1016日目・・・「女真族」が建国した「金王朝」であるが、「金武」と二文字で「キン・キム」とヨマせている地名が「沖縄」に存在する。金武町(きんちょう)は、沖縄県「国頭」郡に属する町である。「与那国島(よなぐにじま・方言名どぅなんちま)」は、 日本の最西端の島。南西・諸島・八重山・列島の西端、日本最西端の地を擁す国境の島である・・・北緯24度26分58秒東経122度56分01秒・・・「琉球」とは何か?・・・オトヒメ様の「龍宮」・・・十四(1300〜1399年)世紀、海上貿易中継点として栄えた。1522年に

 それ以前は
 女首長→女王=Queen(クィーン)
     玖(王+久)威委務(ム・奴→ぬ=め+α)
           威=厂+一+女+戈
            委→倭=イ+禾+女
     Your Majesty(マジョスティ)
            魔女州帝

 サンアイ・イソバ(伝承人物)や

    「サンアイ」は地名、
    「イソバ」は個人名
    サンアイは島言葉で
    「ガジュマル」=クワ科の常緑高木
    「絡まる」が訛った方言
     一見、「金のなる木=カゲツ(花月)、
     オウゴンカゲツ(黄金花月)」に
     似ているけれど?
     「ゴムの木」の仲間らしい 
     イソバ−アブ(阿母)とも呼ばれた
     「ガジュマル」は「賀寿丸・臥樹麻呂」で
     「イソバ」は「磯(礒)芭・萎蘇葉」かも?
     妖精「キムジナー」が宿るらしい
     女王「イソバ−アブ」は
     巨体で怪力
     四人の兄弟を島内に配置
     巨大な「草鞋」を海に流し、
     巨人の島と思わせ外敵が
     島に近寄らないように図った。
     1500年、八重山諸島
     「オヤケアカハチの乱」が平定され、
     琉球王国配下の宮古島の軍勢が
     与那国島に攻め寄せ、
     撃退したとも、攻め滅ぼされた
     とも伝わる。
     子孫は
     「島袋」氏の姓を→トウタイ=問う多意
             ↓
      嶋袋(しまふくろ)=山+鳥+代+衣

      有する家であるらしい。

 鬼虎(伝承人物)の下で
 独立国であった。
  ↓
ーーー
 独逸建国?プロイセンプロシア普魯西
          三十年戦争
          1618
          ブランデンブルグ選帝侯領と
          ドイツ騎士団領
          合体した国
          支配者はホーエンツォレルン家
          1618年建国・・・
           ↓    1618年
                 ーー↓
                 干支戊午
                 日本−元和四年
                 中国明−万暦四十六年
                 後金−天命三年
                 李氏朝鮮−光海君十年
                 ベトナム後黎朝−弘定十九年
                 高平莫氏−乾統二十六年
                 ユリウス暦
                 1617年12月22日〜1618年12月21日
                 三十年戦争勃発( 〜1648年)
                 ヨハネス・ケプラー
                 第3法則を発表
                 ーー↑
           ↓
          1660年のオリヴァ条約で
          ポーランド波蘭)王国(966年建国)の
          属国の地位から
         ↓ーー
          ポーランド波蘭・波)王国
          私註→ポランは「原っぱ・原野・野原」
          「波の原」なら「綿摘み・わだつみ・海神」
          「ポランの広場」って、宮沢賢治の童話

