1051日目・・・「戦場カメラマン・NHKスペシャル」・・・今、見終わった・・・

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 作家「沢木耕太郎」さんの「現代史の謎」追求のドキュメント・・・戦場カメラマン「ロバート・キャパ(1913−54)」が、22歳の時にスペイン内戦で撮った、と云われている「兵士の死の瞬間」の写真のナゾ・・・ボクは「絵葉書?」になったその「写真」を持っているハズだが・・・「真贋論争」があったとは考えもしなかったし、第一「謎」があったとは知らなかった。それに「キャパ」と言う人物がどんな人間だったのかも・・・最後は「地雷」で亡くなったコトは知っていたが、「戦場で写真を撮る」のは彼自身の「人生の選択」だった・・・「ベトナム戦争」で「南ベトナム軍将校」が拳銃で路上の捕虜の頭をぶち抜く写真、それに「禿げ鷹と少女」の写真が脳天にチラめく・・・アレが最終的には誌面に掲載されて「商品」となって「カネ」と「名声」になっていく「社会システム」・・・その「葛藤?」の解決は「自己消滅」への場所探しだった、かも。ボクは、その理由如何は知らないけれど、彼にとっては戦場が「生き場所=死に場所」、「生きがい=死にがい」の場所だった、ぐらいにしか他に考える情報は無い。だが「写真を撮る場所」が、特殊、「戦場」でなければならなかったと言う訳でもないだろう。時代が、歴史が要請していた。だが、一般人であっても「日常」は何処にいても「生死の場所」である。「外人部隊」に憧れた「日本人」がいた。理由は定かではないが「戦場そのものを生きがいの場所」にしている奴もいる。「アメリカの傭兵会社で嬉々として戦争を職業」としてアフリカ内戦やイラクで「傭兵」として生活している奴も存在している。身を危険の場所に置く「冒険家・登山家」の類はゴロゴロ存在している・・・かって「サラリーマン戦士・企業戦士」とか云われていたが、最近は「カスバの女」が流行しているらしい・・・ありもしない「敵対関係」を、敢えて「敵である」とし、それを「大義名分」で包み込んでも、その双方は「結果はカネで雇われた傭兵」に過ぎない・・・この世の中の「カネ」とは「生活財の多寡の保障」である・・・映画、「アルジェの戦い」は女の子が爆弾テロで吹っ飛ぶ場面からハジマッタ。「テロ指導者の博士」は、それを「是」とした・・・今現在の「シリア」が特別なワケではない・・・「国家枠の民主主義」は「エゴ」である・・・個々の「国家権力の構成実体」も「無自覚な支配階級意識の傭兵」である。「意識」とは「カネもうけ」と、それによって保障される「序列地位」である・・・「大陸中国のスモッグ」は「中国支配階級」の「意思」であり、「意志」でもある。一昔前の「日本支配階級」の「意志」でもあった。そして「国家枠の日本国民の意思」でもあった。解決は「国家裁判のカネ」での妥協であった。この「カネの支払い」も「税金」の一部であるのだが・・・
 「沢木耕太郎」と言う人物も知らなかったが・・・最初、このTV番組を見ながら「ヤラせ写真」の暴露、「過去の人間の負の秘密の履歴」を「スキャンダル風」に暴露、あるいは「職業者写真家」が名前を売り出すために取った「手段の暴露」なのか?・・・と、思っていたが、違った・・・「真実の意味はノルマンデー作戦に何故、写真家として参加した」のか、にあった、らしい・・・が、「起承転結」の後付「結論」だった・・・キャバは「死に場所」を探していたのか?・・・理由は・・・
 「兵士の死の瞬間」、キャバの恋人で、同志だった「ゲルダ・タロー」が撮った「写真」だった、から、らしい・・・しかも軍事訓練中に、ただ「兵士がコケタ写真」・・・そして「ゲルダ・タロー」はその後、TVでは「敵のフランコ軍」なのか、「味方の人民戦線軍」なのか、不明だったが「戦車」に轢かれて死亡した・・・「正義の戦争」なんかは無いのアタリマエだが、現実的に「自己存在」を脅かす「人間集団」が存在し、その「人間集団」が襲ってくる時はどうするのか?・・・「国家意思、国家意識」ではなく、「人間」として抵抗、反撃するのさ・・・「写真」は「政治的に利用」されたとしても、「抵抗の政治技術的な問題」である。ナチはそれ以上の宣伝技術を利用した。
 もちろん、「大日本帝国」は「新聞」、「映画」、ラジヲでの「大本営発表」・・・今現在の「国家の提灯持ち」は「明治時代の欧米カブレのタカジン番組」である・・・アレルギー症状は健康バランスの崩れを警告しているシグナルである。「160万部」で喜んでいるアホタレと同席している「国家主義」者は迷惑だったろ・・・