兵は
 織田信長の構想・・・
 6月1日
 本願寺
 顕如に宛てた
 朱印状で
 「我朝之覚候間
  高麗国王
  可参内候
  旨被仰遣候」
 と記録
 「我朝之覚」とは
 先例のことを指し、
 「神功皇后三韓征伐」の
 三韓服従の誓約
 あるいは
 天平勝宝二年(752年)
 孝謙天皇による
 新羅国王への入朝命令・・・
 この先例(我朝之覚)に倣って
 高麗(朝鮮)国王は
 諸大名と同じように
 朝廷(秀吉)への
 出仕義務があると考え、
 直後に
 李氏朝鮮
 対馬
 宗氏を介して
 服属入貢を要求
ーーーーー
 ・・・豊臣秀吉は「倭国王族」が「高麗、新羅百済」等との「王族血縁関係」を踏まえていたのではないのか・・・