         ↓ーー
          966年、ピャスト朝
          レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の
          5代目の
          族長ミェシュコが近隣の
          ヴィスワ諸部族(Wiślanie)、
          ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、
          マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などを
          レフ族に統合させ、
          自らキリスト教に改宗して
          ミェシュコ1世公となった
        ーー
           ↓
          独立した
          プロイセン公国
          首都ケーニヒスベルク
          および
          神聖ローマ帝国
          ブランデンブルク辺境伯
          首都ベルリン
ーーー
  ↓    
 1611年、
 薩摩藩
 役人
 毛利
 内膳
・・・内膳→内々でお膳立て
 正
 元親が
 来島し
 与那国島の測量を行い、
 初めて
 検地帳を作製
 1879年の琉球処分と共に
 日本に帰属する・・・「与那国島(ヨナゴクトウ→与える名の語句、等)
 当等、様々・・・佐間・・・「埼玉県・行田市・佐間」、「埼玉県・久喜市・佐間」・・・座間・・・八王子街道(平塚宿起点に田村で中原街道と交差し、厚木、海老名、座間、相模原を経て八王子に通じる)の宿場町として栄えた。
 古代以来の律令国郡制において「相模国高座郡」に属した座間市(ざまし)は、神奈川県のほぼ中央に位置。市内北西部(座間市座間)に米軍座間キャンプ及び陸上自衛隊施設部隊(東部方面・第施設団・第施設群)が所在・・・戦前、戦中は陸軍士官学校及び高座・海軍工廠が存在した・・・
ーーーーー
 前頁に貼り付けた「ウイッキペデア」の原文の「文字」が「赤穂−浅野 長矩(あさの ながのり)・播磨・赤穂藩第三代藩主・官位・内匠(たくみ)頭・従五位下浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)−松の廊下−殿中(デンチュウ)・刃傷(にんじょう)・沙汰(サタ)−浪士(ロウシ)−義士(ギシ)四十七士の吉良上野介討ち入り」→脚本→時代背景改作→「仮名手本忠臣蔵」→歌舞伎(発祥は出雲の阿国)→女役者の禁止→舞台→男役者→女形おやま・中国では京劇の)→歌舞伎劇場、演劇規制、一部中断→幕引き→勤皇攘夷→明治維新文明開化−明治再開日清戦争(東胡・女真族・金国・清国)→日露戦争匈奴契丹・遼・西遼)→朝鮮併合(高句麗・高麗・李氏朝鮮)→満州事変(女真、女直の故国、故郷)→満州国建国(五族協和国・大東亜共栄圏)→国際連盟リットン調査団)→敗戦→「現存・古事記」の研究解禁→・・・?・・・「満州国の歴史的研究」が「明治立憲君主国家」には必要だった・・・「竹島尖閣諸島・北方千島択捉四島」・・・暇で、興味のアルヒトは同音異字漢字、音訓の同音異義はモチロン、以下の文の「年代、代数の数字、月日の数字」に注目してホシイ・・・のだが・・・
ーーーーー
 「歌舞伎」の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」らしい・・・ナゼ?・・・「傾国、傾城」の「オンナ」だから・・・「カブキ」は「掛分伎(技・芸・記・基・己・企)」であるカナ・・・「芸」と、「藝」は異字で異義だから・・・それとも「蕪葵」か、「株基」か「下部飢」、「下武棄」、「家悔(侮・撫)葵=徳川、松平」であるカモ・・・「下奉企(記)」・・・「現存・古事記」ならば、「家葺き(萱・茅)」、「屋根葺き(萱・茅)」で、
 謂・・・・いう・いわく・イ・謂=言+田+月(肉)
 天津・・・隋王宮の小川に架けられた橋・天体の星の名
 日高・・・山脈、山地、地名の名・火高、比鷹、日下
      ニッコウ→日光、天城東照宮
 日子・・・肥後・火語→熊語
 波・・・・浪・並・なみ→名実・バ=葉・場・羽・婆・歯
 限・・・・カギル→科技留・鉤留・鈎留・鍵留・枠組
 建・・・・たてる→建築・建国
 鵜・・・・鵜=弟(乙)+鳥(酉)=う・羽・宇・胡
 葺草・・・かや・いくさ・萱・茅
 葺・・・・ふき・蕗・フキ→附記
 不合・・・あえず・フゴウ→符合・附合・負号・富豪
 命。・・・みこと・尊・三言・見事・神子徒
 (訓、波、限、云、那藝、佐、訓、葺草、云、加夜)
     ↓
 訓の波(バ・言葉・なみ・名実)にカギ(科技・掛義)って云えば、名の藝(園芸・芸術)が佐(たすける・作・差)、葺草(異の句の作)はカヤ(夜を加える・天体、天文、星座)

 「歌舞伎座」の劇場、建築物の「屋根葺き」の「杮(こけら)落とし」だが、「柿(カキ)の種」ではない、「杮(こけら=小片)」の「下記(書き・牡蠣・火気・華記・描き・欠き)落し」で、「葺き不合命=附記合えず名)」である。
 元々、「歌舞伎座の小屋」には「屋根、天井」が無かった。新築した劇場の屋根は瓦(かわら)では無く、「柾木(まさき)」で葺いたのである。その「欠片(かけら)」が「杮=小片→小編・掌編」である。「火事と喧嘩は江戸の名物」だったが、「柾木」で屋根を葺いた劇場は火事には弱かったであろう。で、「正紀」とはまがい物の「日本書紀」ではなく、「中国歴史の記紀」と「新約、旧約聖書」の「記紀」であった・・・
 元々あったらしい「国記・天皇記」・・・「皇極天皇四年(645年)六月十二日」、「乙巳(イツシ)の変」で「飛鳥・板蓋宮」で中大兄皇子中臣鎌足らが「蘇我入鹿」を暗殺し、翌日の「六月十三日」には「蘇我蝦夷」が自らの邸宅に放火、自殺し、屍を雨に晒した。「国記・天皇記」はその時の「島大臣の邸宅の大火」で焼けたとか、焼けなかったとか、で、曖昧である・・・
 「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る(日本書紀・皇極四年六月条)」
 「六月十九日、孝徳天皇は・・・君に二政なし、臣に二朝なし」と云ったとか・・・「越に渟足柵と磐舟柵」を設け、東北地方の「蝦夷」に備えた・・・「渟足」の「柵(さく)」であるが、「天武天皇」の「和風諡号」は「天中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇」で、既に述べた「真人→女真の人?」に加えて「中原瀛」の「渟→渟足」の文字を与えられた人物である。「柵(さく)」は「木(十八)+冊」である・・・「乙巳の変いっしのへん・おっしのへん)」と読ませているが「佚史の変」だろう・・・「佚」は「イツ・抜けてなくなる・佚文・散佚・世間から抜け出す=佚民・気ままにのんびりする=佚遊、佚楽」で、同音同義の異字」は「逸(イツ)」である・・・類字は「冤罪」だが・・・御免、「奢侈淫佚」でもある・・・
 「佚山(いつざん・元禄十五年(1702年)〜安永七年二月二十四日(1778年)」は
 書家・篆刻家・画家・今体派の篆刻の一派で、浪華派・印籍を多く刊行・姓は森本・名は脩来(修来)・字は正蔵・出家後は佚山」・・・「侈=イ+多」、「佚=イ+失」である。
ーーー
 「森本・脩来(修来)」・・・「森・本」が示唆する人物は
 幕末、明治の「森」とは云わずと知れた「森林太郎」こと、「森鴎外」であった。森鴎外は「医者・軍医」で、「文学者・小説家」、そして「帝国図書館長」であった・・・そして、独逸(ドイツ)留学では「乃木 希典」と懇意の仲であった人物である。
 「乃木 希典」とは
 日露戦争
 陸軍総司令官
 「乃木 希典(のぎ まれすけ」
 嘉永二年十一月十一日(1849年12月25日)〜
 大正元年(1912年)九月十三日)
 長州(長府)藩士
 階級は陸軍大将
 栄典は
 贈 正二位
 勲一等
 功一級
 伯爵
 第十代
 学習院院長
 家紋は
 「市松四つ目結い」
 幼名は
 「無人(なきと)」で、
 その後、
 「源三」と名を改め、
 「頼時」とも称した。
 さらに後、
 「文蔵」、
 次いで
 「希典」と名を改めた。
 また、
 「出雲・源氏・佐々木氏・子孫」と称し、
 「源希典」との
 署名も用いた。
 号としては、
 「静堂・秀顕
  石樵・石林子」を用いた
ーーー
 ・・・である。
 森鴎外乃木希典古事記・・・履歴、経歴、姓名、名前、名号、日本年号、年代数字、月日数字、代数数字、場所も「?」として疑問を抱かない「現存・古事記」研究家、学者はペケである・・・カナ

ーー
 歴史書の記述には「紀年体=編年体(へんねんたい)=出来事を年代順に記す」と、「紀伝体=個々人や各国一国の情報を記す」があり、「列伝」とは「歴史上の個々人の伝記」で、「紀伝体」の歴史の分類の一で、臣下の履歴、経歴を列記したモノである。
 派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った・・・路上や河原、広場で技芸を披露するのは、その「場」が「解放」されているからだろ・・・「大道芸人」にはダレにでもなれる可能性はあるから・・・
 「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年〜1615年)に
 「京・江戸」で「一世を風靡」したのが
 「出雲阿国」。
 慶長八年(1603年)
 京都で始めたと言われ、
 後に「阿国」を
 「模倣」したさまざまな「踊り」が世に出、
 この流行ったことが
 「かぶき」の「語源」となったらしい?。

 寛永六年(1629年)に女歌舞伎が禁止
 「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。
 「歌舞伎」と統一に記されたのは
 「明治」になってからのこと。
 出雲阿国歌舞伎の
 元祖、
 「阿国」は、
 慶長八年(1603年)に
 北野天満宮で興行
 阿国出雲大社
 「巫女」で、「河原者→乞食・コジキ」でもあったらしい。
 阿国はその時代の
 流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、
 男装して
 当時の
 「かぶき者」の振る舞いを取り入れた
 これを模倣した
 遊女が演じる
 「遊女歌舞伎(女歌舞伎)」や、
 前髪を剃り落としていない
 少年の役者が演じる
 「若衆歌舞伎」が行なわれていたが、
 風紀を乱すとの理由から
 前者は
 寛永六年(1629年)に禁止
 後者も
 売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから
 慶安五年(1652年)に禁止
 そして
 野郎歌舞伎となった
 歌舞伎では
 男性役も
 女性役もすべて
 男優が演じる。
 江戸時代の歌舞伎は、
 歌舞伎踊りと
 科白(せりふ)劇(狂言)に分けられる。
 「せりふ」には「台詞」と漢字をが当てられてもいるが、
 「科白(カハク・)」とは何ぞや?である。「台本→舞台の本」、「脚本→シナリオ・アシの本・客の本」はナントなく判るが、「科目は白」か「咎(とが)、罪科の曰く(いわく)」であろう・・・「トガめル」と言うコトバは「注意、警告、批判、非難」であろう・・・それとも「咎、罪科」は「白・無罪・冤罪」で、「赤・有罪・重罪」である。
 若衆歌舞伎が禁止される際に、江戸町奉行所から
 「物真似狂言づくし」を義務付けられた。
 そもそも「狂言」とは「狂った言葉」である。だが「意図的」に「狂わせた言葉」で、「クルッタ言葉」なら「句留多言語」で、「重言」である。「武士に二言無し、他言無用」だが「多言有用」であるのは「翻訳者」であろう。
 演目の内容は
 史実や物語などを題材にした
 狂言が主流となり、
 現在の
 歌舞伎狂言となった。
 「演技・演目」の「演」だが「演=氵+寅(とら・イン)」である。「水の虎」とは「水滸伝」か、尾張名古屋の城の天守閣の「鯱(しゃち)=魚(まな)+虎(コ)」である。類似の動物は「鮫(さめ)・鱶(ふか)」である、ナッ。英語にしたら・・・
 歌舞伎の舞台は
 客席を貫いて
 歌舞伎役者が登場・退場する
 花道が付き、舞台の幅を広げ、
 享保二年(1717年)には
 観客の座る場にも
 屋根を設けて
 舞台とひとまとまりの建物とし
 また
 「能」では用いられない
 「引き幕」によって場面を区切るという演出
 「廻り舞台」によって
 場面の
 転換を図った。

 元禄時代には
 「西の藤十郎
 「東の團十郎」と江戸にも名優が登場
 近松門左衛門
 大坂・竹本座の
 「座付作者」となると
 上方を中心として
 「人形浄瑠璃」が全盛となり、
 上方では歌舞伎は低迷
 その後、
 宝暦・天明・寛政になると、
 上方歌舞伎では
 「女形」による
 舞踊が登場し、
 初代
 桜田治助や
 初代
 並木五瓶の
 作品が人気を呼んだ。
 宝暦年間には
 初代
 並木正三によって
 「回り舞台」が
 発明された。

 文化文政時代
 四代目
 鶴屋南北
 『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や
 『於染久松色読販』(お染の七役)など、
 江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来
 天保年間になって
 「天保の改革」の一貫として
 堺町・葺屋町・木挽町に散在していた
 江戸三座
 操り人形の
 薩摩座・結城座が一括して外堀の外に移転させられた
 五代目
 市川海老蔵
 贅沢禁止令違反などの理由で
 江戸所払いになった
 江戸三座
 猿若町という芝居町に集約され
 役者の貸し借りが容易となり、
 火事延焼による被害も減ったため、
 歌舞伎興行は安定
 結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花。
 
 江戸時代には歌舞伎は単に
 芝居と、
 出演者は役者と、
 劇場は小屋と呼ばれた。
 歌舞伎役者らは伝統的に
 「河原者」(賎民)として
 身分上は差別された
 だが、各地への通行には逆に便宜を与えられた。

 仮名手本忠臣蔵(かなでほん ちゅうしんぐら・假名手本忠臣藏)」は
 人形浄瑠璃として
 初演は
 寛延元年八月十四日(1748年9月6日)〜
 同年十一月中頃(1749年1月初頭)まで
 大坂
 竹本座においてで、
 同年十二月一日(1749年1月19日)には
 大坂中の芝居で
 歌舞伎版が初演。
 江戸では翌
 寛延二年二月六日(1749年3月24日)
 森田座で初演。

ーーーーー

 1635年に
 「ホンタイジ・・・本台字・本体字
 (清の太宗
  ホンタイジ→皇太極=皇太子=黄台吉
 1592年11月28日〜1643年9月21日)」は、
 「後金の・・・・語兼・御筋・護金武・語掛音
 第二代
 君主
 在位1626年〜1643年
 初代
 ヌルハチの八男」が
 「モンゴルのチャハル部」を下し、
 1635年11月22日
 (天聡九年十月・庚寅?→乙亥年)に
 民族名を「満洲族」に改め、
 「後金国」の国名(国号)を
 1636年(丙子年)に
 「清」とした。
ーーーーー
 1600年は「関が原の合戦」だった・・・この年に「ウイリアム・アダムス」が「豊後(ぶんご)・大分県」に漂着した。後に「相模」に領地を得て「徳川家康」の「顧問」となった。
 1636年(大清国建国・宗徳元年)とは「丙子の年」
 寛永十三年
 諸大名に江戸城の修築を命じる
 ポルトガル人を出島に移す
 1637年(寛永十四年)とは「丁丑年」で「島原の乱
 「本阿彌光悦」死亡
 五人組の規定を明確にする
 1638年(寛永十五年)とは「戊寅年」で、
 「烏丸(からすまる)光広」死亡で、
 「烏丸(ウガン)=烏桓」とは紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて「中国北部」に存在していた種族。「烏丸」の文字が一般的であるらしい。
 「匈奴」の「冒頓単于」が「東胡」を滅ぼした際、残党が「烏丸山」と「鮮卑山」に逃れ、烏丸族と鮮卑族になった。
 「烏丸族」の源泉は「東胡族」であった。
 そして中国の北方種族は
 「女眞(真)→金→後金→清→満州」と繋がっていったらしい・・・

 1639年(寛永十六年)ポルトガル船の来航を禁止(鎖国の完成)。
 1640年(寛永十七年)宗門改役を置き、寺請・宗旨人別帳を作成させる。
 1641年(寛永十八年)オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。
 「岡山藩」が「花畠学舎」を作る。
 1642年(寛永十九年)譜代大名にも参勤交代を命じる。
 イギリスで「清教徒革命」が起こる。
 1643年(寛永二十年)後光明天皇即位。
 「田畑の永代売買を禁止」。
 1644年(天保一年)出島商館長に「オランダ風説書」を差し出させる。
 「清」が中国を支配する。
 1646年(天保三年)「明」の「鄭成功」が援兵要請するが幕府は拒絶。
 江戸にキリシタン屋敷ができる。
 1649年(慶安二年)「慶安の御触書」。
ーーーーー
 金武間切時代
 金武町に該当する土地には貝塚時代から人間が暮らしていた
 「金武」地名の発生不明
 1501年に建てられた
 第二
 尚家の陵墓玉陵(たまうどぅん)の
 碑文に「きんのあんし(金武の按司)」という刻銘がある
 15世紀末頃には支配者がいて金武間切があったと推察
 1564年以降
 第二
 尚氏王統
 5代
 尚元王
 三男
 尚久を元祖とする
 金武御殿が当地を納めた

 間切時代の金武
 現在の
 金武町
 恩納村
 宜野座村
 名護市の
 一部にまたがり、
 間切番所
 喜瀬
 武原(金武町恩納村にまたがる地域)に
 置かれていた

 金武
 観音寺・・・・・・・観よ、音の字
 本堂・・・・・・・・書籍、書斎、図書館
 1522年
 補陀落
 渡海を行っていた
 日秀上人が
 福花原に上陸し、
 金武観音寺を創建
 1673年
 恩納
 瀬良垣
 安富祖
 名嘉真の
 4集落が
 恩納間切とし、
 久志
 辺野古
 2集落が
 久志間切として
 分離

 1853年5月
 ペリー艦隊が
 琉球を訪れ
 各地を調査
 金武間切では
 並里集落北側の丘で宿営
 当時西洋人を全て
 「ウランダー(オランダ人)」と呼んでいた
 その森は「オランダ森」と呼ばれた

 1882年
 金武小学校創立
 1899年
 當山久三の指導による沖縄初の
 海外移民事業が開始
 金武間切出身者を中心とした
 26人がハワイに送り出される
 1890年
 嘉芸簡易小学校(現・嘉芸小学校)創立
 1904年
 フィリピン移民始まる。
 移民たちははじめ道路工事に就いたが、
 翌
 1905年、
 大城孝造に引率されミンダナオ島ダバオに移住し、マニラ麻の栽培に従事した。

 金武村時代
 1908年
 島嶼町村制で金武間切から金武村となる
 1915年
 大正天皇の即位を紀念した「紀念道路」が開通
 
 當山久三翁像1931年 當山久三像建立
 1945年6月
 屋嘉区に日本軍捕虜収容所が設置
 約1万人の日本軍捕虜が収容
 収容されていた捕虜たちが
 空き缶と木材とパラシュートのひもで
 自作した
 カンカラ三線を弾いて歌ったのが、
 民謡「屋嘉節」のはじまりである。
 1946年
 避難民収容所の
 「宜野座市」があった
 金武村北部の
 4字が分立し
 宜野座村となる

 米軍基地
 キャンプ・ハンセン
 ブルー・ビーチ訓練場
 レッド・ビーチ訓練場
 軍用地の大部分が
 明治三十九年に
 各部落が政府から
 払下げた
 杣山であり、
 その使用にかかる収入は
 「旧慣による金武町公有財産の管理等に関する条例」に基づき、
 各区の入会権者で構成する
 部落民
 (並里財産管理会・金武入会権者会・伊芸区財産保全会・屋嘉財産管理会)と
 町が折半している。
 入会権は、
 杣山払下げ当時に当該地区に居住していた者と、
 現在も
 当該地区に居住するその
 子孫に帰属する

 このため、
 近代に入ってから
 移住してきた者が多い中川区には
 部落民会がない。

ーーーーー
 杣(そま)とは、
 古代・中世の日本で
 国家・権門が所有した
 山林のこと。
 上記の杣から伐り出された木のこと。
 上記の杣において働いている人のこと。
 近世・近代の日本では転じて
 林業従事者一般の意味で用いられるようになった。
 杣工
 比叡山の山林の中に
 建立された
 延暦寺の僧侶が、
 寺のある比叡山
 上記の杣になぞらえて
 自称した呼称。

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 杣(そま)とは、
 古代から中世にかけて
 律令国家や貴族・寺社などのいわゆる
 権門勢家が、造都や建立など大規模な
 建設用材を必要とする事業に際して、
 その用材の
 伐採地として
 設置した山林のこと。
 後に一種の荘園として
 扱われるようになった。

 代表的な
 杣としては
 近江国
 栗太郡
に置かれた
 藤原京造営用の
 田上杣
 伊賀国
 名張
に置かれた
 東大寺造営用に
 孝謙天皇が寄進した
 板蝿杣
 丹波国
 桑田郡
に置かれた
 平安京
 造営用の
 山国杣などが知られている。

 現地出先機関
 山作所
 作所
 杣司などの担当者が
 杣工・筏師・木守(木津に置かれた)などを
 率いて
 伐採から
 製材・輸送までを行った。

 杣は山中の森林であるため、
 明確な境界線が定められておらず、
 その四至が不明確な場合も多く、
 杣工は自らの杣を守るべく、
 杣の四至を犯したとみなされた他所者からは
 彼らの持つ鎌や斧などの道具を取り上げた
 (この風習は近世まで一貫して山の慣習として行われた)。
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